ちょっと辛口(manager)

「こんな上司はビルの上から飛び降りろ!」

 かなり昔「こんな幹部は辞表を書け」という本がベストセラーになり、その続編も何冊か出たと思うが、最近の新聞広告で「こんな上司は辞表を書け」という本が出たことを知った。
 幹部が会社をおかしくしている事例がいっぱいあることは、毎日テレビでやっているので、今では珍しくも何ともないということか。 銀行、生命保険、ゼネコン、デパート、などなど、まったく枚挙にいとまがない。

 とうとう今は幹部から上司まで組織の中が腐ってきたということかい、世も末だな!

 で、もう卒業したので少しくらい思い出話をしてうっぷんを晴らしても、だれも文句はいわない思うので、ちょっとグチっぽくなるかもしれないが、バラしてみたいと思う。

 それはもう20年(1983年だった)近く前のことになるが「ああ、この人はダメだな!」と思ったことがある。
 会社の組織変更で、その人が我々の部長(部長にしたこと自体がミスジャッジだったという声があった)になったのだが、事業部のトップが主宰する上位レベルの会議の結果を、翌日くらいに部内に報告する部内会議を設定していた。 ある日上位レベルの会議で南米のベネズエラへ出張していた幹部の報告の中に「三重為替制度というのがあって面倒くさかった。」というのがあったらしい。 その頃の新聞のコラムに解説されていたスクラップを中南米担当者が持っていたくらいだったから、まだあまり知られていない新しい制度だったと思う。

(昔、エジプトに出張したとき、観光ビザで入ると為替レートが有利になり見かけ上物価が安くなる観光優先政策による二重為替制度を体験したことがある。 まじめにビジネスビザをとって損したという話。 ちょっと悔しかった。)

 問題はその後の部内会議で「オレもよくわからないのだが・・・」と切り出した。 海外のプロジェクトを生業としている事業部の、しかも海外プロジェクトの入金や現地工事費を管理する最高レベルの責任者の立場にある部長が、こんなことをぬけしゃーしゃーとみんなの前でいえるのかと思った。(正直いってビックリ仰天した。 なぜ知ろうとしないのだ?! 好奇心というものがまるでないのだなと思った。)
 かっこ悪いか、時間がなくて初めの会議では質問できなかったにしても、自分の部内で会議するまでには調べるなり、直接その国を担当している部門でちょっと聞けばすむことだった。

 ちなみに、会議の後、その部門へ聞きに行ったら、すぐ教えてくれてものの5秒とかからなかった。
 つまり彼は、自分の仕事は上位レベルの会議で聞いていたことをそのまま(これも怪しいことがすぐにわかったが。 さらに我々部下が悲惨だったのは、聞いて来た内容を自分だけに都合がいいように脚色してしまうことだった。 例えば、自分のミスとか怠慢でうまくいかなかったことがあったとすると「お前があれをやらなかったから、上から怒られた。 おれは前からああしなければいけないといっていた。」という具合。) そのまんま下に伝えればいいとくらいにしか思っていなかったということだ。
 もし誰かが「それはどういう意味ですか?」などと質問したら「(その上位レベルの)会議ではそんなことは話題にならなかったし、質問する人もいなかった。」などとわけの分からない答えをしていただろう。

 一事が万事、そんな調子だから、おれが調べてきたことは教えてやらなかった。 聞かれもしないことを、あとで恥をかかないようにと親切に教えても、感謝されるどころか裏目に出るのが常だった。 だからもし「こういうことでしたよ。」と教えたりすると、ひどくプライドを傷つけられ(部下から何かものを教えられるととくに病的に反応し)バカにされていると受け取りむかっとした顔をして「そんなことは知っているよ。」というか、もっといやみなふつうの人には発想できないようなとんでもないセリフが飛び出したかもしれない。 常々、人間というものはこんなにも、人のいやがる意地の悪い発想ができるものかと感心していたくらいだった。 (“感じた”というような生やさしいものではなく、ほう!といつも“新しい発見”をしたような気持ちだった。)
 はっきりいって、自分が組織の目標のために何をしなければいけないのかまるでわかっていない人だった。 反面他人からどう見られているかだけは異常に気になる人で、その場その場で自分一人が(自分の尺度で)かっこよく見せられればいいと考えているようだった。 (今にして思えば、本人にとっては何がなんだかわからず、案外苦しかったのかもしれない。)
 したがって、会議や日常の仕事で、部下をかばって自分がちょっとつらい目にあってやろうとか、部下のために外に向かっていいにくいことをいってやろうなどとは微塵も考えない人だった。 (こっちが、わらをもつかむ思いで、そんなことをたのみに行くと「それは君の仕事じゃないのか?」と逃げる人だった。 反対に「そういうことは自分でどんどんやるもんだよ! 率先垂範だよ!」といわれて、オーバーでなく我が目と耳を疑ったことがある。) 「子は親の背中を見て育つ」というが、彼が我々のために何かやってくれるということはついになかった。 反対に「部下のあいつがおれに何もいわないから知らない」とか、・・・出来なかった」とか、上に向かって平気でいっていた。 (それを会議で聞いた他部門の部長から「お前達もあんな部長持って苦労するな。」と同情されたものだった。)

 サラリーマンをやっていると、一度や二度は「会社を辞めようか」と悩んだり、出勤しようとすると胃が痛くなったり、するようないやなことがあるものだ。 その一つがこの人とつき合った4年間、まるで悪夢だった。 オレともう一人の相棒が徹底的にいじめられた。 それでも今ヤケを起こしたらこっちが負けだと思ってじっと我慢したものだった。(二人だったからお互いに、今日はこうだったと話し合ってうっぷんを晴らすことができた。)

 「こんな幹部は辞表を書け!」という本を買ってきて、ヤツの机の上においとくかと、職場の仲間と話し合ったことがある。 しかし、まともに自分に非があるなんていう風には感じないヤツだからまったく効果がないだろうということになって結局やめた。 (代わりにヤツがいないとき、ヤツのいすに座って思いっきり屁をこいてやった。)

 もう、サラリーマンは一度定年退職したし、今やっているサラリーマンはサッカーでいう「ロスタイム」みたいなもんだから、若い人達に自分の経験してきたことで、彼らがこれから役に立つようなコツを伝承するように、毎日を楽しくやっている。 自分の子供達より若い人達と仕事をするのだから仲良く楽しくやるのが一番いい。

 あの人は今どうしているだろうか?と、ふと思い出すことがある。 知っている限りでは、定年前の境遇は決して、同じ時代に生きた人達(=同期入社の連中や、近い年代の同じ学閥の連中・・・当人の学歴だけはご立派だったが)に比べても良くはなく、むしろ惨めなくらいだった。 身から出た錆というか、自業自得というか、密かに“ザマー見ろ!”と溜飲を下げたものだった。(おれも人が悪くなった!) 本人が「おれの学校の出身者はみんな偉くなってんだよな!」としみじみ述懐したのを、何かの飲み会で聞いたことがある。 本人はまるで自分のことがわかっていなかったのだ。(ノー天気だったのだ!)

 でも、当時ケッサクだったのは、みんなそれぞれヤツにやられたあとのストレス解消法を編み出していて、中にはビニール袋とシュレッダーの切りくずで、ぬいぐるみのような人形を作り「クソッ!」と思うときはそれをシャーペンの先でプチプチ突き刺している女の子がいたこと。 おれの場合は、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮で「早くあいつと縁が切れるように!」と願を掛け、小さい縁起だるまを買って片目を入れ、いつも引き出しの中に入れておいて、暇なときにぶん殴っていた。

 これほどひどくないまでも、世の中のなんの役にも立っていないのは、いっぱいいるよな。 そういう連中を霞ヶ関あたりの高いビルの屋上に集めて、一・二の・三で、飛び降りてもらったらどうかね。 世の中少しは良くなるかもしれない。

 警察の人、これは冗談ですから、私を逮捕しないで下さい。 どうか、今回は見逃して下さい!
 また、悪いことをしたと思った人も本気で飛び降りたりしないで下さい。 私はまったく責任をとるつもりはありません。

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(2000DEC12)