〜講演会から〜

「カーテンコールが終わるまで−やさしい死生学−」
 死生学者 作家
波多江 伸子 さん
1997年12月13日(土)カトリック海星幼稚園

 初めまして波多江でございます。私は福岡で「ファイナルステージを考える会」という会の世話人をやっております。終末期医療や最期の過ごし方に関する市民の思いを集めて、その思いを実現する市民運動です。「大分・生と死を考える会」もそういう市民運動ということで、私は今日この会に招ばれて非常に心強く思っています。というのは私は10月に「死の臨床研究会」という、死の問題に関する学会の中では日本でたぶん一番大きくて歴史のある学会だと思うんですが、それに参加するために名古屋に行ったんです。参加者が4500人という、めったにないくらいの大きな学会なんですね。テーマは「市民運動と緩和ケア」で、市民運動が全国でどうなってるかという話をみんなが発表したり検討したりすることが中心でした。あっちこっち、いろんなところで市民運動が盛んになって、そして自分たちのホスピスを作ろうという運動がすごいんです。また佐賀県には佐賀県立病院好生館というのがあるんですが、そこに緩和ケア病棟、ホスピス病棟ができて平成10年の2月にオープンします。「市民向けのホスピスフォーラムがあるから、ちょっと来て下さい」といって呼ばれて、こないだそのフォーラムに行ったばっかりなんです。そこで「どういうふうにして佐賀県立病院にホスピス病棟ができたのか」ということを聞いてみましたら、一番最初は市民がホスピスを作りたいということで、いくつかのグループが集まって、そういう運動を進めてきて、県とか行政に対してどんどん働きかけたら、行政の方でも「そんならやろうかな」と言ったのか、あるいは初めから「私どもがやります」と言われたのか知りませんが、とにかくその『作ろう』という側と『作って』という側の希望が合致したんですね。それで佐賀県には佐賀県立病院好生館の緩和ケア病棟が出来たというわけです。  
 ところで皆さんどの程度死ぬこと関係の話に詳しいですか? ちょっと教えて下さい。今まで死ぬ こと関係の専門家といわれるのは医療関係の人たちですよね。それから宗教関係の方。でも宗教関係の方もあんまり臨床的に亡くなっていく人のベッドサイドでお話を聞くということが少なくなりました。最近では私は講演の前に聞いてらっしゃる方の構成とか年齢とか、それから職業とかを知るのが趣味でして、教えて下さい。聞いてみると医療者が六割ぐらい、市民の方が三割ぐらいと、あと役員の方が一割ぐらいの構成のようですね。  
 私がやっておりますのは、「死生学」です。死生学というのは何か聞き慣れない言葉ですね。皆さん聞いたことありますか? 死生学、サナトロジーと英語で言いますが、サナトロジーをそのまま訳しますと死学になるんです。でも死学というと聞いた感じがあんまりよくないということと、それから死と生というのはセットなんですね。ワンセットになってて、生まれてこなければ、命もなければ死もないわけです。こちらの会の名前も「生と死を考える会」というふうになっております。だから死生学というふうに訳されております。  
 私が死生学とどうして出会ったかということをちょっと話させて下さい。何でこういうことを始めたかというと、別 に大した理由はないんですが、小さい頃からうちの母がすごく神経質で、ちょっと熱があったりお腹痛かったら白血病じゃないかと騒動する人で、私は死に対する恐怖を小さい頃からしっかり植えつけられたんですね。母自身も友達が亡くなったりしたら、その最期の様子を聞いて来ては私にものすごく恐ろしそうに話すわけです。それで小さい頃から死ぬ のが怖い人間になってしまったのです。私もちょっと咳が出れば肺癌じゃないかとか、そういうふうにおそるおそるの人生を過ごしてたんですね。そこで哲学をやれば、昔の人はこういうことを死について言ってたとか、ソクラテスは従容として死刑場に引かれて行ったとか、そういうことを勉強して、「死とは何か?」がわかれば死ぬ のが怖くなくなるんじゃないかというような、そんな考え方で死についての研究を始めたんです。
 先ほどご紹介がありましたけど、大学院で助手になって研究者として死の問題をやっておりました。その後結婚して帝王切開で子供を産んだときに私の甲状腺に癌が発見されました。死ぬ のが怖い人が癌になってしまって、しかも赤ん坊抱えて、そして手術が終わって物を言おうとしたら声が出なくなってるんですね。私のこの声は実は腹話術の声なんです。喉の反回神経っていうのが麻痺してますので、今までの呼吸法を変えて片方は使わないように、使わないでも残った方の神経がまたもとに近く動くような訓練をしました。訓練をしたっていっても誰も教えてくれたんじゃなくて、みんな自分でやったんです。今では先生が手術前に「結果 こうなるかもしれませんよ、もしかして声が出なくなるかもしれませんよ」っていうようなことを説明しないといけないようになってるんですが、その当時は17年前ですが、インフォームド・コンセントというか、説明は全然ありませんでした。手術の前に「30分か40分で手術が終われば良性なんだけども、悪性の場合はリンパ節の郭清をするので、時間かかりますよ」って言われました。手術後私がリカバリールーム(回復室)で目が醒めて、ひょっと見たら先生がいらっしゃるんで「すみません私の手術はどれくらかかりましたか?」と聞こうとしたら声が出ない。びっくりして「どうしたんでしょう?」って聞いたら、「あなたの手術は4時間以上かかりました。」と言われたので「それじゃやっぱり癌なんですか?」と聞いたら「そうです」と言われたんです。「転移したリンパ節が反回神経に巻きついていて、それを剥離するのに時間がかかりました」と、そのへんは随分詳しいんですけれども、そんなこと後で言われてもと思いました。もっともこの声が出なかったということと、癌の手術を体験したということは、私が今やってる死生学に非常に大きな深み、輝きを与え、その動機、きっかけになったと思うんですね。大学で研究者として文献学的にやってきた、つまり理論家であった私が、臨床家に変わってしまったんです。臨床家に変わるっていうことは、死んでゆく人たちに教えてもらって、実際にお付き合いしながら看取りつつ学びつつというふうな研究の仕方に変わっていったんです。  
 一番最初に非常に苦労したのは亡くなっていく人たちと出会うことでした。昔どの病院に行っても、例えば大学病院なんかに行って「亡くなっていく人がいたら私に紹介して下さい。お話をどうしても聞きたいんですが。」と言うと、ドクターたちが「うちの病院では人は死にません。」て言われるんですけど、その病院で亡くなった人のお葬式に何度も行ってるんで、あれはなんだったんでしょうね、というようなそんな感じだったですね。でも16年前というのは死の問題に触れることがタブーだったんです。最近変わりましたよね。本屋さんに行くと死ぬ こと関係の本がずらーっとありますよね。「死に方のツボ」とか「死に方の極意」とか、「私はがんで死にたい」とか、いろいろ本があるんですよ。それでたぶん皆さんもマスコミや出版物や新聞などを通 して死の問題に慣れてきた。アレルギー反応を起こさないで「やっぱり、これは社会問題じゃないか? 自分の問題じゃないか?」と、ここで話を聞いておられるんじゃなかろうかと思います。死がだんだんタブーから解放されていったということですが、私も亡くなっていく人たち、私の友達であるとか、私の親であるとか、私が最期まで付き合うことを許された人たちから一生懸命学ばせてもらいました。今はなぜか知らない方から「波多江伸子さんに最期は看取ってほしい」という電話がかかったり手紙が来たりして駆け付けるというようなこともしています。  
「ファイナルステージを考える会」
 今日は亡くなった方ではないんですが、元気だとも言えない私の相棒の小山ムツコさんと一緒にやっている「ファイナルステージを考える会」について少しお話したいと思います。福岡市でやっている終末期に関する市民運動なんですけども、お手元の資料「余命六ヵ月からの楽しみ」の中の「出会い」をちょっと御覧下さい。「余命六ケ月からの楽しみ」ってとっても変な題ですよね。「余命六ケ月になって、だいたい人間が人生を楽しめるのかしら?」とそう思われるでしょうが、だからこそ楽しめる。余命六ケ月でも楽しめる。そういうふうなことを私どもの会は一つのコンセプトにしてやっているんですが、これは西日本新聞に今連載をしているものです。週一度ずつ私が中心になって会のメンバーで書いてます。私どもの会の代表世話人である小山ムツコさんという方は乳癌の患者さんで、それが骨盤に転移してすかすかにレース状になってて、そのために骨折したり、それから足にも肋骨にも転移してて、今はもう車椅子じゃないと動けない。彼女は非常に天才的な患者なんですね。ものすごくいろんなことを思い付いて実行して、自分をみんなに見せる。全部開いて見せる。ですからその一つとしてNHKテレビが彼女の日々をずっと追っていて、これは「大分・生と死を考える会」で、勉強会に使われたらしいんですが、「私が作る私のホスピス」というNHKのテレビ番組になりました。自分で作った自分のホスピスで納得死をしたいという彼女の思いをずっと追ったものなんですね。小山さんていうのはイベントプランナーで元アナウンサーなんですね。とにかくあの人と一緒にいると必ずテレビ局がいる、新聞が来てるというようにマスコミの人がいつも周りにいる感じで、彼女自身「私の最期のイベントは私の死である」と言っていますので、私は横でうろうろしながらお手伝いしてるというような状況なんです。そのテレビ番組は彼女が作りたいと思ってたホスピス病棟がちょっとうまくいかないような感じになってたというところで終わったんですが、体しんどいのにいろいろ交渉して努力してホスピス病棟ができあがったんです。半月ぐらい前にそこに入所して入所記念の大パーティーを開いて楽しい一時を過ごしました。昨日、講演会のために退院してきたとかいうようなことを言っておりまして、彼女を見てたら死ぬ っていうようなことに対して持ってた先入観が全部ばらっと変わる。ドクターたちも「脳味噌がぐちゃぐちゃになってしまった」と言われるくらい非常に独創的なことを考える人なんです。ものすごい勉強になります。しかも小山さんという人の痛みはモルヒネが効かない痛みです。モルヒネが効く痛みは今かなりコントロールされるんですが、骨転移した骨の痛み、神経を圧迫する痛み、神経に浸潤する痛み、筋肉の痛みとかにはモルヒネが効かないんです。モルヒネが効くと楽なので使ってはみたけれど、ただ眠くなるばっかり。意識が低下するのに痛みは残ってる。それで清水先生がペインコントロールを担当して今は完全に除痛できないながら、社会の第一線で活動しています。私たちの会の出会いはすごくラッキーなんですね。私は死生学の専門家ですね、それから小山さんは末期癌患者ですよね。それからペインクリニックの痛み止め専門の清水大一郎っていうドクター、この三人で作ったのですから、最強の組み合わせだと思っています。しかも小山さんはイベントプランナーですから、すごい思い付き、ひらめきがある。それでまあがんばって広くやろうということで、私どもの会は発足して4年目ですが、小山さんは4年間末期癌患者をやってる。これは本当はおかしいんです。大体末期癌ていうのは余命半年をいいますけれども、どのドクターに聞いても、「これでどうして生きてるの?」っていわれるくらい、何年経っても末期癌患者なんですね。非常に不思議な人なんです。学歴詐称という言葉がありますけれど病歴詐称じゃないかといったんですけれども、三人ぐらいのドクターに診てもらって、「やっぱりこれは末期癌だ」と。小山さんはいつも半年更新の命で生きてる感じなんですね。「来年のバーゲンの洋服を買えるかしら?」っていうのが、いつも彼女が清水先生に聞く言葉です。  
 私達が一番最初にこういう会を作ろうとした時に考えたのはですね、末期の癌の患者さんに気持ちのいいこと、心地いいこと、楽しいことを提供できる人たちを集めて、その人たちをモデルにして様々な納得のいく自立した患者であるように、あるいは患者の希望を最大限かなえられるような、そういう会にしたいということです。そこで人選をしたんですね。一番最初に人選をしたのが医師・看護婦・それから薬剤師・医療ソーシャルワーカー、これは医療関係の人がいないと死ぬ 時に難しいからです。医師にかからないまま死ぬと変死扱いされます。それから死にかけているときに美味しい物を食べたい、食欲が無くなってもおいしいものが食べたいということで、料理研究家とか食卓コーディネーターとか食べ物に関する専門家を選びました。それからフラワーデザイナーとか、今流行りの香で癒しをするというアロマテラピーができる人ですね。それから絵描きさん。どんな絵を末期の患者さんが好むと思われます? どんな絵が好きだと思います? 泰西名画のようなのでもないんです。具象画ではなくて、何か禅画みたいな丸だけ描いてるとか、ちょっと理解不可能な線が描いてあるとかいうような、イメージがいくらでもそこにとどくもの、なんか向こうの方に太陽があるんじゃないか、光が見えるんじゃないかって、そういうほのかな希望を感じさせる、そういう絵。それをいつも目の前に置いてると非常に心和むという方も多いんです。それから朗読する人、朗読家がいます。本は重いですね。ですから本が好きな患者さんには読んでくれる人が必要ですが、読んでくれる人もただ読む人じゃなくて、気持ちをわかってくれながら、気持ちの動きを理解しながら読んでくれる人、そしてその人の前で、ある文章に涙しても大丈夫な人、そういう人を選びました。それから保険会社の人。リビングニーズって御存知ですか? 生前給付の生命保険なんです。普通 生命保険は死んだ後に家族に来るんですけれども「私にちょうだい、生きてるうちにちょうだい。」という保険なんですが、これに入ると患者自身にとっては非常に楽ですよね。個室料金とか差額ベッド代がものすごく高いでしょう? そういうのをこれでまかなっていけば家族にそんなに気兼ねしなくって個室のいいお部屋でゆっくり過ごすことができるんで流行ってるんですけど、実際に使う人は少ない。小山さんはこれにも入りました。それから「死後どうなるか?」というような問題も、人間の問いかけの中に入ってきますので、牧師さんとか仏教の方とか神道の方などの宗教関係の方も入られました。最後はお葬式やりますので、葬祭の関係者もいるということなんです。一番活躍してもらってるのが、新聞記者とか雑誌の編集者、テレビの方なんです。マスコミの方がものすごく一生懸命して下さいます。私どもが会員を選ぶ時に条件がありました。自分も癌の手術や治療をしたことのある人たちを第一優先にします。食道癌の手術をして声を失い社会部の記者だったのが、今論説委員になってる友達にも声をかけました。そうすると熱心さが違います。看護職の方でも自分が乳癌の手術をしてらっしゃる方とか、癌の経験をした人に入ってもらいます。癌って経験すると大分違うみたいですよ。特に医療関係者は「ちょっと軽い癌でもいいから、一度かかってみて下さい」というふうに言いたいですね。私は医学部の教授資格試験の中に癌の経験があることってのを入れたらどうかと思うくらい、大学の医学部では末期患者とか癌患者の心理に疎い教授が多いので、「ちょっとだけ癌になられません?」とおすすめするのですが「いやとんでもありません」と言われます。そういうふうに私どものメンバーは、自分が癌の経験がある、そして癌の患者さん、死にゆく患者さんに気持ちの良いことが提供できる職種についているということを条件にして選びまして、今60人ぐらいです。  
 ただ代表の小山ムツコさんの病勢が進みまして、はっきり言って、「どうなるかな? これからどうなるかな?」というようなところなので、とにかく今までやってきたことをまとめようということにしました。新聞に毎週連載をしながらその傍ら本を作ることをやってます。何の本かといいますと、福岡県下の病院の中でターミナルのちゃんとしたケアをやってくれる病院のリストをずらーっと作るわけです。これはみんなが欲しい物です。絶対に欲しいと思ってるけどこれまで出版されたことはありません。それで県下の300ぐらいの病院を恣意的に選んで、アンケート調査をしました。「お宅では病名告知をどうしていらっしゃいますか? 患者さんに説明はちゃんとしておられますか? 痛みのコントロールは何を使って、やってらっしゃいますか? どういうふうにやっておられますか? 病棟はどのくらい自由度がありますか? ペットを連れてきてもいいですか? お酒を飲んでもいいですか? 煙草を吸ってもいいですか? 往診してらっしゃいますか? 家で死ぬ 時助けて下さいますか?」という質問のアンケート用紙を300配って半分ぐらい返ってきました。回収率はいいですね。福岡県だけではなくて九州に各県二つずつ捜してるんですが、こちらは県立病院に取材をさせていただこうかなと思っております。他に自分で勤めてらっしゃるとこで「うちはどうですか? すごくいいですよ」っていうところがあったら教えて下さい。私どもはそれを本の第二部にして、一部はそれこそ死に方のマニュアル、どうすれば一番いい最期になるかっていうようなことにしようとやってます。  
 お手元の資料の中に「帽子」というのがあります。抗癌剤の治療をすると髪が抜けてしまいますよね。でも髪が抜けるっていうことをお医者さんなんかはあんまり大したことだと思っていない。「だって抜けてもまた生えるでしょ。私なんかもうずっと生えない頭なんですよ。」って言うドクターがいらっしゃいますけれども、一時的でも、特に女性にとって髪が無くなるってのは非常につらい。男の人にとっても何かプライドをなくすような、非常に人格にかかわる問題なんです。「髪の毛をどうしようか、かつらを被ると寝てる時はごそごそして痛いし」ということで私どものメンバーの帽子のデザイナーで、ジョリス製帽学院院長の田中重子さんとおっしゃる方が、「癌患者さんのために髪が抜けた人用の帽子を作っております」ということを新聞に出したんですね。この連載はすごく評判が良くてたくさんのお手紙が来るんですが、20件ぐらいの帽子の注文があっという間に殺到しました。例えば女の子がお父さんと一緒にプリクラで写 した写真を同封して、「うちのハンサムなお父さんの髪がなくなってしまいます。ですからお父さんのためにクリスマスに間に合うように帽子を作って下さい。」って書いてきて、確かにハンサムなお父さんと女の子が写 っていました。また「おしゃれな姑さんなので姑さんの頭にきれいなものを」というお嫁さんからの希望があったりですね、いろいろでした。  
 ところで乳癌の患者さんがオッパイを取ってしまって、その後人工的なブラジャーの中にパットを入れるということをやってるニアリミィ田辺という会社があるんですけれども、今日は私どもの「ファイナルステージを考える会」のメンバーの一人で、そこの仕事をしてらっしゃる満安すみさんという方が来てらっしゃいます。なんでここに彼女がいるかと、これはたまたまなんです。大分県立病院で患者さんのためにブラジャーの採寸に2ケ月に一度来ておられるんですが、私が「大分に行く」っていうと「じゃ、私も合わせて行きます」っていうことで来られました。満安さん自身も乳癌をされてます。それからその後肺への転移もあります。でも同じ病気の方のためにこうやって仕事をずっと続けておられますので、ちょっとご紹介したいと思います。
「満安さん、体の調子はどんなふうですか?」
「元気です。」
「肺の方は?」
「肺は左の半分がもうきれいにありません。」
「でも時々苦しくなって、外に出てはーはー言ってると、噂を聞きますが。」
「ちょっとハードに続けて長く話をすると、息苦しくなりますが、窓を開けて深呼吸すればよくなります。」
「患者さんのためにどういう仕事をしているわけですか?」
「乳癌で手術をされた後の人工乳房です。健康なオッパイと同じ大きさを採寸して、シリコンの補正パットをブラジャーの中に入れる仕事です。カモフラージュですね。私も胸がどっちか無いんですけどわかりますか?」
「私が触ってみてもわからない。」
「どちらも気持ちいいでしょ。」
「本当にいいオッパイです。」
「いつもパンとはじけるような元気なオッパイを患者さんに与えることが仕事です。」
「どっちですか?」
「本当はこちらです。でも裸で歩くことはありませんので、カモフラージュができれば、背筋がピンと伸びますし、明るく元気で生きていけると思います。外見は健康体。病気を見せないでいくのも自分の見栄じゃないかと思ってます。」
「乳癌の手術でオッパイ無くなるってのは、年をとっても若くても気になることなんですけれども、結婚したり、相手がいるんであれば、パートナーが理解してくれて自分も納得できれば、あとは世を欺いて生きるだけですから、しっかり大きなバストに作って、何の気兼ねもなく見せびらかして、きれいなバストラインで生きていけばいいと思うんですけども。患者さんがあなたに話をしたり、あなたの話を聞いて、安心されるでしょ。どう? こうしながら話すわけ?」
「安心されてるか、不安になるかわからないんですけど、まあ喜んで下さってるんじゃないかと思ってます。最初の時にちゃんと患者さんの採寸してあげて、オッパイを入れてあげるんですよ。そしたら二つ戻ってきたっていうので、鏡で自分の姿を見られた時にすごく喜んでいかれるのが、わかるんですよね。だからそれだけで私は嬉しくなって、大分にもいつも楽しくやってきてます。」
「あなたはこの先にまた病気が進むかもしれないって不安を持って生きなきゃいけないんだけれども、それでどんなふうな気持ちでやってるわけ? 病院に行くとちょっと悪いデータが出たりすることもあるでしょ? そんな時とかどうやって自分を励ましてるわけ?」
「まず病院には定期検診は絶対に欠かさず行かなきゃいけないと思います。自分の調子が良くてもね。それだけは気をつけてます。それで検診に行って、一泊入院してちゃんと検査をしてもらいます。気持ちで悩むより先に行動を起こします。それから私はいつも後ろを振り向かないで、どんどん前だけしか向いていかないですね。前を向いていくことが自分を元気に乗り越えていけるんじゃないか思いますし、病気を与えられたことはいつも自分が『あー、誰かのために自分が代わってあげられたんだな』というように思うように、一つ病気を重ねるごとに、前向きにいい方にいい方に解釈するようにしたんですよ。宗教も何もやってないんですけど、病気をすることでそういう気持ちを与えられたというのがすごく良かったなと思ってます。だからいつも前しか向いていってません。もう過ぎたことは忘れて、後ろ振り向かないようにしてます。過ぎたら病気を忘れる、過ぎたら忘れる。だから自分の病気を忘れられた時は自分は病気に勝ったんだっていうふうに、いつも思うようにしています。人間として偉くないし、人間ができてないから不安はどこかにありますけど、自分のために前しか向いていってないんですね。」
「だいたい私どものメンバーはみんなこんなふうで後ろは向かないということなんですが。ここに来るまでにはいっぱい、たくさん泣かれたわけですからね。そうなんですよ。でも乗り越えて何か透明なところに出られたという感じがするので、もし病院の方で、そういうブラジャーを作りたいという方がいらしたら、満安さんの方まで言って下さい。どうもありがとうございました。」
・・・・・・・ ということで、私達がやってる会の話はそれで一応終わりです。
日本人の死 
 今から現在の日本人がどんなふうに死んでいるのかというようなことについてお話しします。皆さん、今の日本人どこで死んでますか? 病院ですね。最近は皆さん、大体病院で亡くなられます。私が福岡市で調査をしたら、この7〜8年ぐらいですかね、癌で家で死ぬ という在宅ホスピスみたいなことは5パーセントから4.5パーセントくらいです。私は昭和23年の生まれなんですが、戦争から父が帰ってきて生まれた子供で、ベピーブームの子供です。生まれたのは父が勤めていた福岡の西南学院という学校の校舎の中で、住むところがなかった教師たちはみな校舎に住んでました。お産婆さんは毎日何人も何人も赤ちゃんばっかり。ベビーラッシュで疲れ果 ててしまって、母のお腹をさすりながら、お腹につっぷして寝るもんだから、母は「もうお帰りになって結構です。家で休んで下さい。まだのようです。」と言って帰ってもらったら、そこで私は独りで生まれてしまった。私は独りで生れました。側にいた人は、結婚したけどまだお産をしたことのない若い奥さんだったので大慌てで、「この赤ん坊をどうするか? 風邪ひかしちゃいけない。」ってんで、新聞紙にくるんで母に渡したそうで、「石焼芋みたいだった」とか言われました。そういうふうに昔は家で生まれることや家で死ぬ ことは普通だったんですよね。
 それが変わったのが昭和30年ぐらいのことです。病院死と在宅死の比率が逆転して、どんどん病院で死ぬ 。そして病院で死ぬ時には家族は入れてはもらえるけれども、患者さんと一緒にずっと付いてることはできない。家族だけでいるっていうことは全く無くて、主導権を持つのは医療者ですね。とにかくできるだけ命を延ばした方がよいということが医療の常識だったんですが、最期も人工呼吸器を取付けたり、心マッサージをしたり、IVH(高カロリー輸液)などの様々な延命処置をして、延命した結果 は、死ぬのがますます怖くなるような最期の悲惨な状況。しかも痛み止めは上手ではない、まだ痛み止めの知識はないというような時期が10数年、20年ぐらい続いたんですね。ですから今の状況はかなり進んでると思うんです。けれどもまだ痛み止めに関しては、ドクターたちはそんなに知ってらっしゃらない方も多くて、看護婦さんがおろおろして「もう早く何とかしてあげて」というのに、医者が自分の大昔の知識でもって「モルヒネをあまり使うと癖になる」「命が縮まる」とか、今では誤解と言われてるようなことを平気でおっしゃっているような現状でもあります。ですから私ども市民が私たちの死を私たちのもとに取り返すこと、私たちの自宅にとはいいませんけど、私たちの地域に取り返すこと、そういう運動をこれから展開していこうかなというふうに思ってるんです。
  今の日本では95%以上の癌患者が病院で死んでますが、死ぬのに相応しいところと相応しくないところがその中でもあると思うんですね。死ぬ のに相応しいところというのはちょっとわかりませんが、相応しくないところというのは大学病院。ここで死ぬ のは絶対止めたがいいです。それからがんセンターとか、特定機能病院といわれてるような特別 な先端医療の研究をしているようなところは、そっちがメインですから、先端医療を施したけれども、うまくいかなかったという人に対してはちょっと冷たいところがあるんですね。ですからそういうところには行かないで、別 の所を捜した方がいい。大学病院は次々に新しい患者さんが来て難しい治療をしなきゃいけませんから、あと1ケ月で亡くなるような患者は外に出されるんですね。「もうすることはありませんから、どうぞお家に帰って下さい。別 の病院でゆっくりされた方がいいんじゃないですか?」そういうふうに言われて、よその病院に行くんですが、大学病院ではいくつかそういう送り先の病院を用意してるんですね。ところが患者から言えば、その病院に「行きませんか」と言われることは、「もう終わりですよ」と言われてることだと理解して、そういう噂があちこち広まるんです。「あの病院に行けと言われたら、あそこは死ぬ 病院ですよ」と。病院の方もそれに対して非常に神経質になっています。大学病院の患者さんの最期を看取る病院をいくつか知ってますので、アンケートをお願いしますと言ったんです。そうしたらそこの医師は「何で、そういうことをあなたは知ってるんですか?」って何かいかにも秘密の話のようにおっしゃるんです。「私どもはターミナルケアに関心を持ってられる病院のリストを作ってるので教えて下さい」って言ったら、「勘弁して下さいよ」って言われたんです。病院自体がやっぱり死に場所というふうに自分たちの病院を理解する。それこそ満安さんみたいに発想を転換して、前向きに考えるんであれば、「最期まで自分らしく過ごすことができるところ」というふうに考えればいいんじゃないかと思うんですけども、いつまでも「勘弁して下さいよ、うちは誰も死にませんよ」と言ったんじゃ、私どものやってる運動を全然理解してない、進まないなと思いました。
 がっかりしていたところ、あちこち調べてみると、いわゆるホスピス、緩和ケア病棟としての認可を受けてないところでも結構な所がホスピスとか緩和ケアをやってらっしゃるんですね。福岡県には福岡亀山栄光病院という病院があって、これはキリスト教の病院で「十字架を掲げた病院」と理事長自らおっしゃってます。それから久留米市にある久留米大学の医学部の中に来年緩和ケア病棟ができることになりました。それから同じ久留米市の聖マリア病院っていうところに、緩和ケア病棟が既にあります。今三つです。さらに北九州市に三年後、北九州医療センターというところで、緩和ケア病棟ができることになって、続々できてはいるんですけれども、やっぱり少ないです。私たちは自分の住んでる地域で自分の家族の近くで死んだ方がすごく心は落ち着くんです。東京の聖路加病院とかですね、日野原先生がやってらっしゃるピースハウスとかあっても、遠いところに行って死ぬ ことはできないですよね。ですから自分の家の近くで往診をして下さるとか、入院をしても家族がしょっちゅう勤めの帰りに寄ることができるところとか、そういうところが欲しいと思って調べて、それをみなさんにお知らせしようというのが今私どもの調査の内容なんです。その本を見れば、「この先生はちゃんとして下さる」というのがわかる。大学病院とか大きな病院は先生によって告知をするとかしないとか、痛みのコントロールが上手であるかないかとか、ばらばらなんです。ですから大学病院は「この先生ならいろんな話を聞いて下さいます」ということで出します。「そういうことは止めてください。私は大学の職員ですから。」と言われるんですけれども、「いいじゃないですか、どうぞ名前を」というふうにやってるんです。  
 日本では、ホスピスとか緩和ケア病棟とかいわなくてもかっては実際にちゃんとした看取りをして往診もして下さる先生がたくさんいました。今は在宅ホスピス、家で最期まで看取るっていうのはなかなか難しいんです。どうしてかというと今の先生たちは病院で看取ることしかしたことがない。よその家に行って靴を脱いで上がって、患者さんの寝てるところに行って「御免下さい」と言って治療する。周りは何も器械がない、医療の道具が無い、というようなところで、人を看取ったことがないものですから、とっても不安みたいです。看護婦さんもそうなんです。私は母も父も在宅で看取りました。二人とも癌で、母は膵臓癌、父は前立腺癌でした。母の時は初めての在宅ホスピスで知ってることを全部一生懸命実践してやったんですが、もうへとへとに疲れました。5ヵ月もやったのでこっちが死にそうになったくらいなんですけれども、在宅ホスピスは2ケ月限度ですね。これ以上やると家族がくたびれます。しかも母の時は家族だけでやりました。母がとっても神経質で家族以外の人に世話されたくない。家の中に入ってきて欲しくないという、そういう人でしたから、家族だけでやりました。でも家族が7人いたんです。7人の介護者がいる家ってのは滅多にない。最低4人ぐらいいないとやっていけませんが、その4人は必ずしも家族である必要はないんです。ヘルパーさんであったり、ボランティアであってもいい。ですから父の時にはすっかり考え方を変えてあらゆるものを使おう、ボランティアにも来てもらおう、ヘルパーさんにも来てもらおう、医療者にも訪問看護ステーションにも来てもらおう、家族は夜だけにしようとかね、いろんなことを実践して、父は2ケ月間の在宅ホスピスの末に非常に穏やかに亡くなりました。わざわざ大きな病院の副院長を辞めて在宅ホスピス医として開業してた先生がたまたま父の家の近くにいらしたんです。それも私どもの運動の仲間ですから、頼んで来てもらったんですが、私は母の時の記録を「モルヒネはシャーベットで」という本にしたんですが、これはもう悪戦苦闘の記録です。でも父の記録はある意味で非常に慣れた、楽な在宅ホスピスの記録で、父の場合と母の場合と違ったのは父は一人暮らしだったということです。「独り暮らしで福岡市で在宅で死ねるか?」というのがその父の時のテーマだったんですね。母の時はもう記録をとるのが精一杯、メモをとるのが精一杯くらい私も消耗しましたけれども、父には「最期までスライドにする写 真をとっていい?」って聞いたら、「あんたの仕事だから最後までしっかりとりなさい」ということで父が許してくれましたので、臨終までスライドをとっております。ですから病院のホスピスでもなくそれから一般 病院のホスピスケアでもなく、家で死ぬということがどういうものかっていうのをちょっと皆さんに見ていただきたいと思います。 スライドを見ながら
(父へのインフォームド・コンセント)  父は前立腺癌だったんですが、最初はひどい腰の痛みで見つかりました。あんまり腰が痛いので病院で検査したところ、「これは何かの癌の転移ではないか」と言われて、調べましたら、前立腺に癌がありました。福岡市では泌尿器で有名な病院で治療を受けましたら、一年間のホルモン治療でものすごくいい効果 が出て、痛みも取れましたし、ちゃんと生活もできるようになって一人暮らしで楽しく過ごせました。けれども、最初の検査の結果 「癌は非常に悪性度の高いもので、最後のステージである。もう末期である。」と言われたんです。「ただ今一番新しいアメリカからやってきたホルモン治療をやれば寛解期がしばらく得られるでしょう。良くなってしまうわけじゃないけど、治ったような状態がしばらく続くでしょう。それが3ケ月なのか半年なのか一年なのか分からないんですが、使ってみる価値はあるでしょう。どうしますか?」というきちっとしたインフォームド・コンセントが父に対してありました。でも80歳をこえた高齢者にですね、普通 はインフォームド・コンセントはしないでしょ? 癌であっても癌だということを言わなかったり、末期であっても「治るからもうちょっと辛抱してようね」というようなことしか言わないんですが、「父は今まで自分の人生をきちんと決めてきて、60年来のクリスチャンでもあります。死ぬ こと生きることについてはずっと考え続けてきた人なので、全部そのまま話して下さい。」と私どもが頼んだんですね。それで私と兄と父の3人で先生のインフォームド・コンセントを聞きました。ちょっと困ったのは、その場所が病院の中で看護婦さんが食事をする場所、休憩する場所だったようで、うなぎの寝床みたいに長い所で入口から看護婦さんがほかほか弁当を下げて覗いて「あら、何をやってるの?」っていうような目で入ってこられたり出ていったりで、落ち着かない場所でした。
(インフォームド・コンセントにふさわしい場所)  インフォームド・コンセントで大事な癌告知の時には場所の設定というのはとても大事だと思うんです。ゆっくり、落ち着いて、そして患者さんがもしショックを受けた時に頭をもたせかけられるような椅子であるとかあるいは個室であればベッドでとか、そういうふうに場所設定をしなきゃいけないんですけども落ち着かない。私の友達が結婚を申し込まれた時にうどん屋の相席で「結婚して」と言われたって今だに恨んでますので、こういうもっと大事な死ぬ 話にですね、場所を選ばないってのはこれはもうおかしいことなんです。でもそういうわけで、父は自分の病状をはっきり知って、これからどうしようかということになったんですが、「とにかく自分で暮らせる間は一人で暮らしたい」と言って、私ども子供たち三人、兄二人と私のそれぞれの家族に毎週一回ずつ食事に行ったり来たりして、過ごしておりました。一年経つとまた腫瘍マーカーが上がってきて薬の治療効果 が無くなってきたっていうことがわかりました。その前に先生には「もし再発したのであれば私どもすぐお知らせ下さい。その時には緩和ケアに切り替えますから。」って言ったら、先生からも「そろそろ緩和ケアの時期が来ました。」と連絡がありました。
(痛みどめと副作用)  それから痛みをどうするかということです。骨転移の痛みというのはさっき言ったようにモルヒネが効きにくい痛みなんですね。それで父は高齢でもありましたし、高齢者には副作用がもろに出ることが多いらしくて、いろんな副作用が出てきたんです。まずモルヒネの錠剤で治療を始めるのが普通 なんです。MSコンチンという麻薬です。硫酸モルヒネがじわじわと効果を表すような徐放剤ですけれども、それをどこの病院でも一般 的に使います。ですから入院してMSコンチン使ってたらだいたい癌の痛みをコントロールしてると考えて間違いないです。MSコンチンをのみ始めたんですけれども、副作用の中で必ず出るものが便秘なんですね。それから吐き気がありました。食欲不振がありました。しまいには幻覚がありました。でも私はいつも父の側について、幻覚が見えると言うから「何が見えるの?」ってしつこくつきまとって聞きました。そうすると「大男が窓の外をうろうろしてる」って言うんですよ。それで「その大男はお父さんに危害を加えようとしているの?」って言ったら、「いいや、コウのようだ」「コウ」って言うのは私の息子なんですね。ですから何か、孫が見舞いに来たんじゃないかっていう、やさしい幻覚なんですね。それから病院で病人が飲む楽呑みがあるんですが、その楽呑みで飲ませようとしたら、それはちょっと吸口がカーブを描いているんですが、「その先が自分の口許に伸びてくるんだ」と言うんです。それで「どんなふうに見えるの? 突き刺さりそうで怖いわけ?」と聞くと「いいや虹のようにきらきら輝いてきれいだ」って言う。ですからモルヒネの幻覚は、最初のうちはそんなに覚醒剤の幻覚のように攻撃的なイメージは少ないみたいなんです。どっちかっていうときれいなイメージ、曼陀羅風なイメージだと思います。ただそれが進んでくると被害的なイメージも出てくるっていう話は聞きました。ということで「これはいくらしても、もう病院では限界だ。」と私は思いました。それから父が「どうしても家で死にたい」って言いました。「どうして家で死にたいの?」って聞いたら、「お母ちゃんの時にとっても良かったから」と言いましたが、私は「お母ちゃんの時にはお父ちゃんがいたじゃないの。だけど今は独り暮らしだからどうするのよ?」と言ったんですが、「あんたなら何とかしてくれるだろう」ともうすっかり頼ってるわけです。というわけで兄嫁と相談しまして、「病院はイヤだ」と言いますので、家へ連れて帰ることにしました。
(家に帰りたい) 「病院がイヤだ」というのは、女の人より男の人に多いという調査も出ています。しかも65歳以上の高齢者の方はほとんど「家に帰りたい」コールです。そして実際に在宅で亡くなっている方の中でも男の人の割合が高いんですね。男の人は帰りたいと言えば帰ることができる。けれども女の人は帰りたいと言っても、家で看てくれる人がいなかったり、年取った夫がいたりして、なかなか帰れない、帰りたいという言葉が口に出せない状況にあると思います。父は独り暮らしなのに帰りたいっていうのは娘・息子たちが何とかするだろう、嫁たちがするだろうという大きな期待があったからですが、男の人は女の人に期待をしているんです。どうして家に帰りたいのかというと、家がいいということもありますけど、「病院は好かん」ということがあるんです。何で病院が好かんのかと言いますと、女の人は自分で病室を気持ちのいいものにすることができる能力があるんです。看護婦さんにも直接ここをこうして下さいとか、ああして下さいとかいうことができますし、先生にもちょっとポケットにおひねりなんか入れたりして、どうぞよろしくとか。隣のベッドの人にはもらったお見舞いを配ったりして「あなた何の病気?」とかすぐに親しくなる。ところが男の人、特に高齢者の人というのは奥さんを介してしか交渉ができませんから、だんだん居心地が悪くなってくるんです。それで黙って孤立してくる。やっぱり家で女房、嫁にちゃんとやさしくしてもらいたいという気持ちがむらむら沸いて、「帰りたい帰りたい」という気持ちになるようですね。父もそうだったんですけれども、確かに病院というのは落ち着かない所ですから誰もが帰りたい。
(痛みの緩和)  それで帰った時に診て下さるドクターがいないと困ると思って、私はまず最初にドクターを捜しました。というかもう一年前から既に予約をしてたんです。二ノ坂先生とおっしゃるんです。にのさかクリニックっていうのを開いたばっかりで、この方はずっと長いこと在宅ホスピスをやりたいと思って、父の家の側に開業されたのです。開業したけど、患者が来ないので、お暇のようでしたから「はいはい喜んで」と二つ返事で引受けていただきました。ドクターの隣はナースの村里さんという人ですが、彼女もエプロンをしているだけです。白い上っ張りは来ていません。ここの病院では、誰も白衣を着てません。医者は独りしかいないんですぐわかりますが、ナースなのか患者なのかわからないので、ナースはエプロンをしているそうです。診察はこの居間に来てしました。父は退院時は死人のようにして帰ったんですが、家に帰って翌朝目が醒めた時にびっくりするくらい元気になっておりました。家の効果 というか・・・。痛みに対しても先生は「痛みが全然取れなくて、副作用ばっかり多いんでとりあえず痛み止めを切ってみましょう。」と言って切ったんですけど痛まないんです。このへんが大変不思議に思いました。在宅ホスピスをすると痛み止めの量 が減るっていうのは、どの先生もおっしゃるんですけども、父は非常に顕著に減らすことができました。
(在宅ホスピスを支えるボランティア)  父が独り暮らしなもんですから、私はまず人を集めなきゃいけない。手伝ってくれる人を組み合わせて24時間隙間のないスケジュールを作って、ローテーションでやっていかないとやれないと思ったもんですから、まず家族、それからボランティア、ヘルパーさん、医療関係者、この四つのグループで、たくさん来てもらいまして、「父がこういうふうな状況なので」とみんなに同じ情報を言ったんです。事実をはっきり全部言ってしまって「『家で死にたい』と本人は言っていますので、どうぞよろしく。」ということでお願いしました。  これは主なケアメンバーが集まっているところ。一番手前の兄嫁、家事を手伝ってくれる人、訪問看護婦、父のメンタルケアをしてくれる人(うちの父は大学で教えてたんですけれども、その最後の教え子でお気に入りの学生さんだった人です。父に本を読んでくれたり、美術館に連れていってくれたり、そういうボランティアをしてくれてた人)、それから市のヘルパーさん。一番手前の方はナースの村里さんと一緒に住んでいる女性ですが、家事の手伝いに来てくれて、村里さんと一緒に住んでるんで、「どういう関係ですか?」と聞くと「友達です」と言われるんですね。どちらも独り身になられて「もしそういうふうになったら一緒に暮らそう」と若い頃から約束してたもんですから、一緒に暮らして分業体制でやってるそうです。この方は料理上手で家事が大好きなので、家事をしてらっしゃる。ナースの村里さんは仕事が好きなので外に出て帰ってきたら、ごちそうと酒の肴とビールが一杯あって、「お疲れ様、どうぞ」。それこそ好きな役割をそれぞれ選んでやってらっしゃるんです。こちらの方は命の電話とかのボランティア活動してらっしゃる。そして時々孫が遊びに来たり娘が来たりという感じで、一軒の家を構えておられます。面 白いんですよ、そういう老後の過ごし方はなかなかいいんじゃないかなと思ってます。
(孫の役割)  これは私の姪と父です。姪は若く見えて高校生みたいですが、もう25歳になってます。お爺ちゃんと孫ってのはとてもいい相性なんです。ですから最期の時もメンタルケアとかそういうのをいわなくても孫がお爺ちゃんにベターっとくっついているだけでも慰めになる。父が書き溜めてた短歌を本にすることにしたんですが、その編集を手伝ったり、「この歌は昭和20年に戦地でね」っていうふうな父の昔話を聞きながら、孫である沙耶ちゃんが書き留めていくという、その作業は父の心の安らぎになったことと思うんです。
(連絡ノート)  いろんな人に関わってもらって、「12時から1時までは家へ来て、お食事の手伝いをして下さい。2時から3時までは別 の人に。」というふうにしてましたので、連絡ノートがないと始まらない。ですから詳しい父の体の状況、言った言葉、いらした方、お見舞いの人、電話、それから医療者のコーナーですね。薬をどうしましょうとか、質問を書いてればちゃんと返事を書いて下さる。そういうのを作って2ヵ月の間にこのノート二冊になりました。
(在宅ホスピス絶好調)  父の様子が非常に元気そうでしょ。絶好調は2ケ月の在宅ホスピスの中の真ん中ぐらいですかね。これが絶好調の時だと思うんです。退院して1ケ月目くらいですね。本を作りたいので、ということで書店の出版社の人が二人来てお話をしてます。すると私に「ほらメロンをお出しして」とお客様をもてなす主人のような態度もきちんととっておりました。それから父の顎の下に大きな塊が見えますね。あれは甲状腺癌の転移です。父と私は同じ甲状腺癌で右と左と場所が違うだけで、全く左右対称の癌になってるんですね。私はもう16年間再発転移がありませんが、父は再発して転移してます。甲状腺癌と前立腺癌と二つ持ってたわけですけれども、最期の方は食事が食べられなくなりました。食事が食べられなくなって病院に行きますとIVHを入れたり、鼻から管を通 して胃に栄養を送ったり、それから胃に穴をあけて直接食べ物を入れたりとか、いろんな栄養補給の方法があるんですけれども、必ず何かをします。でも父には何にもしなかった。ですから最期の一週間ぐらいはほとんど物を食べなかったんですね。そうすると全体に体力が落ちてくるわけです。父が亡くなった時にひょっと気がついたんですが、ゴルフボールくらいあった甲状腺癌の転移が梅干しぐらいの大きさに小さくなってたんですね。ですからやっぱり癌というのは身の内で本人が死ぬ 時は癌も死ななきゃいけないんだなという、そういう感慨をもよおしたものです。
(ヘルパーさん)  これがヘルパーさんです。私たちはこのヘルパーさんが大好きでしたが、はっきり言って下手なんですね。おずおずした感じがして「だってまだ新米なんです」って言われてました。でも父はこの人が来ると「とってもうれしい」と言ってました。先輩のチーフのヘルパーさんが彼女を最初に連れてきて父にいろいろしてくれたんですが、父は「あの人が来ると体操させられてるみたいで、とっても嫌だ」と言っておりました。「はい、爺ちゃん足挙げて、はい爺ちゃん手を挙げて」というふうに言われて、すごくてきぱきするんです。早いんです。けれども父のペースには全く合わないし、爺ちゃんと呼ばれるのには抵抗があったみたいです。この新米のヘルパーさんは本職はピアノの先生なんですが、「自分の父が病院で亡くなって非常につらかった。だから私はお家で亡くなる人のお手伝いをしたいんです。」ということでした。じっくり向かい合って足を洗ってゆっくりゆっくりきれいに拭いてくれて、時間をくれた人です。この人はあんまりいい人だから「私たちのグループに入りません?」とか言って引きずりこんで、このごろよく会います。本当は公的なヘルパーですから、お茶飲んだり一緒に何か食べたりしちゃいけないんですけど、「まあいいじゃない」とか言って、お菓子一緒に食べたりお茶飲んだりして話を一杯して友達になりました。
(洗濯物干し台を点滴スタンドに)  これ何かと言いますと、洗濯物の干し台なんです。在宅だとこういうのがおかしいですよね。脱水状態になったもんですから一回だけ点滴をしたんです。ドクターが「脱水状態になってるので、この脱水状態が取れるまで、輸液をしましょうか? どうしますか?」と言われたんです。父が「じゃ、脱水状態が取れるまでお願いします。」と言って、取れたら「もういいです」。村里ナースはね、忘れ物をよくするんです。何を忘れたかというと「点滴スタンド持ってこようと思ったのに忘れた」とか言って、それから管を止めるコッヘルっていう器具もあるんですけど、それも忘れたと。だから「洗濯ばさみ、新しいのない?」って言って、洗濯物のスタンドと洗濯ばさみとで点滴をやったんですけど、これは在宅らしい光景じゃないかと思うんです。父は学者でしたから、寝室の中には本がいっぱいで、こういう中で寝てることこそ楽しい心安らぐ時間じゃなかろうかと思います。
(主治医の不在)  これは父がもうだいぶ最期に近くなった顔をしておりますね。楽しい在宅ホスピスの時間が過ぎ去っていって、調子がだんだん悪くなってきた。衰弱してきてトイレに行くにも大変になってきた頃です。主治医の二ノ坂ドクターは毎年バングラデシュに医療奉仕に行かれるんです。診療をバングラデシュの首都ダッカより先のカラムディ村という小さな村で診療することになっていて、そこでも患者さんが待ってるんですね。ですから行かなきゃいけない。前から決まってたことです。私も決まっていることは知ってて先生に頼んだもんですから、大事な時にお留守になるわけです。私もドクターもえらく悩みまして、もしかしていない間に亡くなるんじゃないかということを相談し合ったんです。これは出かける前日でしたか、やってきて「私は今からバングラデシュに行かなきゃなりません。でも絶対に私が帰るまで20日間元気で待ってて下さいよ。」と話をされてるとこです。父が「じゃ、元気で待ってますから必ず生きてお目にかかりましょう」と言って握手して別 れたところです。二ノ坂ドクターと父の二人の間にこう強い信頼の絆ができていたもんですから、後ろ髪引かれるような思いで行かれたみたいで、村里ナースが「先生が行った後、冷蔵庫開けたら、向こうで検査しようと思ってたツベリクリンの薬液が全部残ってましたよ。」と言ってましたが、上の空で行かれたようです。
(トイレの介助)  左側にいるのが私の夫です。父をトイレに連れていってるところです。トイレっていうのは本当に不思議なもので髪の毛以上に人間のプライドに関わるものですから、最後まで自分でトイレに行って排泄したいというのは、ほとんどの人の共通 の願いです。けれども病院に行くとすぐに紙オムツにしたりベッドの上で取ったりということが多いんです。トイレに連れていくっていうのはえらく時間がかかって面 倒なんです。けれども在宅ですから介護要員がいっぱいいるんです。私の夫は大学で教えてますので夏休み中は暇なんですね。しかもうちの夫は、この頃チラホラ講演に呼ばれてるんですが、男の介護、男の家事、男の育児というテーマなんですね。子供はほとんど夫が育ててくれましたし、家事もしてくれます。私は今日みたいに出かけてきても、泊まったっていいんです。私の不在中は夫が全部やります。それから母の介護も排泄の世話からなにから全部してくれたんですが、それが好きなんじゃないかと思うんです。うちはみんな割合に小柄なんですが、夫だけが体が大きく力が強い。それで母を抱いていつもポータブルトイレに乗せてたんですけど、抱いた時にちょっと高いところに吊るすようにすると今まで縮こまってた体がのびのびして、母が「宇宙遊泳のごたる」って喜んでました。優しいもんですから父を連れてトイレに行く係りになってました。最初夫は父の手を引こうとしたんですが、父は痛い。骨転移してると動くと痛いんですね。自分の気に入ったように楽なように一歩踏み出して何かにつかまって、それからしばらくもじもじして、おさまったら次の一歩を踏み出してという、要するに目の前に支える物を作っていくやり方でやってるんです。手を引いた方がいい人もいれば、手を引かない方がいい人もいて、父は手を引くと痛くなる方でしたので、こうやって目の前に椅子を置いてトイレに行ってる。私たちが行くと10秒くらいのトイレまでの距離を一歩一歩行ってトイレすまして帰ってくるまで30分くらいかかることもありましたが、これをかなりのところまで続けました。いつも思うんですけどもトイレを人手に任せる、オムツを着ける、誰かにおしっこ、うんちの世話をしてもらうという決心がつく時にもうある意味で最期の覚悟をしているような気がするんですね。ですから施設なんかで早々と自分でトイレをすることを止めさせてお尻にオムツをあてたり、それからベッドの上で介助したりすると、それはもう早々と生きるのを止めろと言ってるような気がするんですけどどうでしょうか?
(カテーテルをつけてみて)  前立腺癌にしてはそれまで排尿困難が起こらなかったんですが、初めておしっこが出なくなって苦しくなった時です。あんなに苦しんだ父を見たのは初めてでびっくりしたんですが、お腹が張ってきておしっこがでない。それで先生に電話して、先生が夜明けに、すっとんで来てくれて、「調べたら膀胱に血の塊がいっぱいつまってるんで洗いましょ。」といって膀胱洗浄して、それからカテーテル(管)を付けた方が楽じゃないかという話になって付けたんです。ところが管を付けたらその痛みがすごくて、ちょうど前立腺癌に触ってしまったのかもしれませんけど、非常に痛んで、また先生に来てもらって抜いてもらったというようなことです。後で話しあったんですけど、管はやっぱり付けない方がよかったんじゃないか、でもどうすればよかったんだろうっていうような話になりました。これは亡くなる3日前のスライドです。
これが亡くなる前夜です。私の当番でした。毎晩三人の兄弟とかお嫁さんが交代で一人ずっと泊まってたんです。ところが最期の方になると持ち上げるのも何をするのもぐったりしているものですから、非常に大変。ですから、夫婦二人で一晩ずつ泊まるやり方に変えました。最後の日、意識がだんだん薄らいでいくようにみえたんですけれども、話すと「うん」とか「いや」とかうなずきます。よく言われることですけど「耳だけが一番最後まで残る器官である」と。亡くなっていく人はもう聞こえないと思っていろんなこと話される方いらっしゃいますけど、聞きたくないことを聞きながら死んでゆくようなことにもなるんで皆さん本当に気をつけて下さい。病状を耳元でどんどんしゃべってる人、お葬式の相談なんかしてる人もいらっしゃいますけど、それはちょっと気をつけて下さい。私が父に「お父さんの人生はどうだった? 良かった?」って聞いたら「うん」と言ったんですね。ですから最期まで意識ははっきりしておりました。
これが父の臨終です。夕方ぐらいから、脈も弱くなりましたし、熱が出てきてそれから血圧が下がりました。先生がもしかして今晩が山場ではないかと言われたんで、家族みんな呼びまして、一家族ずつ挨拶をしました。孫が一人ずつお爺ちゃんにさよならの挨拶をしました。これは一番上の兄の家族で、兄の一番末っ子で哲人君っていうんですが、哲人君は東京の大学に行っていますが、「僕、東京の大学に行ってるからお爺ちゃんとこにお見舞にあまりこれなくてごめんね。でも小さい頃から可愛がってくれたの忘れないよ。」と言っているところです。泣いているのは兄なんですけど、むこうにいるのが二ノ坂ドクターと村里ナースです。普通 の病院だったら、こういうふうになると医療者がバタバタバタっと駆けつけます。そして医者が「ああしろ、こうしろ」それからモニターをぱっと取付けるとか、動きが慌ただしくなるんですね。在宅ホスピスの場合には、病院と違います。在宅ホスピスの研究をしておられる二ノ坂ドクターは絶対に一言も余計な口はきかないで控え目にしておられる。絶対に何も言わない。つまり例えば舞台でいえば、主役は亡くなっていく人で、そのもう一つの主役は家族。それから友人、知人たちが登場人物でそういうファイナルステージの最期の舞台では医療者っていうのは裏方じゃなきゃいけないんですね。ところが今の医療の中では裏方ではなくて中心に出てくる。これはちょっとおかしいんじゃないかっていうことを、先生も言われてました。最期、私が父の息が止ったように思ったもんですから「これで父は最期ですか?」と言ったら「はいもう終わられてます」と先生が言われて別 に脈をとるわけでもなく「あなたが確認されたのが、それが確認です」というように言われました。二ノ坂ドクターはバングラデシュから帰ってみえて、こうやって臨終に間に合った。20日間を父は乗り切り、再開した時は本当に二人で手を取り合って喜んでましたけれども、その間はお留守番のドクターを頼んでたんです。お留守番のドクターの一人は牧師さんでがんセンターの頭頚部の部長をされてたんですが、辞めて牧師になられた方でした。牧師さんで医者なら申し分ないということで、父も親しい方でしたので、私がお願いしました。兄の後に黙って控えておられるんです。最期、父のために臨終のお祈りをして下さいましたが、哲人君は聖歌隊に入ってるもんだからすごく上手に歌ってました。穏やかでキリスト教徒らしい父に相応しい臨終だったと思ってます。
(空のベッド)  私がこのことをあっちこっちで話しますと、「すごく素晴らしい。けれどあなただからできた。あなたの家だからできたんじゃないか。」とよく言われます。私はモデル的にこれを使ってもらえればいい。お金はどれくらいかかった、マンパワーはどのくらい必要かということも調べたんです。これは父を棺に移した後のベッドです。こういうところで寝てました。
(父・私・息子)  これは私と息子なんですけれども、ここは告別式の会場なんですね。場所は西南学院大学の隣にある高等学校のチャペルです。古い建物ですが、父はここに高等学校の頃から通 っていました。そして私が生まれたところなんです。私どもは父と母が住んでいたその実家に移り住むことになりました。息子はそこで暮らすし、私はもしかしたら父と母が死んだその部屋で死ぬ かもしれない。何かそういうふうに家族の絆というか、流れが続いています。このチャペルの裏庭とか階段とかは私の遊び場でした。父の告別 式でまた来るとは思わなかったんです。息子も随分手伝ってくれました。中学三年生でしたけれども、何をしたかというと、この子はものすごく食欲旺盛です。食べ盛りです。ほとんど介護の役に立たないんですが、「あんた、お爺ちゃんの前でおいしそうにバリバリ食べてよ」と言って、この子がお爺ちゃんの前でとにかくむしゃむしゃと美味しそうに、かりかりいって食べると、お爺ちゃんは「ワシも一つ食べようかな」ってのが口癖だったんです。「ちょっとワシも一つ欲しいな」って言った時にお爺ちゃんに「はい」って渡すという役目をしておりました。最期を看取る仲間の中に、あまり役に立たない男の子と思っても、入れていると将来自分の死に直面 した時に非常に安定しているというような調査もあります。死の準備学習、準備教育と思って私は息子を入れました。
(兄の作った骨壷)  父は母と並んで居間におさまってるんですが、真ん中に壷がありますね。骨壷です。この骨壷は私の陶芸家の兄が作ったものです。これは母とペアになっておりまして、母の時も兄が作って、そして父のも作っていたんだそうです。お葬式で骨を拾う時にこれに入れました。母は絵描きでしたし、兄は陶芸家ですし、うちは陶芸とか美術とかに、割と趣味があるんですね。葬儀屋さんから届いた白磁みたいな壷があるんですけど、ちょっと趣味に合わないので梅干し入れにしております。そういうと友達はみんなうちの梅干しを食べないというんですけど。  
 これで私どもの何から何まで手作りの、在宅のターミナルケアの話は終りなんですけれども、全部でお金どのくらいかかったかといえば、父自身が払ったのは、その頃高齢者の保険がありますので、最期の1ヶ月に父が払ったのは、1040円ですかね。非常にわずかな額ですが、二ノ坂ドクターに問い合わせてレセプト(医療費としてどのくらいかかったかという点数の計算)を見せてもらったんですね。病院では患者に見せたがらないんです。ただ私どもは仲間ですから、二人で計算したんですが、1ヶ月の医療費が35万円ぐらいでしたかね。でも病院で延命のためにフルコースで検査とかいろいろやると最期の1ヶ月に150万から300万円かかるんです。それに比べたら在宅ホスピスってのは非常に少ない医療費で済むので、厚生省なんかは医療費削減のためにも「家でどうぞ、家でどうぞ」と言っております。ただ私の夫や兄たちは自由業、教師なんです。夏休みには時間がある。けれども普通 一般の人はそういうとこに勤めてれなければ無理です。それから女性も勤めてれば辞めるわけにはいかない。そうすると家で看るってのは無理なので、家に近い雰囲気の家庭的なホスピスケアをしてくれるところを作りたいというのが私たちの希望だったんですね。それから介護休暇というのがあるんですけどご存じでしょうか? この介護休暇は3ケ月間取れるんですが、平成11年から会社、企業で義務化されるんです。けれども私が一番困ったと思うのは、それは無給なんです、有給ではない。ですから八割でも七割でもいいから給料をもらって、そして親の介護をする。私は、もし本気で在宅をやるつもりなら厚生省は労働省とかと一緒にそういうことを検討すべきでないかと思ってるわけですけれども、これで父の個人的な記録は終りです。  
 今日本の死に方事情みたいなのを話したんですけれども、これから先皆さんにいつ来るかわからない、でも必ず来る死に備えてどういうことをしてればいいかっていうようなポイントをいくつかお話しします。まず自分がどんなふうに死にたいのか? どこで死にたいのか? ということを自分自身とまず話し合って下さい。みんなそのことを自分と話し合うのを避けて漠然としか考えてないけれども、それをして下さい。一番有効なのは例えば尊厳死協会が出してるリビングウィル(尊厳死の宣言書)とか、それから「終末期を考える市民の会」って東京にあるんですが、私は最期どういうふうに過ごしたいかっていう書式を出しています。それには「私はもし治らない病気だと言われてもそれを聞きたい。いや私は聞かなくてもいいから家族だけに言ってほしい。」と選べるんですね。「もし脳死になった場合には臓器を提供したい。提供したくない。」そういう死にまつわる自己決定、自分で決めなきゃならないことが色々あるんですが、最初はふざけた気分でもいいんですが、そういうのをやってみられたらいいんです。そうすると「私って意外と知りたくないんだな。知りたい知りたいって言ってて案外知りたくないんだな」って思ったりするんで、自分自身を理解するためにということで書かれるのはいいことだと思います。会員になるとリビングウィル(尊厳死宣言書)ってのがあるんです。「私が不治の病になった時には延命治療をお断りします。植物状態になった時にはもう延命装置は外して下さい。ただ痛み止めだけをして下さい。」というふうなのがあるんですけれども、それに書く。それは日本尊厳死協会といって一番大きいんです。西日本尊厳死協会というのがその支部で福岡市にあります。九州で8千人ぐらいですから、全国だと8万人くらいかな? どんどん増えてきてます。ただそれは延命措置はお断りという拒否宣言書なんですね。そのカードをもらうための入会金がいくらぐらいですかね? 3万円ぐらいかな? 夫婦割引がありましたけれども、夫婦で入る方が多いらしいですね。これはリビングウィルといって、生きている時に効力を発揮する遺言書っていうことになるんです。遺言状ってのは大体死んだ後に家族が開けて見るもんなんでしょ? でもリビングウィルというのは生きているんだけれども、もうそういうこと言えないような状況、痛んで苦しい、意識がなくなった、そういう時に効果 を発揮するものですね。日本尊厳死協会ってのは昔日本安楽死協会っていってたんです。安楽死協会っていううちは誰も来なかった。それでリビングウィルを作り始めて尊厳死協会になった途端にどんどん増えまして、昭和天皇が亡くなった後圧倒的に増えて、だんだんうなぎ登りに増えているっていう状況なんですけれども、そのリビングウィルも人に知られるまではみんな何のことかわからなかった。それで尊厳死協会の古い人に聞きますと、「リビングウィルを二本下さい。」って言って電話がかかってきたんで、「リビングウィルは紙なんですけど。」って言ったら、「いや、飲むと一発で死ねる薬かと思ってました。安楽死の薬かと思ってました。」って言われたくらい知られてなかったんです。今では結構、人が知ってますけどね。それから私、尊厳死協会の集合に行くとみんな年をとられてるんでびっくりするんです。若い人は全然入っていない。30代、40代の人は非常に少ない。またそんな人は自分の問題と思ってないわけです。若い頃から自分はどんなふうな死に方をするかを考えるとそこから、自分はどんなふうに生きていったらいいかというのが、自ら見えてくる。ですから淀川キリスト教病院の一番最初のグループで死の臨床研究会を作られた柏木哲夫先生がいつも言われるには「人は生きてきたように死んでゆく」ということですから、突然最期になって自分らしく死ねるということはありえない。自分らしく生きなければ自分らしく死ねないということだと思います。今日のお話はこれで終わります。ご静聴ありがとうございました。