彼が普段見慣れている、白き翼はしまい込んで。今は一人の女性の姿で、ラ
ビエルと呼ばれる天使は、幼子のようにはしゃいでいた。
「皆さんの中に紛れなくても…少しでも。遠目でもいいから、行きましょう。
見た事がないと言われるなら、尚更です。…ねぇ、クライヴ?」
明るい声と、後ろから半ば強引に押される背に、それらの勢いに何もかもが
不慣れな彼は、戸惑いながら、その声の主を呼んだ。
名を呼ばれて、その自分より広くて大きな背を押していた手が、ふいと止ま
る。背に触れている両手はそのままに、前の相手を見上げれば、物言いたげな
アメジストの瞳と目が合った。
「クライヴ…?」
「やはり、行かない。」
その言葉と共に、彼女の触れていた背中が、すっと離れる。ラビエルが行き
場の無くなった手を下ろすと、背中で表情の見えないクライヴは、一つ白い溜
息を零した。
「でも、クライヴ…目的地は、すぐ目の前なんですよ?」
ラビエルより前に立っていたクライヴは、静かに振り向いた。
「何故…今日は、そんなに強引なんだ?ラビエル。」
怒りの感情はこもっていなかったが、その言葉に今まで微笑んでいた表情は、
ついに止み、まるで突風で灯りが消えたランタンのようだった。
突如暗い影に包まれた、そんな彼女の様子に気付いたクライヴが、後悔の念
を抱いたが、言葉が見つからずにそれ以上は無言のままだった。
「そうですね、強引…でしたね。」
自分でもその言葉を繰り返し、困ったように天使が言った。
「すみません、アルカヤで初めてのことで…楽しくて、舞い上がってしまった
んです。」
苦笑して謝罪の言葉を向けようとする姿に、今度はクライヴがラビエルを見
つめた。
北の大地の小さな街。そこを行動の拠点としているクライヴに、会いに行く
途中、天使はそれを空から見つけた。
普段は街の中央に位置する、大きなモミの木。日頃何の変哲も無い、街の大
きな緑に包まれたシンボルが、つい最近大きな変化を遂げた。
木の尖頭には、街の住人の手作りなのか、光り輝く星の飾りが見える。それ
に加えて、頂点から離れの木々の隙間へと、あらゆる形のオーナメントが散り
ばめられて。さしずめ森の中に点在する、小さな光が点る街並みのようだった。
道中、小耳に挟んだ住人の話では、この大木の装いは毎年のとある祭りの、
恒例の姿なのだと言う。楽しそうに話す人々の会話と、空から見下ろした立派
な飾りに、つられて天使も心が躍る。
自分の関心も含まれているが、日々自分と共に働き詰めの勇者の顔が浮かび、
労いとしばしの気晴らしになればと、早速会った当人に話を切り出した。
「あの煌びやかな飾りを、見に行かれた事がありますか?」
少し考え込んでいたクライヴは、その面持ちと同じ位静かな声で言った。
「…いや。」
その返答に、ぱっと天使の顔が明るくなり、丁度いいですね、と一人で納得
したように呟いた。
祭りで賑わう中心地への外出を口にすると、元々人の集まる場所が苦手な彼
は、当然ながら余りいい顔をしなかった。
「こんなに近くに居られるのに、あの景色を見られないのは、何だか勿体無い
ですよ?たまには、出掛けて見ませんか?」
「おい…?」
彼の意図としないことに関して、日頃ならそこまで強要しない彼女である。
しかしこの日は、彼の淡白な様子をその辺に置いてしまいたくなるほど、街の
中央に顔を見せる飾りは、とても魅力的だった。
「時には、見た事の無い景色を目にするのも、面白いと思いますよ。」
それと同時に、彼の手を取って外へと彼女は進み出した。不意の出来事にク
ライヴは、少し眉根を寄せたが目を輝かせて歩みを進める彼女に、水をさす言葉
が言い切れず、引かれるままに後を続いた。
そして、前に丘が見えると、もっと彼を進ませようと今度は後ろに回る。
もうすぐ木の全貌が、見渡せる位置に辿り着こうとした瞬間、冷静な思考が
戻ってきて、ついにラビエルの針路を止めてしまった。
彼らの周りだけが、時が止まったような静けさだった。人々はその傍らを、
もう少し先にそびえ立つ飾りを見ようと、心なしか足早に通り過ぎて行く。
「私は…確かに、強引でしたね。」
クライヴからの言葉に、先ほどまでの自分を思い出した。
「自分の興味があるというのも、本当なのですが…それよりも、」
「・・・・・?」
「空から見たあの美しさが、いつも、懸命に頑張って下さる貴方に…」
天使は、もう一度困ったように、小さく笑った。
「貴方にも、少しでも伝わるならば…ひと時の気晴らしに、素敵かもしれな
いって。…そう思ったのです。」
言い終えると、自分の後ろになっている大きな木へ、振り返った。先にある景
色に顔を向けたままのラビエルの言葉が、耳に響く。
彼女の視線の先を追うように、クライヴは気付くと隣に並んでいた。並んだ
気配につられて、ラビエルが正面から横に視線を戻す。
初めは、変わらぬ色だった。だが相手を確認した瞬間に、その人はわずかに、
しかし間違いなく目を見開いて、前を見渡していた。
それから目を伏せて、ずっと押し黙っていた口を、開いた。
「あの景色を、見たことが無いと言うのは嘘だ。」
「…えっ?」
白い息に包まれた青年は、淡々と続ける。
「昔。祖父母に連れられ、あそこに一度、行った事だけは覚えている。」
「そうなのですか?」
「だが、それだけだ。」
彼の言おうとしている事を、もっと聞こうと彼女はじっと見上げる。
「あそこへ行こうとしなかったのは、人が多いからという理由だけではない。」
クライヴはふと、木の下に集う人々の流れに、目をやった。
「ここに立って、君の言う通り…あそこに浮かぶ景色は綺麗なのだと、今わ
かった。」
「クライヴ…?」
「だが、それだけだ。…昔、あの景色を見て、その時の記憶が、今ではもう残っ
ていないように…」
低い声は、憂いの混じった声色で。
「今、綺麗だと思ったこの景色もまた。…俺は何年か先に。思ったことも、目に
映った景色さえも…忘れてしまうのだろう。いつか忘れてしまうならば、始め
から、見なければいい。」
零れ落ちた本心に、自分たちを包む外気が今以上に、クライヴには冷たく感
じた。
自分の投げた言葉に、諦めたように先の景色からクライヴが、目を反らそう
とした時だった。
「人が忘却と言う物を持ち合わせているように、」
「・・・・・?」
「天使にも、忘却と言う持ち物が、等しくあるのです。」
にこりと穏やかな笑みが、彼に向けられて。自分の言葉に、予想もつかなかっ
た反応が見えて、クライヴが驚きの面持ちになる。
「ここで貴方と話をした事。目の前に映る綺麗な景色。そのとき一つずつ感じ
た想い。どれを取っても、…この先自分の中に鮮明に留めて置くのは、難しい
事ですね。それを言葉に表すなら、“忘却“という物なのでしょう。
貴方の言われる通り、私もいつか…この景色を、忘れてしまうかもしれませ
ん。」
自分の言葉に、頷きを繰り返す。
賑やかに、若い男女が歓声をあげて二人の側を走り過ぎていく。そんな人々を
眩しそうに、ラビエルは見送った。
それからもう一度、そのエメラルドの瞳はクライヴを捉え、ピンクの唇が言
葉を紡ぐ。
「ですが…クライヴ。あそこに見える美しい彩りも、貴方がそれを見て綺麗だ
と感じられた事も。いつか過去になってしまいますけど…こうして貴方の前に
ある全ては…本当の事だから。」
「全てが…本当…」
「過去を同じ形で記憶が出来ないように、今、こうしている事柄もまた同じ瞬
間は、ないのですよね。…それならば私は、一つ一つ過ぎていく今を、大事に
して行きたいと思うのです。」
それからゆっくりと、付け加えた。
「忘れてしまうのならば、尚更に。」
後悔でも、悲しみでもないその色で、自分に語るラビエルに、心の中の何かが、
溶けて行くような気分だった。思いを交し合うまで、重く感じていた肩が不意
に、軽くなった気がした。
気がつくと、そんな彼の心中など知らずに、人々の集まる位置から高らかな
鐘の音が、響き始めた。目の前にすっと、白く細やかな手の平が、差し出される。
「だから。行って、見ませんか…クライヴ??」
今を大事にしようとする、希望に満ちた瞳が、彼の視界へ飛び込んで来る。戸
惑いがちに動いた手は、緩やかに自分より小さな手を、受け止めた。
「そうだな…」
短い答えに、心から嬉しそうな顔が向けられる。
モミの木まで続く道のりに、、左右を深紅のポインセチアが、顔を覗かせて見
送ってくれる。左右を交互に見ながら、ふと思い出したようにラビエルが言っ
た。
「このお祭りには、お互いに掛け合うメッセージが、あるそうですよ。」
いつしか先を進んでいた彼に、間近になった輝くイルミネーションを見上げ
て、ラビエルが口を開く。
「みんなが誰かの事を思いながら、声を掛け合い、この日を祝うのだそうです。」
次の言葉を聞こうと、振り向いた彼の手に両手を添える。ポインセチアに負けぬ
位の、鮮やかな笑顔が彼だけに向けられ。
―― メリー・クリスマス。クライヴ…!
ラビエルのそれが移ったように、彼の顔も次第にほころびを見せた。
END