二十
天界の秘義2280
十は残りのもの
十の二倍 それは善い真のものの、さらに度の高いもの、すなわち善を意味
「二十」 無知の善 試練は受けていないがそれでも善を持っている者たち
残りのもの
幼少の頃の善・・・十歳まで
無知の善・・・二十歳まで
理知の善・・・それ以降
なぜならたれ一人善と真理について反省することができない中は、またその者なりに善と真理の性質を認めることができない中は試練を受けないからである。
「軍隊に入る者」は二十歳以上
その者たちによりもはや無知の善にいない者が意味され
「二十歳以上の者が荒野で亡くなる」
悪がかれらに帰せられることができてかれらは試練の中で降伏するものを表象
[6]すでに言ったように、この節の二十により、無知の善以外のいかような善も意味されていないのであって、この善は、すでに言ったように、二十才以下の者たちのもとにあると述べられるのみでなく、また仁慈の善の中にはいるが同時に真理は知ってはいない者たちのもとにもあると述べられている、たとえば仁慈の善の中にはいるが、何らかの理由から、信仰の真理とは何であるかを知ってはいない者たちはそのような者ではあるが、そのような者のもとにもあると述べられている。すなわち、神いついては敬虔に、隣人については親切に考える者の中の極めて多くの者のもとに、また異邦人と呼ばれてはいるが、同じく仁慈の善の中に生きている教会外のすべての者のもとにその無知の善が存在しているのである。後の者も前の者も、信仰の諸真理の中にはいないものの、善の中におり、小さな子供たちと等しく他生では信仰の諸真理を受ける能力を持っているのである、なぜならかれらの理解は未だ誤謬の原理のために汚されておらず、その意志もまた悪の生命[生活]をさほど確認していないからであるが、それはかれらはそれが誤謬と悪であることを知らないためであり、また仁慈の生命は以下のものを伴っているためである、すなわち無知の誤謬と悪とは真理と善とに容易にたわめられる[向けられる]ことができるのである。真理に反したものを確認すると同時に善に反したものの中に生活を送った者らの場合はそうではない。