ほう みょう 法 名 |
生前法名が当然なんです!
まず、「法名」がないと、『あの世』にいけないとか・・・・・決して、パスポートでは在りません。
生きている間に付けると、「縁起が悪い」なんてのはとんでもない大間違いです!
この人生を、「仏教を心のよりどころとして生き抜きます」と、
生きている間に仏門に帰依して頂くのが「法名」です。
つまり、お釈迦さまの弟子にさせていただくということなんです。
※だから、釈○○とお釈迦さまの「釈・しゃく」の字が付くんですね!
※仏門に帰依するための儀式を、『帰敬式』(ききょうしき)といいます。
※専能寺では「ご本山参拝」の折に、本願寺において『帰敬式』を受式いただいております。
「戒名」(かいみょう)と「法名」(ほうみょう) |
「戒名」とは、出家して仏法に帰依し受戒した者がいただく名前のことです。
出家とは、俗世間を捨て厳しい戒律(かいりつ)を守って生きていきますと云うことです。
※生きている間に一つも戒律を守れなかった人にも戒名をつけるのでしょうか?
浄土真宗では「受戒」いたしません。ですから「戒名」とは言わず「法名」と言います。
だからと言って、戒律を守らなくていいと言うことでは在りません。
在家(ざいけ)の信者が、戒律を守って生きていくことは不可能だと言うことです。
そうなんです、浄土真宗は在家信者の仏教教団なんです。
※浄土真宗では、お坊さんも在家信者、ご門徒さんも在家信者なんです。
「在家」ってなに? |
普通に生きている人たち。
結婚します。(しなくともね!)
家族を持ちます。(持たなくてもね!)
お魚・お肉を食べます。(食べなくともいいけれどもね!)
家族を守る為なら何でもします!?。(中には家族を大事にしない人も・・・)
悩み苦しみの耐えない世界に生きています。それを娑婆(忍土・耐え忍ぶ)世界といいます。
とても聖人(せいじん)には成れないのが、在家の信者です。
※浄土真宗のお坊さんが、髪の毛を生やしているのは在家の証。
例えば、生活する為にどうしても『不殺生戒』(ふせっしょうかい)を破らなくてはいけないのが私たち。
※例え自分が殺さなくとも、誰かに殺してもらったものを食べているわけですから罪は同じです。
※親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」とおっしゃっています。(すべての煩悩が備わっている私)
『一念多念証文』には、「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、
臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと〜 お示しになっています。
「法名」本題です |
長ければ良いというものでは在りません!
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、『釈親鸞』(しゃくしんらん)と二文字なんですから、
それ以上長い法名を欲しがらないで下さい。
『院号』は、ご本山に対し多大なる貢献をいただいた方に本願寺より下付されるものです。
決して、いくらかお金を出して買うものではありません。
死んでから家族に心配させない為にも、
生きている間に「帰敬式」を受式して法名を頂きましょう!
※ちなみに私は約20年前に得度(ぼーさんになった)して、釈一之(しゃくいっし)という法名です。
※死なないでしょ!?縁起も悪くないでしょ!?大丈夫ですよ!
浄土真宗のお坊さんは、基本的には在家信者です。
※親鸞聖人は「非僧非俗」と仰っています。
それでは、お坊さんとご門徒さんの違いとは何でしょうか?
※以下、私の個人的見解を記しておきます。
◎私(釈一之)は僧侶ですが、自らの生き方が僧侶にふさわしい生き方をしているから僧侶だとは思っていません。
こういうことを言いますと、「真宗の坊さんは単なる登録上の問題」とあざ笑う方がいらっしゃいますが・・・・・、
私は、個人的には浄土真宗本願寺派のご門主に許されて浄土真宗の僧侶としての活動をさせていただいていると受け取っております。
浄土真宗本願寺派という「宗門(しゅうもん)」は、単なる体制・組織ではなく、親鸞聖人を師と仰ぐ仏弟子の集団。
宗門は、全国各地の仏弟子(門信徒)からのお布施により護持されています。
では、何のために宗門を護持するのか?それは私たち仏弟子の教化育成の為と言って過言ではないでしょう。
その宗門のお陰で、私たち(僧侶・門信徒)は仏教を学ばせていただく事が出来るのです。
◎僧侶も門信徒も同じ仏弟子ですから、法名にも差が無くともに「釈〇〇」の二文字。
そこに、ご門主より教えを伝える(お取次ぎする)側の役割が与えられたのが僧侶。
親鸞聖人を師と仰ぐ仏弟子(門信徒)を、全国や世界各地でお預りしているのが「お寺」。
住職が門信徒をお預りしているのではなく、お預りしているお寺に「住」して「職」を遂行するのが住職の責任。
もし「住職」としての職務・責任を遂行できず、門信徒の皆さんに「出て行ってくれと」言われれば出て行くしかないのです。
お寺とは、仏弟子達が建立し長い年月をかけて護持発展させてきたもの。
お寺を護持発展させてきた門信徒の寺なのですから、それぞれお預りしているご門徒さんに教えを伝えるのが僧侶の勤めと考えます。
ですから、「お寺」とは決してお坊さんの住居ではなく身近にもうせば「門信徒みんなの寺」なのです。
「門信徒みんなの寺」、当山専能寺にとっては至極当然のことわりです。
だからこそ、一人でも多くの門信徒の皆さまにお寺に集ってもらわないと勿体無いとの思いから、
「仏教壮年会」や「正信会」、「仏教婦人会」や「土曜スクール」などを組織し活動しているのです。
それは、住職一人が培ってきたものではなく法をいただいた門信徒一同が作り上げてきた「かたち」に他なりません。
お寺とは、私たち(仏弟子=門信徒)一人一人が「南無阿弥陀仏のみ教え」を聞かせていただく「念仏の道場」に他ならないのです。
◎師である親鸞聖人のような生き方の出来ないこの私が、ご門主の許しを得て僧侶の格好をさせていただいている。
誰から見ても僧侶の格好をしているから、皆さんに「お坊さん」と見ていただける。
もし篤く尊く見られるのであれば、それは私の生き方が清らかで尊いからではなくひとえに「袈裟・衣」のお陰であると。
それは、これまで袈裟衣を着ていた方々が「ありがたかった」からではないか?
つまりは、お釈迦さまから代々、身近には親鸞聖人に導かれた僧侶方のお取次ぎの歴史のお陰といえると思います。
◎ご法話の時にも申しますが、決して私の話が尊くありがたいのではなくて阿弥陀さまの「願い・はたらき」が尊くありがたいということ。
ここを間違ってはいけません、浄土真宗の僧侶は仏さまでもなければ菩薩さまでもないし、聖者でも何でも無いのですから。
私の生きかたや志が尊くありがたいのではなくて、親鸞さまの生きかたや志が尊くありがたかったから
私達僧侶はお坊さんの格好をしているだけで「篤く尊く」みられているのではないでしょうか?
いや、例え誰一人「篤く尊く」みていなくとも袈裟衣を身につけさせていただいている以上私自身が「お敬いの心」を忘れてはいけないと思います。
◎確かに、浄土真宗では「志」があれば誰でも僧侶になれます。
しかし、そこに袈裟衣の力(お取次ぎの歴史)を軽んじる姿勢があったのでは勿体無い事です。
「私は志が尊いから、生き方が尊いから袈裟衣をつけても構わないんだ!」という傲慢な態度では私は聖者なんだと胸を張って宣言しているようなもの。
それでは、在家仏教といいながら「私は門徒と違う!」「僧侶は本来生き方や志が違うんだ!」と自ら門徒との間の敷居を高くしていることに他なりません。
「宗門の力」を借りず、「袈裟衣の力」を借りず、自らの志し一つで勉学布教活動をするのなら話は別ですが・・・・・・・・、
袈裟衣を着用しているから信頼され、聞く耳を持っていただけるとすれば必然的にお敬いの心が生じるはず。
敬いの心が育まれないとすれば、そこには「私は違う」という差別の心が自身の中にあるからではないかと思います。
◎誤解を恐れず言いますと、私は「せめてお坊さんの格好をしている時ぐらいちゃんとしよう!」と考えて行動しています。
わらわば笑え、隠したって隠し切れない、私はそんなお坊さんです!
許されて生きています、許されてお坊さんとして生きています。(称名)
平成15年1月31日(金)釈一之