〜講演会から〜

「在宅で夫を看る」
群馬ホスピス研究会 会員
繁山 和子 さん
1996年11月9日(土)コンパルホール 304号

 (ナレーション)  【春を待ちかねて】  繁山さんは51才の男性。夫婦二人暮らしである。奥さんは生命保険の外交員をしている。1991年の秋から尿の出具合が悪く繁山さんはA病院の泌尿器科にかかったが、先天的なものだということで治療を受けていた。しかし1992年の3月頃から尿に血が混じるようになりおかしいという事で何回か訴えたが、たいしたことはないとのことで検査もしてもらえなかった。4月に入り血尿がさらに増え病院に行ったところ、では精密検査をしましょうという事で入院となった。担当医師は「検査を一通 りやってだいたい2週間ぐらいでしょう。」と言ったがこれが夫妻の10カ月に及ぶ長い入院生活の始まりであった。入院後早速行なわれた膀胱の検査によって膀胱がん、それもかなり大きくなったものが発見されたからだ。その後精密検査・放射線治療を経て手術となった。朝から深夜に及ぶ大手術であった。そして一段落すると化学療法が始まった。8月頃にはそれも終わって退院できるだろうとの事だった。しかし化学療法ですっかり体力の落ちた繁山さんは高熱をだし苦しむ事となった。もちろん退院はお預けである。秋風が吹き始める頃熱がやっと落ち着いたが、予防という名目での化学療法が又始まった。それが済めば年内には退院してお正月を家で過ごせるというのがその頃の夫妻の希望だった。しかしその希望も虚しかった。12月に入って悪い事が続け様に起こった。手術で作った人口膀胱が破けてしまった。頚のところに腫りゅうができているのが見つかった。へその周りが痛みだし、しかもだんだん強くなってきた。おまけにMRSAに感染してしまった。暮には連日40度近い高熱が出て死線をさまよった。奥さんは遠く九州に住む身内にも声をかけ、いよいよだからと呼んだ。しかし年が明けると奇跡のように熱が引き繁山さんは少し元気になった。でもお腹の痛みは相変らずで強い痛みが頻々と襲ってきてその度に繁山さんはベッドの上でのたうちまわった。担当医師になんとかしてくれるよう再三頼んだが、時おり痛み止めの錠剤をくれるだけだった。奥さんはもうここではダメだと思った。痛み苦しみぬ くだけで、何一ついい事なく終ってしまうと感じた。痛みに対処してくれない医師が、頚部の腫りゅうに対して放射線治療を又始めようとした時決心が固まった。ペインクリニック小笠原医院との連携で在宅ケアをしようという事になった。1月19日退院した。退院時には多くの仲間がかけつけた。そのなかにホスピスケア研究会事務局の吉本さんや小笠原医院看護婦の蜂巣さんの姿もあった。こうして繁山さん夫妻の在宅での闘病が始まった。県営住宅の一階にある繁山さんの家の中では春を待ちかねた花々が次々と芽を出している。繁山さんの病気が治る期待は非常に少ない。でも、この日誌がいつまでも続く事を願わずにはいられない。1992年3月18日彼岸の入りから九州へフェリーで22時間、宮崎・熊本・長崎をめぐり、和子さんのふるさと大分へ里帰り、最初で最後の旅でした。繁山武正、「わが人生に悔いはなし」。

 私の夫、繁山武正は今から3年8カ月前に自宅で息をひきとりました。50才と8カ月の人生でしたが、妻の私にとっては結婚22周年に10日足らない夫との悲しい別 れとなってしまいました。しかし夫の臨終は総勢20人の方々に見守られる幸せなものでした。彼の幼なじみの友人の方々、団地の隣人の皆さん、前の入院先の看護婦さんたち、そして52日間の在宅ケアを医療面 から支えて下さったペインクリニック小笠原医院のドクターと看護婦さんたち、生前夫が心から信頼していた人たちにベッドの周りを囲まれて安らかで満足感のある人生の終焉であったと思います。もちろん一人残された私には夫の死はやはり早すぎるものでした。3年を過ぎた今も夢の中で夫と語るような毎日を生きておりますが、夢の中で出会う夫はいつも明るい笑顔を見せてくれております。それが私にとってただ一つ大きな救いとなっております。思えば1年6カ月の闘病生活は長くつらいものでした。それでも私の夢に現われる夫が笑顔でいてくれるのは、人生最後の52日間に在宅ケアの充実した日々があったればこそだと感じられます。本日は在宅ホスピスでお世話になった方々への深い感謝の気持ちをこめて、夫婦二人三脚で生きた在宅闘病体験をお話しさせていただきます。  
 1992年4月23日、私はこの日を忘れることができません。前年の秋から体調をこわしていた夫の癌がわかった日です。夫は膀胱癌、それも悪性で進行性のものだと主治医の先生から説明がされました。最初は手術も不可能で放射線治療と化学療法が始まりました。幸い放射線治療が効を奏したとかで2カ月後に腫瘍が小さくなり手術を勧められたのです。「年令的にも若いし治る可能性は十分にある。」という医師の言葉を信じて、夫は18時間の手術に耐えました。夫の手術は骨盤内全摘というもので膀胱全部と直腸・尿管の一部など約1キロ分の内臓が摘出されるという大手術でした。手術後の経過はまずまず順調で手術から1週間ICUの廊下で歩行練習を始めました。手術の成功、そして回復への期待でこの時期夫は明るい表情です。  
 手術から2週間後、夫はもとの個室に戻りました。その翌日1992年7月15日は50才の誕生日を病室で迎えました。大人用の紙オムツに腹帯、半袖のシャツという彼の姿で私がふざけてカメラを向けると彼は少しおどけてポーズをとりました。夫婦二人で手術の成功を喜び、退院の日をひたすら心待ちにしていた時期です。ところが誕生日の翌日頃から原因不明の高熱が出て、夫はベッドから起き上がれなくなりました。手術の後の感染予防のために投与された抗生物質を原因とする院内感染でした。あっという間に病状は悪化し数日間の危篤状態の後、高熱が1カ月以上続きました。  
 8月のお盆過ぎにようやく状態が安定すると主治医の先生は癌再発予防という名目で抗癌剤の治療を開始しました。この段階で夫と私は病気を治すことしか頭になく、病院の治療に期待をかけていました。8月22日病院から初めて車椅子で外に出られて夕暮れに赤トンボをふと目にし、「あー、子供の頃を思いだすな。『トンボは寿命が短いので捕ってはかわいそうだ。』と死んだオヤジに叱られた。それに比べればおれは50才を迎えることができて、本当にうれしい。ありがとうね。」と感謝されました。  
 9月、10月、11月と苦しい治療が続き、仕事を持つ私もこの間夫の個室にずっと泊まり込みました。もうすぐ元気になって家に帰れるということをただ一つの希望にして夫婦二人だけでつらい入院生活に耐えていたのですが、手術から半年後、12月初め左頚部リンパ腺に癌が転移しました。手術で作った人工肛門が破れ、腹部に激しい痛みを訴えます。また急速に増殖した細胞のせいで腸が詰まり、腸閉塞の症状を併発しました。それ以来癌の痛みと不眠、そして一日に何度も嘔吐するという八方塞がりの日々でした。この時夫は二度危篤状態に陥り、生死の境をさまよいながら1993年のお正月を迎えました。かわいそうに癌の再発した夫はまるで人が変わったようでした。  
 1993年1月18日、病院から我家へ帰る前日「おれは病院で死ぬしかないのか?」とすべての希望を失った夫、元気な頃は陽気で明るかった夫がげっそり痩せて暗い表情を見せている。あの頃を思いだすと今も涙を抑えることができません。実は数日前「夫を家に連れて帰ろう」と決めていました。このまま病院で死なしてしまうのは夫がみじめすぎる。家に連れて帰り、せめて一晩でも二晩でも家庭の味を満喫さしてあげたい、そして人生の総決算を家で締めくくらしてあげたい、あの時ひたすらそれを願っていた私です。50才の夫は自分の癌を知ってはおりましたが、最初は家での療養生活に強い不安を感じていたようです。でももう匙を投げられたような状況であったにも関わらず主治医の先生が放射線治療を再開しようとした時、夫本人が「治療はもうけっこうです。」とはっきり断り家に帰る道を選んでくれました。  
 1993年1月19日夫と私は病院から我家へもどりました。その日のうちに、小笠原ドクターと蜂巣看護婦が我家を訪れ、癌の痛みに対する治療が行なわれました。すると翌日早くも夫の表情に明るい変化が起こりました。痛みのために身動きもできない夫が自分からベッドに起き上がり、その顔に久しぶりの笑顔を浮かべました。本当に驚きましたが、痛みのコントロールで激痛から解放されると夫は本来の明るい表情を取り戻してくれたのです。
 さらに退院から12日目、1月31日90才になる夫の母親と笑顔で写真が撮れました。ほかはドクターとナースです。末期患者となった夫が我家でこのように穏やかな談笑のひとときが持てたのは在宅だからこそだと感謝しております。「何か言いたいことある?」と聞くと、「言いたいことはいっぱいあるけれど。」「病院に行きたい?」と聞くと、「うちがいい。もう行かない。このまま頼むよ。」「言いたいことって、このおれの病気をどうして、こんなになるまで5回もあの強い抗癌剤の治療やって、なお放射線だなんて。早く思いきって帰っていたら、もっとうちに二人いられたのに悔しい。もう遅いんだよな。」「でも二人は一生懸命がんばって今日があるわよ。」と言いました。「小笠原ドクターのスタッフ、群馬ホスピスケア研究会の皆さんに心強い迎えをしていただき幸せで、体はとてもつらいけど入院中の痛みがあまりにも長すぎるし、ものすごく我慢することに慣らされていたので、胸が痛いけど、吐くのもつらいし、臭いけど、大清水に汲みにいって持ってきてくれた水でうがいができるし、少しだけで水が飲めるので夢のような今日でとてもうれしい。おまえに遺言といってもな、何にもないし、こんなに遠くに連れてきて、おれは先に逝っちゃうかも。御免ね。もう眠くなっちゃった。」すーすー寝ました。
 2月2日ひげを剃る。2月8日散髪をする。二度洗いで、やめようとすると「もうまたできないかもわからないので、もう一度シャンプーしてほしい。」と言いました。さっぱりするとその夜危篤状態らしく一人で不安がいっぱいの中、夜10時頃小笠原ドクター「今夜はおれ泊まるよ。」と言って二度目の往診。「あしたがあるといいね。」と言いながら夜がふける。それからが喜んで、みんなお世話になったナースたちと笑顔で遊ぶ。バレンタインデーにはチョコレートをもらって喜び、30年来の友が栃木県から励ましに来てくれ、ファミコンをしたり将棋をしたり、ひとときが写 真で映されております。その時「かあちゃんと三人で写ろう。」と言ったけどチャンスがなかったのです。再入院をして、食べられるようになりたいとの希望で、バイパス手術を検討したが断念ですぐにうちに戻り、3月6日父の年忌のあと兄弟たちが来てくれる。3月8日夫は秒読み。
  在宅の日々の中で私には忘れられないことがいくつもあります。一つは死の3日前、税理士の先生、友人にお願いごとを頼むという。「3月15日の申告、それまではちょっとしんどいけどがんばってみるが、どうかよろしく。」と頼みました。そして気持ちよくお受けして下さった先生の言葉に安心したようです。夜ドクターが往診にみえました。いつものように私たち夫婦としばらくお話しをし、私の看護記録の日誌に目をとおしていました。やがて「じゃまたね。」とドクターが腰をあげるとその時、夫の病状が変化しだして心細くなっていた私は「もう少しドクターにいてほしいな」という気持ちの中で心の中でつぶやきました。きっとその思いが私の顔に浮かんだのでしょう。夫が私に言いました。「かあちゃん、オーちゃんを引き止めるな。」夫は数年来のお付き合いになるドクターにオーちゃんと親しみをこめて呼んでいたのです。「子供たちの側へ帰してやってくれ。おとうさんをする時間が少ないんだ。子供の頃おれもいっぱいおやじと遊びたかった。」と言いました。その後、夫は「果 南ちゃんに電話でお話しをしたい。」と言いました。果南ちゃんは小笠原ドクターの長女で医学部の道を歩みはじめたばかりな大学1年生です。夫の病状を何度か見舞ってくれていました。「おじさんみたいに、見逃しのないよう立派なお医者さんになって、みんなを助けてあげてね。」と彼女に言葉を残しました。在宅52日間大勢の方々から心温まる支援をいただきました。そのことが死の避けられなくなった病人を大きく力付け、病院で「あと3日」と言われた夫が2カ月近くを家で過ごすことができました。好きな花に囲まれて、好きな水戸黄門のビデオや夫婦二人で楽しみ、そしてそんな仲良し時間の中で私たち夫婦の語らいは日ごとに充実していきました。そして死の前日、夫は私に最高の言葉を贈って下さいました。「精一杯生きたよ。いろいろお世話になったなあ。ありがとう。」  
 1993年3月11日夫とのお別れの日が訪れました。お昼過ぎドクター、婦長が最後の往診をして下さいました。「とうちゃん、先に行っててよ。かあちゃんもおれも後から行くよ。」とドクターが語りかけました。夫は「うん」とわかったようでした。死を恐れるふうもなく穏やかな顔でした。死の2時間前、夫のベッドで添い寝をした私が「家に帰ってきて良かったね。」と耳元で語りかけると夫は再びうなずきました。その時ベッドの側でドクターが友人としてギターを何曲か弾いてくださいました。夫に「聞こえる?」と私が聞くと「うん」とうれしそうな表情でした。亡くなる1時間前20人の方々が最後の瞬間がせまった夫を見守ってくれていました。在宅52日間をそれぞれに支えてくれた人たちです。一人一人が夫の手を握り、頬を撫でながら、温かい声をかけて、心のこもったお別 れをして下さいました。ほとんど意識のない中でも、皆さんの優しい声が夫には聞こえているようでした。やがてゆっくりとした息を一つ残し、夫は再び帰らぬ 人となりました。1993年3月11日午後10時36分、今思えば在宅の日々は夫が夫らしい姿を取り戻すための大切な時間であったようにつくづくと思います。それはまた私たち夫婦にとって最も大切な時間ともなりました。息をひきとった夫へ、私は彼の旅立ちに一番ふさわしい死装束として茄子紺色のスーツを着せて最後に「ありがとう」と御礼を言いました。それは22年を共に生きた私から夫への感謝の言葉でした。