〜講演会から〜

「いのち」
栄光園 園長
小郷 穆子(おごう しずこ) さん
1997年1月11日(土)コンパルホール アートルーム

 別府で栄光園という子供の施設をやっております小郷と申します。私が今おります家には現在87人の子供がおりまして、その子供たちの表情まで皆さんにお伝えすることはとても口ではむずかしいので少しでもこういう子供たちがいるということをわかっていただけたらと思いまして、一年に一度か二度ですけれど「栄光園だより」というのを作っておりまして、そこに子供たちのいろんな表情がありますのでご覧いただければと思いまして持ってまいりました。  
  栄光園には乳児院というのがありまして0歳から2歳までの赤ちゃんをお預かりする家とそれから養護施設といいまして2歳から18歳の高校3年生のお子さんまでお預かりする家と二軒ございます。その赤ちゃんから18歳までの非常に幅広い年齢層の子供たちと一緒に住んでいるわけなんですけれども、その子供たちは親御さんと死別 したり、あるいは親御さんが病気になられたり、その他後でお話ししますが、様々な理由によって家庭で育つことができない子供たちばかりなんです。私の立場はその子供たちの母親であることでございまして、子供たちの私の呼び名は「ママちゃん」でございます。うちでは私を初めとして職員の一人一人に先生という呼び方はさせておりません。うちは一軒の大きい家ですから家に帰っても先生、学校に行っても先生ではさぞかし味気ないことであろうと、それは創立しました父の代からの方針でありまして、私が「ママちゃん」と呼ばれ始めたのは昭和26年頃からでございます。その頃栄光園というのは私の父と母が創立したものなんですが、当時の子供たちは私の父のことを「お父さん」と呼んでおりまして、それから母のことを「お母さん」と呼んでおりまして、私の呼び名に恐らく困ったんだろうと思うんですね。誰かが「ママちゃん」というふうに言いましたら、それがだんだん定着してしまって、もう45年間ずっと「ママちゃん、ママちゃん」と呼ばれているわけでございます。私はいつまでも「ママちゃん」と呼ばれ続けたいなと思っているわけなんですが、そんな思いをお話ししておりましたら、昨年NHKのディレクターの方が「ずっとママちゃんと呼ばれたい\児童福祉施設栄光園の45年の軌跡」という題で、平成7年の12月6日に九州スペシャルというので全九州に放送していただきました。そしたらそれがテレビとして大変好評だったそうで、最初の九州スペシャルは50分ものなんですけれども30分間に縮小して、去年の5月4日の子供週間に、「おはよう日本」で全国放送されたわけです。
 そのことについてこの「栄光園だより」に書いてあるわけなんですが、栄光園の子供たちが愉快に遊んでいるところの表情なんかもあざやかに映しだされているわけなんですが、さらに二人の栄光園の出身者が紹介されました。その一人はその写 真の向かって右のノータイのシャツ姿の井上君というので、一人は黒いTシャツを着ております稲田君というのが栄光園の出身者としてテレビの画面 に登場したわけなんですね。この二人がどういうことをやっているかと言いますと、井上君の方はあだなは中学生の頃から「マーチン」というんですけれども、今でも私は「マーチン」と呼んでおりますし、向こうはもう50才になっておりますのに、私のことを「ママちゃん」と呼んでいるわけですが、そのマーチンは従業員200人から抱える土建会社の社長になっております。そして栄光園で育ったということを忘れないで、自分が設立した会社に「栄光建設」という名をつけてくれているのです。いつも「自分の心のふるさとは栄光園だ」というふうに言ってくれております。それからもう一人の稲田君というのは後ろにむずかしい機械がありますが、これで川砂を採取する仕事をして、大分に居ります。この二人が共通 してテレビの画面で語ったことは何であったかと。二人の間での話し合いというのは全然ありません。片一方の出た年代も違いますしね、それから片一方は大分に住んでおりますし、片一方は東京の日本橋に本社を構えて、千葉にも支社を持っているぐらいの大きな会社をやっているわけなんですが、その二人が共通 してテレビの画面で言ったことは、「ここ(栄光園)があったから、命があった。命があったから今の僕がある。」と本当に申し合わせもしないのに同じようなことを画面 で言っているわけですね。「命があった。そして今の自分がある。だから終生栄光園を忘れない。」というふうに二人とも言っているんです。本当に私はそれを聞いてうれしゅうございました。というのは「ここがあったから命がある」というのは今のような豊かな世の中に生きてらっしゃる方にはピンとこない言葉であろうと思うんですね。二人は戦争で親御さんを失って、いわゆる戦災孤児というのです。今あんまりそういう言葉いいませんけれどね。もう食うや食わずで食べる物もない。だからうちの父が連れて帰った時には、歩けないくらいの栄養失調状態、そしてとてもうちで御飯を食べさせたくらいでは、この体力は回復しないというので、とうとう入院をさせて一ケ月ぐらい、お医者さんのお世話になって、それから元気になって学校に行ったんですね。だから「ここがあったから命があった。ここに来なかったら、僕もう食べる物がなくて死んでしまってた。」というふうに二人とも言います。誇張でも何でもなくて本当に戦後の貧しい貧しい時代に育った子供なんです。そのために私としても大変この二人への思いは強いですし、二人もまた栄光園のことをいつも心に留めてくれてるわけで、「自分が子供の頃こういうことをしてもらったら嬉しかったから」と言って今でも在園の子供たちにいろんなことをしてくれます。それから大分に居ります稲田文夫ちゃんの方は、今うちのグラウンドになっているところを本当にボランティアで無料で整地をしてくれたんです。それまではもう本当に広いただ土地を持っているだけで荒野が原ですね。そこに昭和20年代、食料がないもんですから父も母も私も鍬を持って荒れ地を耕して畦を立ててですね、そこにお芋を植えたりして自給自足をするような生活を一緒にいたしました。だからまさに苦楽を共にした仲なんです。今振り返ってみますとよくまあ生き延びてきたと思うぐらいの貧しい生活を共にいたしました。昭和20年代振り返ってみますと私は硬い白いお米の御飯というのはあまり食べた記憶がないんですね。少しでもお米の分量 を増やしたいもんですからお粥さんのようにしてお野菜を切り込んでですね、おじやのようにして食べたもんです。この二人とも頭脳はとても優秀でしたけれども、その当時とても貧しくて政府予算も少なくて高校は義務教育ではないから予算をつけることはできないと厚生省がおっしゃってですね高校の費用を下さらなかった。しかも高校の費用どころか中学を出たら集団就職しなさいというのが国の方針でした。そのためにこの二人とも15歳で社会に出ております。でも15歳で社会にでて本当に苦労をしながら、現在の地位 を築き上げてそして今も胸をはって「僕は栄光園で育った」というふうに言ってくれるわけで、そういうのを見ますと私は本当に「この仕事を与えられて良かったなあ」といつも思います。
 そういうふうな子供たちのお仕事をする傍ら小説を書いたり、随筆を書いたりするわけでございます。子供の施設におります子供たちは本当に今でも何のいわれもない偏見とか差別 の中にいることが多くてですね。それが大変悲しくてそういう子供たちの力というのは非常に弱いですから、その子供たちの思いを少しでも代弁してあげたいなと思うような感じで書いた小説が多いんです。それからまた一方では自分が戦争の時代を通 り越して来ておりますので戦争中の若者たちがですね、どのように考えてそしてどのように戦い、そして無念に散っていったかということを何としても書き留めたいという思いが強いのです。それで「ともしび」なんかにもよく戦争のことを書くわけなんですけれども一番長く書きましたのは週一編ですけれども合同新聞に足掛け5年「敵主力見ユ−小説帆足正音」というのを連載させていただきました。これは主人公は玖珠郡玖珠町の光林寺という浄土真宗のお寺のご長男、その方が戦時中に隆国大学の学生さんだったんですが、霞ケ浦海軍航空隊に入って飛行機乗りになってマレー沖海戦というのに出陣なさいます。そのことを書かしていただきました。それを書きましたのが上下二巻の本になりまして合同から出版していただきました。それが私が書いた中の一番長い小説でございます。本当に人生のごく若い日に私は戦争の時代を体験いたしまして本当に多くの有意な方々が散っていかれるのをこの目でみまして、命の大切さということを本当に身にしみてよくわかっているつもりでございます。そこで私は与えられた仕事を大切にして、多くの幼い命をもり立てていきたいと考えているわけなんです。  
  ついでに子供たちのことを知っていただきたいもんですから、今日こんな時間を利用させていただきまして私がやっている仕事についてもご理解いただきたいと思いまして、黄色い「ご存じですか? 乳児院を」という紙をそこにお配りさせていただきました。案外知っているようでご存じない方が多いのでちょっと説明をさせて下さいませ。これは知っていらして決してご損にならない制度でございます。いろいろと相談を受けられるようなことがありましたら教えてあげていただきたい。乳児院という名前すらご存じない方が大変多いわけでございましてですね、乳児院というのはいろんな事情で家庭で育つことができない赤ちゃんをですね、おうちに代わってお預かりして育てる赤ちゃんのおうちでございまして、ベビーホテルのように時間制とかいうのではなく、24時間お預かりするんです。これは半公的な施設でございまして、大分県下ではうちが一軒でございます。じゃどんな場合に利用しているかというと親の死亡、それから離婚、家出、病気、入院などで育児困難な時、その他家庭で育てられないような事情がある時、このその他というのが大変いろいろたくさんございます。近年最も増えてまいりましたのが虐待でございます。それから育児ノイローゼで、育児ノイローゼというのにかかってそれがだんだん昂じてくると虐待になって時には死に至らしめるようなこともございます。もう3年も前になりますが新聞に大きく報道されたのを覚えていらっしゃらないでしょうか? 別 府の方で虐待死事件がありました。もうあと一週間で2歳になるという女のお子さんをお母さんが叩いたり蹴ったりして挙げ句の果 ては頭の上に高く持ち上げてバーンと床に投げ捨ててるんですね。そのために直接死因は脳挫傷です。だけども大分医大に運ばれまして解剖をされた結果 、伝え聞くところによりますと全身火ぶくれがあると。これは熱湯の入ったやかんのような物を肌にくっつけているんだというようなことでございまして、爪はそんな2歳にもならないような子供が真白で線が入って全部上反っていた、栄養失調ということです。挙げ句の果 ては叩き落とされて脳がグジャグジャになっているわけですね。だから保育理論も変わってまいりましたが初めは母子不分離といいましてお母さんとくっつけておくのが一番子供の幸せというふうになってたんですが今のようなノイローゼ状態のお母さんが多くなりますと、よくよく観察してかえってお母さんを引き離さなければ危ないというようなご家庭が多くなってまいりました。これものすごく増えているんですよ。だけどもプライバシーの問題もからんで、あまり中に立ち入ることができないもんですから知らない間に非常に不幸な事態が起こるんですね。私は学校の先生とかですね、それから病院の先生方にもよくそのつもりで観察をしていていただきたいなと思います。病院の外科の先生の所なんかにお母さんが申し立てる原因と骨折の状況が違うそうですね。「我が子がつい足を踏み外して階段からおっこちました。」などと言って連れてくるんですが、どう考えてもこれは何か堅いものでぶん殴っているというふうな骨折が多かったりします。それから夏になってプールの時期になった時にですね、プールに入りたがらない子などというのは大体火傷をしておりますね。うちに来ております虐待の子供のほとんどは火傷でございます。腕からずっと滝のようにひきつれができていたり、それから頭の中に42ケ所小指の先ぐらいの点々と禿ができています。それはお母さんがこの子はかわいくないと言いながら吸っているタバコをジュッと子供の頭でくっつけてるわけですね。そういうふうな状況がありましてお母さんが子供を抱えてたら何よりも安全というふうな保育理論は悲しいことにだんだん過去のものになりつつあるような現状の中に私のような職種の者はよく行き合わせるわけなんですね。
 それからその他家庭で育てられない事情の中に未婚の出産があります。ご家庭で育てることがちょっとできないというのはまだ母親が学校に行っておりますので、中にはひどいのは義務教育中などという母親がありまして、とても子育てどころか産んだ母親もまだ子供というふうなのもありますわけです。そんなのあまりあらわにもかけませんのでその他家庭で育てられない事情がある時と書いてございます。  
 それから「短期利用もできます」というところをご覧になって下さい。これをご存じない方が大変多いんですね。特殊事情のある場合しか利用できないというふうに思ってらっしゃる方が大変多くて市町村の窓口の方ですらそう思ってらっしゃるような現状でございますけれども、あまりに子育ての現状がひどいので枠が広がってきまして、保護者が出産をしたりする時に上のお子さんがまだ小さくてみる人がいないという時に上のお子さんをお預かりすることができます。核家族化が一番の原因ですけれどね。現在も一人預かっています。それは10日間くらい、お母さんが入院してらっしゃる間だけです。それから保護者が傷病、あるいは病気の看護をしなければならない、あるいは勤務上出張しなきゃいけないという場合に赤ちゃんのお世話ができなくなった時には1週間とか1ケ月とかの短期間でもお預かりできるんですね。ご存じの方は高校の修学旅行というのは大変長いですね。高校の先生で赤ちゃんを抱えてらっしゃる女の先生、「赤ちゃんがいるから、いけません」というふうに勤務拒否をするわけにはいきませんので、お預かりしたこともございます。これはうちが商売と違って宣伝して歩くような立場でないもんですから、ご存じない方が大変多ございますので、皆さんお困りの方などもしご覧になったら教えてあげていただけたらいなと思います。ただし普通 の生活をしてサラリーを得てらっしゃる方、あるいはお店などをやって収入をあげてらっしゃる方は負担金というのがかかります。その赤ちゃんの費用、赤ちゃんの生活を支える費用のほとんどは公費で賄われておりまして、そのお預けになる方の個人的負担というのはごくわずかですみます。これは保育所と同じでその方の収入の多寡によってAランクから十段階ありまして、負担金をお納めになるわけですけれども、児童相談所というところに申し出られますと児童相談所の方が収入をみてですね「あなたの負担金はいくら」というふうに決めてまいります。そこでまず児童相談所に行っていただければよろしいわけでご存じの方はだんだんと利用していらっしゃいます。でもあまり知られてない制度だもんですから「核家族、親戚 は遠い。どうしよう?」というような方が大変多いように漏れ承っております。うちはかっては本当に貧しくてどうしようもない方々のための施設でありましたけれども今は子育てを支援するような立場でありたいと願っているわけですね。働く方々への育児支援の場として多様なニーズにきめ細かく対応できるように活用されるような社会資源でありたいなと私願っております。
 それは赤ちゃんの説明ですが、年令を高くすればそのまま大きい子の方にも利用できるわけでございまして、2歳を越えた子は養護施設というところに入ります。この養護施設で小さい子は保育所と同じようにカリキュラムを立てまして園の中で保育を致しますが、幼稚園年令になりましたら、公立の幼稚園に通 わしております。学齢に達したら地域の小中学校に通ってるわけです。現在は2歳から5歳までが12名、それから幼稚園に12名行っております。小学校に28名、中学校に9名、高校に5名、それから高校中退の宙ぶらりんが1名というような状況であとは赤ちゃんがいつも大体19人から20人くらいおります。
  家庭で育つことができなくなった子供の背後には現代における児童問題、あるいは家庭問題の全てが凝縮して、覆い被さっているというような感じがして仕方がありません。「どうしてこんなになってきたんだろうかな?」と、戦後が終わったら貧しさからも解放されて子供の不幸は減るのではないかなと考えておりましたけれども全然減らないですね。戦後は別 の形で現在の子供の状況はいいとは言いかねるようなことでございまして、それは皆さん新聞やテレビの報道でよくご存じのようにいじめとか不登校とか戦後とはまた別 の大変憂うべき問題がたくさんになっております。本当に自分本位で思いやりの心のない子供が多くなりましたね。これは何か事件が起こるたびに指揮者は世の中を憂えますし、それからマスコミは騒ぎたてます。みんな思いやりを強調しますのに思いやり教育というのがなぜ成功しないんだろうかなと私よく考えるんですけれども、他人の痛みをわかってそして弱いものをいたわる。これは人間の心の働きですね。その心の働きというのは自分の経験の中で育つものでありまして学校で教科書で習って「思いやり深くありましょう。」「あー、そうですね。」などというようなことですぐ育つものではありませんね。だから思いやりの心、そして弱い立場にあるものをいたわる心というのは家では親が、そして学校では先生が、地域では周囲の大人全部が身をもって子供に教えてあげなくては、見せてあげなくては、子供にだけ「思いやりを、思いやり」と言っても仕方がないなというふうな気がします。うちの子供たちに対する風当たりなんかも決して思いやり深く接していただいているような感じはしません。  
 私はうちの子供たちは思いやりの深い自然に豊かな子供であってほしいなと願ってるわけですけれども、ただ口で言ったりしてても、なかなかそんな気持ちというのは育ちませんから何か形のあることをしたいなと思いまして、そして子供たちに近頃俳句を作らしております。この俳句ただ自分で作っててもつまんないものです。大分合同新聞の日曜日に時々テレビの番組の下にお菓子の菊屋さんのカラーの広告がでるのをご存じでしょうか? あのカラー版の一番右端を今度ご覧になって下さい。そしたらそこに「豊っこ俳壇」といって大分県の子供の俳句が載ってるわけです。あれは毎月の投句が3千句からあるんですね。だから子供の俳句人口というのは大分県は割と多いんですよ。それはすぐれた指導者がいらっしゃるせいもありますね。3千句からある投句の中で通 ったものがあそこに載るわけで本人にとっては大変な名誉です。だからうちの子供たちも載りたいもんですからね、自分の作品が活字になるというのは大変愉快なことだもんだから一生懸命作るんですよ。時々載せていただきます。俳句を作らせだしてからどんないいことがあるかというと、いろいろ花の名前とか、草の名前、木の名前とかをよく聞いて覚えるようになりました。というのは自分が出してはおっこちているうちに、ただ「赤い花」とかいうふうにいっても落ちるとういことがわかってきたんですよ。ちゃんと花には名前があって、花の名前を詠み込まなければ、ただ「赤い花が咲いたよ」では落っことされると、それからどんなふうな状況だということを述べなくちゃいけない。ただ「きれいだな」とか、そんなことをいったんじゃ通 らないことを子供たちがわかってきてどういうふうに表現すればいいんだろうかと考えて、花が咲いてますと「ママちゃん、あの花の名前何ていうのかな?」というふうに聞きだしたんですよね。「あの木は何ちゅう木かな?」とか、空の雲でも「あれイワシ雲ちゅうんでな」とか、それから「入道雲のことを雲の峰といってもいいんでな」というふうなことを言って自然をよく眺めるようになったんです。お花の名前もよく覚えるようになったら、それまでは通 学路に沿って、よそ様が丹精しておられるお花の頭をポンとはねたりして、私が駆け付けて「ごめんなさい」と言ってた乱暴者が花の命を大事にして、そんなことしなくなりました。だから少しは効果 があがってるのかなと思ってるわけです。年間を通してその活字になったものの中からすぐれたものには県知事賞とか教育委員長賞とかいろいろいただけるわけですよ。うちの子供も何人かがもらいまして、お友達がもらうとまたそれが励みになって自分ももらいたいなと思ってなお一生懸命作るんですね。そのために大きい子が作ると、そこは集団の強みで小ちゃい子も作ろうと思ってがんばって、こう「五七五になったらいいんやな」ということで指折って数えてですね。このあいだ何と5歳の子が「クリスマス 知事さん 握手してくれた」と言いまして、それはまだ字がよく書けませんので私代筆して出してあげましたら通 ったんですよ。大変喜んでおります。知事さんがサンタクロースになって施設に来て下さって、握手をしていただいてとても嬉しかったんですね。それから県知事賞をいただいた中学生の俳句の中には「宝石の 箱ぶちまけて 星月夜」などというのもあります。星月夜の美しさを宝石箱、もちろん本物見たことなくてオモチャ箱なんですけれども、そんなのをみてだんだんと俳句作りながら自然を見て自然に語りかけるような感じの子供が多くなってきて少しは情操教育に役立つかなと思って喜んでるところです。  
 私も活字になったら嬉しいのでそれを切り抜いて保存をしているわけですが、ある時活字になった子供のお父さんが面 会にまいりました。そのお父さんは塀の中から出たり入ったりしているお父さんでございます。そのお父さんは、しばらく来ないなと思ったら入ってるわけなんですよ。出てくると子供を愛してて会いに来るんですね。じゃやめればいいのにやめられないところが悲しいところで出たり入ったりするわけなんですけれども、そのお父さんにね「僕がね作った俳句が活字になったのよ。」って見せたんですよ。「ふーん」とただ眺めていて何にも言いません。顔にも感動も何も表われない。「ははー、このお父さん、俳句が何であるかというの知らないんだな。」「これなかなか難しいのよ。季語というのがないとだめなの。それから五七五になってないとだめなの。」というようなこといろいろ説明しましたらね、やっとわかって「ふーん」と感心しちゃって、子供の頭を非常に乱暴に撫でてですね「お前は教養があんのー」って言ったんですね。その言い方が非常に感に堪えた言い方をしたんで、私はもうおかしくなってきちゃってね。さらにその後の感想があるんです。「おれにゃ、前科しかねえが。」と言いまして、「まあ本当に出たり入ったりしているけれども、根は人のいいお父さんだな。気が弱くて意志の力が弱いために出たり入ったりしてるんだろうな。」と思ったことなんですが、その子供にはお父さんが塀の中に入ったとかいうふうなことは全然言ってないんですね。「お父さんは遠いところに働きに行ってて、そんなに毎週会いに来たりできないのよ。だからいい子してたら会いに来てくれるから待ってよね。」というふうに言っておるんです。だからお父さんの存在というのを子供としては誇りにしておりまして、お父さんが帰った後に私に自慢しました。「ママちゃん、俺の父ちゃんの背中には模様があんのぞ。」とみごとに唐獅子牡丹をやってるわけでして、そんなことで俳句にまつわることでいろいろ愉快なこともあります。  
 だから私の仕事は子供の世話をするだけでなくて、その背後にいる親御さんとも関わらなきゃいけなくて、中には酔っぱいがやってきたり、夜中に突然ヒステリー状態に陥って、ウォンウォン泣きながら1時間も喋るお母さんがおったりとかもう大変でございますね。まあそんな毎日なんですけれども、うちの職員にはですね、「子供たちとタッチしようね」というふうに言ってるわけですよ。体で抱きしめてあげること、これが幼ければ幼いほど効果 があがるように思いますし、こないだ俳句を一緒に見てあげてましたら、小学校3年生の男の子でも何となくこうして私の側にこう寄って来て最後はずるずるとお尻をのっけてですね、私の膝の上に座りこんじゃって、そしてうれしそうにしておりました。だから本当にスキンシップは大事だなと思いますね。それから大きい子でも声をかけてあげること、とても大切と思うんですよ。それからあまり大きい子を抱きしめるわけにはいきませんのでね、やはり私は肩を叩いたりね、背中をこうしてこうちょっと撫でてあげたり、それからいい成績をスポーツなんかであげたりしたら「素晴らしかったね」って言って握手したりするようなことをしてですね、保母さんにもそういうふうにお願いをしてるんです。背中に不幸を背負って生きている子供でありますから、よけい明るく育てたい。それでうちの枠の中にいる限りは「みんな明るく育っている」というふうに、うちにお見え下さる方はみんなおっしゃって下さるのが私の喜びです。そしていろんな行事なんかもたくさんやってるわけです。それはこの「栄光園だより」をお暇な時にご覧になって下さい。そこに子供たちの明るい笑顔の写 真がございます。ここにあります写真は平松知事がサンタクロースの扮装をして来て下さっているので、これが「クリスマス 知事さん 握手してくれた」になってるわけですね。クリスマスもやりますし、それからいろんな方のご好意に支えられて、どうにか明るくやっておりますね。  
 私はすべての子供が差別なく大切にされる世界でありたいなと思ってるんですよね。それで人権とか差別 の論議をよく耳にいたしますけれども、そんなことを論議しなきゃいけないということを裏返しますと、人権が軽んじられたり、抜きがたい差別 があるということで大変悲しいことと思っております。みんな誰もが幸せになりたいと思っています。また健康で豊かな生活をしたいと思っています。自分がそう願っている思いを周囲の人も同じように持ってるということを忘れてはいけないと思うんですけれども、私たちの周囲にはやはり差別 があることをよく感じますね。男女の差別もあります。何も私は男の人と同じように女がしゃしゃり出るのが男女平等とは思っておりません。それぞれの特性があります。ただ女だからということで出る釘が打たれるというふうな状況がまだ残念だと思ってるわけです。それから学歴無用論などというのも出てはおりますけれども、未だに学歴社会ですね。私はテレビに出た二人の出身者は本当にその学歴社会の中でのし上がって偉いなと思うんですよ。二人とも15歳の青山中学校卒業ですね。そして一番最初はもう土木作業員ですよ。それから鳶になったりしてね、「自分は中学しか出てない」というようなひがみを持たないでがんばって、人からちゃんとおじぎをされるような人間になっているわけですから、大変偉いと思うんですけれども、まだまだ学歴によって差別 を受けることはよくあります。それから職業による差別もあります。それから悲しいことに身体障害者に対する差別 もまだあります。外国人への差別も無いとはいえません。私の父も母も等しく幸せな状態でない子供たちのためにですね、心を砕いてきたわけです。  
 一番私が悲しく思いますのは捨て子というのがまだあることなんです。昨年ですね、児童相談所というのが南大分にあるんですが、その児童相談所の福祉士さんが年に1〜2度はいらっしゃって子供たちとお話をなさるんですが、ある時ある福祉士さんがうちの女の子にですね、「何か悲しいことやつらいことはないかい?」って言って聞かれたわけですよ。そしたらその小さい女の子が「『捨て子』って言われるのが一番悲しい」と言ったんですよね。それでもう福祉士さんはショックを受けられまして、私もショックを受けました。よくぞ登校拒否をおこさないで、その子がんばって行ってると思ってですね、私ほめてあげたんですけれどね。「何にもあなたが恥ずかしいことは無い。お母さんは事情があって、遠いところに働きに行った。きっと必ずあなたを迎えに来てくれるよ。」というふうにうそも方便ですね。人の心を傷つけるよりは私は本当にうそをつきました。本当に何と言いますか、捨て子の刻印は一生ついて回るんだなと思い知りましてですね、その子には何の罪もないです。だのに卑しいもののように「捨て子、捨て子」と言われることを大変私は悲しく思うんですね。
 昔も捨て子はありました。テレビでも言いましたし、それから時々お話しにも出てきますのでご存じの方もあると思いますが、昔うちの前は本当に捨て子の場所だったんですよ。うちの前は松の木がありまして、その松の木が枝を張っておりますので、ちょっとした雨風が防げるんですね。そこに置いといたらきっと栄光園の人が気がついてその子を拾ってくれるだろうというので、わざわざそこに持って来て置く、そういうふうなことがよくあったんです。昭和20年代の赤ちゃんというのは今のようにしゃれたベビー服なんか着てませんね、着物ですね。その懐に手紙が差し込んであるんですよ。それにはちゃんと生年月日が書いてあったりね、それから「この子を連れていると共倒れになってしまいます。だから私の生活が成り立った日には必ず迎えに来ますからそれまでこの子をどうぞよろしくお願いします」というふうな意味の事が書いてあるんです。そして拾ってくれるかどうか気になってですね、うちのちょっと上に歌舞伎門の大きな日本邸宅があるんですけれども、その門の陰からこうして覗いているんですよね。それをニ階からうちの父が見ておりまして、そしてうちの父はですね、「こらそんな不心得なことを」とかと走り出たりしないんですよ。そんなことをしたらまた違うところに恐らく捨てるだろうというので、そんな時母を呼ぶんですよ。そして「また子供を育てることができない気の毒な女の人が来た。行って確かに引受ましたということがわかるように抱き上げてゆっくりその辺を歩いてあげなさい。」と言うんですね。母がそのとおりにしますと二階から父が見下ろしていることを知らない、その子供を捨てた女の人はその歌舞伎門の陰でこうして手を合わせて泣いている。それが昔の捨て子ですね。本当にそこには昭和20年代の捨て子せざるを得なかった悲しい女性の姿が見られました。でもですね生年月日がわかる人はまだいいんです。生年月日が推定で始まる非常に不安定な人生というのを考えてみて下さい。本当に不安なことですよね。例えばコインランドリーの赤ちゃんなんかはまずお医者さんに連れていって、うちは嘱託医さんが松本小児科という北浜のお医者さんなんですけれどもそこに連れていっていろいろ測っていただきます。そうすると頭囲がいくらで胸囲がいくら、身長がいくら、体重がいくら、ミルクを飲ましてみると何cc飲む、たぶんこの子は生後2週間ぐらいでしょうと言われたら、その発見の日から2週間さかのぼった日がその子の誕生日になるんです。そして戸籍はその捨てられた町のあるいは市町村の一番トップの方、市長さんないし村長さんが戸籍を作るというふうに決められているんですね。そうやって本当に生年月日も定かでない推定の人生が始まって、そしてその子供、本当にポンとかりそめに蒔かれた種でもですね、一旦地上に落ちたらそれは芽を出しますね。芽を出したら、そしたら誰かがお水をあげて、そして育ててお日様の光が当たるように工夫してあげて、そしてすくすく伸びてもらって花を咲かせてあげなきゃいけない。うちの父が「蒔かれた種というものは必ず誰かが育てなきゃいけないんだ。その子の持って生まれた命というものを大切にしなきゃいけないんだ。」というようなことをよく言いました。そう思ってうちで育てあげるんですけれども施設の子といういわれなき偏見の壁によくぶち当たります。入学の時にもぶち当たります。進学する時にもぶち当たります。それから卒業の時にも、就職をする時にもあるいは結婚の時にも、つまり人生の一区切り、一区切り来る毎に「なぜ」という疑問にその子自身がさいなまれるわけです。  
 そこで私ちょっとどんな思いでいるかという、いい先生と悪い先生の例の作文を読んでいただきたいなと思いましてコピーしてまいりました。まず悪い例で、「施設の子、施設の子」と簡単に言われてどんな思いでいるかという例です。
 
  「わたしは誰から」                  小学校5年女子  
  わたしは誰から生まれたのかなあ? お父さんやお母さんの名前さえ知らない。自分の子どもがかわいくないのか。わたしは赤ちゃんの時から栄光園にいた。でももう何もかもあきらめている。わたしのお母さんはお姉さん(保母さん)なのだと思うようにしている。学校で先生が、お父さんの職業を書きなさいと言われた時、わたしは何と書こうかと迷って、先生の顔をにらんだ。そしたら先生はわたしにきづいたのか、黒板に二つの字を書いた。「施設」と書いたのである。みんなの眼がわたしを見ている。わたしは悲しかったが、こんな事ぐらいでは負けないと思った。或る時、友達を2〜3人つれてきた。そうしたら、みんなわたし達も此処に住みたいなあと言った。わたしはとても誇らしく思った。わたしは大きくなったら、わたしみたいな子どもを生まないようにしたいと思う。
 
  何と小学校5年生の子が、誰から生まれたのかなというような不安を心の底に持ち、そして大きくなったら自分のような子を生まないようにしたいと思うと言ってるんですね。悪い例と言ったのはこれは先生のお取り扱いです。あまりにも無神経と思いませんか? 「施設」とね書いてですね。この時私学校に言って行きました。もう代弁してあげなくちゃいけないと思って。そしたら「『施設』というのは差別 用語ですか? 違うでしょ。」と先生のお答えだったんですね。だから「差別 用語ではありません。確かに『施設』とい言葉はあります。だけども『施設』という言葉で、『施設の子、施設の子』と言われるのが子供にはつらいんだから言わないでいただきたい。例えば先生がもしどっかに障害を持っておられる。そして『障害』という言葉、『障害者』という言葉は差別 用語でないかもしれないけれども『障害者、障害者、障害者』と言われたらやっぱり嫌でしょう。」と言ったら黙ってしまわれましたけれども、そういうふうな心無い一言、差別 用語でなくったって人を傷つけることはあるんですね。言葉の剣と言いますが本当に言葉というものは恐ろしいもんだと思います。  
 次は「勇気の手」という題なんですが、3年くらい前に「小さな親切」作文コンクールの優秀作品に選ばれた作品でございまして、中学1年の時に小学校の時の先生のことを書いた作文です。この子今高1になっていてなぜかいい先生によくめぐりあって、先生に可愛がっていただいて、先生との巡り合いっていうのは本当に大事だと思いますね。いい先生と出会うとその子はぐんぐんと伸びて明るくいい子に育ちます。不出来なのに出会うと一生の不作というふうな感じになって、今私高校中退の宙ぶらりんというのも私から言わせれば、先生とうまが合わなくてですね。もう何から何まで衝突して非常に不快な日々であったような感じがするんですけれども、まあそれは身びいきかもしれない、その子にも悪いところもあるんでしょうけれども本当に先生との出会いというのは大切と思いますよ。学校の先生の担任発表がある時に今の子というのははっきりしててね「あたり」とか「はずれ」とか言うそうです。私その場にいたわけじゃないですけれども、確かにそんなところはあるような感じがいたします。皆さん方もお子さんのことで「あたり」とか「はずれ」とか思われることあると思うんですよね。だから大分大のお友達の先生にしっかりして下さいと言ったわけですけれどもね。この「勇気の手」というのは先生がとてもいい先生でね。全部読んでると大変長いんですけれども、遠足の前の晩にねその子寝られないんですよ。というのはなぜかというと、なんと栄光園の前を通 ってずっと遠足の目的地に行くことになったんです。自分の家の前を通るときにお友達がどういう反応を示すかが心配で夜眠れなかった。そしてちょうど家の前を通 っている時にやっぱり言った子があるんです。男の子がね「ここお前の家やろ、帰らんの」と言ったわけですよ。ですから「ここから帰れ」と言ってるわけですね。お前の家と言われるのは一般 のご家庭のようにこじんまりとまとまった家でなくて、うちは施設ですから大きい家なんですよね。そして50人、ある一軒の建物には50人近くが一緒に共同生活してて幼児さんは幼児さんで27〜28が共同生活してて、赤ちゃんは赤ちゃんで20床ぐらいのベッドで眠ってて人数が多く住んでるわけで明らかに普通 の家の造りとは違うわけです。

  この栄光園の施設の子だということを言うみたいに男の子が「ここお前のいえやろ、帰らんの」と言った。  私はこの一言にひどく傷つきました。でも、私は笑いでごまかしました。すると、ギュッと、私の手を先生がにぎってくれました。その手は、私に勇気をあたえてくれるあったかく、やさしい手でした。私は、なんだか力がわいてくるような気がして「負けないぞ。」と心の中でさけびました。傷ついたはずの私の心をまるではね返すように。私は、自分の家の前を、堂々と通 れない自分がはずかしくなりました。今からの、私はちがう。なんでも、勇気を持てば何も恐れることはない。自分に自身を持つぞ。私は、自分の家の前を通 るとき、先生の勇気の手をがっちりつかんだ気持ちになりました。「先生、ありがとう。」  

  これは何か言葉をかけて慰めたりしたら、その子は恐らく泣いてしまったと思うんですよ。だから先生はギュッとただ手を握りしめて下さった。本当に温かいいい先生だと思います。ずっと卒業しても先生のところに年賀状とか欠かさずお慕いしておりますね。だから先生たるもの、このような温かい心使いで子供達に接していただきたいなと思うんですね。私は「その子に何の罪もないのに」と思うような事例に限りなく突き当たってきました。  
  私自身のことを振り返ってみましてもですね、昭和20年代に米軍キャンプがあったことからうちは始まったんですよ。混血児がたくさんできて、そしてそれの捨て子が絶えませんでしたから、何とかしなくちゃいけないということで父が頑張って始めたんですけれども、まだ私が20代の頃に黒人との混血の赤ちゃんが風邪をひいたんです。今北浜にあります松本小児科という小児科の医院はその頃は松原という所にあったんですが、松原の松本小児科まで私はおんぶしてですね。そして今のように車社会じゃありませんし、バスも1時間に1本あるかないかのような時代でしたから気が急くままにですね、おんぶして松本小児科に急いでたわけですよ。そしたらね今税務署になっている所があるんですが、その街角からバラバラバラと石つぶてが降ってきた。びっくりいたしましてね、そしたら怖い顔をした男の人が「何かおまや、きのうまで戦争しよった敵の子を産んじから」と言うんですね。「この恥さらしの非国民が」と言ってまたバラバラと石が降ってきた。だから結局私がおんぶしている黒人との混血の赤ちゃんを私が産んだと思ってですね、石をぶつけてきたわけですよ。当時本当に戦争が終って間もなくですから、そんな感情も今となって思えばゆとりもって無理もなかったなと思うんですけれども、当時私も若かったから本当に泣いて帰りました。そして父にですね「お父さん、みんな私が産んだと思ってる」と言って訴えたんですよ。父はもう慰めようがなかったとみえまして「まあいいじゃないか。お前、そうべっぴんでもないのに粋なお姉さんと間違えられたんだから」というふうに言って変な慰め方をしてくれたのを今でも覚えております。そういうふうな当時の混血児も大変つらい思いをいたしました。色が黒いというだけで、あるいは髪がこうくるっと巻いているだけで、今だったらパンチパーマとかいってしゃれたことになってるのかもしれませんけれども、当時は大仏頭などと言われたものです。大仏さんのような頭ね、それから「混血児」とか「ハーフ」とか言わないんですよ。「あいの子」とか「黒」とかいうふうな非常に侮蔑的な言葉でばかにするんです。ただ肌が黒いというだけで歩いてたら石投げるんですよ。それからうちの庭を覗いて「あっこにおる、あっこにおる、あれや、あれや」とかいうふうなこと言うわけです。非常に傷つきますね。ある時お風呂場を覗いたら、その黒人との混血の男の子が亀の子ダワシね、あの痛い亀の子ダワシに石鹸をつけて一生懸命に肌をこすっているんですよ。少しでも白くなるかと思ったんでしょう。それを見て母が泣いてしまいました。
 そして「この日本の精神風土の中でとてもこの子供達を心豊かに育てることはできない。だから何とか考えましょう。この子達がゆったり生きていけるような方法を考えなきゃいけない。」と言って、それから父と二人で米軍キャンプの将校宿舎まわりを始めたんです。そして「養子あるいは里子にもらってくれる方はないでしょうか?」と言って、お願いに上がりました。そしてその当時いた十二人の混血の子供は一人残らずアメリカに渡りました。白人との混血の子供は白人の将校家庭に、黒人との混血の子供は黒人の将校家庭にもらってもらいました。今でもですね、「子供がいないから下さい」とおっしゃる方がだんだんと現われるわけですよ。だけどもなかなかそのお話が成立しない。というのはどういうふうなご要望があるかというと「頭が良くて、健康で係累のない子を下さい。」とおっしゃるわけですね。それから「うちはこういう仕事をしているが後継者がないからうちを継いでくれるものはないでしょうか?」と。つい2日くらい前も電話がかかりましたね。「私は現在70歳になります。後継者はないが自分の老後をみてくれるものはないでしょうか?」と。突然現われてね、「老後をみてください。」と言われたってね。「うん、僕行こう」というのはちょっといない。だからもうやんわりとお断りしたわけですけれども、そういうふうな要求が多いです。だけどもたまさか出会った人がいい方ばっかりだったからだと思うんですけれども、みんなちゃんとアメリカの方がもらって下さいました。そして「誰かがヘルプしなきゃいけないものを私がやりましょう」と言って下さった。だからみんな後幸せな生活に恵まれることができて、私はアメリカに渡ってよかったなと思います。だけども別 れる時は悲しくてですね。しばらくあげた当座はですね、あの「赤い靴はいてた女の子」という歌を聞くたびに涙がこぼれて泣いておりました。その歌のとおりなんです。何にも知らないでヨチヨチヨチヨチ赤い靴をはいてね、手を引かれていくんですよね。当時将校家庭でも飛行機は利用しませんの。横浜から船に乗ってアメリカに行くわけで、時間の許すかぎり横浜まで送りに行ったもんですが、本当に悲しい別 れをしました。けれども結果的には良かったんじゃないかな、うちにいたら中卒でださなきゃいけなかったろうと思いますけれども、中には大学院出してもらってね、りっぱな電気工事の技師みたいになっている人や会社かまえている人もおるわけです。だから周囲の育んであげる者の力の大きさというものを痛感いたします。  
 私の父が栄光園を創設しましたのは昭和25年の11月でございます。そして父が亡くなってからそのあと母がずっと園長を継いでやってきまして、そして二人とも本当に子供のことばっかりを考えて、そして力をそれに注ぎつくして、燃え尽きるように亡くなっているわけですが、私はそういうふうな父母の生き方をみることによって、ともすれば人間できてないものですから、くじけそうになる心を自分で励まして、そして自分の生きる指針にしてるわけです。ちょっとそのことをその頃のことを話させていただきますと、今の別 府公園が全部米軍キャンプだったんですよ。そしてその米軍キャンプの前に山の手中学校がありまして、その裏にうちは住んでおりました。その当時、キャンプに近いということで、うちの周辺にたくさんの米兵相手に商売をする女性が間借りをしたんです。そのためあっち向いてもこっち向いても、そういう女の人というふうになっちゃったんですよ。その人たちは商売しないといけませんから、単語の羅列ですけれども英会話はめざましく早く覚えたんですね。私なんか文法とか考えてるとあぶら汗が出てきてですね、なかなか話せないんですよね。ところが本当に強いといいますか、「アイハブね、アカダーマ」とかポートワインがあるからうちおいでとかいうようなことで「アイハブね、アカダーマ、コイコイ」なんてやってるわけですね。そんなことですごく早く英会話が上達したんだけれども読めないし、書けないんですよ。それでお付き合いし始めたその最初というのが、その中の女の人の一人がうちの父に白羽の矢を立てて「おじさん、この手紙読んでくれ。」と言ったわけです。おじさんはですね、幸せなことに読めたわけです。というのは大正時代の方というのはよく勉強しているわけで、読めて、読んであげたら「ついでに返事も書いてくれん。」と言ったので何の気なしに「簡単でよければ。」と言って書いてあげたんです。そしたらそれからが大変。「あのおじさんのとこ持っていったら、手紙読んでくれて返事も書いてくれるで。」というふうなことになって、みんなが「おじさん、頼む。」と言ってやってきたわけで、おじさんは大変困りました。もちろんボランティアですからね、忙しくてしようがない。だから「自分は商売じゃないんだから、勘弁して。」って言いました。そしたら「おじさんより他に頼む人おらんのや。」と言うわけですね。確かに今の売春している人々と状況違います。本当に頼る人ないんですよ。みんな戦争で親御さんが亡くなったり、兄弟が亡くなったり、戦災で家を焼かれたりで独りぼっちになっちゃって頼る人がないというふうな女の人がやむなく売春の道に走ったというふうな状況だったもんだから、本当におじさんより他に取り合ってくれる人はいない、というふうな状況でですね。それでも「勘弁してほしい。」と言って断りました。「じゃニ行でいいから、お手紙書いて。」と言うんです。今でも覚えている大変威勢のいいお姉さんでしたけれどもね。父が「二行で手紙なんか書けるか。」「書ける。」「何て書くんだ?」って言ったら「一行目には『愛しちょるで』って書いてくれ。二行目には『お金をくれ』って書いちょくれ。二行ですむ。」って言って、父は失笑してね「それくらいなら書いてやろう。」って言って何通 か書いてあげたのを記憶しております。私もその話を聞いた時は愉快でね。「愛しちょるで、お金をくれ。」と言うのもこれもまた要領を尽くした名文ではないかと冗談ですけど思うわけですよ。  
 そんなことでうちに出入りするようになって人生相談までするようになって、一番困ってるのが赤ちゃんの問題ね。だから何とか顔見知りになった人達のために考えてあげなきゃいけないなと思うようになったわけですよ。それで自分の力は非常に微々たるものであるけれども「かりそめに蒔かれた種であっても、一度地上に落ちた種は芽をふくんだ。何とか水を注ぐものがいなきゃいけない。光をあてるものがいなきゃいけない。誰もやらないんだったら自分でやろう。」というふうに決意をするんです。それで貧しい資材をことごとく投入してですね。それじゃとても足りませんから、同志を募って一緒に父は建設資金の調達に走り回ります。文学的な表現でなく、本当に走り回ったんですよ。足にゲートル(脚絆)を巻いてね、疲れないようにして、そして趣意書を書いて、それを一軒一軒持ってまわってご寄付を仰いで歩くんです。その趣意書、今でも私覚えておりますが、「大海の中の一滴の如き微力なれど我子供達とともに生きん。」と書いております。本当に見渡せば大海の中の一滴のような本当に微力ですよ。だから大海の中の一滴のようなものだから、もうつまらんと投げ出せばそれまでだけども、「がんばるぞ」と言った父の気迫を私は学びたいと思ってるんです。それでお金集めて回るんですけれどなかなかうまくいきません。それで借金もしてですね現在地を求めて子供の家をやっと建てます。その時にまだ予算が少なかったもんですから、土地は購入して家を建てたのはいいんですけれども、今度は集まってきた子供達を食べさすことができないで、また寄付金の調達に走り回るんです。本当に走り回る人生なんですけれどもね、ところが日本の方は当時昭和20年代とっても貧しくて心はあってもお金を出すことができない。だから当時の黄色に変色してしまった御寄付金御芳名名簿というの今でも私大事に持ってるんですけれども、10円、20円、10円、20円という字が続いています。ぽこっとね2万円というのがあるんです。それ見たら皆外人さん、アメリカの方の名前、日本の方はお金出して下さった方は心はあってもたくさん出せない。そこでとうとう父は米軍キャンプの司令官のところにお願いに上がるんですね。そして「私は混血児をたくさん集めて育てておりますが、混血児の存在というのは日米合同の責任ではないでしょうか?」ともちかけるわけですよ。そしたらその時の司令官がウエストモアランドという方ですが、その方が非常に沈痛な表情になって「本当にそう思う。部下将兵の不始末を申しわけなく思う。」とおっしゃって、直ちに全軍にカンパを呼びかけて下さったんです。そしてそのカンパが集まって下さるまでに10日とかかりませんでした。「集まったから取りにおいで。」と言って、いただいたお金が何と360万円、40年も前の360万円、それで食いつなぐことができました。だから当時の混血児や戦災孤児は戦争がなかったらそういう子供は生まれなかったと思うんですが、でもアメリカからそういう援助をいただかなかったら恐らく餓え死にしていたと思うんですよ。この新聞に出ている井上マーチンでも稲田文夫君でもそのくちなんですね。  
 やっと食いつないでどうにかこうにか仕事が軌道にのった時に漏電でせっかくの苦心の営舎が火事になって焼けてしまいました。本当にがっかりいたしました。私なんか「もう二度と立ち上がれない」と思いましたね。ところが父は違うんです。父はね「家は焼けた、物は焼けた、しかしただ一人の死傷者もなく子供を救い出すことができた。これを感謝せずにおられようか。この感謝をバネにして僕は再建にとりかかる。」と言ったんですね。そのとおり5ケ月後に再建をいたしました。でもその間にあまり走り回ったもんですから、どんどん体が悪くなってくることが目に見えてわかるんですよ。それから後ろから見た時にものすごく肩が落ちて、後ろ首が淋しい。だから「お医者さんに行って下さい。」と言うけど、全然行こうとしないんです。後から思うのに、「お医者さんに行ったらきっと入院を命じられるだろう。入院を命じられたらもう再建できない。」と思って行かなかったと思うんですね。あえて子供に殉ずる道を選んだんだと思うんですけれども、再建なった日にですね、「焼け出されて預けてあった場所から子供達を呼び戻してこい。」と言いました。戦災にあって焼け出されて、戦災に遭った時に既に無一物であって、しかもまた栄光園から焼け出された子供達の荷物ですから、引越荷物をするのに一時間とかからなかったんです。汚い風呂敷包を一個ずつぐらいしか持ってないもんですから、子供達45人おりましたが、大八車というのに積んで、中学生の子が引いてですね、そしてあとの子がその後ろを押して、女の子は赤ちゃんをおぶってですね、うちの前を手を叩いて踊りながら登ってくるんですよね。それを窓から父がこうして見下ろして、そしらたその父の姿に気がついて「お父さん」てみんなが手を振ったんですね。中学生の一人の男の子が「お父さん、また将棋をさそうな。」って言ったんですよ。返事をしないんですね。だから「あら、返事をしてあげればいいのに。」と思って見ましたら、うつ向いてしまって何にも言えないんです。みたらホーっと涙がこぼれておりました。それが私が見た明治生まれの男の最初で最後の涙となってしまったんです。その2〜3分後にですね、ゴホンと咳こんでくずおれてもうそれっきりです。急逝いたしました。もう信じられなかったですね。それまで普通 にものを言ってたものがですね、しかも家から子供達を迎え入れたものが咳と同時にこときれたということの事実が信じられませんでした。もう1時間くらいゆすったり、もう本当に涙、涙、涙の時間だったんですが、その中で1時間くらいしてから、ふっと母がですね「1週間前に言ったことがあれが陰ながらの遺言だったんだ。本当に自分の命がもうこれぐらいだということをお父さんは予感していたんだと思う。どんなに苦しむかと思って陰ながらの遺言を冗談のようにしていったんだ。そのとおりにしましょう。」と言いました。
 どういうことを言ったかといいますと「人の喜びを我が喜びとし、人のいたみを我がいたみとするような人間でありたいと自分は思い続けてきた。子供達の悲惨な状況を見てもうそのいたみが自分のことのように思われて自分は子供の家を作った。そしたら三食たべてお芋のふかしたのではあるけれども、おやつをたべてニコッと笑う、その子供の笑顔を見て自分の心は満たされた。人の笑顔を見るというのは本当にいいことだ。だから死んでも自分は人が喜んで下さるようなことをしたいなと思って考えた。九大温研(今の生医研)の若い医師達は研究用の解剖遺体がなくて大変困っているということだから僕が死んだら僕の遺体は九大に寄付してくれ。もう所長さんにお話しは通 じてある。」と言ったんです。その時は父の死期が迫っているなどというふうなことは愚かにももう夢にも思いませんでしたから「まあ、死んでなんて、縁起でもないこと言わないで。」と言って、笑って肩を叩いてしまった。父も笑って「人間いつかは死ぬ 。だから死んだらと言ったろう。」と笑いでごまかしてしまったんです。だからきっと本当のことは言えなくて陰ながら言ったんだろうなと思いまして、九大に電話をいたしましたら、本当にお約束してありました。非常に丁重に迎え入れていただきました。時の所長さんは八田先生とおっしゃいますが、当時若かったお医者さんがもう大分の県立病院を定年退職なさいました小縣先生、それともう亡くなられました癌センター所長だった中村泰也先生、その先生が九大の温研で当時若い外科医だったんですね。その二人の方が執刀なさって所長さんも外科だったもんですから介添に付かれて解剖して下さったんです。そしたらその結果 わかったことは父の心臓はあまりの酷使のために刻々と心臓壁が薄くなってゴホッと咳をした最後の瞬間に破裂をしたんですね。もう血が胸郭いっぱいに広がって即死でございます。「さぞかしこんなになるまで苦しまれたでしょう。」と言われ、ところが「いいえ、痛いとも何とも言いません。」て言ったら「まあとても人間技とは思えません」ていうふうに言われまして、そしてこれが解剖しなかったならば、ただの心臓麻痺で片付いたでしょう。だけども「解剖させていただいたお陰で論文が書けます。」と大変喜んでいただきました。心臓破裂というのは非常に稀な症例だそうです。その論文のコピーも頂戴して今でも私大事にとっているんですね。それから破裂した心臓の写 真も頂戴してちゃんととっております。NHKの方が「写真なんでもいい、見せて、見せて。」と言うから「お見せしましょうか?」と言ったら、「いいえ、もうそれはけっこうです。」と言われましたが、本当にもう無残な状況で私もそう再々見る気になれませんけれども大事に保管をしております。  
 そういうふうに私としてはですね、子供のために父は殉死をしたと、入院しておったならばもっと延命できたのではないかという気がして仕方がありません。でも「人のいたみを我がいたみとし、人の喜びを我が喜びとする。」ということを終生のモットーとして父はそのモットーを最後に到達することができたので本望ではなかろうかと思っているんです。私は本当にいろんな人の死の状況を眺めてまいりました。けれども肉親のことながら父の死は非常に壮烈な死であったと考えております。そして「大海の中の一滴のような微力でも物事を投げ出さないでがんばろう」というふうな姿勢を父から学んで、実は小説を書くのでもですね。何遍でも「もう、よだき」「もう書かん」と何遍でも思うわけですよ。特に合同新聞に連載しましたのは5年間に及んで1700枚ですからね。原稿用紙に。だから何遍も「よだき」と思ったかわからないです。だけどもやっぱり途中で止めることは卑怯だと思ってですね、父のことなんかを思い出して、あれだけ頑張った人を目の前で見てるものがここで投げ出せないと思って、どうにかこうにか書き上げました。今でも子供達がいろいろ問題を起こしたり、それから病人がひどくなったりして、「もうどうしよう、どうしよう。」とはらはらすることがいっぱいあるんですね。今もインフルエンザがね、はやってるもんですから、四十五人おります棟の中の今20人までインフルエンザで38〜39度の熱、大きい方の子供達の棟だったから命に別 状ないですけれども、やっぱり夕べなんか「どうしよう、どうしよう」で走り回りましたけれども、「私がうろたえたらどうにもならない」と思って頑張ってるわけで、子供達も「大丈夫だよ」というふうに言ってくれております。いつまで続くかわかりませんけれども、私命ある限り子供達の「地に落ちた種」を大事に育ててゆきたいと考えております。このくらいでお話しを終わります。どうもありがとうございました。