〜講演会から〜

「離れず共に永久(とわ)に浄土に生きる『私』」
 「大分・生と死を考える会」 会員
長田 乾 さん
1997年10月11日(土)コンパルホール 304室

 私はいつも一番前の御講師様の前の席に坐って御話を聞かせていただいている本会の会員でございます。最近網膜症による視覚機能障害と狭心症による心臓機能障害に腎臓機能障害があり、胆嚢全摘手術をしており、その他人様には言えないところも痛んで参りまして、最近は総入歯で耳も若干不自由になり、名実ともに年を取って参りました。私は1926年4月19日生まれですが72歳になりました(仏教では母親の胎内で卵子と精子が結合し、命が誕生したときを誕生日としますので、11ヶ月を足しますと72歳になります)。然しながら只今私は此のコンパルホールの裏にある三和クリニックで人工腎臓透析を受けており、尊敬し信頼申し上げている院長先生を初め、各スタッフの方々の誠意あふれる優しい使命感に支えられて生かさせていただいております。
 私は若い頃はこわいもの知らずの無謀で、好きなように、気ままに、何も分からないのにどうにかなるさといいかげんな人生を送ってきたような気がします。今私の人生を反省し考えて見ますと、私は私の生まれた時期(時間)場所、私を産んでくれた人も、私は自分で自分の眼で確かめた訳でもなく確認できないままなのです。梓みちよという歌手が「今日は赤ちゃん、私がママよ!」と歌っておりますが、私の母親も温かい胸の中に私をしっかりと抱いて、温かいかぐわしく美味な栄養満点の慈愛あふれる母乳を私に与えて下さり、「私がママよ!」と私の行先に幸多かれと私を抱きしめてくれたでありましょう。私は何も分からないまま、飲み放題、その上垂れ流しの生活をして、最近やっと母親の限りない慈悲と深くそして惜しみのない無限の愛情に気づかしていただいたのであります。「親孝行したい時には親はなし」まさにその通 りでございまして、これは親不孝者の反省の時なのでしょう。
 私は先日御法事に参りました。読経をしておりましたところ、可愛らしい子供さんが母親に甘えていろいろな事を言いながら駄 々をこねていました。母親は気がねして廊下の障子を半開きにして、温かそうな座布団を縁側に敷いておもちゃを並べて子供を遊ばせるようにしました。子供は無心に一人遊びをして、時々「ママ」と独り言を言いながら遊んでおりましたが、そのうち泣き声になり母親のところに行き母親のまわりにまとわりついておりました。お母さんは又子供を座布団の上に連れて行き、今度は障子を全開にして縁側に近く坐り、時々「ママはここにいますよ」と母親が声をかけております。私は法事が終わって御挨拶の時に「子供さんは仏の子ですね」「母さんは仏様ですよ」と御話をさせていただいた事がございますが、私は母親の限りない慈悲を受け取る事が出来ないまま、広大な母の愛情に背を向け、生きて来たことを恥じ御話しをさせていただいたのです。      
  仏教に三帰依文(さんぎえもん)[礼賛文(らいさんもん)]というのがございますので、御紹介させていただきたいと思うのでございます。
「人身(にんじん)受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今己(すで)に聞く。此の身、今生に向かって渡せずんば、更にいずれの生に向かってか、此の身を渡せん・・・・・・省略・・・・・・無上甚深微妙(じんしんびみょう)の法は、百千万劫(こう)にも相遇う事難し。吾今見聞(けんもん)し授持することを得たり。願くは如来の真実儀を解(げ)したてまつらん」
「人身受難し、仏法聞き難し」とは次のような事をいっているのです。此の地球上に、生きとし生ける命あるものの数は大変膨大な数になるのでございます。その中で人間に生れる確率は極めて少なく、大変困難な事で至難であり難中の難だと云うのです。従って人間に生れた事は喜ばしい限りで大変有難いことだと云うのであります。感謝しても感謝しきれないのです。
 仏典に
「人身(にんじん)を受けることは優曇華(うどんげ)の時に乃(すなは)ち現われるが如く、盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)に遇うがごとし」
と強調されています。優曇華というのは億劫(おくこう)に一度かあるいは無量 劫(むりょうこう)に一度咲き出ずるという花です。また盲亀の浮木というのは、一匹の盲目の亀が百年に一度、海面 に出て頭を出して、その時大海を西に東に流れている穴のあいた浮木に首をつっこむことをいうのであり、勿論これは偶然によるしかないからこれもまた億劫に一度あるかないかと云うことになるかも知れないのです。こう(劫)という時間は天文学的な時間の単位 でありまして、例えば一辺7km立方の大きな城があって、これに一粒ずつ芥子(けし)の粒を満たし、一杯になったら、今度は百年に一粒ずつ取っていって、この芥子粒が無くなるのに要する時間が「一劫」であります。又同じく一辺7km立方の大岩石(オーストラリアにも似た様な岩がありますが)に百年に一度、天女が舞降りてきて、この岩を羽衣の羽根で払うとしますと、この岩山が磨滅してなくなってしまうに要した時間が「一劫」であり優曇華の花は此の劫の億倍或は無里劫(むりこう)にただ一度しか花が咲かないというのであるから人間に生まれるチャンスはなかなか得難く有難いと云うのであります。
 御存知の方もいらっしゃると思いますが、東国東地域広域国保総合病院の院長先生でいらっしゃる田畑正久先生の御書きになったものの一節に筑波大学の遺伝子の研究もされている先生の御話しに「地球上に50億ぐらいの人間がいるが、両親から人が生まれる確率は遺伝子のいろいろ複雑な組み合わせで計算すると、7兆分の1だ」と云う事であります。それからこれは普通 教育でも教える事でございますが、精子と卵子の結合する確率も何億分の一であり、人間として人として命をいただくことは仏教的にいっても、生物学的にも大変な難事であり大変有難い幸運に恵まれた結果 なのであります。
 浄土真宗八代目御門主、蓮如聖人様はこの事を御文章に次のように述べられています。
「静かに、慮(おもん)みれば、それ人間界に生を受くることは、真(まこと)に五戒(かい)を保てる功力(こうりき)によりてなり。これ大きにまれなることぞかし。」
と仰せられており、又仏典には
「人間のみがよく一切(いっさい)の善法(ぜんぽう)を生じることができる。」
さとりは人間によってのみさとられる。
と書かれています。即ちこの世に生存している生きとし生けるものすべてはさとりを聞き仏になれる可能性をもつが、人間以外の動物は人間に生れ替わったときでなければ、さとりを聞き仏になれないものです。然も動物(人間以外)は善行を積み重ねて、永劫に努力した結果 として人間に生まれ替わることができるのですが、これは大変な難事なのであります。勿論人間も又来世に人間として生まれ得るかどうかは過去無量 劫にわたる善功の結果で左右されるのであります。今私達は幸いにして人間に生れているが、これは過去無量 劫にわたる善功の積み重ねの結果のたまものでありまして、まさに千載一遇どころか、億劫載一遇の好機であるから、このときにこそ良く菩提心をおこして仏法に励み、成仏させていただき、再び此の「しゃば」に戻ってきて、衆生(しゅじょう)を浄土に導く御手伝いをしなくてはならないのであります。
 私は浄土真宗本願寺派の僧侶であり、挟間の誓岸寺の衆徒(しゅと)で国東の浄念寺に出向し浄念寺の木上墓苑の管理責任者をしております。私の家は国道に面 しておりまして、家の入口に大分バスの停留場が立っております。入口の国道のアスファルトと自宅のコンクリートの僅かな隙間に雑草が生えてまいります。此の雑草はバスのタイヤに踏まれ、乗降客に踏まれながら、元気一杯、つやつやとして生き続けております。雨が降ったりしますと乗降客の足元を濡らしますので、私は鍬を持って来てきれいにしましたが、雑草はすぐ繁ってきまして、その生命力のたくましさには驚いております。私の家の近所の旧い家の屋根の上には毎年雑草が生えております。雑草の種子は風に乗ってくるのか? 小鳥が運ぶのか? それにしても何とすばらしい生命力だと感心せずにはおれません。私も此の雑草の元気にあやかって残された此の世の命を燃やし続けたいと思っております。今日此の頃は朝晩めっきり涼しくなって参りました。つい先程まで我家の庭には蛙や蝉の鳴声でやかましく、毎年忘れずによく来てくれるなあと思っておりましたが、ふと考えますと此の蝉は去年の蝉ではなく、今年生まれた蝉なのであります。去年の蝉は土に帰っており、今年の蝉も土に帰ったのでしょう、庭は静けさをとりもどしました。そしてすぐこんどはコオロギ等の秋の虫が、自分達の命の賛歌を合唱しております。そのうちに庭の紅葉が赤くなり、庭の隅に木の葉がたまり、そのうちに木枯しが吹き、庭もやがて白一色の銀世界に変り、ブロック塀の上に小さな愛らしいスズメの足跡が残るでしょう。真冬になると庭の梅の木の枝に寒そうに小鳥がとまっております。そっと窓を開けて「おい入ってこいよ」と云うと小鳥は寒さにめげず、小雪を散らして逃げていきます。淋しい冬もやがて春になれば意外なところから芽を吹き出し、花を咲かせます。梅の花は庭一面 にかぐわしい香を散らし新しい命の息吹を感じさせてくれます。小さな我家の庭ですが命が生れ、はぐくまれ流転していく尊い命の世界を見せてくれます。私の家の近くに七瀬川があり、川の水は常に上流から下流へ絶え間なく新しい清らかな流れとなって無数の命を包み込み育てています。空にはあや雲が川の水面 に影をうつしながら、命の流れるが如く流れて参ります。私の命も此の自然の中で流れさせていただいているんだと想い、おもはず、ひとりでに「なんまんだぶつ」と念仏が口をついて出てくる今日このごろでございます。
  一本のリンゴの樹から風もないのに真赤に熟したリンゴが落ちるのを見て不思議に思い、やがて地球の引力を発見したのはニュートンでございます。落ちたリンゴの実は、やがて地上でくさり、土に戻って、土の中から若い芽を出し立派に成長し、又リンゴを大地に落下させるのです。此の若い木を育てた老木は現生の使命も終えて、地上にくずれ落ち、大地に帰って参ります。此の事を御覧になった真実の仏様は私達人間に「無常」を説かれたのであります。子供のときよく遊んだ、似呂葉歌留多(いろはかるた)と云うのがありました。
「色は匂へど、散りぬるを、我が世唯そ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見し酔ひもせすん。」
と歌っておりますが、これは櫻の花が春らんまんと咲き誇り、ふくよかな花の香を漂わせているが、一迅の強風に吹かれて花はことごとく落下してしまった。此の世の中に永遠にその姿を留めるものなど何もないのである。私達は早く此の真実の姿に気がついて、はかない人生の目的もなく、さまようことなく、現生から来生へ転生して、永久の命に生き続けなさいよ「ん」と云う歌であります。
  私の家の座敷に油絵の肖像画があります。御来客の方がこの絵を見て「此の絵は良くかけている。貴方にそっくり生きうつしですね」といわれることがあります。実は此の絵は私ではありません。父親なのでございます。絵の中の父は不肖の子がうり二つと言われて苦笑しているようでございます。或る時電話がかかって参りました。私は受話器を取って「明教君かえ?」と言いました。そしたらすぐ返事が返って来て「ちがうよ! さとしだよ」と言われました。私は息子の電話だろうと思って話をしたら孫だったんです。全く声が似ておるので、とっさに分からなかった訳です。 私の命は現実に過去から未来へとつながっていっているのです。私に両親があり、両親にも両親がある訳ですが、今既に私から30代さかのぼりますと私の先祖の数は21億4748万3618人(偶数)になります。約千年前ですので平安時代でしょうか。さらにさらにさかのぼって原始時代からまだまだ先の命の根元(こんげん)にまでさかのぼった時、私の命を育ててくれた現生の環境即ち自然の根元と命の根元とが一つになる時、そこに絶対の真実の力に出遇うのであります。いや真実の中に全て包含されていくのです。
 此の絶対の真実の力は相対の世界の私からは「色も見えず、形も見えず、従って心も及ばず、言葉も通 じない」のであります。そして此の真実の力は、あらゆる真実でないものを真実なものにする働きを持ち、此の世の不実なものに対して、これを真実なものにする絶対の力をあらわし、即ち自他の対立を越えていながら、他の上に自己をあらわそうとする本来的な働きがあるのでございます。私の命の根元と、その命を育てはぐくんでくれた自然の根元とにあらわれた大いなる真実の絶対の力が、私を真実にするべくはたらきをかけてくださるのです。その絶対の真実のまなこで相対世界の生きとし生きるものを見たとき、人間だけが「むさぼりの心、いかりの心、ぐちの心」が強く、人間性の根本には際限のない欲望を持ち、そのために人間は死ぬ が、死ぬまで煩悩の苦しめられ続ける哀れな姿をごらんになり、これを救うべく真実の姿から阿弥陀如来の姿をあらわされ人間を救うてだてを五劫の間考えられて、十劫の間努力をされ、四十八の救済の願をたてられ、その結果 私達に南無阿弥陀仏の六字の名号を御下賜になり、シャバのいのちつきては浄土へお導き下さるのでございます。
 仏教の大事な思想の中核に縁起(えんぎ)という考え方がございます。
「これあるときかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず。これなきときにかれなく、これ滅するが故にかれ滅す。」
 此の縁起は一切のものが独立自存するということはなく、多くの条件や関係のもとに、初めて成り立ち得るということをいうのです。これを因果 の道理とか、因果応報や因縁所生のものであるとか、いろいろな似た様ないいかたをしていますが、阿弥陀如来様が一如(直如)より姿をあらわし、哀れな人間を救うべく決心をされ、四十八の大願をおたてになり、五劫の間思案された結果 、修行等の苦行のできない人間に替わられて大変な苦労をされて浄土を建立し、私達人間に阿弥陀佛より離れることのないように、ナンマンダブの名号を御与えになり、過去・現在・未来の三世を一貫して生き抜くべく新しい尊い永久(とは)の命をお授けになったのでございます。人間は疑う心と欲望があります。この疑問を持ちこれを解決するべく努力した結果 が人間の生活を科学の力でよりよい便利で豊かなものにしてきました。がその反面 科学で解明できないものは全て否定してしまうという誤りをおかしてしまいました。また欲望にはきりがなく、その為に人間は煩悩を絶ち切ることができず現生の命ある間苦しまなければなりません。従って現実の現生の人生では生まれた事の確認も死ぬ 時期も分からず、今を何の為に生きて行けばよいのか不明のまま、生き続けていかねばなりません。これを仏教では無明とか闇とかいっております。
 仏教に次のようなお話しがございます。一人の旅人が深い密林の中を目的地めざして足ばやに歩いておりましたところ突然強風が吹き荒れてきました。林の中の樹木は風にゆすられてぶつかり合い、まさつ熱で火災になりました。風の音と林のゆれ動くキシミの音と炎の舞上がる音がゴウゴウとものすごい音になり、風上から風下に熱風が吹きつけて参ります。森の中の全ての猛獣は必死の形相で走り出しました。旅人も汗びっしょりで走り続けましたが、熱風と煙で喉はカラカラ、眼は痛く、呼吸は苦しく息もたえだえになりながら、然し後からは象の大群が迫って来ます。死にもの狂いで走り続けておりますと眼の前に大きな大木が一本立っており、その根元に小さな古井戸があります。旅人はやっとの思いで木の根にしがみつき井戸の中へ逃げて行きました。ほっとして人心地がつき囲りを見ると井戸の石壁の間から毒蛇が眼を懲らしてこちらをにらんでいます。水を飲もうと思って下を見ると大蛇が大口を開けて待っております。旅人はどうすることもなく、ただ一生懸命木の根にすがっておりましたところ、象の大群が水を飲みに井戸の中へ鼻を伸ばしてきました。その荒々しい鼻息に旅人は恐ろしくなり象の鼻に振り落とされないように鼻をさけておりました。その時象の鼻に揺さぶられて大きな蜂の巣がこわれ木の根を伝わって蜂蜜がしたたり落ちてきました。旅人はポタリポタリと落ちてくる蜂蜜のおかげで一息つきやっと助かったと思ったものでした。そのとき頭の上でカリカリコリコリと音がして見上げると大きな白いネズミ(ひる)が木の根をかじり出しました。そして又ゴリゴリガリガリと大きな黒いネズミ(よる)が木の根をかじっております。木の根は段々細くなって何時切れるか分かりません。それでも旅人は蜂の巣からしたたり落ちる甘い蜜を吸いうつつを抜かしておりました。これは旅人は私であり白黒のネズミは昼夜をあらわしております人間の一生のたとえ話であります。この森林の大火災も大きなスコールで消火されジャングルの一面 は肥沃な原っぱになるのでしょう。インドネシアの山火事に自然の恵みであるスコールの一日も早く降りそそぐ事を望みたいものです。
 このようにして人生を終り、こんど生れ替るときはどうなるのでしょうか? 地球上のあらゆる命あるものは死に替り生まれ替りしております。これがなくなれば地球上の動物も人間もいなくなってしまいます。人間以外の動物は永劫に善功を積み重ねて行けば、その結果 として人間として生まれ替わる機会を与えられます。それでは人間はどうかと云うと、やはり永劫に善功を積み重ねなければ再び人間として生れることはできません。何故なら人間に生れる事は至難のわざであり難中の難であることは御案内のとおりであり、その確率は7兆分の1だそうです。そして人間に生まれた者だけが人道を歩みそして人道だけが仏道につながっておるのです。御釈迦様は生れながらにして仏様になるべく生れた人ですから、生れるとすぐ七歩あるいて天地を指先し、「天上天下唯我独尊」と云われました。然し人間は六道を輪廻(りんね)し、流転の結果 人道に入り、あらゆる障害を乗り越え、誘惑に打ち克って、ようやく仏道に入り、釈迦の励ましと弥陀のおみちびきにより成道するのです。今私は幸いにして阿弥陀様の本願を知らされ、弥陀の本願の前に五体を投げ出し仏のさしまわしにおまかせして凡天のはからいを捨てさり、仏の側から離れずに「なんまんだーぶ」の称名をさせていただき今生の命つきたとき御浄土に過去・現在・未来と貫徹する生死一如の仏の命に生かさしていただくのであります。
  蓮如聖人様の白骨の章に
「夫(そ)れ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の如中終、まぼろしのごとくなる一期(ご)なり・・・・・省略・・・・・、野外に送りて夜半のけむりとなしはてぬ れば、ただ白骨のみぞ残れり、あはれというも中はおろかなり。されば人間のはかなき事は老少不定(ふじょう)のさかいなれば、たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏とを深く頼みまいらせて念仏申すべきものなり」
と述べられております。
  人間の一生は仏典に次のような比喩が見られます。
「例えば芭蕉の実を生ずれば即ち枯れるが如く、一切衆生(しゅじょう)の身もまた是(かく)の如し。又芭蕉の内に堅実なきが如く、一切衆生の身もまた是(かく)の如し。」
芭蕉はバナナの木であり、一年草の草であります。バナナは見上げる程大きくなっても実は草で、その幹は長ネギのように、剥いても剥いても芯がなく、しかも実を結ぶと枯れてしまう一年草であり、そこで一切衆生はバナナが盛りを過ぎると枯れてしまうようにはかなく、しかも芯がないように核心というものがない。要するに衆生は無常であり無我であると云っているのである。それだからといっても夢のように生まれ人生は酔いしれて過し、火葬場の煙突から煙になって舞上がりやがて地上に落下して雨に流されるだけでは人間として生を受けたことにはならないのである。
 私は木上墓苑で常日頃建碑及び納骨等の法事をさしていただいております。その時法事が終わりますと、いつも次のようなお話しを申上げております。「今日此の仏様(故人の納骨)の御法事を通 して、故人(御仏様)の徳を偲び(仏徳)ながらその御恩(仏恩)に感謝し意義のある充実した人生を生き抜き此の世の命つきても、仏の命となり、子供や孫の先々の面 倒まで見てやりましょうね」と申し上げております。又御墓を証明して次の様に御話しをさせていただいております。「御墓というのは納骨室とその上にある記念碑とで出来ております。その納骨堂には人生50年〜100年のかたみである骨を納めます。その上の塔は仏領界をあらわし、故人の行先である浄土をあらわし、御家庭の仏壇と同じ様なものです。納められた遺骨も50年〜100年しますと微生物により分解され土になります。その土はまた微生物を育て草を生やし小動物を呼び寄せ、やがて大木を育てるのであります。やがて雨が大木の梢にふりそそぎ、水は幹を通 り根から浸み出し、地下水となり、地面に出て小川にそそぎます。小川は大河にそそぎ海に入っていきます。海の水は再び空に舞上がり木の梢にそそぎ循環を繰り返して太陽の恵みとともに万物の命を作るのです。これこそ自然の力であり、此の世の真実の姿であり、仏のなせる業なのであります。此の目の前の墓石もいのちの石であります。命の形を残した石を化石といいます。昔昔のその昔の草木や海中の動物等の残したものが地熱や圧力等の物理的作用や動植物の分解によるいろいろなものとの化学作用により石油、石炭等の資源ができたのでしょう。私の此の着ているものも過去に地下にあった命の産物かも知れません。此の世にある全てのものを、あるがままをあるがままに見たとき皆過去の命からいただいたものであります。ただ仏恩に報謝するのみでございます。」
 私は毎日「なんまんだぶつ」と称名させていただき、母親にまとわりつく子供の様に仏様から離れることなくその日その日のひぐらしをさせていただき五戒を保ち念仏を相続させて未来永劫に仏力(他力)におまかせして生かさせていただくことでございます。まだまだあれもこれもお話ししたいことばかりでございます。又必ずや御仏縁をいただく事あると思いますので、その日まで生き続けていかねばならないと思っております。 なむあみだぶつ    合掌 浄雲