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沖縄(娘達)・沖縄(孫修学旅行)・三宅島(孫)・軍艦島(友人)


=夏・おきなわの海=2011年8月28日記


娘達二家族とじいちゃんばあちゃん総勢11人で海や高原で夏のレジャーを楽しんだのも今は昔の話、
今年の夏は部活や受験で忙しい孫達は留守番隊、 自分たちの楽しみを持ち始めた娘2人が小学生孫を連れて
お盆の混雑も一段落した8月19日〜22日沖縄へ出かけた。
混雑のない海・手の届く所で泳いでいる青い魚やウニ・シュノーケリングツアーなどで沖縄を満喫したようだ。
私が沖縄へ行ったのは後にも先にも1度だけ 2年前オフシーズンの2月で天気は曇り続きでエメラルド色の海は見られなかった。
写真を見せてもらい沖縄のきれいな海を再認識した。









=夏・おきなわの海A=2011年9月4日記


水納島(みんなじま)のシュノーケリングツアーに参加したときのDVDが送られてきた。
道具も全て借り装着もインストラクターの指導で安心して潜ることが出来た。
3人で手をつないでと言われたときの写真はなかなか良かった。私も一緒に出掛けた気分になりました。
上の写真は動画の一部を静止画にしました。下のマングローブカヌーはべつの場所です。





=どんど焼きと沖縄修学旅行(孫)=2011年1月16日記

1月15日(土)M小学校前の田んぼで行われたどんど焼きです。
学校ぐるみPTAぐるみでやっているので子供や父母など大勢集まってくる。
どんど焼きの火にあたったり、焼いた団子を食べれば、その1年間健康でいられるなどの言い伝えもあり、
皆団子を刺した棒を持って火の勢いがおさまるのを待っている。
私は丁度仕事帰りにそばを通るので写真を撮ることが出来た。
( 右端の写真は、二宮神社境内 どんど焼き用やぐらは2つ 15日朝6時の点火では朝寝坊の私は出掛けられなかった。


高校2年生の孫の修学旅行は3泊4日沖縄旅行1/12(火)〜15(土)ポケモンの飛行機に乗れ富士山を上空から撮れたのはラッキーでした。

帰ってきて初めに話し出したのは「糸数壕ガマ(自然洞窟)の見学の話」
真っ暗洞窟も体験し65年前の悲惨な現実を 現地現場でのガイドの説明に今時の高校生達もショックを受けた様子。

玉城村糸数にある全長約270mの病院壕。当初陸軍壕や住民の避難壕として使用していたが、
戦況が激しくなるなか4月下旬より病院壕として使用される。1000名近くの傷病兵を収容していたという。
5月下旬撤退命令によりひめゆり部隊等は砲弾のなか南部へ向かう。

自力では歩行できない傷病兵は毒薬を盛られ、叉は置き去りにされた。
その後、壕に残った敗残兵や住民等の壕内での避難生活は8月下旬まで続いた。
傷病兵の治療も薬品等の不足にてままならず、麻酔せずに手足を切り落とすこともあったとのこと。
戦況の趨勢が決したのちも、投降の呼びかけには応ぜず(応じれば敗残兵に殺害される)、米軍は火炎放射等の攻撃を行った。
現在も火炎放射の黒焦げの跡、及び爆風の跡等あり。(那覇市戦跡線案内より)

天気も案外よかったようで海の写真もきれいだった。



=三宅島(孫の写真)=2010年12月26日記


高校生孫が植樹ボランティアで三宅島へ行ってきた。
11月18日金曜日夜出発 20日 日曜夜帰着 あわただしい2泊2日の三宅島だった。
肝心の時に雨が降ってきて植樹は出来なかったが、噴火の痕跡をしっかり目に焼き付けてきた。

↓2000年噴火の泥流で埋まってしまった神社・かろうじて鳥居の頭だけが残っている。





そして天候のせいでめまぐるしく動く雲の様子に目を奪われたようで大空を写した写真が多かった。




↓海に沈む夕日


↓三宅島全景 帰りの船から写す14時30分頃



=軍艦島へ行ってきた(友人の写真)=2010年12月19日記









11月21日(日)
友人Sさん、先月九州へ出掛け「軍艦島(端島)」に行ってきたという。
私は軍艦島の話はテレビのニュース等で知ってはいたがはるか長崎県、簡単には行けないところなので写真を見せてもらった。
風や波次第で上陸できない日が多く上陸出来たのはラッキーだったとのこと。
上陸できても見学出来るコースはごく一部分だけだったがガイドに話を聞き巨大な廃墟群に圧倒されたと友人の感想。

 長崎港から南西に19qの沖合に位置する端島(はしま)、南北に約480m東西に160m、周囲1,200m 小さな海底炭坑の島です。
 塀が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが建ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから 「軍艦島」と呼ばれるようになった。

 端島では1810年頃石炭が発見され小規模な採炭がされてきたが1890年三菱合資会社の経営となり 本格的海底炭坑として操業開始。
 出炭量が増加するにつれて人口も増加、狭い島で多くの人が生活するため1916年日本初の鉄筋コンクリート高層集合住宅が建設された。
 最盛期には約5,300人もの人々が住み当時の東京都の9倍もの人工密度にまで達した。
 エネルギーの需要が石炭から石油に移ったところで出炭量も人口も徐々に減少し、1974年1月に閉山した後4月に無人島になる。
 炭坑閉山後永い眠りについていた「端島」ですが、2009年4月から一般公開が許可される。(軍艦島パンフレットより抜粋)