〜講演会から〜

「21世紀の福祉と医療を考える−生きる意味を問う−」
横須賀基督教社会館 館長
阿部 志郎 さん
1998年11月28日(土)コンパルホール 文化ホール

【敬老と棄老(きろう)・棄児(きじ)】  
  昔々山奥の村で年寄をいけにえとして捧げる風習がありました。とうとう村に年寄が一人もいなくなりました。集会場を作ることになり、たくさんの丸太が作られました。しかしその丸太の木の天地を見分けられる人がおりません。これを逆に建てると大きなたたりがあると言い伝えられておりましたので、村人がはたっと困りました。そこに一人の若者が「もしこれから年寄を殺さないのなら、木の天地を見分けられる人を連れてまいりましょう。」と申し出ました。村人は「以後年寄をいけにえにしない」と約束をいたしました。若者は密かにかくまってきた自分の祖父を連れてまいりました。この年寄が村人に木の天地の見分け方を教えました。
 この民話に敬老(年寄を敬う)という思想と棄老(老人を棄てる)という矛盾した二つの考え方が混ざり合っております。敬老と棄老、その葛藤が人類の歴史でもあり、それは同時に私どもの日本の社会の歴史でもあります。昔から長老・元老・家老と老人を大事にしました。「親に孝行しろよ」と言って、老人を敬うことを教えられました。だのに「うばすて」と呼ばれる地名は信州のみならず全国に何箇所かあります。伊豆の大島には通 称ですが、「ばばころがし」「じじながし」という地名が今でも残っています。日本のお年寄は棄てられる前に家族や地域のために自ら命を絶ちました。自殺です。現在自殺は少なくないのです。去年 24,400 名の方が日本で自殺をしました。昔は若者が自殺をすると言われましたが、現在は60歳以上が35%を占めます。騒がれている交通 事故死の2倍なのです。この老人の自殺は世界のトップクラスでして、特に女性の自殺率は世界第2位 という高さになります。昔から年寄の自殺は伝えられて今日に至ってます。  
 子供は子宝と大事にされてまいりました。跡継で、将来の労働力でもありますので子供を可愛がり大事にしました。しかしその子供もまた棄児、棄てられるのです。私は青森県の出ですけれども、ある村に参りますと、身代わり地蔵という子供地蔵がたくさん立っております。村の住民の数よりも子供地蔵の方が数が多いのです。その地蔵のほとんどは天明・天保の時の地蔵なのです。天明・天保は日本の飢饉の時でした。明治38年は東北の凶作でした。21,000人の子供が棄てられました。棄児、棄て子です。この棄てられた子供達を保護するために全国の孤児院が東北に参りまして、その子供達の救済をしました。宮崎の茶臼原出身の石井十次は、岡山の孤児院の経営をしてましたが、東北から823名の子供を岡山へ連れて帰りました。国の補助が全く無い時代にその子供達を含めて1,200名の孤児を養っております。孤児院に養育されました子供が2,100名。即ち10人の子供のうち9名は今もって行方不明です。  
 年寄・子供には敬う、大事にする思想が流れてまいりましたが、敬うという思想が全く無いのが障害者なのです。老人と子供は大事にする。しかし障害者に関しては敬う考え方は歴史の中に全く現われてまいりませんでした。なぜ敬老思想の中に棄老が入り込み、繰り返し繰り返しそれが行われてきたのか? 昔は封建制度ですから、徳川でいいますと280の藩に日本が分れてました。そして自然村、いわゆる村がほぼ7万ぐらいありました。一つの村に大体400名ぐらいの人々がいる平均になります。封建ということは今のように災害が起こったら全国から救援が集まるというのではない。その地域は自給自足で、全てをその中で解決をしなければなりません。貧しい時代ですから、食べる人の数が決まっています。戸数が決まっています。例えば橋本・エリツィン会談をしました初島は昔も今も戸数は一定です。これを超えますとその人は島を出なければならないのです。食べられる数が決まっているところに凶作が襲ってまいりますと、食べる物が無くなるわけです。飢饉です。そうすると後に生き延びる人と犠牲になる人に分れます。犠牲になるのは働く能力を持たない人。働ける者は稼ぎ手ですから残る。年寄・子供・障害者がその犠牲になってきたのです。  
 徳川時代、ほぼ270年、実に不思議なことに人口の移動がほとんどないのです。人口はほっとけば増加をするものなのです。明治に入りまして、3千万人の日本の人口が、今日1億2千5百万まで増加し続けております。しかしそれまで270年間に人口の増減がないことは何らかの人口的操作が加えられたということです。即ち年寄が棄てられ、子供が棄児になる。それは貧しさのためでした。全国貧しさのゆえに大事な子供まで棄てられるということが起こったのです。  
 太平洋戦争が終わって、貧しさを克服いたしました。それどころか今は豊かな社会になりました。豊かな社会になって衣食断って礼節を私どもがわきまえたかどうか? 豊かになってそれでは年寄が本当に敬老、大事にされているのか? 私の友人が孫と一緒に電車に乗りました。電車は空いておりました。孫が「おじいちゃんは、あっち。」指差した先が、シルバーシートです。シルバーシートは敬老のために設けられたと言われてますけれども、シルバーシートは電車の一番隅っこで一番よく風の入ってくる所にございます。「年寄はみんなの邪魔にならないように隅っこでそっとしておきなさい」ということではないかと、私は勘繰って、シルバーシートには坐りません。やはり老人になったらどこか社会から隔離しておこうという思想がないわけではないだろうと。若い人々が老人に対して3Kという言葉を使います。3Kは本来若い人々が、きつい、危険、きたない、仕事はしない、在日の外国人にやらせるという、それを老人にあてはめて、老人に3Kがある。臭い、汚い、くどい。これを若い人々が老人の3Kといって敬遠している。子供達は年寄を臭いと申します。川柳に「老人は 死んでください 国のため」とある。年寄が多くてやりきれないと。いいかげんに年寄に消えてくれないかという、そういう感情が国民の中にあるわけで、老人が必ずしも敬老思想に基づいて大事にされているとは言いがたいという現実があるのかと思います。

【戦後の経済成長から取り残されたグループ 】
  戦争が終わって豊かになった。どうやって私どもが豊かになったのか? 昭和33年に日本は初めてアメリカに車を輸出をしました。30台の小型車をアメリカに持っていったのです。この車がアメリカの高速道路に乗れませんでした。ダッシュする力がありませんで、ヨタヨタヨタヨタ入り危険でした。高速に乗っても当時アメリカの高速道路は100km以上で走ってましたけれども、それについていけないのです。すぐに故障しました。実に評判が悪かったのです。この時持っていった車がトヨペットですけれども、アメリカで何と言われたかというと、トイペット、toy(おもちゃ)だと笑われたのです。年とともに車に改良を加え、アメリカに一年240万台の車を輸出する年がまいりました。飛ぶように売れるのです。あまり売れてアメリカの自動車産業を脅かし貿易摩擦を起こしました。以来日本は自主規制をしてます。30台の評判の悪い車から200万台の飛ぶように売れる車へと発展をするのに要した時間は20年でした。この20年という時間の短さ、スピードの速さを経済成長の上にわざわざ高度とつけて高度経済成長と表現した。しかしながら20年という時間は短すぎました。短いが故に無理が起こるのです。矛盾が生じるのです。それが今私どもの社会に影を落としております。
 こうした工業化を進めるにはいろいろ条件があります。例えば港湾を整備しなければなりません。原料を運びこんで製品にして搬出をする。そのための産業道路、高速道路、新幹線、航空機、交通 手段も必要です。昔から鉄1トンに水10トンというのですが実際に車を一台作るのに100トンの水がいる。この工業用水が確保できるのか? 水がなくて苦労している地域がたくさんあります。代表的なのが沖縄県です。しかし何といっても一番大きな要素は労働力です。働く人がいなければ工業は成立をしません。ところが日本の工業は誰でもいいとは決して言ったことがないのです。三つの条件があります。第一は若くて力があって、長持ちする。第二は教育を受けた人。第三は低賃金で働ける人。この三つです。この三つに該当する人を若年労働者と申しました。 若年は中学の新卒を言ったのです。中学を出たばかりですから、これから力を出して長く働いてくれる。私は戦争中に造船所で働きました。不勉強にして青写 真が読めないんです。私は正直に言って今でも青写真が読めない。ところが今日本の工場で働いている人はみんな青写 真を読む。こういう国はアジアでは数えるほどしかありません。教育力がそこまで高まりました。そして中学の新卒ですから安く働いてくれるということで、先を争って若年労働者を捜しました。工業圏にいないのです。例えば京浜工業地帯の横浜で申しますと、毎年8万から9万という新しい労働者を求めました。ところが地元が供給しえた若年労働者は4,500名ぐらい。なぜいないかというと、高校進学が始まったんです。戦争前は義務教育の小学校を終えて中学に進学した人々は20%に達しませんでした。それが戦後中学までが義務教育になり、さらに高校へと進学をしていく。現在は97%が進学をします。そして大都市圏から始まりました。大都市圏は工業圏でますので地元にいない。そこで地方へ地方へと若い人を求めて出ていきました。集団就職という形で、この若い人々に工業圏に来て働いてもらったのであります。この頃若年労働者のことを「金の卵」「月の石」「ダイヤモンド」と呼んで貴重品のように扱いました。なぜなら一人の中学の卒業生に対して求人が平均20件あったからです。  
 この時取り残される子供が出ました。それが障害児です。障害を持った子供は工場で働けないだけでなく学校に入れませんでした。障害児が就学権を得て学校に入れるようになったのは昭和54年。戦後34年という長い時間を必要としたことを忘れることができません。障害児を学校に入れなかった。隠れた理由は障害児に生産性が無いからです。日本の社会が要求したのは働ける人間。障害児にその能力は無い。おいてけぼりにしました。  
 もう一つ大きなグループが出てきた。これが老人です。戦後の日本の復興のために一生懸命働いた。しかし年をとった。年を取るということは労働能力の喪失ですから日本の社会に用がない。そのままにしました。しかしその数があまりにも増え、問題が深刻になって火を吹いたのが老人問題です。即ち人間の価値を何によって決めるのか? これは非常に難しい大事な問題です。人間というのは何の故に価値があるのか? 私どもの社会は明治の時代も大正も昭和も戦後も労働力というのが大きな条件です。明治になってヨーロッパに追い付くために作りました日本の政策が富国強兵殖産興業。産業を起こして豊かな国を作り、それを軍隊で守るのが、太平洋戦争に至るまでの日本の政策です。戦争に行って戦える人間、工場で働ける人間がいつも優先しました。戦前は男は20歳になりますと兵役の義務を負いました。そして軍隊に入って戦争に行きます。戦争に行って負傷して帰ってくる。これを私どもの時代は傷痍(しょうい)軍人という言葉で表しましたが、その前は廃兵(はいへい)と言ったのです。廃する、棄てる意味です。軍人でさえも戦闘能力を持たないと棄てられたのです。  
 戦争後今は私どもの社会を支配している原理は何か、何によって人間の価値を決めてるかと申しますと、力、富、生産力、効率、知能、学歴そして血筋、家柄、生まれ、これが人間の価値を決める根本なのです。こういう中から老人も障害者も脱落をせざるを得ない宿命を負ってまいりました。

【民主主義思想】 
  棄老という考え方に対して抵抗力としての大きな思想がございます。これが民主主義思想でした。民主主義という思想には二つの柱があります。一つは最大多数の最大幸福という目標。少しでも多くの人が少しでも幸になる。極めて福祉的な表現です。最大多数の最大幸福、この思想から出てまいりました政治の方法が多数決です。一人の王様が決めるのではない。人民の多数が賛成をしなければ決定できない。こういう原理を持ち込んだわけです。多数決になれば極めて民主的と言われます。多数決とは民主的ですけれども、その多数がしばしば横暴になります。政治の世界で申しますと少しでも多数を取ればいい。政党が付いたり離れたりして多数を確保しようといたします。多数が集まれば全体を支配できるのです。これが欠陥なのです。多数が全てを取り仕切る。少数者がないがしろにされることが起こりがちです。  
 そこでこれにブレーキをかけるもう一つの原理が民主主義にあります。それは人間は一人以上にも一人以下にも数えられないという考え方であります。一人以上でもなければ一人以下であってもならない。あくまでも人間は一人として数えられる。中津の福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらず。」と巧みに表現しました。人間はあくまでも一人。これが医療・福祉を貫く理念です。人間は誰であれ一人。人格という意味でございます。  今から約450年前、この地で日本で最初のヨーロッパ式の社会福祉施設が作られました。子供の施設です。作ったのがアルメイダ。今でも記念病院が残っています。アルメイダが子供の施設を作りましたところ、たちまちごうごうたる非難を浴びた。何を非難されたかというと、アルメイダは武士の子、町人の子、農民の子を一緒に平等に育てたのです。それは当時の身分社会においては許されざることでした。そこでみんなが非難をした。しかしアルメイダはそれを通 しました。これが福祉の理念だからです。武士の子であろうと農民の子であろうと誰であろうと子供はあくまでも一人。人格として尊重するという思想です。  
 この考え方を政治の方法に表しましたのが一人一票主義という方法です。選挙をする時に総理大臣のように権力を持っていても私のような庶民でも一票しか与えられない。総理大臣だから一万票あげるとはいわない。総理であっても一票、私も一票、これは一人という考え方から出てきたのです。こういう一人の人間を大事にすることから医療・福祉は出発してまいりました。

【長寿国日本】
 さてこうした民主主義の思想を太平洋戦争が終わって私どもは受け入れ、日本はだんだん経済的に復興し、大変豊かになりました。それがどこに現われてきたかといいますと、人間の寿命がその一つです。私どもの寿命がわかってますのは、明治24年からで、42歳でした。その42歳であった寿命が太平洋戦争が終わった昭和20年に何歳になったか? 皆さん方が毎日見る顔がある。今日もご覧になったと思います。毎日見てる顔があります。それでいてよく見たことがないという顔がある、この顔でございまして、私が手にしているのは千円札。毎日お使いになってる千円札。今日もお出しになったに違いない。でも誰が写 っているのかしげしげご覧になったことはあまりないと思いますね。この千円札に写 っているのは夏目漱石です。私と同年輩かなと見えるんですよ。夏目漱石が死んだのは49歳でした。これが昭和20年に到達した日本人の寿命です。50歳を越えることができませんでした。五十数年かかって7年寿命を延ばした。それが太平洋戦争が終わってぐんぐん寿命が延びて、現在男性が77歳になりました。77.19歳という寿命です。女性は83歳。83.82歳で、もうすぐ84歳になります。そうすると男性と女性の間に6.63歳の開きがあります。昔は男女の開きが2歳ぐらいです。今は最高でして6.63歳開きました。もっと開くと思います。なぜ男女の間にこんな開きがあるのか? 理由はよくわからない。いろいろ言われますけどよくわかりません。しかし少なくとも女性の方が生命力は男性よりもたくましいようです。結婚の平均年令において男女に3歳の開きがあります。単純に申しますと、ご主人が亡くなって奥さんは9年ないし10年、一人暮らしをする計算なんです。現に一人暮らしをしている人の85%が女性です。男性は一人暮らしができない。ヨーロッパでは、例えばデンマークでは75歳以上の方で男性で一人暮らしをしている人が30%を越えてます。でも日本ではようやくその半分ということで、一人暮らしは女性問題であります。  
 今私どもは世界の最長寿国、男性が8年、女性が10年、世界記録を持ち続けている。なぜ50年の間に30年もかって歴史に例がないほどの寿命を延ばすことができたのか。これは言うまでもなく豊かさだと思います。豊かですから昔のように餓死することはなくなりました。戦中、戦後に悩まされた栄養失調で倒れることもなくなりました。結核は昭和51年まで死亡原因の最高でしたけれども、今はずっと低くなりました。貧乏病です。医学が進歩し、抗生物質ができ、感染症がなくなり、そして延命も可能になってまいりました。案外お気付きにならないと思いますけれども、赤ちゃんが死ななくてすむようになったのです。昔は千人赤ちゃんが生れると約165名死にました。この中に棄児も入りますけれども、165名死んだ。世界で赤ちゃんが一番乳児死亡率が高いのがアフリカでございますけれども、300名を越えてます。アジアではバングラデシュやネパールは80名を越えてる。先進国はだんだんそれを低くしました。アメリカが千人の中で9名で、日本はそのアメリカの半分以下で4.3人という世界最低の記録を実は今日本が作っている。赤ちゃんが死ななくてすむ。そこで年令が全体的に持ち上がる。こういう理屈でして、寿命が延びたのです。  
 けれども何と申しましても寿命をこれだけ延ばすことができた最大の理由は太平洋戦争が終わってから今日まで私どもは戦争を経験しないからです。太平洋戦争を起こす時、日本は国家予算の47%を戦争に投じ、総力戦と申しました。そこで国民は食べる物がなくなったのです。当時相手国のアメリカは国民総生産が日本の12倍ある大国でした。そのアメリカが日本の戦争に使ったのは5%です。勝てるはずがありませんでした。この軍事費を太平洋戦争が終わってから私どもは使う必要がなくなったのです。今国民総生産で申しますと防衛費は1%、その代わりに14%を社会保障に使えるようになりました。社会保障は年金・医療・福祉で、ほぼ15%ぐらいになってまいります。私どもとしては当然だという感覚で受け止めますけれども、アジアの大きな貧しい国インドが今使っております軍事費が14%、福祉に使える金は1%しかありません。ちょうど日本と逆になっています。インドと核実験を争っておりますパキスタンは軍事費がほぼ40%近いのです。こういうことから考えますと私どもが戦争をせずに防衛費にもそれほど金を使わない。そのおかげで長生きすることができるようになったのでして、平和、これだけはこれからも守らなければなりません。

【高齢社会】
 寿命が延びてだんだん高齢化してまいりました。老人福祉法ができたのが昭和38年。この年に百歳を越えた方が153名おられました。去る9月15日に百歳を越えた方が 10,158名です。倍増どころではありません。これが高齢化のまことに喜ばしい現象です。高齢化、それが少子化という現象を伴ってまいりました。今から30年前、今日のような高齢社会、少子化、子供が減るということを予測できた人はいなかったのです。それほど急激な変化が起こってまいりました。私は6人兄弟で男で四番目ですから志郎というんです。さっき私を紹介して下さった小野寺さんも6人兄弟。今ここにいらっしゃる若い方はそんなにたくさん兄弟いらっしゃらない。5人、6人、7人はごく普通 でした。私の学校の先生は十郎と申しました。十番目でした。兄弟の数が多いほど昔はえばった。私は尋常小学校に通 いました。国民小学校のその前です。70人学級編成でした。現在は一学級平均28名、昔は70人いた。それだけ子供が多かった。私が子供の時は人口の約37%を子供が占めてました。そして4%がお年寄りだった。37%の子供がいてその一番のトップに5%の老人がいるという、ピラミッド型の人口構造であった。それがだんだんだんだん変わってまいりました。  
 昨年の6月に日本の歴史で画期的な出来事があった。何が起こったかといいますと、老年人口、老人の数が 15.5 %になりました。それに対して14歳以下、これを年少人口と申しますが、子供の人口が 15.4 %になった。おわかりのように子供と老人の数が逆転しました。今は老人が2千万人を越え、2,049 万という数が老人です。36%対5%という老人と子供の比率がだんだんだんだん変わり老人の方が子供を上回る。そうしますとこれからの人口構造は子供の数が少なくて老人の数が多いという逆ピラミッド型になってまいります。どう見ても不安定です。この不安定になっていく人口構造をどうやって安定化させるかが日本の大変困難な政策課題です。  
 5%であったお年寄がだんだん増えて1970年、昭和45年に7%を超えた。年寄の割合が7%を超えた社会を国連が高齢化社会と申します。高齢化社会に入った。さらに延び続け7%の倍、14%を超えると国連が進行形の化を取り高齢社会という。日本は高齢社会に移りました。この7%から14%に倍増するのにフランスは115年かかりました。スェーデンは85年。それを日本は24年でやってのけたのです。ここに高齢化の急激な増長がある。その結果 どういうことが起こってるかと申しますと、対策の立ち遅れです。ヨーロッパが時間をかけて高齢化の問題を考え、それに対する政策を作ってきた。日本はそれを3分の1から5分の1でしなければならない。どうしても間に合わない。これを何とか追い付かせようと懸命でございまして、こういう中から皆様毎日新聞でご覧になる介護保険という制度が出てきたのでして、一つのあがきです。私どもはこういう大変難しい場面 に立たされています。しかし寿命という言葉は寿という字ですから大変おめでたい。不老長寿という人類始まって以来の願いを少しずつ叶えつつある。大変嬉しいことでございます。

【老人問題】
 ところが高齢社会になることは喜んでばかりいられない現象が起こってきた。年寄が多くなる。そうした中でまず日本の社会で出てまいりました問題が一人暮らしという問題でした。昭和43年に寝たきりの方が20万人いると発表になって世間がショックを受けた。それが老人問題の始まりでした。今はその10倍いらっしゃる。寝たきりはだんだん数が増えてまいります。そして痴呆性、惚ぼけ。調査によりますと65歳を過ぎますと5%弱惚ける。85歳を越えますと25%弱惚ける。幸か不幸か、誰が惚けるかわからない。だから「自分は惚けない。惚けるのは人だ。」とこうお互いに思っていますけれども、誰かが確実に惚ける。しかもアルツハイマーに至っては原因が全くわからない。この原因が解明されるのは2010年頃だろうと科学技術庁が言っております。そして自殺。こういう問題を老人問題と呼ぶようになりました。世界どこの国も困っているだろうと、ご想像になると思いますが、そうではありません。世界の3分の2以上の国に老人問題はない。寿命が短い。まだ30代という国もあります。老人の数が少ない。その数少ない老人が昔ながらの家族、地域の中で守られており、問題として浮かび上がらない。老人問題は老人の問題ではありませんで、社会の構造が産み出す問題です。社会問題です。この社会問題に苦悩してますのが、ヨーロッパ・アメリカ・日本。換言すれば、文明が高くなり、豊かになった国の矛盾として老人問題が現われてまいりました。  
 老人問題の上にさらに新しい問題が私どもに喚起されるようになりました。いわく、男女産み分け、胎児チェック、体外受精、代理出産、遺伝子組み換え、脳死、臓器移植、安楽死、聞いたこともない言葉が次から次へと、私どもの前に投げ出されてます。生命倫理といわれる問題です。ご注意いただきたいのは、これらの問題、どれ一つとして解決していない。解決できないのです。これらの問題は「人間いかに生まれるか? いかに生きるか? いかに死ぬ か?」っていう問題です。人生80年になって混迷を続けているのが現状です。この延長線上に論議されてまいりました問題が「老い」です。「老い」は今から十年前までは議論したことない。今は新聞でもよく特集が載っております。

【「老い」からの逃避】
 お釈迦さんが若い頃、シッタルダといいました。インドとネパールの国境沿い、ルンビニーという所で生まれました。大分県よりもはるかに広い領地を持った領主の息子であり、シッタルダ王子と呼ばれました。城の中に暮らして滅多に外に出る機会がありません。ある日たまたま町に散歩に参りますと、街角で見慣れぬ 人に会います。その人は腰が曲がり、杖をつき、頭の毛は落ち、顔はシワシワ、目はショボショボ、口からあぶくを吹きながら、何事かブツブツつぶやいている人で、びっくりした王子が「あれは誰か?」と聞きますと、馭者が「老人でございます。」と答えました。これがシッタルダが初めて目にした老人像でした。シッタルダは「若さの無知と傲慢のゆえに老人について見たことも考えたこともなかった。しかし自分自身、未来の老いの姿ではないか? 人生の喜び、楽しみが何になろう、さあ帰ろう。」城に取って返したというエピソードが今日まで伝えられてます。お釈迦さんになる人ですから生老病死、生きて病気になって、そして死を迎える、老いを迎える、これら人生の四つの苦難と取り組み悟りを得たのです。年35歳でした。釈尊と呼ばれるようになりました。悟りを開いた人という意味です。私たち凡人はこうはいかないのです。私たちは老いを見て見ぬ 振りをして、その傍を通り過ぎようとします。  
 今年は私は中学に入って60年目でございました。中学のクラス会を毎年してます。だんだん数が減ってまいります。中学のクラス会をしてますと、時に10年ぶり、20年ぶり、先日は50年ぶりという友人が現われるわけです。その友人といろいろと挨拶をします。「お前、いつまでも若いなあ。元気そうだなあ。なんか秘訣があるんだろう。」と挨拶をする。心の中では(こいつどうしてこんなに老け込んだんだろう)と思ってるんですよ。お互いそう思ってる。私たちは鏡を毎日見てますから自分の変化には気がつきません。しかし何十年ぶりかで見る友達は老けてる。人間は自分だけは年を取らない。そういう願望と錯覚を持っており、年を取るのは人だと思い込んでいる。  
 こうした私どもの心理があるわけで、老いの現実から逃げ出したいという衝動に駆られるのです。なぜ老いの現実から私どもが逃げ出そうとするのか? 人生を二つの坂道にたとえて考えてまいりました。登り坂と下り坂。子供から青年になり働き盛りの壮年になります。しかしいつのまにか山の頂に達するのです。社会的には定年という時です。長らくこの定年は55歳でした。それは人生50年時代の取り決めです。人生が80年まで延びましたから、定年のあと10年、20年、30年と生きなければなりません。この生き方がわからないのです。なぜなら日本の社会がかって経験をしたことがないからです。もっと人生の山を登りたい。周りを見回す。登り坂一本見当たらない。そこにあるのは下り坂ですから、やむをえず下りを降りるのです。できるだけゆっくり降りようとするのですが、下りですから、つい足が速くなる。これが老人心理です。その下り坂の一番の麓に死が待ち受けています。死に向かって降りていく道ですから、光がささないのです。たそがれ道です。この下り坂を老いと呼び、そこをとぼとぼ麓目指して下っていく人を老人と呼び習わしてまいりました。だから老いのイメージが暗いのです。だれしもこの下り坂を降りていきたくはありません。若い人だけではありません。年寄も同じ。老人の自殺は老いの拒否です。

【登り坂の人生観】
 さてこの人生の道は登りと下りという二本に分れているのかどうか? アメリカの老人センターを訪問しましたら、ちょうど街の老人クラブの方々が勉強会をしておられました。22〜23名の小さなグループでした。真中に中年の紳士が一人坐ってまして、聞きますと街の弁護士さんでした。椅子を丸く並べてアメリカのお年寄たちですから、ジョークを飛ばしながら大変賑やかな勉強会でした。しばらく傍聴させてもらいました。私は内心びっくりした。それはその勉強会のテーマで、遺言の書き方の勉強会でした。私は長いこと老人クラブの世話をしておりますけど、かって死に関連するテーマを取り上げたことがない。これは私のところだけではありません。実は日本の全体の老人クラブは700万を超える方が会員になってますけれども、死の問題を取り上げるのはタブー視してまいりました。深い意味はない。理由は簡単です。死にまつわる主題が出ますとお年寄たちは「縁起でもない」と言って来てくれない。それだけの理由でやってない。それをアメリカのご老人たちが明るい雰囲気の中で学習をしておられるのに私は驚いたのです。  
 もう一つ感心したのはその老人クラブの名前でした。「人間的成長」と名付けたクラブです。遺言の書き方を学ぶのは死の準備をすることです。死の準備さえ人間的成長の一環として捉えることができることを学び、感銘を受けました。ここにおける人生観には下り坂がないのです。登りただ一本です。登って登って登り詰めたところが死なのです。聖書に「白髪は栄えの冠である」と書いてあります。白髪が出て年をとった。老いは栄えの印ではないか、栄光の象徴である。その栄光を目指して最後まで歩きつづけなさい。聖書に「汝、死に至るまで忠実であれ。さらば汝に命の冠を与える。」と書いてある。死に至るまで歩き続けなさいよ、そしたら冠を与えよう。下りを想定せず登り一本。この道を登りきりなさい。ところが山は高くなるにしたがって道は険しくなります。八合目を越える、胸突八丁を越えることは大変です。しかも登っていく方は心身ともに衰えていくのです。そこで仏典はこう教える。「今や白髪の生じ来たれば、まさに学道の時なり」白髪が出てきて老いてきた。その時こそまさに学道、勉強する時だという。人間最後の最後まで学ぶ心を失ってはならないという教えであります。  
 恐らく二、三日前に大分県で老人の介護支援の専門員の試験がございまして、その発表があったはずです。恐らく大分県でいうと1000人から1500人ぐらいが私の想定では合格されたと思いますけれども、87歳でこの難しい試験に合格をされた方がいらっしゃいます。先日アメリカで97歳の女性が高等学校を卒業しました。この方は小学校3年までしかいってない。あとは弟、妹の世話に追われた。88歳を越えてから小学校、中学校、高等学校と過程を修め、97歳にしてめでたく高等学校を卒業なさった。学ぶ心を失っていらっしゃらない。そうしますと人生の一番最後、一番の高みに死がある。ということは私どもの持っている世間の考え方と少し違う。私どもの場合には下り坂の山の一番低い麓の裾野に死を置いてまいりました。奈落の底を覗きますから恐怖です。この死をけがれと考えたのです。死は忌むべきものです。  
 私が若い時に友人が結核で死にました。その結核で死ぬ間際に友人を見舞に参りました。その時に二人の大人が私を引き止めまして「行くな」。理由は「結核で死んだ人の側にいると結核の気が一番近い人に乗り移る。だから行くな。」って言われました。死に近付くな。昔お弔いを出します時にお棺を玄関からは決して出さなかった。縁側から庭に出し、庭で三回転させた上で野辺送りをしました。道に迷って帰ってこられないようにするのです。再び帰ってこられないように。子供の時に教わりましたのはお弔いのある家の前を通 る霊柩車に出会う。その時に親指を中に入れて手を握れと教わった。今でもしていらっしゃる方がいらっしゃいます。悪霊を追い出すというまじないです。死にとりつかれないように死の霊にとりつかれてはならない。できるだけ遠ざかる。しかしどうしても葬儀に行くことで近付かなければいけない時は後で塩をまいて清めるのです。これが私どもの死の観念でした。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」精舎で僧侶が亡くなると角の鐘を突いて鳴らして、知らしたのです。それは諸行無常、まことに空しい。その淋しさを表したのでございまして、それが私どもの中に伝わってまいりました死に対する観念だったと思います。

【死を山の頂に】
 この一番低い所に置いてきた死を山の頂に置き換えることができるかどうかが、私ども一人一人の人生の宿題です。できるのか? いかにすればできるのか? これを一番の頂に据えない限り、今日論じておりますターミナルケアとかホスピスという概念は成立いたしません。それは死を一番の高みに置く思想なのです。先ほどご紹介いただきましたけれども、私はハンセン病の療養所で働いていらっしゃる看護婦さんに出会って、出会ってといいましてもお会いしたのは15秒か20秒か、一言も言葉を交わしていない。ただその方の姿とその方の行為を見ただけ。名前も知らなかった。でもそれが私にとっては出会いだった。それが私の人生を変えました。私もこの看護婦さんの後をついていこうと密かに決心したのが福祉に入る私の動機でして、またとない巡り合いだったと思ってます。その方の名前がわかったのがそれから7年後でして、私はそれからいろいろと教えを受けるようになりました。この方が1989年に92歳で亡くなられました。亡くなる2日前に同僚の人々、部下の人々、看護婦さんその他、病室に集まりました時にこう言った。「皆さん、世話をして下さってありがとう。私はこれからいい所に行くのだからみんな喜んでちょうだい。」これが遺言でした。「いい所に行くのだから喜んでちょうだい」と微笑みを浮かべながら亡くなった。いい所、それは恐らく天国を指すのでございましょう。天国に招かれていくのだから、みんな喜んでちょうだい。その望み、その光を見たがゆえに死に向かって最後までこの女性は人生を歩き続けることができたのであろうと思います。私どもにとって死は私どもの人生でどこに位 置づけるのか? その死をどう受け入れていく? その死に向かってどういう歩みをこれから私どもがしていくか? 私どもの人生の課題なのではないでしょうか?   
 百歳を迎えた方のお祝いを特別養護老人ホームでしました。お年寄・家族・職員が集まってお祝いをしたのです。私にとっての問題はその方がお祝いをされてることがわかったのか、わからないのか、が私にどうしてもわからない。そういう問題が生じましたけれども、みんなで喜びを分かち合いました。その二日後にこの方が亡くなりました。その方の死顔を見て美しいなと思った。実に平安な死顔でした。この方が97歳の時に痴呆になられ、それが暴力を伴いました。物は投げる、障子の桟は壊すで、家族がどうすることもできませんでした。特別 養護老人ホームでお預かりをしました。この暴力が三ヶ月で取れました。これがケアということでございましょう。私は寮母たちに心の中で頭を下げました。そういうことがございましたので、その方の死顔を見て、本当に美しいと思った。その時私は直感的に感じたことがある。それは百歳のことを上寿(じょうじゅ)と申します。皆さんは白寿までは御存知です。99歳、白寿。白寿を過ぎて百歳になりますと上寿と申します。上寿は事が成就する、事が成れりという、その成就に通 じているというのが私の直感でした。この方の人生は百歳において完結したという意味でございます。  
 人間、いつ死ぬかわかりません。子供の時に死ぬ人もおりまして、先日私は4歳の子供の葬式に参りました。いつ死ぬ かわかりません。誰にもわかりません。しかし何歳で死のうと死はその人にとって人生の完成でありたい。死に至るまで自分自身の人生の成熟、完成に向けて歩き続けなければならないのではないか? そのことは私はその百歳の方から教わったのです。

【現代社会の問題点】
 しかし今私どもが置かれております社会の現実は大変厳しいものがあります。1980年頃から不確実性の時代という流行語が生まれてまいりました。ベストセラーです。日本でも不確実性。不確実性とは先が見えないんです。今立っている足元さえおぼつかないという不透明にして不安定な状態を不確実で表し、不確実性の時代が来たと申しました。以後どうでしょうか? 石油ショック、狂乱物価、バブルで地上げ、バブルが破綻、経済不況、金融不安、組織犯罪、構造汚職、次から次へと事件が続いており、今日なお私どもは不確実性の中にいる。明日円がドルに対していくらになるか、わからない。突然暴落するかもしれないし、高騰するかもしれない。見えない。明日が見えないという状態の中で、私どもがどういう生き方を選んできたか? 一つは現世幸福主義です。明日への希望が無い。それなら今楽しみたい。明日でなくて今日幸福でありたいという欲求です。さらにマイホーム主義。マイホーム主義のことをある精神医学者が要塞家族と申しました。家族の周りに砦を築いて人を中に入れようとしないし、自分も外へ出ていこうとしない。内へこもってしまう。今年正月三が日に初詣に出かけた方が8,700万人という記録を作りました。初詣というのは元々仏教では悔過(けか)と申しまして五穀豊穰を祈願するセレモニーでした。初詣においでになる方々が様々の願をかけます。願い事を持っております。安心立命、家内安全、商売繁盛、無病息災、いろんな願い事を持っている。それらの願い事は自分と自分の家族の幸を願うのです。この時に人の幸福を願い、世界の平和を祈れる方がどれだけいらっしゃるか? 不安定な社会の中で私どもは自分の中へ自分の中へとこもってまいりました。こういう中で様々な問題を生みだし、今私どもはその問題に直面 をしております。  
 3年前にタイに日本から児童問題調査団が送られました。専門家のグループです。その調査団が帰ってきてからの報告をうかがいました。その一節にこう言ったんです。「タイには登校拒否の子がいない。」文部省の発表によりますと昨年小・中でこの不登校、登校拒否をしている子供が10万4千名いる。一説によるとその十倍いると言われておりますけれども、大変多くなってまいりました。その子がタイにいない。いない理由をあげました。第一にタイには進学競争がない。塾もない。第二にタイには子供が伸び伸び遊べる自然がある。第三、家族がしっかり子供を育てている。第四、地域が子供を守っている。第五、タイには仏教が生きている。大変私は感銘を受けました。ここにアジアのタイと私どもの大きな開きが起こってまいりました。私たちの子供はどうでしょう? いじめ、暴力、虐待、不登校、最近は学級崩壊という様々の問題に子供が苦しんでいるんです。  
 私のおります神奈川県で鎮守の森が 2,850 ありました。16年前に県が調査したところ鎮守の森と呼べるのは42しか見当たりませんでした。2,800 から40へ減らしてしまった。それは鎮守の森をつぶして工場を作り、住宅に変え、駐車場にしたからです。そのおかげで経済発展ができました。鎮守の森、単なる物理的空間ではなく、そこは子供の遊び場であり、大人がお祭りをし災害の時の避難所であるだけでなく、村社会のシンボルでした。それを私どもが無くしたのではないか? 即ち町も私どもも心のよりどころを失ってきたのです。  私がおります横須賀はちょうど大分市と人口が同じでございまして43万の街です。数年前大変困った教育問題にぶつかりました。子供たち中学生が学校に弁当を持って参りますのに、箸を持ってこない生徒が出てきた。教師が「箸を持ってこい」と言うと、「俺は箸無くても食えるぞ」と開き直られました。これを教師たちは何と言ったか? その箸を持ってこない生徒は弁当箱にかぶりついて食べるもんですから、これを犬食いと言いました。公立中学25校全部に広がったのです。来週あたりからテレビその他ではやります芝居は忠臣蔵です。一番評判のいい芝居であります。忠臣蔵に花見の茶屋という場面 があります。大石内蔵助が茶屋遊びをし、酒に酔いしれ市井の人が足蹴りにした食べ物を四つん這いになって食べる場面 です。内蔵助は敵討をする意志を持っていないことを表そうとしました。私たちはパン無くして生きることはできません。衣食住、基本的欲求は充足されなければ生活できないのです。しかしそのパンはいかなる形でも提供されればよいというものではない。私どもが望めるパンは権利としてのパン。権利はもともと自分に属するもので手にしようと思えば手にできるものを申します。今私どもは権利としての最低生活が憲法によって保障されております。人が上から下へ投げ与えたものを犬のように四つん這いになって食べたいとは、あのひもじかった戦中・戦後でさえ誰一人願わなかった。それは人間の心を失うことを物語るからであります。動物と人間は違います。動物は下を向いて餌を捜してさまよい歩くのです。餌を得ることが動物の生きる目的です。人間はどんなに貧しくなっても衣食住を得ることは目的になりえないのです。衣食住を手段にしてより高い人生に向かって歩もうとする存在が人間です。犬食、それはゆたかさのゆえに飽食のために手段であるべきパンがいつのまにか目的化したのではないか? 言い方を換えれば生きる意味を見失ったのではないかと恐れるのです。それは中学の問題ではありません。私ども全体の問題です。

【人生を取り上げる】
 こういう今日の状況社会の中で悩むのが年寄です。年寄の問題、様々ございます。大変深刻なのは体の問題でしょう。体を治す、病気になって治療を受ける、これを cure キュアと申します。cure は元々キュレイという言葉から出てまいりますが、キュレイは大変興味深いのは牧師っていう意味です。心のケアと体のケアとは一つ。そういうことでございましょう。ところがだんだんと専門が分化してまいりました。医学、学会だけで300を超えると言われております。どんどんどんどん細かくなってまいります。そして近頃は高度医療でので、検査が中心です。昔のように先生が聴診器で聴診をすることをしなくなりました。私ども患者は先生が聴診器で触れてくれるとそれだけでほっとしたものですけれども、今は数字を読む。こういうことに変わってきているわけでして、医学は命を追及してまいりました。この人間の命を少しでも延ばす。これが医学の責任です。延命。しかし人間をあまり見ない。外科の手術をするのに次から次へと患者が運ばれてきて医者は患部を切り取っていく。その患者の顔を見ない。こういうことが起こる、一つの物体として扱われる。命を考えてまいりました。  
 福祉は生活を取り上げた。人間の生活、貧しい、豊か、家族がいる、いない、その生活。医学は命、福祉は生活。何が欠けていたかというならば人生でしょう。life は命であり、生活であり、同時に人生です。人生そのものを扱うということを今までの医学、福祉はあまり考えてまいりませんでした。この人間の持っている人生そのものを取り上げていかなければ、これからの医療も福祉も成り立たなくなってくると思います。  
 こうした中にホスピスが生まれてまいりました。医学は人間の命を永らえさせることでございますから、ホスピスは医学の敗北です。もう死を予期してそこに入るんですから、敗北です。人間にとってわからないことは、いつ、どこで、どういう状態で死ぬ か? 誰にもわからない。いつ、どこで、どういうふうにして死ぬのか? 選択できないのです。しかしその選択できないぎりぎりで選択をするのがホスピスです。最後に自分の選択でホスピスにお入りになる。  
 人間の死を三つに分けるとしますと、ある学者の説でありますけれども、第一の死、第二の死、第三の死。第一の死は自分自身にとって究極の死。これは自分の死。第二は家族や友人が嘆き悲しむ。これが第二の死。第三は冷静に科学の対象として死を扱う。これは医学です。医学はできるだけ科学的に合理的に死を扱わなければなりません。医学が扱ってきた第三の死を第二の死に変えようというのがホスピスです。みんなで取り巻いてその中で死を迎えていただこうと。ホスピスは死を待つところではありません。人間の生を完成させるのに、ご本人だけでなく、医者も看護婦も牧師もソーシャルワーカーもボランティアもその苦しみを一緒に分かち合おう。肉体の痛み、これを緩和するので緩和ケア病棟と呼びます。肉体の痛みを取るだけがホスピスの目的でなく肉体の痛みは心の痛みを伴うのです。心の痛みは人間に絶望をもたらします。この心の痛みをお互いに分かち合う。これがホスピスです。こうして人生の最期をご自分の決断、自分の選択において迎えるという、その場を提供するのがホスピスでございます。

【孤立と孤独】
 年をとって何がつらいかと申しますと、一つは孤立することです。社会的孤立。もう一つが孤独です。阪神淡路大震災。被災をした方々が仮設住宅に移りました。今なお1万4千世帯が仮設です。この仮設住宅で孤独死をなさった方が260人いらっしゃる。中のお一人は10ヶ月見つかりませんでした。一人で黙って死んでた。これが孤立です。自殺をした方が40名を超えました。今神戸で困っております問題の一つはアルコール依存症の増加です。アルコール無くして不安を紛らわすことができない。不安という問題が私ども全体が持っている共通 問題です。孤立をしたくない。この孤立を人間から守る。その営みが福祉です。福祉が充実をしてくれれば相当程度私どもは社会的孤立から免れると思いますが、まだまだでございましょう。孤独、これが人の手では守れないのです。  
 私の友人がサラリーマンの生活を終えまして会社を辞める二月ぐらい前から仲間や部下たちが毎晩のように飲みに連れていってくれた。そして退職の日を迎えて社長から辞令をもらい、若いお嬢さんから大きな花束をもらって家へ辿り着いたら午前2時。一人で帰れませんで、部下三人が抱えてご機嫌で帰ってまいりました。一晩寝た。翌朝目を覚まし、愕然とした。起きて行くところが無い。昨日までごく自然に会社に足を運んだのに今日行く宛てがない。手帳は昨日まで予定でびっしり。今日から空白。会う人がいない。これほど孤独を感じたことがないと申した。役割がない。予定がない。人間の孤独は予定がないっていうことです。存在そのものが喪失をしていく。だから孤独です。存在感の孤独です。これをどうやって乗り切るのか? 予定と申しました。予定を作ることです。明日友達に会う。ボランティア活動をする。町内の世話をする。掃除をする。全て予定であり、役割であり、参加でございます。学習も必要。

【無為】
 しかしこうした中で私は昔の人を思います。江戸時代、三無主義がございました。三つの無い。三無。三無は第一はムラ。ムラは空き地をさします。空き地は多い方がいい。第二はムダ。ムダな時間を作れ。第三、ムイ。何もしない。これを三無主義と申しまして江戸時代はこれを尊重しておりました。無為は何もしない。無為徒食っていう言葉で呼ばれます。有為(ゆうい)、為す有り。これはいい言葉ですね。社会的には有為の青年といいます。有為。これを仏教では有為(うい)と申します。有為は作られたものでございまして、いつか消える。人間も社会も国家もいつか滅びる。有為です。限界がある。これに対して無為は作られたものでないものを申します。絶対なるものです。この無為の世界があって初めて有為の世界が意味を持つ。これが仏教信仰でございましょう。キリスト教はこれを時間と永遠という言葉で表します。昔の人は夕焼を見て西方浄土を思った。今私どもはそのゆとりを持っているか? 無駄 を持っているのか?   
 南の島から東京へ来た人が東京の印象を聞かれました。きっと、コンピューターとか地下鉄とか高層ビルと答えるだろうと思っておりましたら、その人はこう言った。「東京には空がない。東京では星が見えない。」痛烈な言葉でございます。今私どもは空を仰ぎ星を見るというそれだけの余裕を持っていないのです。あくせくあくせく不安の内に暮らしております。「黄昏が去る時日の光では見えざりし空には星が満ちる。」ロングフェラーという詩人の言葉です。昼間は見えない。私ども地上のことばかりに追われてております。  
 しかし老いが来て黄昏が来て空を見上げると満点の星です。これを見上げる私どもが心の広さ深さを普段から持たなければいけないのではないか? それが無為ということでして、私はそういう中で自分自身が人生を見つめ、自分の生きる意味を考え、自分が果 たすべき役割をそこから見つけていく。そういう生き方をしなければ死を人生の頂に置くことはできないのではないかと自分自身に言い聞かせております。  
 特別養護老人ホームで一人のお年寄が亡くなりました。寮母にこう言った。「この次生まれ変わる時には世話をする人になりたい。」6年寝たきりで世話になった方の切実な遺言であります。今度生まれ変わったら世話をしたい。私どもが健康を与えられて、人のために何かし、人を助け、人に仕え、人と人が触れ合って共に生き、共に育てられ、共に美しい社会を作っていく。それは何という喜びであり、人間的栄光なのではございませんでしょうか。