□□□■ Time Distortion ■□□□
「セシア…」
「天使さま!?どうしたのです?こんな真夜中に…」
深夜の突然の訪問。普段のソフィエルならば、決して考えられないことだ。
ソフィエルは、いつも勇者を訪問する時間には気を使っていた。明らかに眠っている
と分かる時間に訪ねてくるようなことはしない。
だが、そんなことよりも、セシアは目の前にいるソフィエルの尋常ならざる様子の方
が気にかかった。
「…何か…あったのですか…?」
セシアの言葉に、ゆっくりと頷く。虚ろな眼差しで彼女を見上げ、震える声で告げた。
「彼が…クライヴが吸血鬼に…ラグニッツの町に現れて、人を襲っていると…」
その言葉に、冷や汗が流れ落ちるのが分かった。
彼女に受け継がれた聖母の記憶が、数百年前にかつての仲間を襲った悲劇を思い出さ
せる。
…同じだった。長い間、己に流れる闇の血に抗い続けてきたヴァスティールがその誘
惑に負け、闇に落ちてしまったあの時と。
「考えたくなかったことが、起きてしまったのですね…」
あの時のヴァスティールと同じ悲劇が、クライヴの身にも起きてしまった。
その切欠が何であったのかは分からない。だが、一つだけ確かなことがある。
それは、かつては“勇者”であったクライヴが“倒すべき敵”になってしまったとい
う、あまりにも残酷すぎる事実。
「…もう私の声も届かないだろうということは分かっています…でも、諦めたくはな
いのです。だから…」
そこまで言って俯いてしまったソフィエルの肩に手を乗せ、セシアは言った。
「天使様のお気持ちはわかります。上手くいくかは分かりませんが、何とか彼のこと
を説得してみせます」
ソフィエルが顔を上げ、セシアを見た。
「…信じましょう、彼を。きっと、正気に戻ってくれると」
そう言って微笑んでみせると、ソフィエルの顔にも笑みが浮かんだ。
それは本当に小さいものではあったけれど、いつもソフィエルが見せる笑みと同じも
ので。
「ありがとう、セシア」
囁くような声で告げられた言葉も、いつもセシアが耳にしているそれと同じだった。
ラグニッツ地方、トゥルタの町。
抜き身の刀を握り無造作に佇むクライヴは、以前と何ら変わりがないように見えた。
けれど、ソフィエルには分かった。彼はもう、自分の知っている彼ではないと。
まるで死人のような瞳。目の前にいる自分はおろか、それ以外の何者も写っていない
ような瞳。
それでも、諦めたくはなかった。彼は必ず元に戻ると、信じたかった。
「クライヴ!目を覚ましなさい!」
隣では、セシアが必死に説得を続けている。
彼女もまた、信じたいのだ。彼が正気に戻ってくれることを。
かつての仲間――ヴァスティールと同じ道を辿ってしまわないことを。
「…………」
クライヴの反応はない。その死人のような瞳で彼女の方を見つめるだけだ。
「もう、声も届かないのですか…?」
セシアが悲しげに呟いた瞬間、クライヴが動いた。
握り締めていた刀を構え、彼女に斬りかかる。
セシアはそれを後ろに跳躍することでかわし、充分に間合いを取った。
「悲しいですが…戦うしかないのですね」
セシアは矢筒から矢を取り出し、ゆっくりと弓に番えた。弦を引き絞り、クライヴめ
がけて矢を放つ。
クライヴはそれを刀で弾き落とし、一気に間合いを詰めて彼女に向けて刀を振るった。
すんでの所でその攻撃をかわしたセシアは、再び彼に向かって矢を放った。
接近戦では、弓を武器とする彼女は圧倒的に不利だ。自分の間合いを保つことが出来
なければ、確実に負ける。
「やあっ!」
クライヴを近付けさせまいと必死で矢を放つが、クライヴはそれら全てを難なくかわ
してみせる。
素早い動きで彼女に近付き、刀を一閃する。
何とかその攻撃をかわしたセシアだったが、次々と攻撃を繰り出してくるクライヴに
防戦を強いられた。
「くっ…このままでは…」
攻防が繰り返される度に、セシアの体に傷が増えていく。辛うじて急所は免れている
が、それもいつまで持つだろうか。
対するクライヴは、かすり傷一つ負っていない。圧倒的な強さだった。
ソフィエルは必死で治癒魔法を使うが、回復した先から新しい傷が生まれる。
このままでは、セシアが倒されるのも時間の問題だった。
息を切らし、全身に傷を負いながらもクライヴに立ち向かっていくセシア。
その姿を見つめ、ソフィエルは唇を噛み締めた。
(…私は、何をしているの…?)
この事態を招いたのは自分。彼の苦しみを知っていながら、何もせずにいた。
彼に拒絶されるのが怖くて、手を差し伸べることが出来なかった。あと一歩を踏み出
せずにいた。
その自分の弱さが、この事態を招いたのだ。
それなのに、戦いの行く末を見守ることしか出来ない。そんな自分が嫌だった。許せ
なかった。
(もう、逃げ続けるのは嫌…!私が、自分でやらなくちゃ…!)
きっと顔を上げ、小さく呪文を唱える。次の瞬間、やや小ぶりの両手剣が彼女の手の
中に現れた。
これを振るうということは、天界の戒律に背くということだ。天使は、地上で力を行
使してはいけないのだから。
けれど、そんなことは関係なかった。自分の蒔いた種だ。自分で刈り取らなくてはい
けない。
そう決意し、ソフィエルは剣を構えた。クライヴを、自分自身の手で倒すために。
《つづく》
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