手記「中年1アマ挑戦記」
この手記を敬愛する我が師JA7PCH平松女史に捧げます
JH7PCH こと JH1TFL 足立征一
 この手記は、永年所属しているNEC玉川アマチュア無線クラブの「JR1ZTI会報第23号(1981年9月発行)」に、目的達成後の生々しい興奮の中で執筆し掲載したものですが、CQ誌の「CQロータリー」でもこの記事についてのコメントが載るなど、全国的に大きな話題となったものです。(USO!)
 執筆した本人も大変気に入っているドキュメンタリーで、今もって涙なしには読めないほど感動的で、胸キュンな作品となっております。(HONTOKANA?)
 ホームページ開設にあたり、当局のハム歴の紹介をかね、また当時の感激を自己満足的に呼び覚ますとともに、あるいはまた、これから上級ハムを目指したいというYL/YMが、このHPをのぞきに来てくれるかもしれないということを期待してミレニアムの記念に「復刻版」の掲載を企画しました。

 すでに初版をお読みのOT/OM諸兄には、もう一度当時(のバカみたいにうれしがって、ヨダレをたらしていたJH1TFLの顔)を思い出していただきたいと思います。(Hi)ちなみに、JR1ZTI会報23号には、3位入賞の6m Down 終わる!、JARLハムフェア1981の「クラブ報コンテスト」に見事“努力賞”を受賞、JA1FO宮崎OMの“OSCAR”追尾プログラム ハムフェア’81に出展(筆者註:PC8000の時代ですゾ! パソコンのプロが借りにくほど先進的なプログラムでした。)、部室実現の話進行中、横浜事業場にハムクラブ誕生、などがトピックスとして載っています。

“パパ浮気している!”

 なんともショッキングなセリフを下の2ndが、ちょっと予定外の残業をして遅く帰宅した私へあびせかけたものである。
 「彼女から電話がかかってきましたヨッ」と、XYLが笑いながら割ってはいる。  「ひょっとして平松さん?」ときくと、「YES」という。 「明日の試験がんばってください、ってよ」
 イヤー、マイッタ、塩釜のJA7PCH平松さんから激励の電話をもらえるなんて、大感激そのもの。 昭和56年(1981年)3月30日“1アマ初チャレンジ”の4月期国家試験の実技試験日前夜のことである。
 このハプニングのおかげで、2月に受験申請してからずうーっと私の胃袋を直撃していた、国試の不安な気持からくるプレッシャー(わかり易くいえば、極度の緊張のあまり<いい年ぶっこいて>泣きたいような気になっていた)がスーッと、どこかへ消えていった。

それは5年前の春に始まった
 7エリアへコマーシャルでQSYした時もらったコールがJH7PCH。 夜な夜な新しいコールで波を出していた。 ある夜、何気なくローカル局のラグチューをワッチしていると、「PCHって誰だ?」、「こないだまでJH1TFL/7とかナントカいってたやつだべ」、「PCHは塩釜の平松さんだっチャ?」などときこえている。
 その時はじめて前のプリフィックスで同じサフィックスの局に興味がわく。
 早速コールブックをみると塩釜市の平松さん(YL)さんであることがわかった。 そのあとローカルのJH7AQHから「平松さんはすごいですよ、YLの1アマさんで、電信は英文も和文も自由自在で ・・・」とのQSP。  すっかりまいってしまった。  JARLへJH7PCHのQSLカード転送料を払い込んだとたん、たいしてアクティブでもないのにカードがドサッと来るようになった。 J“R”7PCHはまだ開局していない頃のことなので中身はほとんどがJ“A”7PCHさん宛てのもの、しかもCWが多い。
 “A”さん宛てのカードは事務的にJARLに返すだけで、もちろん正しい手続きになるが“A”さんの素晴らしさに興味をいだきはじめていたので、“A”さん宛てDirect Mailでも同じことと思い、これも何かのご縁と、JR1ZTIのカード、自分のカード、それに自己紹介の(ラブ)レターを同封して送った。 これが“A”さんとのそもそものなれそめである。(当方はすばらしい人とおつきあいができて嬉しかったが、Aさんは、どうして電信符号のA(トツー)をH(トトトト)と間違えられてしまうのだろうと当惑した模様。 手紙の中で「キーイングに自信がなくなりました。」ひとことぼやきもあった。)  以来、“私設ビューロー”、“年賀状によるQSO”のおつきあいが始まった。 コマーシャルへの有線ブレークが一度(カード転送とZTI会報のお礼)、手紙は数通いただいた。 しかし、QRVの時間帯がまったく違っているらしく、お空ではどうしても会えない。 “A”さんも「変ですね、一度スケジュールでも組んでQSOしないと落ち着きませんね」と。 しかし、いまだコンタクトは実現していない。

  その後さらに19年以上たったが、2000年の今もQSOは実現していない。 コンテストでZTIから一度呼ぶチャンスがあったが、あせって空振り、ホームからは“A”さんのCQに応答しようとしたがコンディションのせいか届かず。
いずれも惜しいチャンスをのがした。
「ぜひコンタクトしてQSLをいただきたいと思っています」
 という“A”さんからの年賀状が、どうしても心にひっかかってしかたがない。 昭和55年(1980年)のお正月のことである。 “よーし、JA7PCH平松さんとの1st QSOは絶対ホレでやろう!”と決心した。
     「中年1アマ挑戦記」のはじまりである。
“トトト、トトトト、トト、トツート、ツーツーツー、トト、トトト、トトトト、トト”
 なんだ、コリャ?
 “7”へQSY中、“1”へ出張の道中、CWでもはじめようと、やっと一通りモールスコードを覚え「見えるものを片っぱしから符号になおしてみる練習」をはじめた時、特急ひばり(東北新幹線はまだ工事中だった)が「白石駅」に停車した時のことである。
 しかし、せっかく覚えたモールスコードも、続けて受信練習をやらなかった(XYLと二人でテニスに狂っていた)ので、まわりの局(コマーシャルで近くの席のOM/YM達)が何人か上級ハムになっても特に関心を示さなかった。 そしてまた3〜4年の月日が流れた。
だいたいトンツーが
 わかるようになるはずがない。 こう心に決めて、すでに25年もの月日が流れていた。
 小学校の終わり頃からエレキに興味をもちはじめ、中学ではラジオ少年にはなったがオーディオに熱中できるほどお小遣い(と優れた音感)はなく、興味の中心がハム(お金をかければきりがないことがまだわかっていなかった)の方へいき、CQ誌を読んだり、JARLへSWLとして入会したり。 しかし、私に電信ができるとは夢にも考えなかった。 
私としては最も苦手とする(あるいは不得手とする)ことの一つだった。(小学校でのそろばんの苦手かげんさをみれば、電鍵も同じで、手先を正確にす早く動かすのがうまくできないことはやる前から、わかりきったことのように思えた。) そばに、いろいろ教えてくれるOMさんでもおられたら、まったく別の経験をしていたかもしれない。 いずれにせよ、本物のハム(当時アンカバが盛んで、飛んだの、つかまったのと、ヤバイ話も多かった)に会えたのは高校三年の夏休み、バイト先のある家電メーカーの広島営業所にいたJA4CQ OMだった。(なんとも素晴らしいコールではないか。 BCIでやたらCQがきこえるので近所の人々から“CQさん”と呼ばれていたとか。 15年もあとになって、このCQさんの妹さんが当局XYLの親友だったことが判明。 奇縁、奇縁、世間はせまいもの、Hi)
閉店間際の本屋に
 飛び込んで「ラジオの製作」(だったような気がする)を買った。 お目当てはただ一つ、折り込み付録の国試の受験申請書だった。 翌日が受付け締切りギリギリ(いわゆる消印有効)の日。

 当時、昭和32年猛威をふるった流感を完全にこじらせ、結核性肺炎から肺浸潤⇒肺結核となり、1.5年の入院・療養生活をやっと終え、退院して社会復帰の準備をしているところだった。 NECから「機械科の卒業生はいないか?」の求人に、我が恩師が「機械屋はいないが電気屋が一人いる」と、学校の成績をかなり高位にミスコピーして売り込んでくれ、苦手だった英語のテストも霊感でクリアし昭和35年暮(ボーナス支給日の翌日。 会社は本人がひがまないように気配りしてくれた、Hi)に中途入社した。 この肺結核の前科が消えたのは、勤続30年の表彰もとっくに終わったごく最近のことで、健康管理室から「(入社以来30何年も)病巣にまったく変化がないので、もういいでしょう」ということで、初めて健康者の仲間に初めて入れてもらった。 入社以来(胸の既往歴のことで会社に健康上の迷惑をかけたことは一度もなかったが前科にはなぜか厳しく)定期的に撮り続けた大きなX線写真ではなく、小さいフィルムの間接撮影をしたのは、高校時代以後初めてで、ほんとうに久しぶりだった。

 そうして、まだできたてのホヤホヤの制度だった昭和34年秋の電話級(現4アマ)を受けて運よく合格した。 “5球スーパーの局発が正常に動作しているかどうか調べる手順を述べよ”というような問題を記述式でやったのを覚えている。
≪ところで、現代っ子のYL/YMさん、この問題解けますか? 「5球スーパーヘテロダイン検波方式の受信機において、高周波増幅・局部発振・周波数混合を行なう複合電子管の局部発振動作が正常かどうかを調べる手順を簡潔に記せ」なんて出たら、一技(陸上第一級無線技術士)をねらっている人でも、今だったらエエッ!とビビるかもしれません。 でも当時は(街の電気屋さんも、ラジオ少年も)こんなの常識で一段目の球のグリッドに指で直接さわり(まちがってプレートにさわると確実に250〜300Vを体験できました!Hi)スピーカからのノイズが消えるのをチェックする、ということをやっていたのです。  アマチュア的というか荒っぽいというか、現代のようにいい測定器があるわけでもなく、ラジオの修理などシャーシをひっくり返していきなり真空管の足にさわってガーガーピーピーいっているスピーカの音がどう変わるか確かめるなど“人間テスター”のみたいなすごい人もいて少なからずOTは身体をはっていたのです。 そして、5球スーパーが修理できるレベルというのが、ハムへの登竜門だったのです。≫
 その頃は、10W以下の落成検査省略(いわゆるJARL保証認定)の制度もできたばかりで、JARL中国支部総会(若かりし頃の、原現会長に会った。 なまいきにも、話のタネにSWLで出席した)で、落成検査を受けないとどうしても気がすまないというOMさんがいて、電監から新制度の説明にきた担当官が困惑して「(落成検査をやってほしいというのならやりますが)ベターな方法ができたのに、どうして面倒な方がいいのですか?」と苦笑いしていたシーンを思い出す。
 JA1AA庄野OMの本を読んだり、0−V−1を作るべパーツを集めたりしていが面倒をみてくれるOMさんの出会いもないまま、月日は流れていった。
なが〜い冬眠
 から覚めてハムライフにカムバックしたのは昭和49年の夏であった和44年春にもらったJH1TFLの局免はうっかりして切らしていた。 昭和42年に車の免許をとり、急に思い出して≪というより、同じ頃同じ関東自動車学校溝口校で偶然会ったJH1MLP 杉井OM(現JACOM社長)に勧められて≫モービルでハムをやりたくなって当時売出しのTR5000(先般JARLの古代博物館?のケースの中にあるのを見てビックリ!Hi)で開局した。 A3: 2ch、 F3: 2ch 計4個のX‘talで用が足りるほど6mの空はガラガラだった。(でもすぐVFOを買いに行った。) 開局した時は、従免を取ってからすでに10年近くたっていた。 この間、NECへ就職して“4”→“1”エリアのQSYをし、2年(大家と仲良くできた時)〜3ヶ月(追い出された時)のスパンでアパートや貸間を転々としていた。 開局直後Wへ6ヶ月の出張があって、初めて本場モノのWのOM≪当時の記録と記憶をひもといてもコールが確認できずちょっと残念! すごいDX’erだったかもしれない。 自分の乗用車にはコールサインのナンバープレートを付けていた。 アメリカはいいなと思った。≫に会うことができ、(放送局のスタジオの入口みたいな「ON−THE−AIR」のプレートとランプのついた)シャックと(4段キャビにギッシリあり、カードのデザイン毎、犬シリーズだのお城シリーズだの、にも整理してあって二度ビックリの)カードのコレクションを見せてもらった。

 このMr. J. L. ウーターズという地元の運送屋のおっさん、ほんとうに我々を息子のようによく面倒みてくれ、運転の腕は(トレーラからフォークリフトまで)まさに神業だった。 さすが車では世界一の国、うまい人は、我々日本人とは土俵そのものが違うような気がするほどのレベル差があった。(荷物をおろす時「おーい! そこの二人、ちょっとその辺に乗ってろ!」と架の木枠の片方にバランスウエイトの変わりに乗せられたこともあった。) それに、そこの運ちゃん達がまたいい連中だった。 当時を思い出すたびに彼らから受けた友愛に今でも胸が熱くなるほど。 XYLさんがまたプラチナブロンドの超美人のおかみさんで、ハイティーンの娘さん息子さん達がこれまたメチャクチャ可愛かった。 娘さんがおやじさんにホールドアップのまねをし、ポケットから財布を出してお金を抜き取ると「アレ!オレはなんもしてないのに、なんで金がなくなるんだ!」と我々にむかってウインクしたものだった。 親子のやりとりはよくわからなかったが、まるでテレビのアメリカ版ホームドラマのようだった。 現場の仕事で手が離せない時など日本からくる出張者を片道4時間もかけて最寄りの空港までピックアップに行き、途中で食事をさせてホテルにチェックインするようなことまでたのんだりした。 どこで日本語を調べたか自分で大きな「日本人」と書いた看板を作って帽子につけ空港に出かけてくれた。 道中の車の中でいろいろ話かけたりして、日本から着いたばかりの連中の英語力までチェックしてくれ「あいつは一人で歩かせるとあぶない」とか、コメントまでしてくれた。 また、モービルからホームのXYLさんに状況報告が入り、逐一電話でQSPしてくれた。

 しかし、自分の局からは、ついにチャンとした波がでることはなかった。 昭和49年、花崎、秋葉(K)両OMの勧めで玉川ハム同好会のスタートに参画し、いきなり会計担当理事になった。 クラブの初めてのミーティングで綿引、石渡両OMに会ったのが生まれて初めての“1アマ”さんに会見した経験となった。 ≪なんだか、偉いお殿様に拝謁したらこんな気持かなと思うような緊張感を味わった!Hi≫
 10月に入るとNEC西町アパートの4階のベランダから(捨てずに持っていた)モービルホイップのエレメント細工した変則GPで6mにQRVし、どうやら本物のハムライフをエンジョイできるようになった。

 お空では“JG1”のコールがちょうど今の“JN1”<いずれにせよ、ちょっと時代の流れを感じますね、Hi。 しかも、SSBはほとんどなく、A3が主流。 当時の火を消さないように、6mでは今もA3が根強く生きているとか。>のような感じで沢山聞こえていた。 6mのRigはネコもシャクシもRJX601のようだった。(私もまねして買った、Hi)
 翌年、現在の団地が抽選に当たると同時に7エリアへのQSYが決まった。

 
このあと、この手記のはじめの方につながる。

 サラリーマンには“家を持つと転勤になる”というジンクスがあるようだが、まさにそれを地で行くようなできごとだった。 引越しが終わって最初の出勤日に宮城NEC出向の内示を受けた。 新しい団地の全居住者の書類がそろって登記が完了するまで印鑑証明の関係で現住所の変更はできず、本人が住んでいる形になっていないと買い戻しの対象になるとのことで必然的に単身赴任となった。
酒をやめるぞ〜!
 と帰宅して開口一番、去年(1981年当時)の2月はじめのことであった。
 「どうしたの? 身体の具合でも悪いの? お医者さんに何かいわれたの? 頭は大丈夫?(これはなかったかナ!)」矢つぎ早やにXYL、さっぱり何のことかわからないという表情。 実は正月“A”さんの年賀状をみて「よーし、絶対ホレでQSOできるようになろう!」と発憤し、通勤中ずっとカセットテレコ(ウオークマンのない頃、小型とはいえかなりかさばっていた)で欧文コードを覚え、いよいよ(ようやく)20字の受信練習にはいろうとしていた。  小杉OMの名著「CWマスターのコツ」をひもとけば、アルコールは御法度とのこと、めずらしく素直に、これに従う心境になっていた。 この断酒(実際はほんのチョッピリ節酒するていどのもの)の条件を正確に定義すると、つまり「つきあい以外の、週末を除く、平日の晩酌を当分の間やめる」と相当にむつかしい。 2月も半ばになるとCWの練習も大っぴらに(せざるをえなく)なり、20〜25字の受信練習を昼休みにやっているとFOさんが「国試を受けるのかい?」と通りすがりに激励。
あわや
 2ndをサイレントキーにしたかとビックリした。 3月4日上の2ndが腹痛で入院。 結局は虫垂炎だったがあやうく手遅れになるところだった。

 手術が始まったときマスクと白衣を渡され「呼んだらすぐ入って下さい。」といわれたときは足がガクガクした。痛いのを必死でがまんしていたらしく、
腹からゴム管を何本も出すような大手術をした直後なのに「痛いか?」と聞くと「手術前の痛さに比べたら、こんなのめじゃない」などというので、その時の痛さを想像しただけで、今でも気が遠くなるような思いがする。

 XYLは病院で付き添い、私はもう一人の2ndに朝食をさせ学校に送りだしてからコマーシャルへ、学校から帰る2ndをXYLが家で待ち受けて病院へ、私が帰りに病院に回って2ndを見舞い、2ndをつれて帰宅、2人で夕食。 この生活パターンが2週間ほど続いた。 2人の2ndもけなげにがんばっている。 XYLも私も必死だった。
 ようやくのことで快方に向かい始め、少し手がかからなくなったところでCWの練習を再開。 しかし、コードを覚えたての頃に逆戻りしていた。 病院にまでテレコを持ち込んで、時間があれば20字くらいからやり直し。 じき電信級のテープをクリアして、いよいよ2アマ用のテープに入る。 35字/分が頭で取れてもなかなか書き取れない。 誰もが必ず一度は経験する悩み多きハードル。 3月末やっと45〜50字/分をクリア。
 宮城の出張から帰ったFOさんから、JA7ZJRのの連中が、私が60字/分をクリアしているとウワサしているときいてビックリする。

2ndも
 退院し、ようやく平静をとりもどしてみると秋の国試まで待てない気持。 少しでも早くA1の波を出してみたい、JARLの講習会で電信級だけでもと思うようになる。 4月12日JAIAフェアで講習会のパンフレットを集める。 帰途ハム月販へ足をのばし電鍵を購入、店長に「いいのがいいだろう?」とうまく乗せられて、一番高いハイモンドHK−808を買わされてしまった。
 家に持って帰えると2nd達が新しいオモチャができたとばかり、早速ローマ字の教科書を持ってきて、コード表を見ながら、けっこう早くきれいに打つ。 子供の頭の柔らかさと順応性のすばらしさにあらためて舌をまく。

 ちょうどこの頃、英語の小説を辞書なしで読むことにもチャレンジしていて、分厚いアーサー・ヘイリーの「Overload](邦訳が「エネルギー」名前で出た。)をせっせと読んでいた。 すごく面白かった。
JARLのCW選抜試験も
 JH7HGI局の結婚式や他の用事が重なって5月中はとうとう受けられず6月7日になった。
(絶対受けようと思って、あせって申し込んだので受験番号がNo.1だった。)
 20字/分はとっくにクリアし、ほぼ60字位取れるようになっていても、やはり生まれて始めのてCWテストともなるとやはり緊張と不安。 しかし、間違えたところを消しゴムで消せるほどの余裕で終了。 10日に合格通知が来た。
 6月20日からの電信級移行コースをのがすと次のコースは9月、次の国試と変わらない。 とっくに定員締め切りになっているとは思ったが「キャンセルでもあったら、ぜひお願いします」とメモをつけて無理矢理申し込んだ。 この意気込みが通じたのか、JARLから「No.**のキャンセルのところへお入れしました。よかったですね。」と朱記コメントのついた受講票がきた。 ラッキーだった。
 6月20、21日の夜、無線工学、電波法規、通信術、3科目の講習をそれぞれ2時間ずつ受けて、翌22日は朝からいきなり修了試験。 20日の午後JARLへいく途中渋谷で買ったテキストなど往復の電車の中で流し読みした程度の一夜漬けでの受験となった。
 午後1時からいよいよ通信術の実技テスト。 順番を待つ身のつらさ、人はどんどん減っていく。 すごい緊張の中どうやらHHのお世話にならず終わった。
“放心状態”
 久しぶりの晩酌のビールはいつもの+3dB。(この頃になると、陽気もだいぶ暑くなっており「てやんでーアル変かけてCWたたけねーで、ハムといえるけェー!」てな勝手な調子で、禁酒宣言はどこえやら、XYLがすすめるときは素直に飲んでいた。)
 6月30日合格通知がきた。 早速書類をまとめて従免を申請、7月26日電信級の従免を手にした。
 年令まさに42才、なぜか電話級を取ってから21年たっていた。 42と21の比は不思議なことに3dBとなった。 この21年前、54Kgだった体重は中年太りのせいか64Kgなってしまっていた。
 従免を待っている間、クラブ活動では恒例の「6m & Down コンテスト」が大盛況の内に終わった。
 7月にはいるとすぐに10月期の2アマ受験に的をしぼり準備を始めていた。 CWの練習テープは、JK1IDD OMから借りてコピーした1アマ用の平文60/70字に入った。 しかし、どうしても60字の方がとれない。 それもそのはず、ダビングの時テレコの相性がおかしかったらしく、仁賀OMの実測で25%も速くなっていることがわかった。 60字のつもりで75字のスピードを取っていたのだ。(75字の方は実効94字になるので、今でもしんどい。)
 秋の国試の日程も気になり始めた。 8月8日局免のA1追加変更届、2アマ国試受験申請、JARL東京支部の国試指導会の申込み、の3つをまとめて出した。 ラジカセがトラブッてドック入りし、CWの受信はもっぱらHFのワッチのみ、XYLは夏休みの2ndをつれて4エリアへ里帰りしていた。

「いけませんなァー!」
 とJA1CAJ OMのきびしいお言葉。 9月7日に1.2Gアップバータの技術講習会が予定されていて、参加するOMさんの多くはすでに組立が終わり、JARLのビーコンが聞けたとか、毎夜ワッチしているとか、すごく進んでいるのに、当局のキットは段ボールの上ぶたを開けて中を一度見ただけの未着手。 ついに徹夜で組み立てることにする。
 9月6日午後3時すぎから組立作業を開始して、翌日の早朝7時に最後の電源線をハンダ付けして完成。 そのままバッグに入れて講習会場へ。 (何とか間にあったが)とにかく疲れた。 ハンダごてをおいてある方のほおが低温やけど状態だった。 眼球もカラカラ。
 二度目のドック入りだったラジカセの修理もちょうど終わったという店からの連絡も受けていた。
 9月13日No.200593、2アマの受験票がきた。 9月15、21、22日と国試指導会、学科の山かけも終わった。 秋の行楽にもってこいの休日を3日もつぶしてしまい家族に悪いことをしてしまった。
 会社ではプロの通信士(の卵)のY君に時々送信術を見てもらう。 語間のスペースがせますぎるとのこと落ち着いて一呼吸おくよう心がける。 始業前と昼・夕方の休憩時間はもっぱらCW、通勤の車中は問題集と、ほとんどの時間を国試にむける。 JK1IDD OMにタイムをとってもらったっら送信もゆっくり打った感じで60字をクリアしていた。思えば速くなったものだ。
 10月2日いよいよ実技テストの前日、Y君に最後のチェックをしてもらう。 ふつうにやればなんとかパスしそうだ。 しかし、試験の光景を思いうかべるだけで胸がキュッとなりドキドキする。 相当な
がプレッシャーがかかっている。
早起きして30分ほど
 耳と手を慣らしてから家を出る。 10月3日いよいよ通信術の試験日。 半月前の国試指導会と同じ作りの教室でホッとする。(どちらも蒲田のあの学校、当たり前の話か)
 9:30キッカリ、受信術から始まる。 A〜Zを2回聞いた後いよいよ本番、HR HR = s t u d y
p r o g r e s s e d ・・・・・・ c h a n g e d  AR ときた、軽くとれた(ようなきがする)。 続いて送信術、「最近のエレキーは性能がすごくよくなっていて、かなりいい加減な打ち方をしてもきれいに出て、使わない人と不公平になるので、今日は使えません。」、きっぱりと試験官。 割合早く順番がきてイライラ待つ時間が少なくて助かったが、やはりコチコチにあがっていた。 いつも会社で練習に使っている電鍵と同じ型でちょっと安心。 しかしスプリングの感じがまったく違っており、語間でピッとミスタッチ、HHを3回ほど出してしまった。
 訂正しているうちに、時間切れが気になりはじめ、後半猛烈なスピードアップ、トチらないのが不思議なくらい、これまで打ったことのないようなスピードで AR まで打ち終わった。 二枚腰でグッとこらえた感じ。
 「どうですか?」と(不安そうに私)、「さあ、どうかな?」と(若い)試験官。 「すっかりあがりました。」「1つよけい出たみたいね。」、「バネが軽すぎました。」、「初めにちゃんと調整しなきゃぁね。でも符号が(テープを見せてくれて)すごくきれいに出ていますよ、お上手ですよ。」と最後にお上手までいわれてしまった。 あがっていたのか、早く次の人代わらねばとあわてていたためか、テープの印字がどんな具合だったかついによくわからなかった。 バッチリ決めてこようと思っていたのに3回もHHを出してしまい、少し後味の悪い結果になってしまった。
 学科まであと5日、それまでは「上級ハムになる本」を通勤電車の中でパラパラ読む程度だったが、こんどは100%の時間を学科の準備に注力。 CQ出版の上級ハム問題集やモービルハムのLG教室の問題をかたっぱしからやってみる。 2〜3日たって、ようやく計算尺も(関数電卓のなかった)現役時代のカンを取り戻し、計算問題のポイントがつかめるようになり答えが合うようになってきた。 計算のカンを取り戻し、法規も何となくポイントがつかめてくると、それまで今場所はCWだけ科目合格すればいいやと思っていた謙虚な気持ちはどこえやら“あわよくば”とばかり、もうれつに欲が出てきた。
1時間もたたぬ内
 それまでにつめこんだものはすっかり出つくしてしまい無線工学、法規とも、やっと1時間がまんして座っていたような感じで、10月8日が終わった。 お母さんにつれられた小学生の坊やがいて、しかも30分たつとさっさと答案を出して帰っていくのでビックリ。 新しい傾向の問題がかなり沢山出ていた。 問題集だけしか見ていなかったらヤバイところだった。 ちょっとしたトンチンカンや舌足らずの説明はあちこちにあるが、何とか61点以上はとれているもよう。(無線工学の方は95点くらいの自覚症状)
1.2Gアップバータ
 の同軸リレーが不良だったので修理のため、調整をたのみに行くJR1UTD OMと落ち合って川崎のマキ電機へ。私のRIGの修理はすぐ終わったが、UTD OMの修理が長引きそうなので一足先に失礼した。
 その日は1.2GのRIGを試験場まで持ち込んでしまった。 家に帰ってみると電信級が取れてA1を追加申請していた局免が届いていた。 これでA1の波が出せるようになった。 いりいろめまぐるしくて疲れたが何となくついている一日。
 2アマの国試も終わりしばらく放心状態。 第1回全市全郡コンテストの見学(冷かし?)に行ったりする。 夜はもっぱら2m/HFのCWをワッチする。 たまに(たぶん)YMの“I CANT WABUN”とか“WABUN DAMEDESU”をコピーしたりする。
いよいよ和文(ホレ)
 に入る。 10月13日帰りの電車から和文コードの暗記を始める。 一晩でイ→ウまで覚え、しめしめと思っていたが、一夜明けるとほとんど忘れていた。 以後この繰り返しで悪戦苦闘。 それでも、いつも覚えようとしていると2〜3字ずつ頭に入っていく。 “フ”は“ノ”のあべこべだと思いながら、車のエンジンをスタートさせ、ブルンとかかった瞬間、この2文字がメモリに入っていったり、電車がガタンとゆれた時スコンと覚えてしまったり、1字1字涙ぐましい歴史ができていく。 不思議なことに欧文コードとの混乱は全然ない。 まったく別のものを覚えている感じ。 そのくせ欧文にあるコードは、すんなり覚えてしまう。 「ル」(ツートツーツート)の何とも長ったらしい符号が、イ、ロ、ハ・・・と覚えていって、初めて出食わした和文らしい(いやらしい)符号ということで、一発で覚えられた。 昔お世話になった単語カードを使ってみたが思うにまかせず、ついに売店のカメラ屋さんを拝みたおしてオリンパスのマイクロカッセットをボーナス払いで購入。 ひまさえあれば、イ(トツー)とテープを聴く。 電池があっという間にへばる。
記念すべきCW初QSO
 を10月17日、2mで緑区の局と。 冷や汗をかきかき20分もかかった。 CWのトーンモニタのないハンディ機の不便さをいやというほど思い知り、早速外付けのモニタの製作を計画する。
 10月20日発売のCQ誌に国試の速報が載っている。 工学はかなりいい点が取れたようだが、法規はスレスレのように思える。
 ホレもようやく33字位覚えた。 11月に入り、いよいよ受信練習開始。 20字/分からトライ、しかし半分も取れず。 ガンになっている4字がどうしても頭に入らない。 再び「単語カード」を使ってみる。 日に2〜3回トランプを切るみたいにして順序を入れ替える。 今度は効果があった。 11月8日、2アマの国試が終わって丁度1ヶ月たった。 20字/分の脱字がどうやら半分以下になった。 60字/分のスピードでも、取れる字は完全に取れる。 何とも不思議な現象だ。
ついに待ちに待った
 日が来た。 11月20日、テープの1区切りではあるが20字/分速度が全部取れた。 11月24日久しぶりにJA7PCHさんからハガキが来た。 「・・・・一日も早くお空でお目にかかりたいですが・・・・」とある。
 休み時間通りすがりの仁賀OM、受信紙をのぞき込んで「オッ、だいぶ取れるようになってらー」と冷やかしていく。 12月8日夕方席に来たJA1ONS OMが「ワァー、和文やってらー」とビックリしたような声。
 だんだんとホレの練習も人の知るところとなった。 たまに2mのCW(ホレ)をコピーしてみるが、速くて断片的になり意味が取れない。
 久しぶりに75字/分の欧文テープを聴いてみた。 思ったほど退化していない、一安心。
「今日はケーキを買って早く帰るでしょ」
 と、とつぜんXYLから会社へ有線ブレーク。 12月22日午後1時すぎのことである。 ついに待ちに待った2アマの合格通知が来た。 仕事は一時QRTして近くのOM達にふれまわる。(いい年こいてホントニ!)
 5時を待ちかねたように帰宅。 1個400円もする高いケーキをフンパツしてしまった。 XYLからはハイモンドのマニュピレータをプレゼントしてもらうことになった。
 ホレは40字/分が丁度いい感じで、30字/分は遅く感じるようになっていた。
 早速、従免の申請をすませ、クラブ報20号を発行し、翌年の会報担当に再選され、JA7PCHさんへの年賀状で2アマ合格を報告し、CWのサイドトーン・アダプタが完成したところで、色々と目まぐるしかった1980年が暮れていった。
“努力すれば通ず”
 と初詣した近所の氏神様で、1アマ合格を祈願して引いたおみくじで「小吉」と出た。 1981年元旦早々新年の初QSOを鎌倉の局とCWでやった。

あとでわかったことだが、このOMさんもその年の4月、1アマに合格していた。 奇縁! 2nd QSO(9月13日ホレで)のとき、オメデトウを送り。健闘をたたえあう。

 何かしら今年はこれまでのHAMライフと違う。 いい意味でのエポックメーキングな年であって欲しいと願う。 2日のQSOパーティは、あとの外出のスケジュールを考え規定の局数をSSBで手短にすませた。 午後は年始回り。
縁起ダルマ
 (1月3日、鶴が岡八幡宮で買った)に片目を入れて「中年代表1アマ合格祈願」と墨書。 おみくじは“全部もう一通り勉強しなさい”と出た。
 夜10時頃、会社のYG君から訃報の有線ブレークがかかる。 VK技術駐在に着任して間もないFJさんが急死との悲報。
大ショック、言葉もない。
再度「断酒宣言」
 仕事始めの1月6日最後の晩酌をやる。 XYLはタバコの方をやめろという。 FJさんのお通夜、告別式に参列。(おそらく今年最大のそしてもっとも悲しいニュースとなるだろう。)
 1月12日2アマの従免がきた。 ホレ40字/分でこれまでで最高のスコアがでた。 なぜか夜ビールでカンパイ。
 1月末、ホレのスピードは40〜50字/分くらいを一進一退、なかなか完璧にとれない。 BTの方は70字/分くらいのレベルを保っている。
 JA1QXY OMのTVI退治の助っ人をやったりしている内、1月も終わった。
 CQ誌2月号に4月期国試の日程が出ている。 ついに決心を迫られる日がきた。 2月中にホレ50字/分をクリアし、3月中にホレ、BTをブラッシュアップすれば4月期の国試には間に合うとみて、1アマ国試第1回目の挑戦に“GO”をかけることにした。
「Big Ear」
 (8JKアンテナの発明者として有名な、J.クラウス博士の自叙伝)を読み始めた。 なかなか面白い。 
 正月以来少し食べすぎで胃のペースをくずしてしまい、絶不調。 国試まで何としても身体のコンディションだけは良くしておきたいので、とうとう2月3日から「禁煙」してしまった。
 2月9日初めて40字/分がパーフェクトにとれた。 ほぼ10字/分/月のペースでスピードアップしているので、この分だと4月期の国試には何とか間に合いそう。 ついに意を決して2月16日願書を投函した。
 ついに矢は放たれた!  <なるべく遅い試験日になるよう、締め切りギリギリをねらって出した。>
まぐれか問題を覚えてしまったか
 とにかく、2月17日朝、国試と同じ50字のスピードで、誤字1・脱字1の最高スコアが出た。 続いて18日夜、60字/分で新記録のスコア、誤字1,脱字1が出、ついに19日50字/分に満点が出た。
 禁煙のおかげで腹具合はすっかり良くなってきた。 これで受信に余裕が出てくれば何とかいけるのではないかと、急に欲が出てきて、学科の方の準備も始めた。
2ndの手術の後
 を見て、つくづく去年の3月頃の事を思い出した。 まだ欧文20字/分がとれなかったが、今は欧文75字/分くらいになり、和文も60字/分に挑戦中、たった1年の歳月が私をこんなにも変えてしまった。。 思えばあきもせずよく続けたものだ。
 3月6日受験票が来た。4月10日頃になるよう遅く出したのに、3月31日が通信術になっている。

 7日のWPXコンテストでWと3局ほどやってみたり、8日のオリエンテーリングで初めて2Hをきる自己ベストを出したりしている内にどんどん国試はせまってくる。 3月11日50/60字/分に何度かパーフェクトを出したものの、送信の方はあまりやっていない。 Y君に見てもらおうと思ったら、なんと最初の字が出てこない。 「ヤバイですよ!」といわれたとたんスランプに陥ってしまった。
 3月15日台風並の強風の中28MHzスイスクァッドを建てるのを手伝いに3人集まってFO局へ。 スランプからはなかなか脱出できず。 いてもたってもいられなくなって3月中旬から休日の早朝練習を始めた。 2nd達がおきてくる1.5Hほど前からCWの練習、朝食後はつとめて家庭サービス。
 27日の朝、右の眼が真っ赤に充血している。 翌日ついにがまんできなくなって眼科へ。 結膜炎だった。 抗生物質の軟膏をベタッとつけて、あとは何にもなし。 次の日かなり楽になったが瞼のうらにものもらいができたようにはれている、気になってCWも不調、送信は手くずれ気味。 速送しないほうがいいようだ。 送受とも遅いペースで調子を整える。 例によって試験のことを考えるだけで胸がドキドキして胃がキリキリする。 相当なプレッシャーがかかっている。 正直なところ、ワァーッと泣き出したいような気分になってしまった。 3月30日、ついに実技試験の前日。 仕事中も精神的なプレッシャーはこれ以上ないくらいに高まり、どうしようもない気持ちで帰宅。


  ここから本稿冒頭の“A”さんからの電話の話につながる。

 Aさんの有線ブレークは本当にありがたかった。 これ以上の特効薬はなかった。 XYLから話を聞いだけで胃がすっかり楽になっていた。
 3月31日いよいよ実技試験の日。 5時50分頃起きて45分ほど朝飯前の練習をしておいた。
 9:30試験開始、和文、欧文の順で受信術のテスト。 ホレはあいまいだった4字位をあっさりすてて脱字にしたが、欧文は楽々とれた。 続いて送信術、順番は最後の方に近い、じっとがまんの子で待つ。
ついに順番がきて、まず和文から、訂正のラタを2回ほど送ったが、どうやら未送信もなく終了。 続けてすぐに欧文、ヤレヤレこれで終わりだと気がゆるんだのか、電文の最初の文字をトチってしまった。 早速HHを送って、初めから打ち直す。 試験官の方を横目でチラッと見ると、前の受験者の符号記録テープを片づけたり、全然関係ないことをやっている。(問題を一字一句完全に覚えているのだろうか?) 途中HHを1回送った(横を向いていた試験官が“うン!?”と首をかしげて雑用の手を止めまっすぐ向き直ってチェックしていた)が、かなりいいペースで終了。
 「どうですか?」と私、「きれいに打てていますよ」とニッコリ試験官。 何となく2アマの時よりチョンボが軽かった感じ。 しかし、とにかく疲れた。 いつも行く工学院玄関前の「コロラド」でコーヒーを飲んでまっすぐ帰宅。 興奮はかなりおさまってきたが、ホレの受信で気づかないチョンボがあったらヤバイな、などと考えると胃がまたキューっとなってくる。 この緊張をほぐすためビールを飲んだ。
 2nd達が寝たあと学科の総仕上げ。 前2期分の問題はまるで無視、「電波と受験」の山かけを参考にする。
春であることをだましている
 ようなエイプリルフール、とにかく寒い。 午前中「無線工学」、“変調率”を求める新しい(?)問題が出て大チョンボ(でも、落ち着いてよく考えたら出来たと思う。国試問題の答えとしては不自然に小さすぎた。)
 午後「法規」、例によってかん違いや説明不足があちこちにある。 ここでも新しい問題が出た。 既出問題集の中で模範解答を見たことはないし、いくら考えても思い出せるものでもなし、あることないこと適当に書いておいた。 1Hほどで提出して帰途につく。 家に近づくにしたがってむしょうに眠くなる。
 完全に落ちた気がしない反面、確実に受かっている自信もない、なんともモヤモヤした気分。 家ではXYLがショートケーキを作っていた。
「前祝いよ、受かったんでしょ!」
 という。 久しぶりに晩酌のビールを飲む。
 4月6日からパソコン教育も、英語研修も、1アマ受験勉強も、何もないごくふつうの生活に戻った。 しばらくは気ままに、花見に出かけて前の車にちょっとさわってヒヤッとしたりして試験の余韻を楽しんだ。
 4月15日(本稿には関係ないが)スペースシャトルが無事帰還した。 HFでは室内ANTでXLやZLがCWで聞こえていた。 4月19日慶応大学のオリエンテーリングに2ndを3人組で「トリム」に参加、かなりいいレコードが出た。
 4月20日CQ誌5月号に国試の速報が出ている。 自覚症状通りチョンボはチョンボだった。 21日帰途、久しぶりにJA1CAJ OMと会う。 国試の様子など話す。 25日モービルの2mANTのエレメントを盗まれているのに気がついて、ガックリ。 これで二度目。(値打ちのわかっているハム仲間の仕業でないことを願うのみ。)
 26日今シーズン最後のワンダラーズのOL大会で、不調だったJK1IDD OMを初めてぬいて規定時間内に走り、1H18Mの自己最高記録が出て初めて公式記録が順位表に載った。
 ゴールデンウィークには広島からXYLの両親、私の父、OMの転勤で近くに越してきた妹の一家が次々とわが家を訪れ、まるで盆と正月が一緒にきたような大さわぎ。
 ところが連休明け、とつじょ父が大熱発、救急車で市民病院へ、そのまま入院。 サイレントキーかとビックリした。 その後3週間は父の看病でXYLと妹はてんてこ舞いでクタクタ。
 5月26日、6m & Downコンテストの旗あげ式が盛大に行われた。 帰途JA1HG OMと1アマ受験、CWのことなど雑談する。
 6月1日7エリアの親友、沢田OMから、中1YMの2ndさんと一緒に今期の国試にパスと、嬉しい有線ブレーク。 6日出張でQSYしてきたOMの合格祝いをカラオケで盛大にやる。
 15日夜、ホレCWによる記念すべき初QSOに成功。(詳細、前出)
 6m & Downコンテストの準備で毎日忙しい中で、会報22号を編集、80数ページの大作となる。
 「’81ハムフェスティバル」の「クラブ報コンテスト」に応募する。 20日JARL広報課へ持ち込む。
 部室の周りではコンテスト移動運用のリハーサル。
 沢田OMと2ndさんの合格祝いにCQ出版の「現代アマチュア無線入門」とJARLの「運用ガイドブック」を贈る。
とっくに6月下旬
 になっているのに電監からハガキが来ない。 毎夜、家に帰って玄関の扉を開けるときドキンとする。 もしやハガキが来ているのでは?と。 26日クラブのSky Meetingのワッチもせず、ちらっと(話のタネに)ノーパン喫茶を冷やかしてみたりするが、ハガキの心配は消えず。
 6月30日、試験場の黒板に書いてあった結果発表の“6月下旬”という日は、たしか今日が終わりのはず。 XYLからはいぜんとして有線ブレークなし。 “待たされるなー”というのが実感。 結果はともかくこの不安感を早くお終いにしたい。
 7月1日昼休み、コンテストに必要な物の買い出しから席に戻ると、となりのYLさんが、家から電話があったとQSP。 “ハガキだッ!”すぐダイアル。 「どうだった?」ときいても「さぁー、どうですかねー」とXYL、じらしてなかなか教えてくれない。
「合格」
 だった。 バンザーイ、ついにやった! と旧研究所前の広場をかけ回った(というのはウソ)。 早速方々のOM’sに有線ブレーク。 QXY OMはじめ近くのOM達には(うれしそうに)ふれて回る。 みなさんから祝福を受ける。 最高に幸せ。 しかし、この目でしかとハガキを見るまで安心できない感じ。 でも、胃のつかえは、いつの間にかどこかへけしとんでいた。(XYLは“1アマ合格”→“TS520プレゼント”の約束などすっかり忘れていた。)
「横浜のJH7PCHですが、
 1アマにうかりました。」とその夜、塩釜のJA7PCH平松さんに報告。 この電話のできる日が何と待ち遠しかったことか。 「おめでとう!」の祝福をうける。 これまでの苦労が一気に解消して行くようだ。
 7月3日久しぶりにW出張から帰国したJA1FOさんにコンテスト準備の進捗状況を報告する前に思わずハガキを見せてしまった。

 
CQ誌7月号の読者のコラムで1アマに受かったJH9CAJというYMが、JA7PCHさんに和文の練習相手をしてもらったというお礼のコメントを載せていた。 JA1CAJ OMは近くの師匠、JA7PCHさんはDXの師匠、その二人が絡み合っているのが面白い。 さらに、このJA9JAJ OMとは、年月が巡って2000年9月横浜のKCJ総会でEye−ball QSOできた。 これまた、奇縁か?
「1アマ合格おめでとうございます。」
 と、6m & Downコンテストの日、JA1CAJ OMをピックアップに行ったときXYLさんから。 嬉しかった。(自分からなにもいわない内に、オメデトウをいってくれたYLさんはCAJ夫人が初めて。 ただただうれし涙。) そしてV1をめざすコンテストも無事終わった。 7月9日ついにどこかの通信会社放出のTTYマシンを買う話に乗ってしまった。 クラブ内の6mマンからは、6mのアップバータを作って6mバンドをにぎやかにしようという計画がQTCされてきた。
 7月12日久しぶりにくつろいだ日曜日、1アマ合格祈願の縁起ダルマの「目入れ式」を挙行。 XYLに写真を撮ってもらう。 どういうわけか気象庁も“梅雨明け宣言”、2nd達をつれてプールへ。 夜は2mのCWで宇都宮から呼ばれて、最長距離の新記録のQSO、「QRMのため10KHz QSY DWN」と、ラバースタンプでないパターンになったりして良い経験をした。 JA1QXY OMから、Keyingを続けながらQSYすると相手がついて来やすいとの貴重なアドバイスをうける。 なるほど!
ついに43才
 になる。 2ndから、あぶり出しのお祝いのメッセージをもらう、7月15日。 でも従免はまだこない。 そろそろきてもいい頃だ。
 18日QXY OMと若葉台と二俣川のOMさん宅を回ってTTYマシンを2台ピックアップした。 米軍横田基地に出入りしている友人にたのんでWからVibroplexのマニュピュレータを直輸入してもらうことにした。
 21日待ちに待った郵政大臣のお墨付き「従免」がきた。 「AAFH4」、ずい分と若い番号がついたものだ。 今年の免許で4番目ということだろうか。 合格通知がついた日に申請していたら1番になったかもしれぬ。 しかし、一生の内でもこれ以上のものはないのではないかと思えるほどの「お誕生日プレゼント」になった。
 「電波と受験」誌の9月号を買っておく。 昭和56年4月期の国試の合格者が出ている。 むつかしいプロの資格の合格者に混じって、各級のアマチュア無線技士のリストも載っている。
ほんまに、もうけたデー!
 というのが合格後の実感。 ギリギリにせよ、スレスレにせよ、パスしたことに変わりないし、従免をもらってしまえばもうこっちのもの。 電話級→(21年のブランク)→電信級→2アマ→1アマ、“一発合格”のストレートで終わらせることができたのは何としてもラッキーだった。 今もって“大マグレ”の気持ちが消えない。
一人でコツコツ
 独学しているつもりでも、よく考えてみるとまわりの人々に有形無形のお世話になっているものである。
 1年以上もCWばかりやってすっかり迷惑をかけてしまったXYLと2nd達。 私をクビにしなかった会社。 CAJ、QXY、QZYの各OMからは折にふれて貴重なアドバイスを頂いた。 通りすがりに「調子はどうだい?」と声をかけて下さったFOさん。 テープやキーまでくれたIDD OM。 キーイングを教えてくれたYG君、SK氏。 練習用発振器を2台もくれたJH7XDU OM、ハッパをかけてくれたJA7ZJRメンバー。 ひまさえあればピーピーやっている私に文句をいわなかった周囲の人々。 そして、私を合格にしてしまった電監の担当官、etc.数え上げればきりがない。
一生ハムを続ける
 からには絶対1アマになってやろうと決心して一年半、幸運にも目的を達成することができた。 重要な会議、出張、合宿研修などの仕事と試験日がぶつかることもなく、何とかやりくりできた。 ほんとうについていたといえる。 2ndと父の入院にはビックリしたが大事にならずにすんだ。 私自身はオリエンテーリングで、ちょっとしたすり傷、打撲傷はあったものの風邪一つひかずいたって健康だった。(1アマ試験日の2日前、片目になったのにはちょっとビックリしたが・・・)
 小さないざこざやトラブルは、いつものようにあったものの総じて運の強い1.5年であったように思う。
口が重くて
 生来“立て板に水”の如くしゃべれないし、頭の回転も速くない私が、いくらCWを練習してみても、たぶんマシンガンのようなスピードでQSOできるようにはならないだろうと思っている。 しかし、たとえ“Slow keying!”でも相手の聞きやすい、内容のある楽しいQSO、“ン! オヌシ ヤルナ!”と相手をうならせるようなQSO、ができるようになりたいと思っている。 国内、海外どこの局とも何の区別もなく。
ありがたい、ありがたい
 はげまし(や、冷やかし)のお言葉を、いろいろな人々から沢山頂いた。 これによって、どんなに気持ちが落ち着き、新たなファイトがわいたことか。 その一部(HP無料メモリの容量の都合で)を皆様にご紹介して感謝の意を表すことにします。

語録その1: 何はさておき、JA7PCHさんからの有線ブレーク。 「明日はがんばって下さい」(1アマ実技試験の前夜)

語録その2: 「給料がなくなるわけじゃなし、しょせんはアソビの資格じゃないの」と叔母の強烈な一発。(これで、そりゃそうだと、2アマの合否の悩みがけしとんだ。)

語録その3: 「自分の採点より、点はとれているもんですよ」とYT君。(そんなもんかなぁと気が楽になった)

語録その4: 「四十の手習い」・・・正しくは“六十の手習い”、ひまさえあればピーピーやっている私に、まわりの口の悪い連中から。 しかし、本来(冷やかしではなく)これは「何事も習い事を始めるのに、もう遅いということはない」という意味。 なんとありがたいオコトバではないか。

語録その5: 「アマチュアには、こんなにきれいにCWを打つ人はいませんよ」と、(たぶん、いや、やっぱりおせじか冷やかしだろうが)仁賀君。 しかし、のりやすい私は、これですっかり自信がついた。
この手記もついに
 終章をむかえてしまった。 「上級ハム」になりたいがむつかしいのではないかと思っている人に一言「あなたも必ず1アマになれますよ」といっておきたい。 とにかくやる気になってみて欲しい。(プロの“1通”(*)のCWは、たしかに“だれでも”といえるほど甘いレベルではないように思う。 但し、決して不可能ということではない。)
 年令、手先の器用さ、運動神経、記憶力、etc.どれをとってみても“ダメ”の原因にはならない。 ホレで楽しくQSOできる日がきっといつか来ると信じていると、必ずこれがかなうものです。
 夏のボーナスでXYLはIC290を合格祝いにプレゼントしてくれた。 これで2mは、3Wから10WにQROできるし、あくびをしている1.2Gアップバータの親機にもなる。
 これからはのんびりと気ままにHam Lifeをエンジョイしようと思う。 Slow Keyingで、イモー!といわれようが気にすることはない。


 <面白くもない手記を最後までお読みいただいた各位に感謝します>

     AM QRU NW ES HPE CU AGN ES UR FB DX, 88 ES 73 ・・・−・−


註(*) この手記を書いた頃は、まだ通信術の試験には、送信・受信の実技がありました。 最近はプロの方から、電信が完全に消え、アマチュアだけに受信のテストが生き残りました。
 最初にこの記事を書いてから早いもので20年以上もたってしまいました。 この記事に続いて「電信修行小習い事」という記事をつぎの号の会報に載せたところ、CQ出版の編集子の目にとまり、「CQ Ham Radio」に12回の連載を書くことになりました。 この記事を通じて全国の実に色々な人から「あの記事が参考になった」とか「年令のハンデを乗り越えて上級ハムに受かった」とか、身に余るメッセージを沢山頂戴しました。 大正生まれの大先輩や不幸な事故で車椅子生活を余儀なくされている同年代の方など、多くのすばらしい人々とのすてきな出会いがありました。
 この記事を通じての新しい出会いは、なんと20年以上たった今でも実現しています。

 CQ誌の記事の方は、CQ出版に無断でHPに載せたりはできないと思われますので、「中年1挑戦記」の方を、復刻版として掲載しました。
  (記事はCQ誌のバックナンバーでご覧下さい)

2001年4月の出来事
 先日珍しい人から大変嬉しいメールをもらいました。CQ誌の連載記事やアマハンの原稿を書いていた頃CQ出版の編集担当者だったOMからでした。
 「電信修行小習い事」の著作権は私にあるということで、自分のHPに転載してもなんら問題ないというサゼッションでした。
 でも、全部HPに入力するのはいつになるかわかりませんのでやっぱりバックナンバーでみてください。

 ちなみにCQ誌のバックナンバーは、1982年7月号〜1983年6月号です。

 Many thanks, JH1UNS OM


 JA7PCHさんとは、JLRS総会の会場におしかけて、アイボールQSOもしましたが、お空の方ではまだコンタクトできていません。 これは私の努力が足りないだけです。
 全国CW同好会(KCJ)への入会に際しては、推薦者の1人になっていただきました。

 CQ誌の記事はまた別の実に意外な展開があり「JARLアマチュア無線ハンドブック」の改訂プロジェクトに参画する執筆者の仲間に入れていただきました。 どなたか先輩OMの推薦によるものとしか、わかっていないのですが大変に名誉なことでした。
  (「CWの覚え方」を担当しました。 本屋さんで立ち読みして下さい。)

               (2000年10月10日記す)




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