〜講演会から〜

「私が診た生と死−リエゾン精神医療の経験から−」
 大分丘の上病院 院長
帆秋 善生 さん
1997年11月8日(土)コンパルホール 305室

 私が生と死について考えだしたのは、大学院を終わって精神科の医局に戻り、リエゾン精神医療というものを始めた時です。その時に死ぬ 人々に出会ったということで、今日はその体験からお話をしようと思います。
 リエゾン精神医療というのはどういうことかというと、私は精神科に勤めているんですけれど、他の内科とか外科に入院している患者さんが、精神科に受診することがあります。その時は欝(うつ)になっているとか、幻覚とか妄想を示すということで明らかな症状があって、精神科の外来に紹介されて来るんですけれども、内科や外科には、そういう明らかな症状がないけれども何となく元気がないとか、あるいは癌の末期だということがわかって、看護婦さんが話しかけても返事をしないとか、あるいは入院したけど検査を全くしない。夜中に時々近くの酒屋にお酒を飲みに行くとか、あるいは患者の家族にちょっと困った人がいて、治療をしよう、あるいは検査をしようとするのに一つ一つ反対をする、そういう人達にどうしたらいいか? という問題があるわけですけれど、それを精神科の医者が、何とか援助ができないかということで相談するというのがリエゾン精神医療というものです。だから病気ではないんです。むしろ人の交流のしかたをどうしたらいいかというのを精神医学的に少しアドバイスするということです。リエゾンというのはもともとフランス語なんですけれど、英語にもなってまして、「連携」という意味です。どんなことをするかというと、各病棟を金曜日にずっと回って訪ねていきます。千床以上あるので一日かかるんですけど、病棟に行って「精神科の医者ですけど、何か御用はありませんか?」というふうに聞くんです。それは医者に聞くんではなくて看護婦さんに聞きます。実際困っているのは看護婦さんですので。そうすると看護婦さんが「こういう患者さんがいて、なだめるにはどうしたらいいでしょうか?」とか、小児科では「泣き叫ぶ子供をどうしたらいいでしょうか?」とか、そんな相談を受けるんです。「何か御用はありませんか?」っていうふうに金曜日回るので、その当時私達は御用聞き方式と言う名前を付けていました。最初はやっかいな患者さんの相談が多かったんですけど、だんだん死にゆく人達の相談があるようになってきたわけです。その死にゆく人達の相談というものを受けてきた話をしていきます。「死」を考えるという内容になるかと思います。
 リエゾン精神医療とは、精神科以外の患者さんの精神的問題に対してその患者さんの主治医や看護婦の相談に応じ、ともに連携して治療をして行くものを言います。リエゾンとは「連携」と言う意味です。患者さんの不眠やうつなどの精神症状の相談から、検査を受けたがらない、扱いが難しいなどの性格的問題、医療上のトラブルなどにどうしたら良いかアドバイスしたり、あるいは患者さんの家族への対応法などの相談に応じます。 リエゾン精神医療の中で死にゆく患者さんについての相談は大きく三つに分けられました。
 一つは告知をされてない、いわゆる癌だとは知らない患者さんに対して看護婦や医者はどんなふうに対応したらよいかという相談です。
 二番目は、癌を告知したいけれど、はたしてこの人は告知に耐えられるかどうか? それを精神医学的、心理学的に判定できないかという依頼です。これには私達はとても困りました。
 三番目は、告知したけれど告知した後のサポートがこれでいいのかどうか、あるいはどんなふうにしたらいいかという相談だったんです。
 しかし、私達精神科医にとって人が死ぬということはあまりないことなんです。精神科の中で死ぬ ということはほとんどありません。特に大学病院では死にそうになると他の科に移して診てもらいます。医者というものはいつも死に面 している印象がありますけど、大学病院だとか癌などの重たい病気の集まる大きな病院の医者は死に直面 することがありますけど、精神科だとか耳鼻科だとか眼科だとかいうところでは死というものはほとんどありません。しかも私達は医学部の学生時代に死ということは講義で習いませんでした。今の人なら習ってるかもしれないけど、臨終の時にどうしたらいいかっていうことも学ばないで医者になっています。そういう中で死を診ていくというのは非常に荷の重たい仕事のように思われたんですけれども、私は失敗を繰り返しながらいろんなことを考えさせられたものでした。そういう人達の中で特に印象に残った人達の話をしたいと思います。
 症例1、ある市立病院に勤めた時ですけど、ここで私は一週間に一回のリエゾンをやることになりました。特にこの病院は死にゆく人々の相談がとても多かったんですけど、外科病棟に50歳の胃癌の女性が入院していました。彼女は手術をしたのですけど転移をおこしていて、あと数ヵ月の命でした。しかもさらに悪いことに抗癌剤で髪が全部抜け薬によるひどい薬疹ができて、顔は皮膚が炭化といいまして、炭のように真っ黒になって、ところどころ血がにじんでいる状態でした。本人は癌であることを知らされていませんでした。しかし薄々は感じているようでした。いつも娘さんとご主人が付き添っていらっしゃったのですが、元気がなく、電気もつけずじっとしていて、顔のその状態からも不気味で看護婦がこわがるということで主治医と病棟婦長から私に依頼があったわけです。私は精神科ということではなくて心理を扱う医者だということで紹介され、その人に対して「困っていることや他人に言いにくい事を私が伝えるということをやりますのでお話しして下さい」と話して週1回面 接することになりました。当時の病院は古く彼女の病室は病棟の端の北東側にあり窓の外は塀で、彼女はいつもカーテンを占めあまり明るいとは言えませんでした。彼女は口数が少ないながらも淡々と髪の毛のこと顔のこと病気の経過を話します。薬の副作用には不満があるものの他に薬がないと言われてるので我慢していることなどを話されました。毎回「特に主治医や看護婦には頼むことがありません。」と話していました。しかしある日、「以前点滴を刺したところから血が漏れてベットのマットに血が染み込んで、マットが汚れたままなので『それを変えてもらえないか?』ということを頼んでほしい。」と依頼されました。本人も看護婦に頼んだのですが「『シーツをしていれば分からないから』といって変えてくれなかった。」と言います。彼女は「マットを変えてもらえれば安らかに眠れる。」と話すのでした。私はなぜかこのことが彼女にとって重大な事のように思えて二週にわたり病棟婦長に頼んだのですけど、頼んだ時が二回とも外科部長の回診の最中ですぐには対応していただけませんでした。三回目の週に訪ねていくとその前日に彼女は亡くなられていました。婦長に「マットは変えましたか?」と聞くと「そのままでした。」と答えられ、自分があまり役にも立たなかったなと感じたものでした。「対応します。」という返事はいただいたんですけど結局対応できなかったんですね。  
 症例2、内科の観察室に入院していたのは17歳の自血病の少年でした。この子も抗ガン剤で髪が抜けて湿疹があるため全身ミイラのような包帯姿をしていました。しかも無菌テントの中に入っていました。もう長く無いことはだれにも分かる状態でした。彼は人が話しかけても全く返事をしなくなり、家族の話かけにもそっぽを向くということで、主治医から「何か話しをするような薬がないか」と言うことで依頼を受けました。精神科には抗うつ剤という薬があるのですけれども、抗うつ薬を投与するにはあまりにも全身状態が悪いように思えて、ただ私は毎週たずねて彼と話をすることにしました。私が話しかけても彼は全く返事をしてくれません。それでも耳は聞こえるようなのでかたわらに座り私は一人でしゃべることにしました。週二回で一回を10分という時間を決めて訪問したのですけど彼は全く返事をしてくれませんでした。一方的に話しかけるのですけど最初は何を話していいものかと私はしきりに言葉を選んだことを覚えています。六回を過ぎたころ同じ病室に入院していた老人がせん妄といいまして、夜間に寝ぼけたような状態になってベッドを降りて自分で点滴を引き抜いてうろうろするという状態を示して、それが二〜三日続いたために精神科の私のところに往診の依頼がありました。行ってみると、その老人はうろうろしながら、しかも彼の無菌テントをさわったりするということでとても大変な状態でしたが、注射をしたところその人は眠ってしまい、次の日からは私が出したお薬でその症状が全く治まってしまいました。この出来事があってから彼が返事をするようになりました。しかし返事をしだすとその返事はとても辛辣なものでした。私に向かって「先生は病気なんかしてないからいいな」とか「俺はもう治らないんだろう」とか「親だって俺の事が迷惑だろう」などということを話します。私はたじろぎながらも「きびしいこと言うね」などと返しました。彼の毒舌は真実をついているので変に取り繕うことをやめました。そうすると言棄はあまり選ばないでも良いような気がして私もざっくばらんに話したような気がします。彼が話をするようになって五回目ぐらいの時に不機嫌そうにこんな質問を私になげかけてきました。「先生はなぜただ話だけですることもないのに俺のところに来るのか? 看護婦はみんなはいやがっているのに。先生は仕事だから来るのか? 俺と話すのはきついだろう?」と質問されました。私は「仕事だからといって来るのではないし、きつくもない。君が気になるから来るのだ。心配でほっとけないからくるんだ。それでもいいだろう。」という答えをしたことを覚えています。思わずそんな言葉が出たのですけど、私の本心でした。そう告げたいと強く感じたことを覚えています。彼はその言葉を聞いて「来るのはいいけどお前は物好きなやつだな」と言い、「眠れないのでいい薬があればくれ」と言うので、夜寝る前にのむ軽い安定剤を上げました。しかし次の回に訪問した時はもう亡くなっていました。もうそろそろだと主治医や看護婦は言ったんですけれど、あまりにもあっけなく思われました。死に行く人へのリエゾンというのはせっかく心が通 いあってきたと感じたときに、ぷつっと死んでしまわれることがあり、何か裏切られたというような思いを持ちます。彼の場合にもそういう感じを抱きました。
 症例3、放射線科に入院していた肺癌の57歳の女性がいました。この女性は左の肺を癌で全部摘出手術を受けて、右の肺だけしか残ってなく、しかも放射線療法を施行中でした。彼女は癌とは知らされてなく、主治医より重たい肺の膿瘍だというふうに告げられていました。膿瘍というのは、細菌が入ってきてそこに膿を作ってそれがとてもひどいという感じですね。そういうふうに説明を受けてたんですけれども、彼女のご主人はある国立大学の教授で、しかもそのご主人は肺癌で亡くなっていたんです。しかも偶然にも彼女の肺癌の位 置とご主人の肺癌の位置が全く同じ場所だったんです。ご主人を亡くした後、この彼女は医療事務をやって生計をたてたということなんです。そういう経験があるために「放射線療法は普通 は癌に用いる治療ではないですか」、「自分は癌なのではないですか」と看護婦に問い詰めるようになったんです。しかも痛みはどんどん強くなり、とうとう呼吸困難に陥って坐ったまま寝ないと眠れない、眠るのに横になることができなくて坐って自分の前にテーブルを置いてうつ伏せをする様に夜眠るようになったんです。そういう苦しい状態でした。彼女は昼夜を問わず部屋に訪れる看護婦に「自分は癌ではないですか?」と聞き続けるようになり、看護婦は自分の応答でもし彼女に癌と悟られたらどうしようという気持ちで追い詰められ、いっそ癌だと告知した方が本人も看護婦たちも落ち着くのではないかと意見が出てきたんです。そして主治医と相談したところ、ちょうど私がその主治医を知ってたということもあるし、精神科医でもあるということで、主治医から「癌の告知に耐えられるかどうかを判断してくれないか」ということで依頼を受けました。私はとても重たい仕事であるなと思いながらも、会ってみようということになって会ったのです。彼女に会うと、亡くなったご主人の症状の経過、それから自分が医療事務で知識を得ていること、そういうことを話し、癌を強く疑っていることも明らかでした。さらに彼女はこんなことを話しました。「自分には家族がいない。(子供さんがいなかった)しかも親戚 付き合いも全くない。死んだら、葬式を自分であげないといけない。誰かに頼まないといけないけど、頼む人がいない。自分は癌保険に入っていて、この癌保険というのは癌と診断されると生前にお金をもらえるという保険で、その手続きをしたいんだ。だから癌かどうか知りたい。癌なら手続きをしたい。」と言うんですね。私は彼女の理論だった話しぶりから本当のことを告知しても良いのではないかと考え部屋を出ようとしました。しかし何か少し気になったんです。帰る前に「もう一つだけ質問させて下さい。もし癌ということで手続きをして保険でお金がおりたら、どうされる予定なんですか?」と聞くと彼女は「主人の時で癌の最期がとても苦しいのはわかっています。もし癌ならこのまま治療を続けるのは嫌です。すぐ退院して葬式の段取りをすましたら首をつるか崖から飛び降りて一気に死のうと思います。」と答えたのでした。私はとてもびっくりするとともに、この話を主治医と病棟の看護婦達に告げました。結局告知はしないことになりました。その後彼女はさらに呼吸困難が強くなり尿毒症を示し、一ケ月後に亡くなられてしまいました。死亡する二日前にあれだけ連絡を嫌がった親戚 のいとこを呼んで遺言を告げました。この患者さんを振り返って、当時その病棟の看護婦が、以下のような研究発表を行いました。その研究発表の最後の考察をちょっとこの場で読んでみたいと思います。看護学会で発表したんですけど、看護婦がこんなことを書きました。
 患者は夫を同じ病気で亡くしており、病気に対する疑念、死に対する不安をいろいろな機会に看護婦に訴え、真実を知りたいようであった。そしてしかも一方否定してほしいようでもあった。主治医より何度も説明を受けるけど、今の苦しみのため「癌ではないか、死ぬ のではないか」と聞いてくると、病名を悟られぬようにと構え、つじつまの合う言葉を捜し出し、早くこの場から立ち去りたいと願っていたことも事実であった。精神的葛藤の中で死を彼女が受容したのは、いとこへの遺言を言い渡した時ではないかと考える。死の直前まで彼女は意識があり、看護婦の問いかけに患者は「えー、わかるわよ。○○看護婦さんでしょ。つらいわね。」と言って微笑んだ。とその一言に私達は患者さんはもうすぐこの苦しみから解放されるのではないかと安堵しているように思えた。末期患者を看護する上で家族の愛情にまさる看護はないと言われているように肉親の援助というものは切り離せなく医療スタッフでは得られない心の安らぎを与えられる。家族から得られる精神的援助は大きいが、この患者の場合身近な肉親を亡くしており、心の支えとなる家族がいなかったことが不安を大きくさせ想像を超えるほどの絶望的な孤独な内に死を迎えたのではないかと考える。私達は患者の心理を理解する上で、キューブラー・ロスの学説でいわれる五段階を基本に考え、看護をすすめてみたが死にゆく人が死を受容していくことは非常に難しいことを学び、病院内で死亡される人々が大半を占めるようになってきた現在、患者自身の死の問題よりも前に看護婦がその受け持ちの患者さんの死をどのように受容できるかといことを考えなければならない、ということを学ぶことができた。
 そういうふうに締め括っています。私にとっても死にゆく人がどうその死を受容するかというよりも私自身が受け持つ患者さんの死をどう受容してゆくかということをこの人は教えてくれたようにありました。
 症例4、内科に肝癌で入院していた68歳の男性がいました。彼は自営業を営む一方、町議会議長を務めていました。清廉潔癖で人望が厚く前向きでいわゆる人格者と言われる人でした。主治医もその人柄を見込み、癌を告知し「最後まで責任を持って治療にあたります。」と告げていました。当時癌の告知がなされ始めたころで、医者も看護婦も彼を一つのモデルケースとして治療にあたっていました。そこで精神科医もサポートすれば理想的だということで私にも依頼があり、毎週訪ねていき、いろんな話をしました。日当たりのよい個室に奥さんが付き添って入院されていました。痛みもコントロールされ日中は散歩をしたり本を読んだりしてました。○○病院というのは非常に広大な敷地があって、散歩ができるいい所だったんです。しかも町議会には重要議案がある時には出席して議長をこなしていました。他の議員も癌ということを知っており、本人はいよいよという時まで仕事を全うしたいということでした。家業の自営業は息子さんが後を継ぎ、「病気以外にこれといった心配はない」と話されていました。彼を取り巻く状況はとても理想的でスタッフもホスピスのような対応を目指していました。私と彼とは今まで歩いてきた人生や家族の話以外に死の瞬間というのはどういうものか、彼が死んだ後残された妻の悲しみが癒されるのにどれくらいの時間がかかるのだろうという話をしました。「『立派な最後だった』と人から言われたい」と彼が話しますし、この人ならそれができるだろうと誰もが思っていました。ところがある朝本人がいなくなりみんなで捜したところ病院の使われていない倉庫の中で首を吊って死んでいるのが発見されました。なぜ急に自殺をしたのかとても信じられませんでした。奥さんに事情を聞いたところ、次のようなことでした。三日前に同じ町会議員であるいとこが見舞いにきてその折に議長の辞職を勧められたというんです。本人が「最後まで務めたい」と言うと、「次に議長になりたい人もおるし、次に議員になりたい人もいる。『どうせ辞めることになるなら早くしてもらいたい』と口には出さないがみんなそう思っている。病気をおして議会に来るのははっきり言ってみんな迷惑だと思っている。」というふうに言われたというんですね。小さい時から親しくしていたいとこからそのようなことを言われ、とてもショックだったようで、その後言い争いになり、最後にはそのいとこから「お前のやっていることはいいかっこしいだ。病気なら政治家は潔く身を引いて辞職するのが筋で、いつまでも居座るのは潔くない。議会を私物化している。病人なら病人らしく治療に専念して、病院で寝とればいいんだ。」と言われたというのです。彼はその夜怒りで眠れずに次の日から何も話さなくなり、今朝こういう自殺にいたったと、奥さんは話されていました。議長職を続ける、それが本人によかれと思うことは私も間違いではなかったと思うんですけど、物事には裏とか、二面 性があり仕事を続けることは必ずしも良くないと思う人もいるということに気付かなかったなあと考えました。また本人も我々も立派な最期を迎えることにとらわれていて、死がもつ暗さ、不都合さ、醜さとそういうものを無意識的に避けていたのではないかということを教えられた気がしました。
 死を迎えるということはそれは精神分析の世界では一番大きな対象喪失の一つだと言われています。人にとって大切な心のよりどころをなくすということを対象喪失と言います。受験に合格しようと思って勉強したけど受験に失敗したとか、子供に期待してたのが子供がもう家に帰らなくて別 居するようになったとか、病気になって大好きなゴルフができなくなった、あるいは財布を落としたということも対象喪失です。精神分析では死というのは一番大きな対象喪失であると言います。
 精神分析学の創始者フロイト先生はこの対象喪失を克復していくには一定の過程があることに気付き、「喪の仕事」ということで次にような紹介をしました。人が死んだ後私達は悲しみにうちひしがれますけど、時間が経ちながらだんだん死の悲しみを克復していきます。これを悲哀の克復といいますけれどもフロイトは喪の仕事といったんです。喪の仕事というとお葬式のことを考えます。喪に服するという言葉ですけど、お葬式あるいは初七日、四十九日とか命日とかありますが、あれも一つの喪の仕事なんです。あの仕事があるからこそ悲しみにうちひしがれてる暇がなくてお葬式をどうしようか、初七日をどうしようか、四十九日をどうしようかということを考え、慌ただしく過ごすことによって、悲しむだけでなくしなきゃいけないことを務めることによって死んだ人を弔うことができるんです。これも喪の仕事なんですけど、フロイトは「心の喪の仕事」という話をしたんです。人は身近な人が死ぬ という喪失を味わった時にまず情緒危機ショックを覚えると言いました。そしてその死をたとえ知的に受け入れることができたとしても、いずれ誰にも心にうつが起こるということを話したんです。身近な人が死ぬ とどんな人でもうつを起こすとフロイトは言いました。死んでもすぐには悲しくなくて涙が出ないということがあっても遅延といいますが一年くらいして突然うつになるということもあるという話をしたんです。ショックを感じてそしてうつを示し、このうつを示す間にいろんな反応を起こすと言いました。まずどんな情緒反応を起こすかというと一つは「否認」というメカニズム。否認というのは認めないということですね。死を受け入れない。どんなことかというと夫は癌であと一ケ月の命だと医者から言われたとしても、奥さんが先生の誤診じゃないかと思うことです。あるいは私達は人が死ぬ のを毎日聞いたり見たりするんですけど、「でも自分がまさか死ぬとは思わない」ということです。あるいは癌だと知っても「いい薬があるんではないか? 漢方があるんではないか? 丸山ワクチンとかそういう秘薬があるんではないか?」とそういうものにすがっていく、あるいは免疫療法そういうものにすがっていくというのも否認の一種ですし、「お祓いや心霊手術で良くなるかもしれない」とか考えることも否認の現われです。 そういう過程を通ると次に「不安」を示したりしますし、中には他のものに「敵意」を抱いたり、「怒り」を示すこともあります。悲嘆と絶望を示し、そして悔やみや償いを示す。自分のご主人が死ぬ ということで「私はいたらなかったわ」、それまでは夫婦喧嘩がひどくて「早く主人なんか死んでしまえばいい」と思ってたのに、急に「それではいけない、何とか尽くそう」という気持ちになる。そういう償いですね。あるいは何か他のものを恨んだりするということです。「主人がこうなったのは会社の仕事が忙しかったんだ。」と会社の仕事を恨んだりします。また死んでしまった後は、失ったものの代わりを求めるというか、子供が死んだので犬を飼うとか、あるいは同じ不幸を他の人に求める。自分の主人が死んで、誰か他の知り合いの人のご主人が死ぬ と本当は悲しいことなんだけど「何か嬉しくてしかたがない」という気持ちが起こる。この過程を途中で行ったり来たりしながら、そうしながらしまいには死んでしまうという事実を理解できて、そして仕方ないなと断念し、いろんなこだわりから離脱して死を受け入れ、受容できるようになる。そして受容した後に新しく再起する、また新しい気持ちで生きていくという過程があるということをフロイトは紹介したんです。
 さらに同じ精神分析医であるキュブラー・ロス先生が、実際死んでいく人の中には、この過程の中に取引という段階があることを追加しました。取引というのは「死ぬ 前に一度故郷をみて死にたい」とか、「死ぬ前に大好きな猫を病院に連れてきてほしい」ということがあるということを告げたんです。
  私は7年前に二番目の子供を亡くしました。子供といってもまだ妻のおなかの中にいる時で、妊娠5ケ月でした。胎内死亡というものでした。妻はその日何の兆候もなくいつもの定期検診を産婦人科に受けに行ったのですが、「胎児が死亡している」と医者から告げられました。私は自分の病院で外来の診察の最中でしたが、先輩であるその産婦人科医から直接電話をもらって「原因はわからないけど子供が既に死亡している。すぐに手術をして出した方がいい。」という事実を聞かされました。とてもショックで、そのあと私は仕事が手につかず家に戻り妻の帰りを待ちました。タクシーから降りた妻は「体が何ともないから何かの間違いじゃないの、まるで心音が聞こえてくるようにあるのに」と泣きながら話します。私達は入院の準備をして産婦人科に行きました。行く道の間、その年の冬家が寒すぎたこと、あるいは自宅の前の県道が工事が中断してでこぼこでいつも買い物に行く時にそのでこぼこの道にゆられていたことが原因ではないかなどと話しました。午後から手術を受けました。手術はすぐ終わりました。私は「掻きだされた子供を見たい」と先輩に頼みました。先輩は「人間の形をしていないから見ない方がよい」と言いましたが、そんな理由で医者である父親が見ないのは申し訳なく、また自分の子供を見ておくのが、せめてもの父親の務めだといい、何とか見せてもらいました。ぐちゃぐちゃな肉の塊の中にかすかに手と足の指がありました。さらに口や頭はないのですが、きれいなまぶたが二つ並んだ顔がありました。長女と違って切れ長の目でした。少しも気味が悪いものとは思わず、ただただすまない気持ちで、看護婦の前でしたが涙があふれて止りませんでした。病室に戻り「切れ長の目の子供だったよ」と妻に話しました。開業して2年目で一番苦しい時期でした。妻に「開業なんかして苦労をかけてすまない」と謝ると妻は「自分こそ体にもっと気をつけてれば良かった、気をつけなかったので悪かった」と泣いていました。その夜長女を親に預け病院に戻りました。悲しくて、悲しくてお酒を一杯だけ飲み、残りは全部自宅の庭にまきました。そのお酒は結婚した時に友人からもらったとても高価なお酒で、「人生でいい時があった時に飲んだらいい」と言われてもらった酒でした。今までに長女が生まれた時と開業した時だけに飲んだことがあるお酒でした。死んだ子供に捧げる意味で庭に全部まいてしまいました。何か子供に特別 なことをしてあげたい気持ちでした。次の日小さな箱に入ったその子を市の葬祭場で焼いてもらいました。長女が生まれた時に買った自家用車でその子を迎えに行きたかったのですが、車検に出していて汚い代車で葬祭場に連れていきました。その汚い代車にその子供を乗せたことをとても申し分けなく思いました。妻はまだ起きれず両方の両親と長女を連れて行きましたが、長女はまだ2歳で何もわからず葬祭場の庭で遊んでいました。焼いても何も残らず骨もなく、それがまた哀れでした。しかし私の母は「骨など何もない方がいい、位 牌も作らない方がいい、早く忘れた方がいい」と言っていました。私もそれが真実であることはわかっていましたが、忘れることはできそうにありませんでした。妻が退院してしばらくしてお寺で水子供養をしました。その後仕事に戻った私は少し変でした。患者さんにやけに優しく、しかし一方仕事を熱心にしない職員にやたらときびしい気持ちを抱くようになりました。また車の運転中に信号無視や割り込みをする車に異常な怒りを覚えました。一種の対象喪失反応であることはわかっていたんですが、その感情を抑えることができませんでした。妻は早く子供を作ることを望みました。そのうち妊娠しました。しかし生まれるまでいつ流産するかと安心できませんでした。やがて子供が生まれました。子供が生まれて、子供の顔を見て驚きました。あの死んだ子の目つきとそっくりだったのです。私もそれを聞いた妻も死んだ子供が戻ってきたと考えました。私達夫婦はこうして喪の仕事をし、対象喪失を癒すことができ再起できました。私事で申し訳ないんですけど対象喪失の過程というものを自分の例を出してお話ししました。
 対象喪失反応は人間だけではありません。猿もおこすようです。高崎山の母猿は産んだ後自分の子供が死ぬ とその子供を何日間も抱いたまま決して捨てることがないと言います。ミイラになって骨になってそして骨がちぎれて、そうなるまで何日も何日も抱き続けているのがテレビで放映されていました。また随分前に辞めた上野動物園の女の園長先生の話で、上野動物園のゴリラが子供を産んで、その子供を他の動物園にあげたところ、その母ゴリラがその後何も食べなくなって、うつ状態になったという話を聞きました。うつ状態になって精神科の先生に相談して人間のうつ病の薬を注射したところ回復してごはんを食べるようになったと。動物も失ったものを悲しく思うようです。そういう意味では対象喪失反応というのは人間だけではないように思います。生の本能というか死の悲しみを持っているのは人間と動物と同じなんでしょうけど、しかし人間以外の動物には生や死について考えるということはないように思います。
 人間は動物と違って死の意味、生の意味を考える思考というものをいただきました。人間は生の本能とは別 に生きる意味を考えます。また死の悲しみとは別に「死とは何か? どう死すべきか? どんな死に方がよいか? 死んだらどうなるか?」を考えます。キリスト教が多い西洋では人は死ぬ と神のもとに召され、天国にいき現生に戻ってくることはまずありえないと教えるようです。仏教思想が根底にある日本ではそうではありません。人は死んで仏になりますが、盆と正月には家に戻ってきます。あるいは守護霊として子孫を守っているという考えがあります。この両方に共通 することは人が死んでも、魂が別の世界で生き続けるということで、本当の死とはいえないように思います。さらに輪廻転生といって死んでも再び何かの生き物に生きかえるという思想も東洋にはあります。死の臨床で宗教の助けを求め、その求める背景には死後も生きるという希望を与えるという要素があるように思います。これで助かる人もいるかと思うんですが、しかし「実際に死に臨んで、この思想を信じる人はどれぐらいいるのだろうか?」と私は思います。少なくとも私自身は死んだ後に天国にいく、あるいは盆と正月に帰ってくるということは信じていません。医学的に死とは、テレビの画面 が電気を消したらプツンと切れるようなそんなものだと私はとらえています。死んだら何もない。もっと違った表現をすると、本当に疲れたらぐっすり寝ますね。はっと目が醒めたら朝ですね。夢もみなかった。寝てから朝まで全く記憶がない。その全く無いというのが永遠に続くのが死ではないかというふうに考えています。
 しかし死後の世界があるという人もいます。その証拠として臨死体験をあげる人がいます。臨死体験とは皆様御存知でしょうか? 臨死体験とはですね、人が死ぬ 時に味わうというんですけど、一度心臓が止って死んだと診断された人が、時たま生き返ることがあって、その人達の多くは同じような体験を話すんです。「自分は一度死んだ。そうすると自分の魂が自分の体から遊離して抜け出した。自分が死んでみんながおいおい泣いている姿を見て、天に昇っていった。そうするとお花畑を通 って、眩しくないけど、それでいてとてつもなく輝く光が見えてきて、その中を自分が歩いていく、そういう光景を見た。そうしているうちに何か自分を呼ぶ声がして帰ってきたら生き返った。」こういう臨死体験というのがよく話されます。立花隆さんが一度大分に来て、そういう話をされたことがあるんですけど。一度死んだと診断されて生き返った人が共通 してみる現象だと報告され、この現象から人間には死後の世界があるんだというふうにいう人がいます。しかし、一方ある医学者はこの臨死体験を次のように説明している人がいます。人間は死ぬ 瞬間に脳内でモルヒネ様の物質が大量に放出されて、それによってみる恍惚的な幻覚だと説明している人がいます。この人の説では人間は死ぬ 時にはどんな人でもそのモルヒネ様の物質が出るんだと。老衰でも病気でもピストルで撃たれても事故にあってもです。死ぬ 瞬間にモルヒネが出てそして誰もが気持ち良い状態で死ねるというんです。ただ寒い状態で頭が冷えていると、このモルヒネは出にくいので苦しいというんです。多くの場合はどんな死に方をしても、死ぬ 瞬間にはモルヒネが出て気持ちよくなる、だから死んだ人の多くがどんなに苦しんだとしても、その後安らかな顔をしてるんだ、その安らかな顔がその証拠であるというふうに話すんです。真実はまだ定かではありません。もっと医学が進歩するとわかってくるかもしれません。こんなふうなこと死後の世界があるんだとか死の瞬間にモルヒネが出て死の恐怖が和らぐんだ、とても気持ちが良くなるんだということを知ると、死の瞬間の恐怖が少し和らぐようにあります。しかしそうなると、益々死の直前までの不安や心配、抑うつ、即ち対象喪失反応をどう克復してゆくかが重要になってくるように思います。
 精神分析学者のフロイト先生は晩年喉頭癌におかされて、それが顔面に転移して30回も手術を受けました。フロイト先生は人間は死後は何もないと考えていました。無意識を発見した先生でも人間は死んだら何もないと考えていたといいます。フロイト先生は30回も手術を受けてだんだん病気が重たくなるわけですけど、どんなに痛くても意識が薄れるのを嫌がり、鎮痛剤の使用を拒んで痛みに耐えようとしました。しかし顔面 から悪臭が漂い痛みのために食事もできなくなって敗血症をおこして意識を失うというような症状を示す頃になって、痛みによってあるいは敗血症によって精神的におかしくなることを嫌い、最期にモルヒネを使って安楽死を望んだといいます。
 つい先月慶応大学の精神分析をする先生からキューブラー・ロス先生の話を聞いたんですけど、キューブラー・ロス先生はこの最近の数年間は、次のような生活をしているそうです。一年間のうちに数ケ月間一人で食糧をいっぱい持って山にこもるそうです。そして誰とも会わず電話もしない、誰とも連絡をしない生活を送っているそうです。どうしてそういう生活をするのかと聞いたところ、キューブラー・ロス先生は、人は死んだら宇宙の中でたった一人でさまようことになるとそんなふうに考えているそうで、「生きてるうちに一人の淋しさに耐えれるように心の準備をしている」と語ったそうです。キューブラー・ロス先生もいわゆる喪の仕事、死ぬ という対象喪失という仕事、そういう反応を支援するための修業をしてるんではないかというふうに私は思いました。
 人間は生と死を考える思考を神様というものに与えられました。しかしそれによって死という対象喪失の苦しみも持つことになりました。症例1ではマットを換えてもらいたいという、「取引」を示しながら死を迎えようとしたけど、取引はできなかったという例を出しました。症例2では子供は絶望の中で死を迎えたという話をしました。症例4ではいとこになじられて怒りを克復できず死に至ったという例を話しました。症例3のご主人を癌で亡くした肺癌の女性だけが最期にまわりの人に感謝しつつ亡くなり死を受容できたといえるのかもしれません。ご主人を同じ病気で看取ったことが少しは役に立っていたのかなというふうに思うこともあります。喪の仕事は簡単なことではないようです。ホスピスで最期を迎える人は恵まれているのかもしれません。生前には死ということ生ということを考えなかった人、あるいはそれができない脳血管障害なんかで痴呆になった人、あるいは知的障害の人というのはどのように死を受け入れていくのでしょうか? 死にゆく人に温かく接することは時には難しく、難しいままで臨終までの期間を過ごさないといけない人も数多いと思います。その山や谷の動揺に耐えつつ気遣い寄り添うことしかできないこともあるのではないかと、私はリエゾンの仕事をしながらあの頃思った覚えがあります。 今日はリエゾンを通して私が経験したことと自分が自分の子供を亡くしたということで対象喪失というお話をしました。今日は原稿を書いてやってきたのですけど、この原稿を書くことによって、またこういうお話をして、一つ喪の仕事を終えたような気持ちを味わったような感じがします。