三十

 

1.僅かなもの

2.充分な

 

1.僅かなもの

 

天界の秘義2276

 

「恐らく三十人が見出されるでしょう」。これは多少の争闘を意味していることは、三十の数字の意義から明白である。三十は多少の争闘を意味し、かくて単に僅かな争闘を意味していることはこの数字は(ほんの僅かなものを意味しているところの)五と(第一部649、720、737、900、1709番に示されたように、労苦または争闘を意味しているところの)六とをかけ合わせて作られているという事実から来ているのである。

 

[2]ここからまたこの数字は、それが聖言に記されているときはつねに、比較的僅かしかないものを意味しているのである、たとえばゼカリア書には―

 

  わたしはかれらに言った、もしあなたたちの眼に良かったなら、わたしにわたしの賃金を与えてください、もし良くないなら、がまんしてください、するとかれらはわたしの賃金として三十枚の銀をはかった。エホバはわたしに言われた、それを、すなわち、わたしが彼らから値づもられたそのかなりな価を陶物師に投げ与えよ、と。それでわたしはその三十枚の銀を取って、それをエホバの家の陶物師に投げ与えた(9・12、13)。

 

 これはかれらが主の功績と主が遂行された贖いと救いとをかくも僅かしか評価しなかったことを意味しているのである。『陶物師』は改良と再生とを意味している。

 

 

[5]マルコ伝にもまた『三十』は僅少なものを意味しているのである―

 

良い地に落ちた種は育ち、ふえて、実をむすび、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった(4・8)。

 

 ここでは『三十』は僅かしか成長しなかったものを、また僅かしか労苦しなかったものを意味している。これらの数字はその内にその意味しているものを含まなかったなら、記されて用いられはしなかったであろう。

 

 

天界の秘義2965[3]

 

 ユダヤ人のもとには主の贖いはほとんど無意味であったほどにも評価されなかったため、ゼカリヤ書には以下のように言われている―

 

 わたしは彼らに言った、もしあなた方の目に善いなら、わたしにわたしの賃金を与えてください、もし善くないなら、止めてください。彼らはわたしの賃金をはかった、すなわち、三十枚の銀をはかった。エホバはわたしに言われた、それを、わたしが彼らから値づもられたその充分な価を陶器師に投げ与えなさい(ゼカリヤ11・12、14)。

 

またマタイ伝には―

 

 彼らはそのイスラエルの子孫から買った方のねづもられた価格、三十枚の銀を取り、陶物師の畠のために与えた、主がわたしに命じられたごとくである(マタイ27・9、10)。

 

『三十』は殆ど無意味であるほどにも僅かなものを意味していることは前(2276番)に見ることができよう、かくてこの記事はユダヤ人は主の功績と贖いとには何らの価値もおかなかったことを意味している。しかし善はことごとく、また真理はことごとく主から発していることを信じている者たちにあっては、贖いの価格は『四十』により意味され、さらに高度では『四百』により意味されている。

 

 

2.充分な

 

天界の秘義5334

 

三十歳の息子

 残りのものの充分な状態

 

 

天界の秘義5335

 

 残りのものに満ちている

 

 多少の争闘

 

五×六

五は多少

六は争闘(720、730、737、900、1709)

 

三×十

三は満ちたもの(2788、4495)

十は残りのもの(576、1908、2284)

 

 人間は残りのものを十分に受け入れない中は再生することはできない、すなわち再生が遂行される手段である霊的な争闘へ入れられることができない

 

レビ人は三十年終えないと集会の天幕の中で仕事を全く行ってはならない(民数記4・2)

 

ダビデは三十歳で支配(サムエル記後5・4)

 

主は三十歳になられない中は御自身をあらわされなかった理由(ルカ3・23)

 

なぜならそのとき[三十歳のとき]主は残りのものが満ちた状態になられたから