〜講演会から〜

「ホスピス医療の現場から」
 福岡亀山栄光病院 看護士
佐藤 重行 さん
1997年11月22日(土)コンパルホール 305室

 私も大分出身でして、福岡に移ったのは14年前です。私がホスピスをやりたいと思ったきっかけは17年ぐらい前に母を肺癌で亡くしたことです。一度は左肺の下葉を手術で切除しました。私はその頃は農業をやっておりまして、母と一緒に農作業してたんですけれども「何か左の胸が重い」と言うようになりました。検査したところ胸水の中から癌細胞が出て、主治医から「お母さんは再発です」と言われました。それから再入院してずっと抗癌剤をうち続けていました。その当時母はまだ10人くらいの大部屋にいたんです。私は仕事が終わって面 会に行ってたんですけれども、面会時間の制限をすごくつらく思ってました。亡くなる寸前も本当に悪くなるまで個室に移してもらえなくて、個室に移った時にはもう既に人工呼吸器が取り付けられていたという状態でした。母は自分がそういう延命を望んだわけではないんですけれども、一分一秒でも長く生かそうとする医療の方向性があったのだと思います。その当時というのは古い人工呼吸器でしたから今みたいに自分の呼吸を感知する呼吸器ではありませんので、呼吸に合わず、最期まで母の目は見開いている状態であり、人工呼吸器を押しつけられた印象が今でも強く残っています。  
 その頃にテレビでホスピスということを知りました。「ホスピスで働けたらな」という思いが起こりました。それからしばらくして「福岡亀山栄光病院がホスピスを開設するにあたりスタッフを募集している」というちらしを目にしたので、すぐ連絡をとり福岡に出かけて行きました。「私も実は母を亡くして、これからホスピスで働きたいんですけど」と申し込んだんです。その当時は農業をやったり、いろんな仕事をしていたので別 に医療資格があったわけではなかったのです。「看護学校に受かったら採用しましょう。」と言われました。それが二月の終りでしたけれども、それから一年待って看護学校の試験を受けて、一年後の昭和60年に、子供3人(一番上が小学校一年生)と家内とともに福岡に引っ越していったんです。子供は小さかったんですが、家内の応援がありまして、私が学ぶことができたんです。それから看護学校に入って、二年目の昭和61年の4月に今の栄光病院ができたわけです。開設当時に「大分・生と死を考える会」の副会長の原口先生が、そこの外科医として勤務しており、一緒に4年間働きました。私は子供がいますし、経済的なバックアップは何もありませんでしたので、働きながら准看の学校に行って、さらに普通 のレギュラーを取る場合もいれて5年かかりました。でも5年の間一つも苦労とは思いませんでした。自分がやりたいことに向かって進む時には、人間苦しいことはないですよね。准看の場合には午前中病院で仕事をして、午後学校に行くわけなんですけれども、学校から帰ってきても、少しでも収入が得られるように頼み込んで、また病院にもどって七時、八時まで仕事をしました。レギュラーに入ってからも学校が3時50分位 に終わるので、帰ってきてそのまま夜勤に入って次の朝まで、つまり家を出てから30何時間も家に帰れない時もありました。でもそれらは自分の経験になりましたし、今患者さんと接してましても、いろんな話をする時に全部プラスになっています。  最初にホスピスの患者さんを送ったのは診療所みたいな古い病院の時でした。それから栄光病院は今までに1200人くらいの患者さんを看取っています。今年は年間130人を超えるようです。それらの患者さんとそのご家族に関わってきましたが、その中から学ぶものは非常に多かったと思います。  
 どうして「大分にホスピスを」と思ったかという話をします。大分から福岡へ移住する前から「大分にホスピスを」と思っていて、土地や建物を物色していました。また時々福岡から大分に帰ってきてはいろんな人に話をして「大分にホスピスを作りましょう」と呼びかけていました。私はそういう思いで啓蒙運動をやってたんですけれども、原口先生は「大分・生と死を考える会」の中でホスピスの啓蒙運動をしているということを知りました。「大分・生と死を考える会」の会員の一人である高路木さんという緒方町立病院の看護婦さんが、福岡亀山栄光病院に今年の春一週間研修に来られました。そこで原口先生のことを聞いて、9月に原口先生に電話をしました。二人で会って「ではホスピスの勉強会を始めましょう」ということで、この勉強会が始まることになったわけです。  
 福岡亀山栄光病院にも大分から「ホスピスケアを受けたい」ということで何名かの方々が来られました。最初は緒方町の食道癌の方でした。神戸に行って手術をしたり、いろんな治療をしたけど最後は自分でホスピスを選ばれて福岡に来られました。そこで3ヶ月余りの関わりを持ちました。今でも奥様とお便りしたりして悲嘆ケアの一端にたずさわっています。また大分市内の写 真の老舗の社長さんが一昨年の12月28日に栄光病院に来られて、二週間の関わりでしたけれども立派な最期を迎えられました。そういうふうに大分県にもホスピスケアを受けたいけど、地元で受けられなくて福岡まで来られる人たちがおられました。  
 ホスピスの定義は「死を宣告された人が最期まで人格と尊厳を保ちながら過ごせるように援助をしていくところ。患者さんが中心であり、それをとりまく家族を支えながらケアを行っていくところ。」だと思います。主役は患者さんです。現在の医療の主役は医師と看護婦ですね。しかしホスピスではそうじゃなくて患者さん中心なんです。これだけ社会事情が複雑になってきますと、夫婦の問題、親子の問題というものを少しでも修復して、場合によっては患者さん自身が「自分が悪かった」と謝ったりして、家族の修復ができてみんなに手を取られながら最期を迎えられるというように援助をしております。栄光病院の名前も随分と知れ渡りましたが、栄光病院で働きたいという看護婦さんが募集人員の二倍ほど押し掛けてきてるようです。その中でも本当にホスピスの心がわかってケアができる方はごく限られていると思います。死を目の前にした人たちの世話をしてゆくわけですから、嘘は通 じません。スタッフの心の動きというのは患者さんが一番先に察知するわけです。本当に自分のことを考えてくれているかどうかはすぐわかります。患者さんは直接看護婦さんに不満は言いませんけれども、看護婦も人間ですから疲れてきて、不満もいろいろあるので、そういうことを長く働いているスタッフが少しでも吸収して、できるだけ患者さんに返さないようにという心配り・気配りをしています。  
 ではスライドで実際にどういうケアがなされてきたかということを見ていただきたいと思います。
これが栄光病院の全景になります。ホスピス病棟はこの後ろの列の三階になります。最初この病院が建った頃は混在型と言いまして、この三階の病棟の中に癌のターミナルの患者さんも普通 の内科の患者さんも一緒にケアさせてもらってました。
これは「栄光の間」と言いますけれども、ここで聖書の話が月・木・土曜日の朝8時30分から30分ほどあります。ここへ来れる人は来てもらいますし、ベッドから降りられない患者さんは部屋のTVを通 してベッドにいながら聖書のお話を聞けるようになってます。
患者さんの紹介です。Sさん、53歳の男性の会社員の方です。診断名は胃癌・肝転移です。入院期間は平成7年2月25日から7月25日までと比較的長い方でした。最初は外科病棟に入院していましたが5月4日から緩和ケア病棟に転棟してきました。既往歴は昭和40年と45年にクモ膜下出血あり。昭和46年には脳動静脈奇形で手術を受けてます。48年には交通 事故で脳挫傷。タクシーで帰る途中、タクシーが事故を起こし、九死に一生を得ています。この時の後遺症として左視野欠損が残っています。平成5年7月19日、会社の検診でたまたま肺癌が見つかりまして、当院外科で左肺上葉を切除しています。肺癌は早期ということで完治しておりました。それからまた社会復帰し勤めてましたが、平成7年の1月に痔核の手術目的で当院外科に入院したのですが、胃検診の造影検査を受けて胃癌が見つかりました。家族構成は二人の男の子供さんがいました。平成5年にすぐ上のお兄さんを肺癌で亡くしています。その上のお兄さんも肺癌で亡くしていて、自分の父親も肺癌で亡くしているという癌家系でした。
性格面は非常にまじめで几帳面。頑固な面もありました。職業は国立大学の経済学部を卒業して総合商社の方に勤めましたけれども、その会社が倒産して余儀なく転職しています。その後大手の商社系列の会社に勤務してますけれども子供さんが大きくなり学校のこともあって神戸の方へ単身赴任していました。本人は「役職はいらないから福岡の方へ戻してほしい」と嘆願し、それが聞き入れられて家族のいる地元での勤務となっています。
医師からの説明で「胃の出口に癌があるので胃を3分の2切除してまわりのリンパ節も取り、胃と十二指腸をつなぎます。取ったものを組織検査に出しますが、その結果 は退院する頃にはわかりますので、また話します。」本人は心配して医師に「前に肺癌したことと今度の胃は関係があるのか?」というふうに聞いたんですけれども、「全く別 のものと考えていいだろう」というふうに本人には説明がなされています。
これが胃癌に対して開腹手術を行ったところです。これは本人のお腹の中です。この時既に胃周囲のリンパ節や膵頭部・総胆管・門脈・肝動脈に癌が浸潤しておりまして、切除不能でした。そこで胃と空腸をつなぐバイパスを造設しました。そのことは術中に家族に説明がなされています。この時の病理所見で進行度IVということでした。外科の担当医は家族には「一年生存率は二人に一人である」と説明してましたが、本人にはこのことは説明できていません。
術後35日目より流動食が開始されたんですが、癌の進行により幽門部の狭窄が進み、バイパスの方も通 過障害があって嘔吐をくり返してました。再三にわたり胃カメラでバイパスの状態を見たんですけれども閉塞はしてないのに食物の通 過は見られませんでした。高カロリー輸液を行っており、体重は一時的に回復してほっぺたもふっくらとしてたんですけれども嘔吐は続いてて、たまってくると自分で指を入れて吐くという状態でした。この写 真は気分転換を図るために頻繁に自宅に外泊している時の書斎の前の奥様の写 真です。
これは庭ですが、本人は花が好きで近くの園芸店からこういう牡丹などの苗木を買ってきては自分で植えていました。それらの花が咲いているのを外泊の時に撮られた写 真です。
病状もはかばかしくなく、術後の説明は本人にはなされてなかったので、どのように告知すべきかということを含め、外科の担当医と妻の間で協議が行われました。緩和ケア病棟への転棟の時期などについても話題が上がり始めた頃なんですけれども、ちょうどその時タイミングよく、民放の局から栄光病院を取材に来ていて「ありがとう幸せな日々」というタイトルで放映されました。この放映を患者さんは奥様と二人で病室で見てました。本人に告知していないということもあって、妻はこの頃看病の疲れがピークに達していました。奥様が「二人で一緒に精神面 のケアを受けましょう」とケア病棟への話を持ち出されました。しかしSさんは「自分には必要ない。一人で受けろ。」というふうに奥様に言われています。院内からの転棟というのは非常に難しい面 がありまして、「三階のケア病棟に行ったら『Sさんはもうだめげな』と言われる」と本人は思ってたようです。それで「一度退院をして再入院をする時には緩和ケア病棟へ移りましょう」という話になって一時退院されました。
これからがケア病棟でのケアに入りますけれども、それを三期に分けて話を進めていきたいと思います。一時退院されたんですけれども、衰弱がひどくなって疲れてきて、5
月4日に奥様の説得に応じてケア病棟へ転入というかたちで入ってこられてます。
淀川キリスト教病院ですとかピースハウスなどの他のホスピスは告知されてる患者さんだけを受け入れてるわけなんですけれども、地方の栄光病院のような場合には本人には告知されてなくても家族が望む場合には入院を許可しております。Sさんの場合には胃癌の術後の手術の説明がなされてませんでしたので、まず告知をしていこうということになりました。告知する目的は、(1)手術の内容とその後の経過を説明し、病状を本人に受け入れてもらうこと (2)患者・家族・スタッフ間の不信やわだかまりを取り除き、スタッフが患者と同じ土俵に立って最後まで一緒に病気と闘うことを知ってもらう (3)宗教的援助の手掛かりとするため です。
告知をした時の内容は次のようです。 「胃癌の手術がなされましたが再発しました。胃の周囲のリンパ節、肝臓の入口、腸のまわりに癌が及んでいます。従って肝機能が低下しつつあり、吻合部から流れていっても腸の働きが落ちているから逆流して嘔吐します。外科的には再手術は困難です。内科的には抗癌剤、それから免疫賦活剤を使用します。場合によっては漢方薬もあります。ただしどの程度効果 があるかは不確実です。効果がなければ肝機能が低下し黄疸などが出てきます。腸の働きが落ちて腸閉塞状態になります。今後は和戦両様で行きましょう。」という内容で本人に告知を行っております。
この告知についてですが、ホスピス・カンファレンスというのを毎週木曜日の午後一時半から三時までもってるんですけれども、その中でこういうふうに告知をするということを言ったら、いろんな議論が交わせれました。医師間また看護婦間でもいろんな意見が出たんですけれども最終的には主治医の方針で、前述の内容で、本人に告知を行っています。ケア病棟では告知に先立って家族会というのを持ちまして、家族にまず十分に検査データーやレントゲンフィルムなどを見てもらいながら協議をします。そして家族の同意が得られない場合には告知をしておりません。「あなたはどうにもなりませんよ」いうような希望を失わせるような言い方では伝えていません。希望を持ってもらいながら残された日々を過ごしてもらという方針で行ってます。Sさんの場合は告知の時には主治医と受け持ち看護婦(私)とアシスタントナースと本人の家族が同席しています。家族に説明したのと本人に説明するのが食い違わない、つまり嘘を言ってるんじゃないかと本人に思われないように、家族の前で本人に告知を行ってます。告知を受ける時の様子は、口数の少ないSさんですが真剣に聞きいってました。でも比較的冷静だったように思われます。告知の前と後では外見上さほど変化があったようには思えなかったんですけれども、心の中ではかなりの葛藤があったようです。この写 真は告知の翌日のものですが、「今朝散歩に行った時に二人で延命はしないと話し合いました。また二人で癌と戦っていこうということを話しました。」っていうふうに言われてます。病院のすぐ近くに公園があるんですけれどもちょうどツツジがきれいな時でして、夫婦でよく出かけてたようです。
これはSさんが撮った奥様の写真です。
月20日になりまして、「昨日は水を飲むのも我慢してたけど、今日は我慢できなくなりました。」「あー、奇跡が起こらんかな。」と悲痛にも似た心情をうかがえる言葉が聞かれています。頭では理解できていても「まだ治るのではないか、治りたい。」という希望を本人はずっと持ち続けてました。これは友人の方がお見舞いに来られたので、病院のスタッフと一緒に撮った写 真です。この頃になりますと現実から逃避したいと思ったのか、「夜は眠れるような処置をしてほしい」というふうに言ってました。本人から希望される眠剤を使ったんですけれども、眠剤を使ってもなかなか眠られずに追加することもたびたびありました。そうすると朝まで薬効が残っておりまして昼間にうとうとして、また夜中に目が醒めるという、典型的な昼夜逆転のパターンをとってます。時々つじつまの合わないことを口にするようになってます。
奥様の方は、「夫は予後不良」とわかりまして緩和ケア病棟へ転棟する時期、告知のことなどについて私にいろいろ相談してきましたけれども、いつも目に涙して表情も暗く必死にその重荷を背負っておりました。Sさんのお姉さんたちに現状を説明したんですが、「そんなに悪いなら癌の再発と言わない方がいい」と言われて奥様は一人で悩んでいたようです。緩和ケア病棟に来てからは精神的にも随分落ち着きが見られまして、夫の看病に精を出してました。これはSさんの親戚 です。一年前にご主人(Sさんのお兄さん)を肺癌で亡くされた奥様で福岡市内に住んでおられます。こちらは奥様の御両親で湯布院に住んでおられます。ちょうど見舞いに来られ外泊された時の写 真です。
これはSさんの大学時代の写真です。大学生活をしてる時に彼の後輩でシンガポールから留学して来られてた陳さんという方のお世話をよくされてましたが、陳さんは医師になって今はニューヨークで麻酔科医をされてます。その陳さんと下稲葉先生とは大学時代に聖書の勉強をする繋がりがありまして「陳さんを知ってますか?」という会話からよりSさんと主治医の信頼関係が深まっていきました。
これはケア病棟のロビーです。見舞に来た家族と記念写真を撮ってます。こちらが次男で今年、卒業して就職してます。こちらは長男ですが、当時の春は卒業して外食産業に勤めてたんですけれども、今は外食産業を辞めまして、今年の春から介護士の資格を取るための学校に行ってます。ガールフレンドが看護婦さんということもあったでしょうし、お父さんのケアを通 して何か思うところもあったんじゃないかと思います。
この方は神代(こおじろ)さんと言いまして、大分出身の看護婦さんです。彼女も金沢大学の方で看護婦をしてまして、九州の方に帰ってきてターミナルケアやホスピスに関心があって、当院に二年ほど勤めました。もっと勉強したいということで今は久留米大学で人間科学の精神面 のケアについて学んでいます。看護婦を一旦止めて大学に行っていますけれども、そのうち彼女もこの会に来て話をしてくれると思います。
第二期、5月28日から7月18日までです。当院で葬儀をしてほしいとの申し出があり、「ドイツ語の歌や讃美歌を歌った日々」とタイトルしてます。時として見当識障害があり嗜眠傾向が続いていました。そして思考力もだんだんと低下しつつあった時期です。胃の中に管を入れて飲んだり食べたりした物を外に出すようにしていました。吐き気が強いので管を入れてたんですが、「もう入れたくない」と本人が訴えた場合には入れておりません。でも食物が下へ降りていかないものですから、嘔気を誘発します。この時期はベッドの横に大きなバケツを置いてまして、食べては吐く、食べては吐くということをずっと繰り返してました。
この頃になりますと、かなり逆流が見られています。5月29日の朝、暗赤色の血液混じりの物を500 mlほど嘔吐してます。それを見て自分の死を覚悟したのか、5月31日に奥様より当院で葬儀をしてほしいとの申し出がありました。
この方は宣教師マリア・デルクセンさんと言いますけれども、私がまだ大分にいたころ大分で宣教してました。この方はアメリカにいる次女の娘さんですけれども、ちょうど親の許へ来てる時にボランティアしてました。ハープを持ってますが讃美歌を病室で歌ってる写 真です。ボランティアの活動も患者さんにことわって患者さんが「入ってもいい」と言われれば入ってもらいますし、「今日はちょっと疲れてるから遠慮してくれ」と言われれば入りません。いろんな人との触れ合いを試みています。
6月3日の医師記録です。患者さんから「息子達に話すことは話しました。兄弟達を集めるのは無理です。」医師より「死んでも信じる者は天国に召されますよ。Sさんが召されたら讃美歌を歌って送りましょうね。」というふうな問いかけがあったんです。その時終始にこやかに応答して、この時期は死という言葉を自由に使えるようになっております。
これも医師記録ですが、主治医「心配しないで、神様と私達にお任せ下さい。」本人から「任せていいのですね。安心しました。」という言葉が返ってきています。
6月12日です。ご覧になってわかるように目が少しうつろになってきてますけれども、昼間でも寝てる時間が長くなってきています。
この時期に奥様の方から再度「栄光病院の礼拝堂で葬儀をしてほしい」と申し出がありました。それから一週間は出血は治まってましたけれども39度から40度の発熱がみられてます。嗜眠傾向や失見当識がある中にも通 常の会話はまずまず可能でした。
これは私の看護記録の中の一文です。夜勤で「今日夜勤です。よろしくお願いします。」って部屋を回るんですが、その時奥様が「先生から聞いた? 『亡くなったら讃美歌とドイツ語の歌を歌って送らせてもらいます。』と先生が言ったら、主人が『お願いします』と言ったのよ。」とおっしゃってすごく喜ばれました。
これは本人が意識があって機嫌の良かった時にほとんどのスタッフが集まって記念写 真を撮った時です。
病棟では誕生日とか、結婚記念日などできるだけ多くのスタッフが家族と一緒にお祝いをしています。いろんな思い出づくりの一環なんですけれども、その時の場面 です。結婚記念日や誕生日がちょうどなかったものですから、1995年6月18日の日曜日に、本人の意識があるうちにお祝いをしてあげましょということで父の日を祝ってます。
この時、病棟からこういうふうに花束を贈り色紙にみんなで寄せ書きをしました。こういう会では最後にみんなで写 真を撮ってそれを色紙の中に貼って後日差し上げるようにしてます。
これが色紙です。受け持ちの看護婦がいろんなデザインをしまして寄せ書きをしてます。Sさんは甚兵衛を着てますけど、息子さん二人がお父さんのためにプレゼントした甚兵衛です。
これが集合写真でこれを色紙に貼りました。この時は部屋の中にオルガンを持ち込みました。Sさんの時代はドイツ語を必修としてまして、ドイツ語を覚えるためにドイツ語の歌を歌ってたようです。それでシューベルトの子守歌をみんなでドイツ語で歌ったり、讃美歌を歌ったりした時の記念写 真です。
第三期、7月18日から7月26日で、7月20日には最高血圧が60まで下がって26日に亡くなってます。
これはSさんの葬儀の式次第です。讃美歌の歌詞と内容が書かれています。
これは当院の礼拝堂における葬儀の光景です。礼拝堂の椅子が一杯になるようになるほど多数の人々が参列されました。そのことからもSさんの人柄がうかがえるのではないかと思います。主治医が経過報告とSさんとの関わりを話しますと、Sさんの病状を知らなかった人々も全員が追想にふけっていました。受け持ちだった私も病床のことを話したのですけれども、後で身内の方から「生々し過ぎた」というふうな言葉も返ってきました。喪主である奥様の方は、夢うつつだった夫との最後の会話から「運転を代わってくれ」といわれた言葉がすごく印象に残ってたみたいです。「『運転をかわってくれ』と言われたのは、『S家の舵取をかわってくれ』ということだった気がする。」と皆さんの前で挨拶されまして参列者一同涙を誘いました。長男は「社会人となった今は父との思い出を大切にし、母を助けていきます。」というふうに宣言してます。次男は、「自分の思い出は父に叱られてばかりいたこと」というふうに話しまして、皆さんが和む場面 もありました。最後に讃美歌の流れる中で献花をしてSさんの棺を花で一杯にした次第です。  
 この症例を考察した一部分をお話しします。  
 人の一生というのは様々ですが、その人の終焉が一番大切に思われます。人は生きてきたように死んでいくと言われますが、緩和ケア病棟ではそのことをまのあたりにすることもあります。私達スタッフはどのようにしたら患者さんが望み、また家族が希望する最期を迎えられるだろうかと努力してます。Sさんの場合、どういう経過で讃美歌で送ってほしいと思うようになったかを少し考えてみたいと思います。
1.緩和ケア病棟に転棟し家族との協議のもとに告知して、Sさん本人と妻との間に病気のことに関しての壁が無くなったこと、またスタッフが妻に対し終始傾聴態度で接したことで妻が精神的に安定した日々を送ることができたということ、そのことがすべての面 で良い方向に導く原動力になったと思われます。妻は外科病棟に入院中に相談を受けて話をする時などはいつも目に涙をためておろおろされていました。しかし転棟後は涙を見せることもほとんどなく、夫の世話をしておられました。付き添いを代わってくれる人もいなかったので肉体的な疲労は免れなかったと思います。たとえ代わってくれる人がいたとしても妻の性格からして代わらなかっただろうし、夫もそれを望まなかったと思います。また妻自身精神的に安定した日々をおくることができたと思います。葬儀の申し出があったのも妻からでした。出血が始まり妻も死を覚悟したようでした。それに二年前の兄の葬儀が気になっていたようでした。そのお兄さんの場合は見も知らぬ お寺との関わりに耐えられなかったということを聞いています。
2.告知無くしてSさんが穏やかに最期を迎えることは無理だったと思われます。もし告知しなかったらどうなっていただしょう。とても死という言葉など口にすることはできなかったであろうし、「信じる者は天国に召されますよ」とは到底言えることができなかったでしょう。自覚症状など全く無かったのに検査で胃癌が見つかり、それによって5ヵ月の闘病生活で人生を終わらなければならなかったわけですが、当然本人は再手術や治療に対する希望を告知後も持ち続けていたと思われます。告知後患者さんの表情はしだいに穏やかになっていきました。Sさんは知的な人で癌についてもいろいろと本を読んでいたので体力の衰えや自覚症状からも死を徐々に受け入れていったのではないかと思われます。
3.Sさんは大学時代にキリスト教との出会いがあり、妻も大学で聖書を学んだり讃美歌を歌っていたので、よきおとずれ会(病院で行われている聖書のお話し)や主治医の話を容易に理解でき受け入れたのだと思います。そして木曜日のチャプレンの訪室も楽しみにしていました。ドイツ語の歌や讃美歌を一緒に歌ったことで益々和むことができたと思われます。
4.父の日のお祝いや長男と妻の誕生日を祝ったことは家族にとって大きな思い出作りになりました。そして最後に当院で葬儀まで行ったことはスタッフの一人として光栄に思っています。
魂のカルテというのがチャプレンによって書かれますけれども、その中の一節にチャプレンが「Sさんは美しい夕陽のようですね。一日の労を終え、静かにゆっくりと沈みつつ空を美しく染めるあの夕陽のように静かで穏やかで。」というふうに記してます。6月26日に病室からあまりにきれいな夕焼けが見られましたので、私がたまたまそれを写 真に撮っておいたものです。  
今までがSさんについての症例です。これでスライドの方は終わります。  
 今のSさんの事例を通しても、皆さんいろいろ感じられることがあったのではないかと思います。ホスピスの一症例ですけれども、一人一人全部違います。一人一人生きてきた生活背景も違いますし、家族背景も全部違うわけですね。でもその人にあったケア、それを行っていくのがホスピスなんです。マニュアルというのはあります。けれども一概にその通 りにできるとは限りません。いかにその人にあったケアができるか、そのためにはかなりの経験と熟練がいるわけですけれども、この会に参加される方がどの人に対してもケアができるようになっていければと思います。  
 私の体験ですが、昨年私は腎癌に罹りまして、手術して左の腎臓を摘出しています。今は片腎(へんじん)になってますので、おかしなこともいうかもしれません。私は8月7日生まれなんですけれども、8月7日に手術をしました。「先生、誕生日の8月7日に手術して下さい。切ってもらって生まれ変わりますから。」なんて冗談言いました。術後三週間その病院に入院しまして、その後栄光病院に帰って腎臓癌に効くっていうことで、といっても10から30%にしか有効でないのですがインターフェロンの注射をしたんです。あまり気がすすまなかったんですけども、治療してすごく落ち込みました。食事が入らなくなりました。1ヶ月ほど治療したんですけれども、抗うつ剤を50 mg 飲んでましたので横になればうとうとってな感じで、自分の体が持たないと思い、「先生、もうやめます。再発したら再発した時です。」というふうに言って止めました。それから3ヶ月毎にCTや骨シンチで検査を行ってますけれども、今のところ再発は認めておりません。  
 このあとは質疑応答。  何でも結構です。今日だけじゃありませんし、私もこれからこの会がある第4土曜日には、大分に出かけてまいりたいと思います。直接質問をしづらかったら、私の自宅方へファックスを送っていただいても結構です。勤務などありますから、電話で直接話せない時があるかもしれませんけども、一緒に考えてホスピスを作っていきたいと思いますけどいかがでしょうか?
Q. 佐藤さんは全く医療関係に従事してなかったのに、お母様が亡くなったことをきっかけにホスピスを作りたいと思われたということですが、私自身も家族を癌で亡くした経験がございます。以前はホスピスを知らなかったんですけれども、漠然とそういうものができればいいなと思っておりました。「自分の思いだけでどこまで大分という地にホスピスを作れるもんだろうか?」っていう悩みを持っている時に、この会の活動を知ったわけですけれども、「私自身もできれば将来はホスピスを作りたい、ホスピスで働きたい」という強い思いがあります。ただ医療関係の人間ではありませんし、ホスピスのスタッフになりたいと思って、今から看護婦の学校に行きなおすということも自分の生活面 から考えてちょっと不可能です。ボランティアという美しい響きだけではやっていけないというのも分かってるんですけれども、ただ「どうしてもホスピスを作りたい。自分もそのスタッフの一員になりたい。」という一念で今日ここに来ました。こんな医療関係者でない私なんかでも希望が持てるのでしょうか? 思いだけでもやっていけるのでしょうか?
A. 最初私が思い立ったのもそういう思いからでした。資格あるなしに関わらず、ホスピスを作っていく場合にはいろんなパラメディカルの人たちの協力がないとやっていけません。だから必ずその思いが大分にホスピスを作るんじゃないかと思いますし、是非その思いを慕らしていってほしいと思います。やはり物事を行うには時期があると思うんですね。その人その人の人生において、必ずそういう時期があらわれると思いますし、それに向けて自分なりの学びをする、いろんな本を読んだりとか自分で道を探すことも必要じゃないかと思います。一律に「今から看護学校へ行って看護婦さんの資格を取ればよい」というわけではないと思います。反対に看護婦の資格を取ったとしても、「自分には向いてないんじゃないか」と、そこで方向が変わるかもしれません。でも「ホスピスで働きたい、設立に関わりたい」という思いはずっと持ち続けてほしいと思うんです。そういう思いがないとホスピスはできないと思います。
Q. 私は大分医科大学で看護学科の精神看護学の教育をしてます。私は九州出身じゃなくて大分に来てから3年目なので九州のホスピスの状況っていうのがよくわからないんですが、先日栄光病院のことを知ってとても関心を持ってます。スタッフの教育についてお尋ねしますが、ホスピスを希望しても技術的な不安が強かったり、年令的にもまだ若いですね。だから死生観についての教育の必要性を感じてるんですけれども、学生の段階ではまだ芽だと思うんです。それが病院に勤めてからだんだん育っていくと思います。院内教育について、また例えば一般 病棟において技術的なものがある程度身についてからでないとホスピスで働けないのかというような条件があれば教えていただきたいんですけど。
A. 栄光病院もいろいろ模索をしてきましたし、いろんなスタッフが入れ替わり入っては、「こうじゃなかった」と言って、随分辞めていきました。スタッフの資質は、まず一番に思いがあるということです。ケア病棟で働きたいという思いが一番だと思います。次にその人の経験です。いろんな経験を積んだにこしたことはないんですけれども、看護婦の資格を取って、4〜5年経つと自分の仕事にも慣れて、今の医療に疑問を持ってくると思うんです。その時点からホスピスに入っても決して遅くないし、そういう方もいっぱいいます。また希望してもすぐにケア病棟で働けるとは限りません。他の病棟、例えば外科病棟であってもターミナルの患者さんはいるわけですから、そういう人たちに関わりながら自分で研鑽していくものだと思いますし、その中から選ばれて、ケア病棟に配属になります。配属になったとしても「自分には力がないので関われない」ということで、辞めていった人もたくさんいます。死を目の前にした人たちを世話してゆくと燃え尽きちゃうんです。俗に言われる燃え尽き症候群なんですが、燃え尽きて疲れてくるとまず攻撃がどこへ向くかというと仲間なんですね。同じスタッフに向いてくる。そして「医師のやり方が悪い」と、看護婦につっかかったりするようなケースが見られます。そういうのをわかる人が見て早くそのストレスを解消してあげるような、気配りをしなくてはいけません。それでも辞める人は辞めますし、全くケアから遠ざかっていく人もいます。先ほど出ました神代君のように「自分は若くて力がないので、大学に行きなおして勉強する」と意欲にあふれた人もいます。
Q. 欧米のようにホスピスだけの独立した施設でなく、一つの病棟だけが緩和ケアの病棟ならスタッフの限界というのがあると思うんですけど、栄光病院ではどういうようなスタッフがチームを組んでいるのでしょうか?
A. 医師、看護婦、それからPT・OT(理学療法士)、音楽療法士、栄養士、チャプレンです。うちの栄養士は事細かに患者さんの希望を聞いてくれるんですよ。食べれる物、食べれない物を聞き出したり、食事をどういうふうにして出して欲しいかという希望に応えたり、朝・昼・晩全て違うメニューを好む方にも応えたりします。栄養士はできることは「できます」、できないことは「できません」とはっきり言います。少しでも壁をなくして患者さんに添えるようにしています。チャプレンは自分の教会で牧会をしながら木曜日を一日空けてまして、朝から晩まで患者さんの側に行って話を聴く、患者さんの訴えを聴いてあげるということをやっています。
Q. 僕は医師なんですけれども僕も緩和病棟というのをなんとか作りたいと思って努力してきたんですけど、なかなかハードルが高くて、未だ実現しておりません。けれども、今日は佐藤さんから有名な栄光病院の実態を聞かしてもらって非常に参考になりました。いくつか質問があります。
(1)人間の死に霊的なものが関わるということは僕もよくわかるんですけれども、日常ケアにおいてホスピス病棟でも日頃から常に宗教の役割というのがあるのでしょうか?
(2)告知には病名告知と病状告知というのがあります。今までは病状でさえも隠されるという現況があるわけですけれども、僕は積極的に病状だけはきちんと知らせようとしています。栄光病院では併設型であるというところから転棟という問題が出てくるわけですね。独立型の緩和ケア病棟では病名を知って入ってこられる人が多いわけですね。僕らの病院も緩和ケア病棟を作ろうとすれば併設型になると思うんですけど、転棟という時に病名告知、病状告知の点で何かトラブルが起こりませんか?
(3)栄光病院でのボランティアの数やどういう職種の方々がおられるかを教えていただけませんか?
(4)これから日本の医療というのは在宅ケアの方向に進むようになっていくと思います。ホスピスという施設型の終末期医療から在宅終末期医療という方向に流れていくんではないかと僕は思ってるんですけれども、栄光病院では今施設から在宅へと移行する患者さんがいらっしゃるでしょうか? 佐藤さんは今併設型で勤務されてますけれども、今後こういう終末期医療を行う施設は併設型が望ましいのでしょうか、独立型が望ましいのでしょうか?
A. (1)宗教は前面にはうちだしておりません。どんな宗教の方であろうと、入所してこられる方は全部受け入れております。いろんな宗教を持った方々がおられます。どっちかというと駆け込み寺の要素が非常に強いんです。どこの医療機関からも受け入れられなくなった方が捜しあてて最期を迎えるところとして入ってこられる場合が多いのです。私が紹介した例はたまたまそういう宗教的な関わりがあったわけです。働くスタッフの中に宗教というような自分の心の支えを持ってないと燃え尽きていきます。そこで何らかの宗教的な支えは持っていた方がつぶれないと思います。たとえ宗教的な支えがあってもきつい病棟です。
(2)告知の問題では、日本人のあいまいさの特典といいますか、告知にもいろんな方法があると思います。栄光病院の場合には「あんたは癌ですよ」ってまっ正面 から言うようなことはしていません。「検査をして悪い細胞が出てきました」とか、「腫瘍」という言葉を使ったり、家族からの要望も受け入れて、その人にあったように、わかるように、告知を行っています。  転棟の問題では、たまたま私が紹介した症例の場合には転棟っていう形になりましたけれども、院内でケア病棟に転棟する事例は非常に少ないです。院内の患者間でもスタッフ間でも「ケア病棟に行ったらもう死ぬ だけ」という思い込みがあります。また最初から24床のケア病棟に入れない患者さんの場合もあります。ホスピス外来というのを月木土の午前中にやっています。ホスピス長の下稲葉先生にまず面 談してもらって緊急を要していてベッドが空いてない場合にはまず一般の病棟に入ってもらう場合があります。空きしだいにケア病棟に移ってもらうようにしてますが、一般 の病棟に入ってそのままという方もあります。
(3)ボランティアというのはホスピスにとって非常に大きな働きの一つです。総婦長が人員を把握してますが名前を連ねている方は300名を超すと思います。まだしっかりとしたボランティアのコーディネートがなされてないもんですから、どういうとこで働いてもらう、どういう患者さんと関わりを持ってもらうというところまでいってないのがうちの現状なんです。私はこれから大分において、ホスピスの勉強会とは別 にボランティア養成講座を作り、一週間のスケジュールを組み、自分にはどういうことができるっていうところまで全部タイムテーブルに入れておいて、患者さんが自宅に帰りたいという場合にどの人が今空いてるか、送ってもらえるのは誰か、買い物に一緒に行けるのは誰かということが把握できるようにしておくとういことを考えています。例えば温泉に付き添っていける看護婦さんがいれば患者なり家族は安心します。実際に入院期間中に「自宅に帰りたい」って言って、私が頼まれて付き添って外泊したこともありますし、温泉に二泊三日で付き添って行ったこともあります。いろんな職種の方がいて下さる方がより良いと思います。
(4)在宅ケアについては、栄光病院も在宅ステーションを持ってます。今保険点数でも認められてますが、普通 の訪問よりも点数がいいわけですが、週に4回とか訪問回数が多いですよね。本人がどうしても自宅で過ごしたいという場合には、痛み止めの持続皮下注の器械の薬の詰め替えとか、在宅酸素の量 が足りなくて酸素ボンベを運んでいったりという場合もあります。現在肺癌の女性の患者さんがいて、自宅に帰って、最初は桜を迎えられるだろうかといってたのに、桜は過ぎて、さらに夏が過ぎ、非常に厳しい状態ですけれども、お正月を迎えられるかもしれないという方もおられます。入院中に主治医だった医師がずっと継続してその方をお世話してます。自宅で最期を迎えられるという良いこともあるんですけれども、家族にとっては「ちょっと最期はみれない」「怖い」とかいう思いがあって、患者さんが病院へ戻ってくるケースもあります。いくら本人が帰りたいと言っても、今の核家族化した中では無理な状況が多いと思います。今厚生省は「在宅、在宅」って言ってますけれども、無理だと思います。本人がいくら帰りたいと言っても、これだけ核家族化した中では介護する人がつぶれてしまいます。重い病気を持った人の世話はとてもできるもんじゃないと思います。保健婦などの協力でうまくその人を支えていくことできればいいですけれども、また住宅事情から車椅子が入らない、何が入らないという状態が非常に多いと思います。昭和30年代でしたら、みんなまだ病院で死ぬ よりも自宅で亡くなってるケースの方が多かったわけでが、現代のように「子供は東京へ行ってる」「海外に行ってしまってる」とかいうケースでは在宅では非常に難しくなってると思うんですけど、いかがでしょうか?
Q. 今の在宅ケアの問題は非常に大きいと思います。僕が大分県民の方々にアンケートをとった時に「どこで死にたいですか?」という質問に、八割近くが「在宅」と答えました。「実際にあなたは在宅で亡くなると思いますか?」と質問したら、ほとんど「できません」という結果 でした。そこのギャップがあります。僕ら医療従事者としてこれから施設型の緩和ケア病棟を作ろうとすると、恐らくべらぼうな金額がないと完全な施設型のケアというものは不可能だろう思います。今佐藤さんがおっしゃったように、これからは村社会というものがどんどん崩壊していきます。日本全体で、今おっしゃったようなボランティア活動あるいは村落共同体という意識がもう一回芽生えてこないと、ホスピスに入られた方、緩和ケア病棟に入られた方はいいかもしれないけど、そうでない方々は同じような状況があと数十年続くという事態になります。村社会をもう一回立てなおそうという動きと、ボランティアというのが非常に大事だと思います。
A. ホスピスというのは建物じゃないんですよね。ホスピスマインド。ホスピスの心なんです。そういう心がまず必要です。先ほど言いましたように在宅が難しい方々は施設で迎えていただけるようにするべきであって、マンパワーなどの状況が整えばもちろん在宅で希望される方はできるだけ在宅ケアを援助するというコーディネートも必要になってきます。
Q. 佐藤さんのお話しの中に「スタッフの死生観の相違で現場を去られる、お辞めになられる」という話がありました。看護学科の先生のご質問では、「若い研修をされてる生徒さんの場合に、死生観の問題が大変なんだ」とありました。私は歳をとっておろうと若い人であろうと死生観は同じだろうと思うんですけれど、医師の方の「宗教がどうでしょうか?」というご質問に対しまして、佐藤さんは「いろんな宗教の人が入っているんだ」という説明でございましたけれども、これも死生観の問題をお尋ねになったような気がいたしました。今まで出ておりました死生観というのは、どんなことか? 具体的にどんな死生観の相違で辞めるのか? どういう死生観が協力できないのか? 宗教というのがホスピスの中でどういう関わりを持っているか? そのへんのところをちょっとお尋ねします。
A. 死生観の問題ですが、昭和30年代までであれば自分の身内、お爺ちゃん、お婆ちゃんを家で看取っていって最期はどうなる、人間は死ぬ 時はどうなるということがわかります。しかし実際に死に立ち会ったことのない若い方々の場合は、死に直面 したことがありません。ご家族も同じように「私は死には立ち会ったことがないから最期はどうなるんだろう」っていうすごい不安を持っておられる場合があります。私の場合はクリスチャンなので、この肉体の死は最後ではなく永遠の命があると信じてますし、死んでも魂は滅びることなく天国に行ける、私たち人間の体を作ってくれた神様のもとに帰って行くという死生観を持ってます。死を忌み嫌う日本の風習からすると少しかけ離れているかもしれません。若い看護婦さんが辞めていったのは、人間関係の複雑さが原因です。最初慣れないと距離がとれないんですね。思いが入れば入るほど、その患者さん方へ深みに一緒に入ってゆくわけです。その中で看護婦さんはどうにもこうにもならなくなって、患者さんが亡くなった時に本当に燃え尽きてしまう。そうはいっても別 に受け持ちの患者さんがいるわけですが、別の患者さんにどう対応してゆくかという切り替えがうまくできなくて、どうしても自分の心の整理ができずに、ストレスを抱え込んでしまって辞めていった人が多いと思います。
Q. 私は百床規模の病院で内科医をやっています。あまり臨床経験は長くないんですけれども今まで三人の末期癌患者をみました。
(1)一人は90歳台で亡くなった肺癌の患者さんでした。その人は10何年もずっと腺癌を持ってて、手術しなくて癌が大きくなるがままに任せて在宅で亡くなられました。最後まで往診で診せていただいた方ですが、その方は癌の歴史が長かったもんですから、自分は悪いもんだとわかってて「これも墓場に持っていくから」と達観されてる方だったんです。ですから最期のケアがものすごく楽で本人の前でも「もうちょっと頑張ろうね」って言い、家族の方には「あと二週間ぐらいだと思います」と説明して最期までいいケアができました。
(2)もう一人肺癌の患者さんがいたんですけれども、その方は死亡される一ヶ月前に初めて病院を受診されて、その時既に両肺野が癌性リンパ管症みたいな状態になってて全く呼吸ができない状態で、告知もできる状態ではなかったんです。私が彼女にしてあげられたことっていったら、生活保護を取って申請するということと、全身転移してましたから対象療法的にモルヒネを使って末期の痛みを抑えるということと、眠らせることでした。
(3)今、佐藤さんの症例と同じような胃癌の肝転移の末期の83歳の男性の患者さんを担当しています。その方は5月に当院を受診されて、便潜血がずっと出てて、検査を勧めたんだけれども、絶対胃カメラをのみたくないって検査を拒否していました。9月にカメラをのんでもらった時に胃の半分が癌に侵されてて手術すれば食べれるんじゃないかと思って術前検査をしたんですけれども、肝転移が見つかって、手術できなくなった患者さんです。末期なんで、どういう治療してるかっていうと塩酸モルヒネを使って痛みを抑えて胃管を入れて減圧をしています。食べるとすぐ吐いてしまうし、本人がもう食べたくないっていうので、ずっと胃のチューブを鼻から入れてる状態です。もう意識レベルも落ちてきてて私としては在宅で看取ってあげたいなと思うんですけれども家族の反対が非常に強いのです。また告知をすれば本人も納得をして中心静脈栄養を入れて、おうちに帰せると思っていたんですけれども、大変臆病で告知ができなかったんです。死の受け入れっていうのは大体一年ぐらい時がかかると言われたもんですから、その方はもう年末までもたないと思ったんで告知しなかったんです。症例によって違ってくると思うんですけれども、大体亡くなるどれぐらい前まで死の告知といのはできるものなんでしょうか? 
A. 余命告知って私たちは呼んでますが、あとどれくらいもつかということですね。大体人間というのは動物的な本能で自分の死が近いっていうのは、ある程度わかってきますけれども、最後の最後には「あと1ヶ月ですよ」ということは本人には言いません。たとえ1ヶ月ということが検査等からわかりましても、「あと3ヶ月後にはちょっと厳しくなりますよ」っていうような言い方をします。本当にしっかりされて自分の考えを持ってる方であれば「あとどれくらいです」と割と近い数字で答えます。また年令的なものもありますが、いくら80〜90歳であってもやはり死が怖いという方々がほとんどだと思うんですね。3番目の患者さんについて、「モルヒネで眠らせた」っていうのを言われたんですが、モルヒネで眠らせるべきではないと思います。モルヒネは痛みを取るために使って、眠らせる処置に使うべきではないと思います。「生活保護をとってあげた」と言われましたが、マザー・テレサが言ってるように、人間だれしも、最後まで必要とされてるっていう思いがないと生きていけないんですよ。孤独では生きていけない。マザー・テレサがインドの薬の無い現況の中で亡くなっていく人に薬を与え続けてきましたよね。「あなたが必要です。あなたの側に私がいます。」と言って側についてあげる。「あなたを必要としてます」ということを言ってあげる必要があるんじゃないかと思います。一番目の方は肺癌で何年ももっていましたけれども、年をとられてくると癌によるよりも老衰に近い形で亡くなっていくケースの方が多いようです。ケア病棟でも今まで一番長いケースは70歳台のご夫人でしたけれども、乳癌から肺転移があって8年間ゆっくりゆっくりと進行していったケースもあります。最近では90歳台の方ですけれども2年近くもっているという長い経過の方もおられます。