水墨画(suiboku

水墨画
をめぐるすばらしい人々

(上)「港の風景」1997年壇展
秀作賞受賞


(左)「漁火」1999年壇展
(自力の出品、制作中)

水墨画との出会い

 子供の頃から絵(といっても、小学校の図画の範囲内のことです)が好きで、高学年になってクレヨンから水彩絵の具になったのがとても嬉しかったことを思い出します。 よほど絵が好きそうに見えたのか、親代わりに私を育てていた祖父母がまじめに画家になる勉強をさせようかという思いが一瞬頭をよぎったそうですが、別に天才的な素質の片鱗を見せるわけでもなく、終戦直後の混乱期の片田舎のこととて、今のような絵画教室が街にあるわけでもなく、「貧乏絵描き」というハングリーな状態を代表するようなキーワードがあることを思い出し、絵描きなんかにしたら一生苦労するだろうと、ごくありふれた判断をしたようです。
 私が高校に入った頃、再婚してハワイに嫁ぐことになった大好きだった叔母が油絵の具のセットを買ってくれたことがあります。 故郷の思い出にと、自分の生家を描いてくれとたのまれ、油絵の具のお礼に6号ぐらいの絵を一枚描きました。 叔母はこの絵をハワイに持って行き、非常に大切にしてくれたようで、何年か前に他界しましたが、形見として従弟に引き継がれました。 一度その絵を見にハワイの従弟の所へ行ってみたいと思っていますが、どの程度の絵だったか、よく思い出せません。 誰かの指導を受けたわけでもなく、まったくの我流で描きましたので・・・・

 以後、長い長い間絵の方は冬眠状態でした。

 結婚したての頃(1970年?)でした、会社が社員に余暇をうまく使ってもらおうと「土曜レクリェーション講座」というプログラムをスタートさせました。 これはすばらしいプログラムだったと今でも思っています。
 講座は、陶芸、革ろうけつ染、レタリング、ギター、ジャズダンス、そして水墨画などが、前期・後期に分かれ、半年おきに年2回、3ヶ月(10回)位のペースで開講されました。
 レクリェーション講座への参加は、第2回目くらいだったでしょうか、最初は陶芸をやりました。 自分にも向いているジャンルであるとは思いましたが、深くやるためには相当な経済的負担を覚悟しなければならないなとも感じました。 それで、もともと絵が好きだったこともあって、次の回は水墨画を選びました。
 子供の頃母親の実家の床の間にかけてあった日本画の筆使い(付け立の描法というのでしょうか)を見て、東洋画の持つ油絵などと違った不思議な魅力を感じたり、横山大観などの展覧会などを見て、ぼんやりと洋画と違うものを認識する程度で、水墨画について詳しくは知りませんでした。

 会社のプログラムとして開かれた「水墨画教室」は、その後の自己啓発に大きな影響をおよぼしました。

 「筆の一管もあれば」といわれるほど、とにかく筆が1本あればいいのです。(もちろん墨、硯、紙の文房四宝は必要ですが) やれキャンバスだ、絵の具だ、オイルだ、木炭だ、ナイフだ、などと大げさに道具をそろえなくても描けるのです。 こんなに気軽に、気楽に描ける絵があったことを発見できたのは大事件でした。
 それからというものすっかり水墨画・墨絵・墨彩画の世界へのめり込んでいきました。 かといって、どこかの教室(当時は今のように恵まれた環境になく、カルチャー教室とかいったことは何十年も後になってからブームが始まった)に入るわけでもなく、会社の教室が唯一の指導を受けられる場でした。 市販の本を何冊か買って、それをお手本にして描いたり、独学に近い状態でボチボチと楽しんでおりました。

 アートスクールとかサロン・デ・ボザールとかいった通信教育にちょっかいを出したことがありますが、けっこう高い受講料を払ったのに、いつもの悪い癖ですぐに挫折し、最初の課題を出したところで???、終了までには時間と金がかかることを実感しました。
 そんなわけで、会社の教室はお金のことをあまり心配せず存分に楽しむことができました。 開講される度に参加している内に、講師だった山本栄雲先生から、まるで自分の内弟子と同じような扱いを受けるようになり、大変恐縮したものです。


山本栄雲先生と墨栄会

 山本栄雲先生とは、会社が主催したレクリェーション講座の「水墨画入門」で初めてお会いしました。 以来、年2回のペースで開講される教室に、毎回常連として参加していました。 途中、私の転勤で3年間ブランクを作ってしまいましたが、元の職場に復帰すると、すぐにまた参加しました。(転勤中はごくまれに筆を握っていましたが・・・、今にして思えば宮城の山河をいっぱいスケッチしておけばよかったと悔やまれます。)

 毎回の教室では、ほとんどの受講生が入れ替わりますが、私を含め何人かは繰り返し繰り返し受講しました。 その内「大学院生みたいなもんだから」と、初めての受講者とは違ったむつかしい画題を与えられたり、それに見合った立派なお手本を頂戴したりするようになりました。(これらのお手本は、ほんとうにお値打ちもののようで、後でご紹介する、山本先生の高弟だった當麻紫雲先生から「あんたは栄雲先生とのつきあいが長いだけあって、さすがにいいものもらっているね」とうらやましがられたことがあります。 というわけで、すっかり顔なじみになり、また大変かわいがってもらいました。 時折、教室の終わった後一緒にご自宅までくっついて行き、先生のコレクションや作品を見せてもらいました。 自分の弟子(いろいろな種別があったと思いますが)のレベル向上のためには惜しみなく自分のもっているものを見せてやろう、という心遣いがヒシヒシと伝わってきました。
 教室の外でも大変よい勉強をさせてもらいました。 

 その内、栄雲先生の主催される社中展「墨栄会展」に出品するようにといわれ、生まれて初めて「展覧会」デビューすることになりました。 以後何年か続けて参加し、すっかり常連のようになってしまいました。 そのどこかの会場で初めて當麻紫雲先生にお会いする機会があり、その後の新しい展開のスタートとなりました。

 山本先生の風貌はいかにも古典的な東洋画の大家という貫禄のあるのもで、多くの中国人の大家とも親交があり、私のような未熟なものが直接手ほどきを受けられるような身分ではなかったと今でも思っています。 しかし、私が海外出張で見てきた、一見水墨画の画題にはしないような風景を描いても、きちんと見てくださるなど、とてつもない幅広さと計り知れない深さを感じました。

(最近では海外旅行もすっかりポピュラーになって、海外の風景を描くのも、むしろブームといえるほど盛んですが、当時はまだ為替管理も厳しい頃で、海外の風景、とくに中近東・欧州的なもの、は珍しい時代でした。)

 思い出は沢山あってとてもにわかには書き尽くせませんが、山本栄雲先生との出会いが=水墨画との出会いになりました。 おつき合いが始まったとき既に80何歳かのご高齢でしたので、やがてお別れする日がやってきました。 


當麻紫雲先生と紫雲会

 山本先生が亡くなられた後も何回か会社の教室は開催されました。 山本先生は各地域にあった教室をそれぞれ一番近い所にいる高弟の先生達に「遺産分け」のように分配されたそうです。 詳しくは知る由もありませんが、我々の教室は、川崎市・登戸の當麻紫雲先生が相続されました。
 開講がアナウンスされるとすぐ申し込んで、継続参加しました。(とにかく、性懲りもなくしつこく続けたのです。)
 何度も参加している内、まず最初に習う「四君子」だけは、他の人達より何倍も描いている勘定になり、當麻先生もへんな受講生がいるのでかなりやりにくかったのではないかと思います。 ある時、筆ならしに描いた蘭を「あ、それ頂戴!」と取り上げられたことがあります。 他の教室のお手本にするとのことでした。 大変名誉なことですが、どうやら自分には出せない柔らかい線がでているとのことでした。 交換に先生の絵がでている本か何かをもらったことを覚えています。 家に帰ってご夫君に私の蘭を見せたら「お前よりうまいや!」とコメントされたとか、恐縮したものでした。

 當麻先生になってしばらくすると、会社側の路線変更というか、事業環境も厳しくなり余暇利用にお金が使えない理由ができたらしく、とうとう全部の教室が閉講となってしまいました。 我々受講希望者が何度か会社へも継続をお願いしたりしましたが、ついに復活することはありませんでした。
 会社の文体クラブの美術部の作品と並んで会社の文化祭に出した作品や紫雲会展の出品作が、新装なった玉川クラブのロビーに陳列されるなど、それなりの認知と評価を受け始めていただけに大変残念なことでした。

 その内、毎年向ヶ丘遊園駅近くの市民ギャラリーなどで開催される社中展の「紫雲会展」への参加を、紫雲先生の教室に通っているわけでもないのに「あなたは私の先生の弟子だった、いわば兄弟弟子みたいなものだから」と特別に誘われるようになり、毎回3点くらい描いて出しました。 また、この世界どこでも同じように男手が不足しているので、会場造りや当番、写真係など、スタッフ業務もお手伝いするようになり、ますます密接な関係となってきました。

 當麻紫雲先生は日本でも大きな公募展「日本南画院」と「日本自由画壇」に多くの実績がある方ですが、紫雲展に出している内「そろそろ大きなところにも出してみる?」といわれるようになりました。 ある年の紫雲会展に日本自由画壇の幹部の方が見えたことがあり、私の絵を見て「南画院より自由画壇向きだね」とコメントされました。
 と、その内自由画壇展の出品案内が送られてきて、紫雲会展に出したタイの風景の一つをF10号にまとめてみることになりました。

 その後、當麻先生のご家庭の事情や先生の体調の関係で紫雲会展も中断されています。 次回の展覧会の案内が待ち遠しいこの頃です。
 私が定年になったら、目黒区にあるシニア対象のカルチャー教室を引き継いで欲しいというお話もありましたが、定年までにはまだ何年か残っており「それまで身体が保たない!」と悲鳴が聞こえたこともありました。 月1回休暇を取ってお手伝いしようかと、まじめに考えたこともありますが、現役のサラリーマンにとっては(その頃の仕事が自分のペースでは休みにくい形式のもので)ちょっと無理でした。


日本自由画壇

 サラリーマンを卒業するちょっと前、3年間ほどバンコク市内の電話交換局間を当時最先端の光ファイバーで結ぶ「ジャンクション・ネットワーク プロジェクト」を担当しました。 現地で起きるいろいろな問題を日本側でサポートする「プロジェクト・コーディネータ」という役割でしたので、半年に一度はバンコクに出張していました。 土曜日曜は、もっぱら近くの寺院や遺跡などを見物したり、博物館を見学したりしていました。 ある時は、研修のため日本に来て、休日には箱根・日光などのバスツアーやディズニーランドなどにエスコートした連中が家族ぐるみで大歓迎してくれ、あちこちに案内してくれたこともあります。
 自分にとって、そんなネタがタイミング的に新鮮だったせいもあり、その頃タイの風景をよく描いていました。
 そんなことから、自由画壇への初出品もバンコクのエメラルド寺院「ワット・プラ・ケオ」をモチーフとしました。 幸い初入選を果たすことができ、以後日本自由画壇への出品が毎年の大きなイベントの一つになりました。

 初入選作「エメラルド寺院」は、その後数奇な運命をたどることになりました。

 タイの仕事を担当するようになって、だんだんレパートリーが広がり、バンコクの大プロジェクトだけでなく、それ以前に納入して既に運用に入っている通信システムの増設とかシステム変更とかの仕事も含まれるようになりました。
 ある時、現地の機器の一部を改修することになり、タイ全土に散らばっている局舎での作業一式をまとめて保守担当の関連会社に発注しました。 その仕事の主担当として現地に出かけてくれた好青年は、将来を嘱望されたエースでした。 しかし、不幸なことにタイ北部のランパーンというところで交通事故に遭い死亡しました。 仕事上のことはともかく、若くして急逝した彼の無念と残されたご遺族の悲しみは筆舌では尽くせません。
 私が窓口として、その保守担当会社へ発注書を発行した仕事でしたが、ご遺族の方との諸問題も含め受注した方の会社で解決するまで、発注側は何も口出ししないことになりました。(仕事は会社対会社の契約であり、労務管理、カントリーリスクなども含めて、受注側で履行するという、厳しい一線が引かれていました。)
 幸いご遺族各位の寛大なご理解を得て一件が落着したあと、彼の会社では「A氏メモリアルコーナー」というブースを図書室の中に開設し、ご遺族から寄贈された彼の愛読書などを陳列しています。
 その後、定年間近になって私はその系列会社に出向となりましたが、ちょうど自由画壇に初入選したすぐ後でした。
 彼のメモリアルコーナーを訪れる度に「そうだ、ここにタイの絵を飾ってもらおう」という気持ちが強くなり、会社の総務担当に話して額縁を買ってもらいました。 早速「エメラルド寺院」の絵を額に入れ、メモリアルコーナーの一角に飾りました。

 翌年は、またまたタイにモチーフを求め、水上マーケットの情景を描きました。 これが、私の絵をほめたことのないカミさんが「あの絵はよかった!」と初めてほめ言葉を出したほどのできでしたが、幸運にも「佳作賞」をもらうことができました。
 この年「公募」だった資格から「壇友」に推挙され、翌年からF50号に挑戦することになりました。

 F50号を何度か出したところで「壇人」に昇格しました。 紫雲先生からF80号にしなさいといわれ、何年かこの状態が続くと予想して、F80号の新しい規定額と、当分困らないだけの画仙紙を購入しました。

 もともと私には色を濃くしてしまう(悪い)クセがあったようで(もっとあっさり“うす口”に描けないものかと悩んだりしていましたが)50号、80号の大きな絵を描き始めてから特にこの悪いところが目立つようになっていました。

 1996年のこと、締め切りに追われて仕上げをあせり、自分でも“ちょっとヤバイかな”と思うような色の濃さと構図の稚拙さでした。 紫雲先生からは適切なコメントを頂いていたと思うのですが、なにしろ時間切れで、ちょっとした手直ししかできず、鑑査を受けてしまいました。
 その年は、団体の方も、会員のレベルを向上させるため「出せば入る」という世評を払拭すべく採点をきびしくしようと決まったとかで、かなり多くの方が「選外」となりました。
 私の絵も、どのような得点だったかわかりませんが「選外」の通知がきました。
 しかし、団体のスタッフ的な仕事の分担が以前から決まっており、その年も美術館の地下での受付や千葉倉庫での張り込み作業に出かけました。

 (自分でいうのは若干照れますが)「選外」になったにもかかわらず、真夏のハードな張り込み作業をサボるでもなく、きちんと手伝いに行った私の行動が団体幹部の目にもとまったらしく、(最近はどの分野の文化・体育系活動でも同じ傾向にありますが)「男性会員は貴重なんだから、今回のことで彼をやめさせないように!」ということになったとか。 (あるところからもれ聞きました。)
 幹部の先生から「これにめげずがんばって・・・」という激励のお手紙(ラブレター?)まで頂戴しました。


 お手紙を頂いた先生とは、展覧会の準備や美術館での事務方のお手伝いなどの日にしばしばお会いするようになり、その都度温かい激励を頂くようになりました。また、先生のお弟子さん(の一人で、お友達になっていただいた方のHP・・・「リンク集」参照)や教室でチューターをしておられる自由画壇の諸先輩とも懇意にしていただくようになりました。横浜・みなとみらい21のランドマークタワーに先生の教室があることもわかり、一度表敬訪問をさせて頂こうと考えています。(2001年4月26日記)

 5月14日思い立ってランドマークタワーを訪問。顔見知りの先生方と生徒さん達から大歓迎されました。教室が終わるまで居座り、いろいろと勉強させて頂き、終了後はカフェバーでお茶をみながらさらにみんなでおしゃべりまでつきあい、有意義な一日でした。
 一度野外スケッチにまぎれ込んでみようと、そのチャンスをねらっています。(2001年6月21日記)


 私としてはこれしきのことで絵をやめるということなど考えたこともなく、“努力が足りなかったな”と反省しきりでした。 身近の親友からは「あのまま入選が続いていたら足立さんのためにならないと思っていた。 一度は挫折を味わった方がためになる。」と、なんともきついコメントをもらいました。 まったくその通りで、家族からも「お父さん、もっとうす口に、あっさりと!」といわれていましたので内心“やっぱりな!”と得心しました。


宮山松丘先生

 「選外」の結果となった年も、7月末の猛暑の中、千葉倉庫での張り込み作業に出かけました。 午後作業が終わりかけた時、宮山松丘先生から声をかけられました。 その年の審査基準や選外がそれまでの年より多かったことなどのお話があり「一度、今年落ちた絵をもってうちへおいで。」と誘われました。

 何日か後、松丘先生から電話がありいよいよアトリエ訪問となりました。
 アトリエに上がり込んで、かなり長い時間身の上話、世間話なども交え話をしました。

 落選した絵については、一目見て「よく描けているが、訴えるものがないな!」と批評されました。 その後、細部についてもいろいろとアドバイスをもらいました。 「相当描ける腕はあるな」とか「基礎はできているようだ」というコメントもありました。
 その日のアドバイスのポイントは、100号を描いた方が良い、墨でほとんど仕上げ、ほんのちょっと彩色すること、(木炭の)デッサンでしっかり描き込め、などといったものでした。 帰りに、100号の紙に木炭で、枯れたひまわりのスケッチがしてあり、どこをどんな色にという指示が書き込んであるものを渡され、「これを仕上げてこい」と宿題まで出されてしまいました。
 その絵は、未完成のまままだ手元にあります。 というのは、アッという間に次の夏の壇展の準備を始めなければならない時期となり、宿題はそっちのけで「何を描くか」から始まって構図決めまでが急務となってきました。
 何度か電話でプッシュされたり、出かけていって相談したりで、漁港を描いてみることになりました。 デッサンを一度やり直し、構図を決めました。 先生の前で筆をもって描くのはものすごく緊張しましたが、細かな筆使いまで指導してもらいました。
 その様な経緯で「港の風景」という初めてのF100号が完成しました。 着彩は意識して“うすく、うすく”と心がけました。

 その年は入選を果たしたばかりでなく「秀作賞」も受賞できました。 何もかも松丘先生のご指導の賜でした。 秋の選抜・小品展にも参加し、実り多かった年も暮れました。

 「選外」→「秀作賞」の物語は、先生方の間でかなり有名になったらしく、それぞれの教室で「選外にもめげず、がんばって翌年秀作賞をとった足立さんのような例もあるから、あんた達もがんばらなきゃ」と、教場でよく話をされる先生のことを何度かお弟子さんから聞ききました。

 その翌年も、春になると松丘先生から連絡があり、夏のテーマを決めることになりました。 「今年は、夕方の海を描け」ということになり、先生が一度描いてみたかったというモチーフを頂戴しました。 前年と同じようなペースで完成させました。 先生の体調があまり良くなく、時折苦しそうな表情を見せられるのがちょっと心配でした。
 夕焼けの海と灯台を描いた「夕照」も運良く入選しました。 夏の千葉倉庫の張り込みでは先生の姿がなく、腰が痛くて力仕事はダメだという話を伝え聞きました。

 夏の上野の展覧会も終わりホッとした頃、宮山松丘先生の訃報がきました。 「3年間はオレが面倒を見る、その間にしっかり勉強しろ」と常々いわれていましたが、たった2年でお別れすることになりました。

 1999年、2000年と、どの先生にも師事することなく「一匹狼」で出品していますが、筆を持っているときはいつも「松丘先生だったら、ここはこういう風にしろ」といわれるだろうな、などと心に思い浮かべながら描いています。 他の先生から「宮山先生のいいつけを、よく守っているみたいだね!」といわれたことがあります。
 先生からは、同じ船と海をモチーフにして、今度は“夜”を描けといわれていましたので、3年目は夜の海と灯台で「漁火」を描き、2000年には、昼間の三崎魚港を描きました。 (「そろそろ海は卒業したら」という声と、「とことんこだわれ」という声と二つの意見があります。)

 宮山先生の奥様から、先生の形見としてF100号の額を頂戴しました。(最近の規定額に比べ重厚な感じで貫禄があります。 額に負けないようにいい絵を描かなければなりません!) 先生の奥様からもまた大変にかわいがっていただきました。 お伺いする度に、おいしい(ヨモギのはいっためずらしい)そば(冷や麦?)をごちそうになったり、先生が私の絵に手を入れようとすると「だめだめ、さわっちゃ。 いつもそうやって絵をこわすんだから! よく描けているんだから!」と強烈なパンチが出たものです。

 宮山松丘先生は、日本自由画壇創設者、川口楽土師に20年近くも師事された、すごく絵の上手な方でした。 また、弟子をとらないということでも有名で、個性の強い方でしたので、私が「宮山先生です」というと「ほう、めずらしいな!」と、よくいわれたものです。

 「3年は面倒を見てやる、あとは自分でやれるだろう」といわれていたことは上述しましたが、たった2年のおつき合いで終わってしまいました。 もっともっといろいろなことを教えていただきたかったと思いますがもうどうにもなりません。 思えば短い間でしたが、その間にも“そうか、墨絵というのはこういうことなんだ”とまさに「目からウロコが落ちる」ような、フッとしたひらめきを感じることができたのが何よりの宝物となりました。


 宮山先生とお別れしてからあとの2年間、自力で壇展に参加し、幸いにも(きっと得点は高くないと思っていますが・・・)入選することができました。 また、いろいろな行事を通じてお友達つきあいの方々も増えて大変嬉しく思っております。
 これから、ますます自分の技量・見聞を高め・広め切磋琢磨しなければと思うこのごろです。


墨絵の仲間

 縁あって入部したNEC玉川書道部で習字をやっている内、部員のみなさんにも墨絵の楽しさを味わってもらいたくなりました。 ある時そんなことをもらしたところ、何度か上野の自由画壇展を見に行ってくれた部員の中にも墨絵をやってみたいと思っていた人が何人かいて、急に話がまとまり、時節的にもタイミングの良かった「年賀状を水墨画で描いてみよう会」という催しが計画されました。 第1回目から数えてすでに5〜6回目をやりましたが、暑中見舞いと年賀状のハガキ絵というか、俳画というか、肩の凝らない、気楽な、一日速習コースを開いています。
 これがまた、めちゃくちゃ楽しい一日で、朝10時頃から始めて午後4時頃まで、みんなものもいわず黙々と絵に没頭するのです。
 何度か開催する内、ベテラン(常連)の腕がめきめき上がってきて、元旦に届く年賀状や、夏の暑中見舞いなど「エッ!」と驚くような出来映えのものが現れてきました。 いつか、松丘先生だったか紫雲先生だったか、この教室で“インストラクターもどき”をやったといったところ、「そりゃー実力がないとなかなかできないことだ。どんどん墨絵のファンを広めなきゃ」と激励されました。 たしかに、人の前で絵を描いてみせるというのは、心臓が飛び出すくらい緊張するものです。 実力があるかどうかは別として、参加者のみなさんの協力で大変楽しい会になっています。


会社では毎年クラブ活動の成果の報告と部員募集のPRのため、「カルチャー広場」というブースを社員食堂で開催しています。 書道部も毎年積極的に参画して、作品を展示するとともに、毛筆の手ほどきなどの実演をしています。 その一環として水墨画のデモの日があって、ハガキ絵など描いています。 その時書の作品と一緒に展示した水墨画教室の、みなさんの作品です。

5年目のリベンジ(2001年 27回壇展)
 「選外」となった1996年から早くも5年たちました。このことがご縁で最後に師事した宮山松丘先生の三回忌を昨年迎え、また実母のすぐ下の妹だった叔母の七回忌を今年暮れに迎えます。
 叔母は、広島原爆の時爆心地から1キロくらいの市内を自転車で走っていましたが、原爆が破裂した瞬間、ちょうど電柱の陰だったため奇跡的にも無傷でした。周りにいた人達は、衣服が燃え上がったり、肌がチョコレート色に焦げたり、既にご存じの通りの悲惨な状態でしたが、本人はその後も原爆症も発症せず80才まで長生きしました。広島へ帰省したときなど、くり返しくり返し原爆の悲惨な体験を話してくれたものです。叔母の命を救った中国電力の電柱は終戦後もかなり長い間その場所に立っていました。叔母はそこを通るたびに「命の恩人」と思って(心の中で)手を合わせたそうです。娘達や若い人達にも叔母の話を沢山聞かせたいといつも思っていました。いわば身近にいる「原爆の語り部」的存在でした。
 これまでの恩に報いるためなにか形にしたいと考えておりましたが、思い立って「仏像」を描いてみることにしました。仏像は松丘先生が大変お上手でいつも感心していたものです。
 選外となった私の作品は、実は「仏像」を描いたものでした。失敗した理由は上述の通りですが、今年のモチーフにあえて同じ仏像を選びました。失敗したテーマをそのままにしておくことは出来ない気持ちでした。(自分の選んだ題材が絵にならないということは、ちょっと悲しいことだと思い、あえて選びました。)
 今年の制作にあたり、あらためてその後の5年間のノウハウを結集して同じモチーフに挑戦しました。

 自分勝手なこだわりというべきかも知れませんが、幸い「入選」することが出来ました。5年目にしてリベンジを果たしたわけです。

 松丘先生の絶筆となった「幽玄」は、鬼気迫るものでしたが、その年のモチーフは最初仏像でした。しかし、デッサンのため画仙紙を貼ったパネルに向かうと身体というか気分がおかしくなって「どうしても描けない」とこぼしておられました。そのためか急遽モチーフを変更されたのでしょう。
 展覧会のあと最後の絵を自由画壇から預かって、奥様へ届けに行き、仏壇に焼香させて頂きました。

 今年の絵は、タイ・アユタヤにある遺跡の仏像を描いたものです。この絵をみて、松丘先生はなんとおっしゃるでしょうか。(合掌)


 「展示室」で作品などご紹介したいと思います。


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(2001JAN01初稿/2001APR26追記/2001JUN21更新)