「一期一会」usa


メイン州名物ロブスター
(超うまかった!)
初めてのアメリカ出張
(1968年3〜9月)

 お茶を始めて1ヶ月もたっていない頃でした。 まだ日本に返還されていなかった沖縄(当時は今の海外旅行より数段渡航が難しかった)に二度ほど出張した経験はあったものの、いわゆる外国への出張はまだ行ったことがありませんでした。
 入社以来、海外関係の仕事ばかりを担当していましたが、その海外のお客さんというのは在日米軍で、仕事の現場も日本国内と当時の沖縄でした。 1968年3月、とつぜんアメリカ合衆国への出張が決まりました。 期間は、初めてにしては長く3ヶ月の予定でした。
 お茶のけい古は、まだ割稽古の最中でしたが、絶対持って行くべきだとの先生のすすめで、「盆略点前」の道具を一式持っていくことにしました。 先生や先生の母上にも何点かの道具をプレゼントして頂き、見立てで現地調達できる物は省略し、最低必要な物をそろえ(てもらい)ました。 また、お点前の方も、出張準備の合間をぬって一人で先生の所へ行き、何回か特訓を受けどうにかこうにかお茶が点つまでの手続きを頭にたたきこんで出発しました。

 現地での仕事は、メイン州のアンドーバーというところにある衛星通信地上局に通信機器を設置するものでしたが、いろいろあって大変ハードでした。 その期間中、たまの休みの日など、一緒に出張した仲間や他の現場から助っ人にきてもらった連中に、お茶を点てて飲んでもらいました。
 その時のことを、今でも思い出話として、何十年ぶりかに会う友達も、必ず「あの時のお茶はおいしかった」といってくれます。

 また、ある時現地の地上局のエンジニア達にもお茶を点てたこともありました。
 お点前の所作が非常に興味深かったらしく、なにかするたびに「それは、なんのためか」とか「それはどういう意味か」とか、観客が大騒ぎで、通訳担当が説明に苦労していました。
 その頃はまだ新人のエンジニアでしたが局舎にマイクさんという新婚さんがいました、何年かあと出張で工場にきていた彼とばったり会いました。 彼ははち切れんばかりの懐かしさの表情で開口一番「あの時のお菓子とお茶はおいしかった!」といってくれました。

 当初の計画では3ヶ月だった出張が、技術的な難問を解決しながら3ヶ月の保守をすることになり、結局6ヶ月の滞在となりました。 観光シーズンに入るとホテル代が値上がりし、と同時に会社からの滞在費は規定で、同じ場所に3ヶ月以上いると大幅カットということになり、急に生活が苦しくなりました。
 9月、半年におよぶ出張も「ただちに帰国せよ」いう、短いテレックスで、ようやく終止符を打つことになり、アンドーバーから一人旅が始まりました。
 ボストンからニューヨークに戻るとき、出発の時間を1時間まちがえ、のんびりとレストランで昼飯を食べて搭乗ゲートに戻ると、乗客が一人もいません。 ボケーッとしてきょろきょろしていると「お前がAdachiか?」と腕をつかまれて、すでにエンジンをかけ、スチュアデスがドアを閉める体勢で外をうかがっている飛行機のところへ引っ張って行かれました。
 
 帰国するにあたって、さらに残って仕事をする仲間の一人がお茶の道具をおいていってくれというので、一式進呈することにし、お点前の手続きを速習で教えました。 そのあと彼は折にふれてお茶を楽しんでくれたようですが、さらに彼が帰国するとき、我々をほんとうに温かく面倒見てくれた、局のプライスさんというエンジニアに道具一式をプレゼントしたのでした。
 そのプライスさんはその年のクリスマスの夜、酔っぱらい運転の車に激突され亡くなり、彼を知る我々の仲間一同は深い悲しみにつつまれました。

 滞在中のある休みの日となりのニューハンプシャー州をドライブしていたとき「YOKOHAMA」というオリエンタルフーズのレストランを発見しました。 中にはいると、浜っ子ではなく江戸っ子の女将さんが大歓迎してくれました。 一緒にいる仲間以外の日本人に久しぶりに会いました。 すき焼きやら親子丼やらめいめい勝手にオーダーして腹一杯食べました。
 女将さんは、いわゆる戦争花嫁で、ご主人が日本に駐留していたとき結婚したのでした。 その界隈に同じような女性が10人近くいて、ときどき集まるとのことでしたので、その次に行ったとき、日本から送ってもらっていた新聞、週刊誌、雑誌などをごっそり運んでいきました。 大変な喜びようでみんなで回覧するとのことでした。 以来、出かけるたびに新しく届いたものをなるべくきれいに読み終え、順次届けました。 日本人の奥さん達にわれわれのうわさが伝わったらしく、なんどか夕食に招かれました。 旦那さん達が奥さん達に、久しぶりにいつものメンバーでない日本人に会わせて思い切り世間話をさせてやろうという心遣いのようでした。

 帰国してみると、いっしょに始めた仲間はすでに「入門」の域を出て「初級」の段階に進んでいました。
 帰国後、最初のけいこのとき出発前に特訓された点前のチェックを受けました。 お点前は一つしか知らないので、同じことをくり返していたわけですが、一カ所完ぺきにまちがえていたところがありました。 しかし、先生からは「半年間一人でやっていたのだから、そこだけおかしいくらいなら立派なものよ」と、優しくほめてもらいました。
 出張中、先生からは出張してくる会社の連中に、お茶・お菓子・茶巾などが託送されてくるのでした。

 滞在中にロバート・ケネディやキング牧師が暗殺される事件もあり、アメリカの物騒な面もみましたが、人口数千人の田舎町に半年も居座っている日本人グループは、町中の人達とすっかり顔なじみとなり、毎日のように立ち寄っていた店の女将さんなど帰国の挨拶に行くとボロボロ泣いて別れを惜しんでくれました。

 お茶の修業の節目の一つ「茶名」申請に際し、先生から京都の家元に提出された推薦状には「入門早々から、米国出張に際し道具一式を携行し、現地の人々にも一服のお茶を呈するなど、茶道を通じて国際親善に貢献し・・・」という一節が書き加えられたのでした。

 「一期一会」、今にして思えば、仕事のやり方も現地の楽しみ方も未熟で、いろいろと反省したり後悔したりですが、その時その時は、とにかく一生懸命のアメリカ出張でした。(合掌)



局舎の玄関をバックに。
(向こうの林の中にワラビが鎌で刈れるほど生えているのを発見
ゆでてしょう油で味付けしたらメッチャうまく、アメリカ人にまで
食べさせてしまった。彼らはそれまで食べられると知らなかったので
その美味さににビックリしていた。)
日本からずうーっと一緒の仲間、いくつかの現場を渡り歩いたグループ
保守のため一人で残った彼、問題解決を助っ人してくれた上司
などと、ある時何となく集まって撮った一枚。
アタッシュケースに腰掛けて偉そうにしているのが私です。
肖像権の関係でわざとピンぼけにしてあります。(笑)


一期一会に戻る


トップに戻る