〜講演会から〜

「尊厳ある生と死を求めて−ホスピスの現場から−」
聖ヨハネ会桜町病院 ホスピス科部長
山崎 章郎 さん
1996年9月29日(土)コンパルホール 文化ホール

  本日は「尊厳ある生と死を求めて」というテーマでホスピスの実際の現場からエピソードを交えながらお話ししたいと思います。では「尊厳ある生と死」という場合に「尊厳ある死」というものはどういうものか? 「尊厳ある死」とは少しいかめしい言葉ですが皆さんはどういう死を想像されるでしょうか? 通 常はおそらく一般に苦痛がない状態で、そしていろんなチューブ類に囲まれたりしないで御家族に囲まれて迎える穏やかで安らかな死というものを「尊厳ある死」という形で想像されるかもしれません。私もずっとそういうふうに思っていました。ただ今から3年ほど前から少しずつ考え方が変わってきました。芥川賞作家のSさんのことをお話ししますと、3年前の8月22日に亡くなったんですけれども、Sさんの亡くなった原因は大腸癌で肝臓に転移してて最終的にはその手術の経過が悪くて亡くなったんですけれども、ちょうど亡くなる2年前に大腸癌が見つかりまして、見つかった時点でもうすでに肝臓のほうに転移しているという状態でした。Sさんはそのことをよく説明を受けまして手術を受けられたんですけれども手術の後の経過は一時期思わしくない時もありましたけれどなんとか立ち直りました。北海道で手術を受けられまして、その年の9月に東京に戻って来られました。ちょうどそれは私が今のホスピスに行った年でしたから私は10月からSさんの主治医になってその後の経過をみることになったんです。手術して半年後だったんですけれども、その時点でSさんの状態を把握しようということで検査をしましたら、転移していた肝臓の癌は手術によって取ったはずだったんですけど、もうすでに残った肝臓にも癌が再発していたんです。そのことをまた話し合いまして、もう再手術というのはむつかしいと判断しましたので相談しながら抗癌剤を使った治療をやりました。しばらくの間は抗癌剤が効いて腫瘍が小さくなっておりましたが、2年目、亡くなる年の3月頃にはもう薬も効かなくなってきましたので、また話し合って「後は症状を軽くする治療、いわゆる症状コントロールを中心にして自然経過でみていきましょう。もし最終的な場面 が来たときには我々が十分お手伝いします。」というように話をして、Sさんもそのことを了承され、作家としての執筆活動や講演をされて御自身の生き方をまっとうされていました。我々は医者としてある専門家にも相談して「手術はむつかしいだろう」と考えてましたが、別 の専門家から「Sさんには手術が可能かもしれない」という話がでてきたんです。そこでいったんは「自然経過でいこう」と考えていたSさんがとても迷いまして私は相談を受けました。私は「自分の母親だったら手術を勧められない」と答えたんですけれど、その専門家が「とにかく何とかできるかもしれないので検査だけしてみましょう」と勧めまして、結果 としてはSさんはその検査を受けることにしました。それで検査を受けてみましたら「これは何とか取れる」と判断が出ましたものですから、最終的にはSさんは手術を選びました。その手術をして下さる先生のところに私は紹介状を書きました。その時にSさんと話しあったんですけれど「手術が可能であるということと手術が成功するということは別 なんです。手術が成功したとしても手術した後の経過がいいだろうか? そういうことを十分に認識した上でそれでなおかつ手術というものを選ばれるんであれば、我々としてはそれを支持するしかない、応援するしかない。」とお話ししました。それでそのことを前もって手術をして下さる先生の方にも書き加えました。「病状の経過だけでなくて、そういうことを十分に説明して下さい。それでなおかつSさんが手術を選ぶとしたら我々としては応援したいと思います。」そして手術が行なわれました。手術は無事終わって肝臓の再発した癌は取りきれました。しかし手術した後の経過は思わしくなくて手術後約一ケ月で亡くなりました。何回かお見舞に行ったんですけれど、亡くなる前日行った時にはもう意識がない状態でした。Sさんは以前より「最後はホスピスで」というふうに考えておられましたものですから、その亡くなる前日の姿は恐らく一番望まなかった姿だったかもしれません。体中にチューブがいっぱい付いていました。ところがそのSさんのお顔を拝見した時に、もう意識が無かったからかもしれませんけれど、とても穏やかな表情に見えました。Sさんはたくさんの説明を受けて、場合によってはこういう状態になるかもしれないということも考えながら、実際にそういう状態を迎えたわけです。その時私はそうなったSさんを見て尊厳が無いとは決して思えませんでした。翌日亡くなったんですけれど、その時から私は尊厳ある死というものは「亡くなる時の形だけの問題ではないんじゃないか?」と思いだしたわけです。「いろんな場面 があるけれどその都度その都度一つのことに納得しながら進んでいくのであれば、その結果 としての姿よりはむしろその経過が大切であるのではないか?」と。病気になって亡くなるまでのいろいろな変化の時に十分説明を受けて納得してその道を進んでいく。尊厳ある死というのは様々な場面 で納得できる生き方をする。これはある意味では尊厳ある生き方という言葉で置き換えてもいいかもしれません。「その最後の場面 の形だけじゃなくてむしろそれまでに至るまでの経過こそがとても大切じゃないか」と、その時から思うようになりました。もちろんそれは人それぞれに考えがあり皆さんはどう考えるか別 ですけれども、私はそう考えるようになったんです。ただもちろん叶うことであれば、そういう状態になってもできるだけ穏やかにチューブ類の無いような中での死が望ましいのかもしれません。  
 ところで、現在の日本の医療の状況の中では自分たちが考えている尊厳、自分たちが納得できる尊厳のある生き方とか死というのは病気になった時になかなかむつかしいというのが今の医療の状況だと思います。それを象徴的に表しているのが、京都で起きました京北病院の事件だと思います。あの事件は安楽死事件として報道されましたし、それからその5年前に起きた東海大学病院での事件などもそれを示しておりますけれども、そこで共通 して考えられますことは、もし患者さんのいろんな苦痛症状をきちんと取る医療技術があれば東海大学で使われたような塩化カリウムとか京北病院で使われたような筋弛緩剤のような薬を使う必要がないんだということです。そういう場面 に遭遇する必要はないんだということです。あの事件はともに患者さんの苦痛を取る知識や技術の未熟さから起きてしまったのではないかと考えています。あの事件が起こるにはそれだけではない、さらにいろいろな要素があると思いますけれど一つはそれだと思います。きちんとした症状コントロールができていれば、まず起こらなかった事件だろうと思います。  
 もう一つこれもやはり両者に共通していますが、末期の患者さんというのは基本的にはいろんな医療行為、治療をしても病気を治すことがほとんどむつかしいような状態なわけです。ですから、そういう判断ができた時点からはどんな治療を進めていくかということではなくて、むしろ患者さんに残された時間の中でその患者さんの人生そのものに焦点をあてた応援をしていくことが基本になるわけです。そういう患者さんの人生に焦点をあてた応援というものは医師とか看護婦とかいう専門職がそれぞれ単独で患者さんに関わっていってもその患者さんのニーズに応えることができないはずです。そこでいわゆる末期医療ではチームアプローチということがよく言われるわけです。つまり患者さんの人生は様々な人生があるわけですから、その様々な人生の様々なニーズに応えるには医者や看護婦やソーシャルワーカーとかいろんな職種の人達がそれに関わっていくというのが基本だと言われています。通 常の病院ですと少なくとも最低医者と看護婦という医療職が共通のチームという意識を持って患者さんに関わっていくことが基本になります。ところがあの事件をみてみますと、その病院の中で医師と看護婦がいいチームを作っていたと思えません。つまり通 常から看護婦が病気を治すことが難しくなってしまった患者さんに対して「どうしていこうか? どんなふうに応援していこうか?」ということを話し合う場を持つ、つまりケース・カンファレンスのような形を時々していけば当然ああいうふうなことは起きないだろうと思います。チーム医療の不在というものがやはりあの事件を起こした一つの原因だと思います。逆に言えば、チーム医療ができているところでは、ああいう事件は起きないと思います。  
 それともう一つは患者さんが両方の事件とも御自分の本当の病名とか病状を知っていなかったようです。もし患者さんが自分の病態をきちんと知らされていたとしたら、どうだっただろうかと考えるわけです。患者さんは「自分がもう末期の癌でいくら治療してもむつかしいんだ」とわかったとすると病院にいることや病院での療養の継続を望まなかったかもしれません。あるいはホスピスという考え方の情報を持っていればホスピスを選んだかもしれません。真実を知っていれば患者さんは別 な選択ができたかもしれないということです。ですから患者さんにその時の病気の状況をきちんと説明して、そこで取りうる方法を説明して、最終的に患者さんが選んでいくんだということのインフォームド・コンセントという考え方が、もしこの両方の患者さんに行なわれていれば、やはりこの事件は起きなかったかもしれないと思います。肉体的苦痛があれば患者さんの尊厳を守れないでしょうし、それから患者さんのいろんなニーズに応えられなければやはり尊厳を守れないでしょう。それからもちろん病気のことを知りたくない方もいらっしゃいますので、その人達にまでも無理に知らせる必要はないのですけれど、しかし御自分のことを知りたいんだとおっしゃってる方たちに、その情報を伝えられなければ患者さんは自分の人生の選択ができませんから、自分の人生の選択ができないような状況はやはり人間としての尊厳が守られているとはいえないだろうと思うわけです。たまたま二つの病院の事件はマスコミに騒がれてしまったわけですけれども、今の日本の医療状況の潜在的な問題を含んでいると思います。
  ではホスピスはどうなのかというと、ホスピスは今お話ししたようなことをきちんとできるようにお手伝いしていくところとなります。これからホスピスの話しになりますけれどもホスピスの理念というかホスピスを支えている考え方というものは死を間近にひかえた患者さんたちや御家族も含めてそのQOL(クオリティ・オブ・ライフ)のライフの中に含まれる命とか人生とか生活ということをずっと維持できるようにお手伝いして、なおかつその結果 として患者さんたちが亡くなるまでその尊厳が保てるようにしていくことです。病気になって人生をまっとうできなかったわけですけれど、それでも「生きてて良かった」と思えるような時間にしていただきたいというのが我々のホスピスで考えている理念です。ホスピス・ケアというのはそういう理念を具体的にどうしていくのかということの具体化です。ですからホスピスはどういうことをしているかといいますと一つは患者さんたちの肉体的な苦痛を極力取る努力をしていくということです。先ほど言いましたように痛みがあったり、呼吸困難があったりすると患者さんはそのことだけに集中して苦痛を訴えてきますので自分のことを考えることもできないわけです。ホスピスの外来に来られたり入院した患者さんの中には痛みがひどい場合には「この痛みさえ取れればもう死んでもいい。ですから何とかして下さい。」とおっしゃる方が必ずおります。そしてホスピスは痛みを取る専門施設でもありますので痛みがうまく取れてしまうと、「痛みが取れているなら快適な状態だからもっと生きてみたい。」とおっしゃるのです。痛みが取れなければ死んでしまってもいいと思うくらいにつらいけれども痛みさえ取れればもっと生きていきたいというのが共通 した本音だと思います。ですから我々は患者さんたちのそういう「もう早く死んでしまいたいんだ」と思うような肉体的苦痛を極力減らしていくことに取り組んでいます。
 癌といいますと皆さんは共通して「癌は痛みで苦しみながら亡くなる病気だ」という恐怖感を持っていると思いますけれども、はっきり申し上げまして癌の痛みは今では解決できる問題になっています。例えば1986年にWHOが「癌の痛みからの解放」という本を出しましたけれども、そのWHO方式の癌の痛みを取るやり方をきちんと患者さんの痛みを評価しながら行なっていきますと、癌の痛みで苦しんでいる患者さんの90%が意識を保ったままで痛みから解放されるといわれていますし、我々のホスピスでの実感でもあります。この痛みの評価というものは例えば痛いというのは誰が評価するかというと、もちろん患者さんしかわからないわけです。まわりでみていて痛くないじゃないかと思えても患者さんが痛いとおっしゃった場合はやはり痛い。そんなふうにとらえないといけないわけです。「いつも痛い痛いといっているから、しかし顔を見るとそんなに痛そうじゃないから本当は痛くないんじゃないか」とか、あるいは例えば「痛み止めの薬が欲しいからそう言っているんじゃないか」とか、簡単にそんなふうに考えます。昔は「痛み止めです」と言って蒸留水などを注射してた時代があったみたいです。もちろんそういうので治まってしまう場合もあるのでそこが難しいのですが、患者さんが痛いとおっしゃった時に「どういう状態の時に痛いのか?」とか「いつの時間帯に痛いのか?」ということをきちんと聞いていきますと場合によってはどうしてもその痛みの訴え方が夜に集中していて、昼間はあまり痛がらない。「なぜ夜に集中しているんだろう?」とよく話しを聞いていきますと夜暗くなってくると不安になってしまったり、孤独感を感じたり、あるいは夜が明けるまで「ひょっとしたら自分はあしたの朝を迎えられないんじゃないか」と不安になったり、そういう気持ちがこの痛みを訴えています。「痛い」という表現で自分の不安を訴えることもあるわけです。それがわかってきますと、例えばその患者さんに鎮痛剤じゃなくて「少し精神安定剤のようなお薬を使いましょうか?」ということでけっこう痛みが取れてしまうことがあります。あるいは看護婦さんたちが夜中に行って少し話をして、体をマッサージなんかしているうちに痛みが治まって眠ってしまうこともあります。そういう時に、患者さんの話を聞いてそして痛みを評価するという方法をやらないで「痛い」と言ったからすぐに「お注射しましょう」とか、あるいは「痛み止め使いましょう」みたいなことしてしまうと隠されている部分がわからなくなって結果 として痛み止めの量がたくさんになってうとうとと眠ってしまう可能性があるわけです。ですから痛みの評価というものをきちんとしながらなおかつWHO方式の痛みを取る方法を行なっていきますと、90%という高い割合で痛みが取れるわけです。痛みの評価の分をきちんとしないとWHO方式をやっていてもそこまでのパーセンテージにはならないと思うのです。それでなおかつ痛みがなかなか取れない10%くらいの人をどうするのか? というと、これは意識を保ってコミュニケーションをとりながら痛みを取ることは難しいわけですので、お互いに話し合うことができなくても構わないという患者さんと家族と我々の三者の合意ができれば、我々は鎮痛剤のほか鎮静剤の薬を使っていきます。そうやって患者さんたちの意識のレベルを下げる、つまり眠っていただくのです。そのことも患者さんの了解や御家族の了解が得られれば、まず100%患者さんが亡くなる間際まで痛いとか苦しいとかいうことを訴えながら臨終を迎えることはありません。そういう意味では100%痛みは取れるといっていいと思います。ただ意識が保った状態では90%くらいだと思います。癌のいろいろな苦痛の中で痛みに関しては解決できる問題だということを是非認識してもらいたいと思います。その時にモルヒネがよく使われますけれどもモルヒネもきちんとして使っていけば昔言われていたように「中毒になってしまう」とか「命を縮めてしまう」とか「病気のあるのが悪くなってしまう」とかいうことは決してありません。もちろん薬ですから少なければ痛みがありますし、たくさん使ってしまうと痛みが取れるけどずっと眠ってしまったりとか、それからモルヒネの持っている副作用がいろいろでてきます。しかし適切な量 を痛みに準じて使っていけば制限無く使っていける薬です。無制限に使っても大丈夫です。ただしモルヒネが効かない痛みもあります。患者さんが「痛い」とおっしゃってモルヒネを使って痛みが取れればそれは効きますけれども、さらに増やして取れなければそれはモルヒネが効かない痛みですからまた別 の方法で取るというふうに考えます。臨床現場の先生たちはモルヒネを増やすことにためらいを感じることがあります。たくさん使った経験がないから怖くなってしまうんだと思いますけれど、モルヒネの適切な使い方についてはたくさんの本が出ておりますのでそういうものを参考にされればそんなに恐れないできちんと使っていただけると思います。癌の患者さんの苦痛の中には痛みのほかに呼吸困難とか、全身がだるいというのもあります。呼吸困難はある程度取れると思います。しかし全身のだるさというのは取ることがなかなか難しいです。しかしそれらについても、あくまでも患者さんの合意・同意を得た上ですが、もうこれ以上苦痛を取る方法がないけれど患者さんが「このままだったらもう死んでしまいたい」と思うような病態であるならば鎮静をすれば苦痛を取っていくことができます。ですからどのような苦痛に関しても最終的な場面 で鎮静という方法を使っていきますと御家族が見ていられないような場面というのはまず避けられますし、患者さん自身がその苦痛を感じたままで最後を迎えることも避けられるわけです。ですから皆さんは適切な症状コントロールの医療を受ければいわゆる断末魔というようなことはありえないということをわかっていただきたいと思います。  
 そうやって肉体的苦痛が軽減された患者さんたちは初めてそこで自分の人生のことを考えられるようになるわけです。そして自分の人生を考えた時に何が必要かというと、やはりその時自分はどういう状態なのかということの情報になってくると思います。そこでホスピスの医療はインフォームド・コンセントということが基本になるわけです。病状の説明、それからその病状に対する医療の進め方などすべてきちんと話し合って行ないます。後ほどスライドをお見せしますけれどもホスピスにいる患者さんたちの95%の方は自分の病名も病状も知っています。入院する時点では知らない方もいらっしゃいますけれども、入院して入ってこられた方の10%には病状の話をしていきます。我々は患者さんに求められたことについてはきちんと答えていくことに決めています。つまり「嘘はつかないんだ」ということを基本にしています。そうやって患者さんたちにいろいろお話しをするわけです。そういう病名や病状を伝えるということは、患者さんたちの知る権利を守りたいから行なうのですが、実際それを伝えることはとてもつらい場面 もあります。伝えられる方も当然つらいでしょうし、伝える方もつらいです。しかしそれが患者さんにとって必要なことであれば、あるいは御家族にとって必要なことであり、それを患者さんの御家族が求めるのであればやはり伝えるべきです。私たちのホスピスの中での情報伝達の時の基本的な立場は、「患者さんたちには知る権利があるのだから、自分は知りたいんだという方にはその質問されたことに答えていこう。ただし知る権利はあっても知る義務まではないわけだから、知りたくないと考えている時には無理にお伝えする必要はないんだ。」ということです。ただし知りたいか、知りたくないかということは黙っていてはわからないので、患者さんに対して質問します。「御自分の病気に対しての質問は何かありませんか?」という形で進めていきます。その時に患者さんたちが「特にありません」とおっしゃれば、それ以上の病気の説明は必要ありません。つまりその時にできるお手伝い、痛みを取るとか歩けないのであれば歩くことや車椅子のお手伝いをするとか、その時々のその時に必要なケアだけをしていけばいいわけです。また患者さんたちが我々に質問できないような状況の中での告知は成立しません。一般 病院にいた時、私もそうだったんですけれど医者も看護婦も忙しいわけです。とても忙しそうにしていると患者さんたちは質問する機会を失うわけです。ホスピスにいると患者さんたちの部屋に回診に行っていろいろお話しして、10分も20分も30分もいることがあります。それで長々と世間話をした後に、「そろそろ終わりにしようかな、もう長くいたから終わりにしようかな」と思って「じゃ、そろそろ帰りますから何かほかに質問はありませんか?」と質問した時に初めて「実はこういうことも知りたいんだ」と聞いてくることがあるわけです。そうするとそれがその患者さんの人生にとってとても大切な質問であったりすることもあります。それはその患者さんにとって20分くらいの我々の話の中で初めて出せる質問であったりもするわけです。しかしもしそれが2〜3分の診療しかできないとすれば、その質問はきっと出ないだろうと思います。そういうふうに患者さんたちに絶えず我々が「いつでも質問していただければそれに答えますよ」という姿勢を示していかなければ、いくら患者さんたちの気持ちをつかまえたい、とらえたいと思っていてもできないわけです。
 それから当然患者さんだけでなくて御家族も大切なホスピスの対象になります。御家族にも我々はある程度定期的にお会いして病気の状況を説明します。落ち着いているようにみえても御家族の表情がとても暗い時には、こちらから声をかけて話し合いの場を設けます。そうすることによって我々に対しての疑問とか、患者さんの病状に対して持っている不安とかをきちんととらえて、その場で解決していきます。御家族にとって患者さんが亡くなった時には、一生懸命やったと思っても後悔があるわけですけれど、定期的にコミュニケーションをとっていればそういう悔いが少しでも少なくなると思います。そのように症状コントロールのほかに、患者さんや御家族とのコミュニケーションというものがホスピスの中での基本的なケアになります。  
 患者さんたちはホスピスに来るときにいろいろな悩みを持ってきます。「自分は癌である。そしてそれはもう治らないんだ。」そのことを認識した上でホスピスに来るわけです。しかしホスピスに来たときに「患者さんはもう何も希望を持っていないのか?」というと決してそうではありません。確かに患者さんは「自分の病気は末期の状態であると言われているし、病院の方からも治療法がないと言われている。」ということでくるわけです。それでも「自分には奇跡が起こるかもしれない」と思っている人がたくさんいます。「西洋医学の範囲の中では治療は無理だと言われたけれども、まだそれではあきらめきれない。」ですから片方では、いろいろな症状があってホスピスに来ますけれど、片方では「自分にだけは奇跡が起こるかもしれない」と考えて、多くの患者さんたちがいわゆる民間療法を続けています。我々はその民間療法はホスピスの中でやることは全然構わないと思って受け入れています。私はホスピスに行く前は一般 病院の外科医だったのですが、その病院の中ではいろんな民間療法というのは、その申し出があってもそれを受け入れないことが多かったんです。けれどもホスピスに行って、いろんな患者さんと関わっていくうちに「いろんな希望を持ってそれを行なっているのであればその希望は支え続けたいな」と思っていますので民間療法を受け入れているわけですけれども、たくさんあります。私はホスピスに行って10種類以上民間療法に出会いましたけれども、それにもはやりすたりがあることがわかりました。3年くらい前は野菜ジュースというのが非常にはやっておりまして、ほとんどの人が野菜ジュースを飲んでいたんですけれども今は野菜ジュースを飲む人はほとんどいません。あれはやはり一時の流行だったと思います。それから去年あたりはビワの葉療法というのがはやってまして患者さんの部屋へ行くとビワの葉がいっぱい置いてあります。ビワの葉っぱは例えば患部、痛い場所に置くと痛みが軽くなるといって使ってるんですけれども患者さんに「それで痛みが軽くなりますか?」と聞くと「軽くなるような気がします。」とおっしゃいます。我々は「ホスピスでは痛みを取りますよ」と言っているわけですけれども我々の痛みのコントロールよりもビワの葉の方が効くのかなと思うと複雑な気持ちになりましたけれど、最近ビワの葉を使った人はあまりいなくなってきました。それから特別 なそういうもの以外におもしろい体験をしたんですけれども、一つは気功とか心霊療法とかいうものもあります。私が体験したのは40代の男性の患者さんで、癌が顔にできて手術を勧められたけど断ったんです。それから放射線治療なども勧められて全部断って西洋医学じゃない方法で何とか治したいというふうに考えていろいろ調べた結果 、心霊療法というものがあるのにたどり着いたらしいんです。日本には心霊療法として力を持っている人が三人いて、その内の一人にたどり着いたようです。そこで、「その方のところに行くと顔の痛みが軽くなるんだ」ということでした。ある年の年末、その心霊療法士の方が東京から大阪に出張で年末年始はいないということでした。大阪からだと東京までその人の念力が届かないということで、「その間だけホスピスに入院させてほしい、その間だけ痛みを取ってほしい」と言われました。断る理由はありませんので入っていただいて我々の通 常行なっている痛みのコントロールの方法で痛みを取りました。年が明けてその方が戻ってきて患者さんの部屋の中で心霊療法をやるということでした。家族の方が「見に来ませんか?」と誘われたんです。好奇心がありましたので「見に行ってもいいかな」と思ったり、「でも見に行ってしまうとそれを公然と認めるような気もして、どうかな」と思ったんですけど結果 的には好奇心に負けまして見に行きました。見にいったら、患者さんはベッドに寝てるんです。その心霊療法士の方は女性だったんですけど患者さんの背中に手をあててました。それでよくみると手が少し動いていました。もぞもぞと動いているんですね。そして患者さんだけがベッドでその方に向かって「ちょっと力が強すぎます」言ってとうごめいているんです。もだえていたんですけれども、その心霊療法士の方は私と世間話をしているわけです。休憩になった時に心霊療法士の方が私のところに来て「先生もみてあげましょうか?」と言っていきなり背中をずっと触ってありました。何かぞくっとしましたけれどもずっと撫でられて「あー、先生は大丈夫ですね。」と言われました。その時私は腰がちょっと痛かったんです。そのことを黙っていたんですけれど、「後でその腰の痛みがとれたらどうしようか?」と悩みました。いろいろ話をしているうちに治療が終わって「この生花はすごく長持ちする。」と言いました。「そこにはそういう力がみなぎっているから長持ちする」と言うもんですから「じゃ、ちょっと実験していいですか?」と言ったら、自信もって「いいですよ。」って言うものですから別 の患者さんの部屋からチューリップを一本借りてきたんです。十本くらいあった花の一本借りてきて持っていったら、その方がそのチューリップを両方の手で包んでしばらく力を出していたんでしょう。それで「この花は一番最後までもちます。」と言いましたので、その日からそのチューリップに印を付けて毎日写 真を撮り始めたんです。やはりすごく複雑な気持ちで「本当に最後まで残ったら人生観が変わるかな?」と思いながら、写 真を撮り続けたんですけれども、その花は最後まで残らなかったんです。で途中で落ちました。ですからほっとしましたけれど残念な気もしました。つまり私が言いたいのは患者さんたちは西洋医学の現場からもう治療法がないと言われて、ある程度あきらめたり落ち込んだ気持ちになるんですけれど、あきらめきれないわけです。それで様々な民間療法や心霊療法に自分の奇跡を託していくんだということです。我々は「患者さんが奇跡を期待してそういうものに希望をつないでいくのであれば当然それは支え続けるべきだ」と思っています。ところが患者さんにはまず奇跡が起こることはないんです。ある時期から全体的に病気の状態が悪くなっていきます。そうしますと患者さん自身は自分の体の変化を通 して「自分には奇跡が起こらなかったんだ」ということを知っていくわけです。しかしそれはそういうことを自分の体を通 して納得するまでどうしても必要なものだと思うわけです。そこで患者さんたちはもう奇跡が起きないということを体を通 してわかって希望を失ってしまうのかというと、今度は別の形の希望に切り替わっていきます。つまり「いろいろやってきてだめだったんだけれど親しい人たちといつか再会できる」という希望に変わっていきます。つまり「死んだ後にきっと会えるんだ」という希望ですね。最初は奇跡を期待する、しかしそのことが難しくなってくると今度は別 の形の希望を持つ、そういう意味でいうとずっと希望は持ち続けていくんだと思います。そして我々はその場面 場面での希望を患者さんの気持ちにそって支えていけばいいんだと思います。患者さんたちが奇跡が起こることをもう断念して、そして「家族のものたちと再会したい」「またいつかどこかで会いたいですね」という話が出ればその時にはそれを素直に受けとめてあげて「是非そうしたいですね」というふうに伝えてあげればいいのかなと思います。ホスピスの患者さんたちはいろんな意味で皆あきらめて、それから絶望的な気持ちというんじゃないということです。  
 一方では奇跡が起こることを期待しながらも、しかしもう一方ではそれは難しいかもしれないということもよくわかっているわけです。そういう患者さんたちが大切にするものはそれまでずっと繰り返してきた日常生活なんです。病気になる前は毎日毎日の繰り返しで、マンネリに思っていたような生活でも「ひょっとしたらもうあんまりないんだ」というようなことに気がついてからはそういうことがとても大切になってくるんです。時間が無いとわかった患者さんたちが「特別 なことをしよう」ということを考えつくよりはむしろ「日々の暮らしを大切にしよう」とする人の方がはるかに多いのです。それは家族の方たちとの交流を深めていったり、それから毎日の出来事を、例えば朝起きてお茶を飲んだりする、散歩に行ったりする、そういうことの一つ一つがとてもいとおしくなってくるみたいです。さらに自分の身のまわりの存在、物でも花でもそうですし、それからもちろん人もそうです。そういうふうなことに接することが、「もうあまり繰り返しができないんだ」と思った時点から急にそれまでと違って重い価値をもってきます。ですから医者も看護婦もいろんなその専門家が参加してケアをしていくときにはそういう日常性というものが最後までなるべく保たれるように、つまり患者さんたちが大切にしている日常性、日常生活ができるだけ最後まで維持できるようにしていくことがホスピスでのケアの基本的なことになります。だから特別 なことでは決してないです。まわりにいるスタッフがもう患者さんは死が近いからといって緊張したりすることはないと思うんです。患者さん自身が自分たちの生き方というものを示してくれます。それは日常生活の継続であれば、それができるようにお手伝いしていけばいいわけです。そういうふうにやってるのがホスピス・ケアです。ですから症状コントロールして、きちんとした話し合いを進めながら、なおかつその患者さんの希望を支え、そして最終的には患者さんたちの日常生活が最後まで維持できるようにしてゆくのがホスピスでのケアになります。  
 それともう一つ患者さんたちは今お話ししたようなことがあっても例えば動けるうちは自分の生きている存在の意義というものを感じていられるわけですけれども、それが寝たきりになってしまうとその意味が見えなくなってしまう人がいます。寝たきりになってしまった時に「私は1ケ月後には死ぬ かもしれない。そうすると今ここで寝たきりになっている状態で1ケ月間過ごす意味がわからない。つまり生きている意味が見えない。」とおっしゃる方もおられます。「だからもう先生終わりにしたい。」という方もいます。しかし我々は患者さんに「我々のホスピスはあなたの命を故意に縮めることはできません。もちろん無理に長く延ばすこともしませんけれども。やはり自然な命として生きていただきたいんです。」というふうに言います。しかし患者さんは「でも生きる意味が見えません。」っておっしゃいます。最初の頃はそういうふうな方に出会った時には「何とかいい言葉を見つけてそして励ましてあげられないかな?」とか、あるいは「患者さんが存在している意味というものを見つけられるきっかけにならないか」と考えたこともありました。我々のところには神父様とかシスターたちがそのケアに参加してくれてますので、そういう時に回診で「我々医者とか看護婦以外の人と話し合うこともできますよ。神父様に会うこともできますけれども。」というふうに持ちかけるんです。中には「ちょっと会ってみたい。」という人もいますし、それから「いいです。」と言う方もいます。そういいながらやはり意味がなかなか見つからなくて悩むわけです。ところがそういうふうな状態が1週間から10日続いていくとある時点からその「意味がない。意味が見つからない。」ということを言わなくなってしまう場合もあります。おそら自分自身の中でそれを一つ解決してゆくのかなと思います。こういう霊的な問題というか、そういう悩みに対して特効薬はないんだということです。我々がいろいろな体験の中で気がついてきたことはそういう時にはとにかく話を聞き続けてあげること。患者さん自身もそれに対してその明快な解決があるとは決して思っていないかもしれません。しかしその間ずっとその患者さんの悩みや訴えを聞き続けることが最大のケアのように感じています。ただ信仰をもってある方なんかの場合ですと絶対的な存在というのがあるわけですから、そのことによってそのへんのところを乗り越えていかれる方もおりますけれども、信仰を持っていてもやはり意味が見えなくなってしまうこともあるようです。それでも一定期間その悩みを聞き続け、傾聴し続けると、ある日トンネルを抜けるように抜けて表情が変わっていることによく気がつきます。  
 大体以上でホスピスでの大まかなことをお話ししましたのでこれから一昨年の4月にできました我々の新しいホスピス病棟をスライドを使ってご紹介します。
これは聖ヨハネホスピスの現状です。ベッドが20ベッドあります。個室が14で二人部屋が3つですね。その20ベッドを支えているチームとして医師が2名。昨年からここに研修の医師が入っておりまして今3名で診ております。それから看護婦さんが21名おります。すべて常勤の看護婦です。看護助手が3名おります。それから専任のホスピス・コーディネーターが1名おります。それからメディカル・ソーシャルワーカーが病院兼任ですけど2名おりまして、患者さんたちの経済的な問題などの相談にのってくれています。それからホスピスボランティアが現在登録されているのが100名ほどいます。その他に敷地内に教会がありまして、そこの神父様2名が患者さんたちの宗教的なニーズに応えるようになっています。そのうち1名の方は、大体週の半分くらいは来てくださって宗教的な問題だけでなく悩み事相談所みたいな形で何でも話を聞いてくれます。カトリックを母体としたところですけれども宗教的な押しつけはいっさいしておりません。ですからあまり宗教的な雰囲気はないんですけれども宗教的なニーズのある患者さんたちに対しても力になっていると思います。その他いろんなスタッフがいます。病院兼任ですけれど栄養士さんとか理学療法士とか参加しております。
これは一年前のデーターですが、新しい病棟ができた年の5月から翌年の4月までの一年間で145人の方が入院しました。その内108人の方がホスピスで最後を迎えています。中には軽快退院している方もいるわけですね。ホスピスに入って軽快退院ということがあるのかなということですが、痛みさえとれれば家で過ごすことができる人もいますので、痛みのコントロールができて家に帰る人もいます。肉体的な苦痛が軽くなって退院する人がいます。もちろん末期癌の患者さんたちですからいずれはまた入院してくるわけですけれども入院したすべての方がホスピスの中で最後を迎えるということではなくて二割近い患者さんたちはこういうかたちで退院していきます。それから病名・病状の認識というのは95%です。ホスピスに入っていただく場合にはホスピス外来というものを通 っていただくんですけれども、その外来で患者さん御自身が希望して来られた場合には何の問題もありませんが、本人は病気を知らないんだけれども家族としてホスピスを受けさせたいと考えている場合には外来でいろんな話し合いをするわけです。我々ホスピスの外来に初めて来た患者さんあるいは御家族とは約1時間近く時間をとって話し合います。それは患者さんや御家族が求めているホスピス・ケアと我々が提供できるホスピス・ケアとの間にギャップがないようにそこで話し合いをするわけです。そしてその場面 で「患者さんが病気を知らないんだけれどもホスピス・ケアを受けさせたいんだ」といった場合には家族の方に「病気を知らなくてホスピスに入っていただいても結構です。ただし患者さんが我々のホスピスに入って来られてから御自分の病気について疑問を持たれたり質問してきた場合にはきちんと答えていきますけれどもそれでよろしいですか?」と話します。しかし御家族の方が「最後まで嘘をついてほしいんだ」ということですと「ちょっとホスピスでのケアは難しい」ということになります。つまり「患者さんの方から質問があった場合には答えますよ」ということなんです。ただ質問がなければ答えないわけです。患者さんの中には明らかに自分の病気はわかっているようにみえている人でも質問してこない方も時にいるんです。あるいは入院の予約をした時点ではまだ意識があったけれども入院までちょっと時間がかかってしまって、入院した時点では意識のレベルが下がってしまった場合には話し合いができません。そういうふうに御本人と話ができなかったり、それから御本人から質問がないような場合の人が約5%います。そういう場合は病名・病状を認識している人の中には入れませんでした。患者さんの平均在院日数は昨年度は43日、今年度は33日くらいになっております。ですから1ケ月ちょっとホスピス・ケアを受けながら生活するわけです。
これが我々のホスピスで、ちょうどまん中に見えている部分がそうなんですが、病院の敷地の一部に本体とは離れて独立型のホスピスとして建っております。ご覧のように周囲は住宅に取り囲まれた住宅街のまん中にあるホスピスです。
これは正面です。3月の末くらいにとった写 真で患者さんが入る前の写真ですからちょっと殺風景ですけれども今は木にたくさん緑の葉っぱもついてますし、その前のところに庭を作りましたのでとてもきれいな雰囲気になっております。
これは正面の玄関であります。聖ヨハネ、英語でセント・ジョーンズホスピタルと書いてあります。二重の自動ドアがあります。
中に入りまして、これは玄関ロビーですね。吹き抜けになって広々とした空間になってます。ご覧のように木がたくさん使われております。天井も木ですね。玄関に入りますと木の香りが漂ってきて多くの方達が「ほっとする」というようにおっしゃいます。
これは今の反対側です。皆さんの正面に見えて黒く光っている部分がありますけれども寄付をして下さった方たちの全員をずっと残そうということでここに名前を刻み込んであります。このホスピスを建設するのに8億円ほどかかっているんですが、そのうちの約7億円は寄付と助成金なんです。つまり我々の病院で用意したのは1億円くらいだということです。全国のいろんな方たち個人の寄付が約3億円です。たくさんの方たちです。それから企業とか団体からの寄付もありました。それから東京都も初の民間のホスピスへの助成金として8千万円ほど出してくれました。そういうもろもろを集めますと約7億円くらい集まったんです。ホスピスというとイギリスとかアメリカが本場というかかなり響き渡っておりますけれどもどこでもホスピスを支えるのは寄付とボランティアが必要だと言われています。なかなかその通 常の医療の場面だけでは支えきれないわけです。アメリカのホスピスを随分視察というか見学に行ったことがありますけれどもアメリカのホスピスもたくさんの寄付で支えられております。玄関に入りますとアメリカもやはり寄付をして下さった方たちの名前が残されているんですが、アメリカの場合には寄付をした金額の大きさによって名前の大きさが違ってましたが、我々のところは金額の大きさにかかわらず皆名前が同じ大きさです。それはホスピスの理念を支えて下さっている志を記念したいからですね。でここだけでは入りませんから皆さんに見えない部分にも同じようなのがあっていろんな方たちの名前が刻んであります。まだ余っているスペースもあります。我々のホスピスはいろんな方たちの支えによってできあがったものだということです。
これは玄関を抜けた廊下です。狭く感じますけれどもこの間はベッドがニ台行き来する幅の広さがあります。それから壁面 もずっと半分は板張りで、木でできています。二段の手摺りがついていて、この床も衝撃が吸収されるような床になっています。患者さんがたちがここで仮に転倒してもあまり衝撃を受けないように工夫してあります。
これはナース・ステーションです。ここに看護婦と我々がいます。このカウンターの裏側のこのへんに我々医者がいて、仕事がある時にはここにいるわけです。カルテを書いたり、薬を処方したりします。ホスピスはチームで取り組むと言いましたが、医者や看護婦や看護助手いろんな人が参加してますけれども「それは自分の仕事じゃないからしない」ということではなくて、かなりオーバーラップして仕事をします。例えば我々がここに坐ってカルテを書いていると面 会の方とか御見舞いの方が来るとまずここに寄るんです。ここに面会簿があるんです。そうすると我々が患者さんの部屋に案内したりします。それからホスピスの看護婦さんたちはナース・ステーションにあまりいることがなくてたいてい患者さんの部屋にいることが多いです。それで時々ナース・コールが鳴る。誰もでなければ我々が行きます。そして我々が行って我々にできることがあれば、例えばお茶を飲みたいということであればそうしますし、カーテンを開けてくださいということであればそうします。それぞれがそれぞれの役割を果 たすけれど、しかし重なりあったっていいんじゃないか、そうやって患者さんたちのニーズに応えるわけです。この奥はラウンジ、また後でお見せします。
これは個室です。個室は全部で14あるんですけれども14のうち10床が差額のかかる個室です。4床は差額のかからない個室ですけれど、これは差額のかかる方の個室です。我々のところでは一日1万5千円必要になります。東京ですと1万5千円というのは高いという人と安いという人がいます。それぞれ評価が違いますけれども大学病院だともっともっと大変らしく大学病院から来た患者さんたちは「随分安いですね」という方もおります。地方によっては評価は当然違います。ご覧のように、この部屋を見て、これが病室というふうにはなかなか思いにくいと思います。天井もやはり板で少し傾斜があります。それから壁面 のランプとか何回も設計を依頼して作ってもらったものです。いくつか特徴があります。例えばここに把手のついた扉があるんですけれどもこれを開けますとこの奥に酸素吸入の器械装置とそれから痰などを吸引する吸引装置があります。しかしそれは患者さんに必要ない場合が多いものですから必要がない時にそういうものがむき出しであるのは患者さんに緊張を与えますので露出しないようにしてあります。それからここに洗面 台が見えますけれども、患者さんの部屋、それから公共空間の中ではほとんど鏡がありません。特に患者さんの部屋には鏡が一切置いてありません。洗面 台のここにも鏡が無いです。これも一般病棟でホスピス・ケアをしている時の体験ですが、ある時個室にいた患者さんが偶然自分の変わり果 てた姿を見てとてもショックを受けたことがあったんです。それで部屋に鏡は必要なのかということをスタッフで話し合ったことがあります。最終的な結論としては鏡は必要ないという結論になったわけです。つまり鏡が必要な人は自分で用意してもらえばいいんじゃないかということになりました。あるから見てしまう、見たくない人もいるわけです。
今ここにみえてますように例えばエアコンとかカーテンの開け閉めとか、すべてこの手元のスイッチで操作できるようになっています。動けなくなってもちょっとカーテンを開けてほしいと思った時なんかになかなか頼みにくいわけです。有線放送が入っていて音楽も選ぶことができます。
これはトイレですけど、やはりウオッシュレットにしているんです。それはほとんどの患者さんがベット上の排泄とかポータブルトイレでの排泄を嫌がるんです。かなりぎりぎりまでですね。一人じゃトイレに行けないけれど、二人がかりで支えてもらってでもトイレに行きたいという方が多いです。そういう方の場合にはここに坐っても後の始末がなかなか難しいことがあるわけです。そういう場合でもトイレが使えるようにウオッシュレットにしました。
これは二人部屋なんですね。差額もかかりません。雰囲気はとてもいいと思います。けれども実際問題は二人部屋というのは患者さん同士が相性が悪いととても雰囲気の悪い部屋になってしまいます。ですから我々は最初の症状コントロールくらいの患者さんだったら二人部屋でいいかなと思って二人部屋を作りましたけれども今は失敗だったと思ってます。ですからもしこれから新しく作るとすれば全部個室にすべきだと思っています。
これは和室です。20ベッドのうち一つは和室にしてみました。畳を引いて畳がいいという人のために作ったんですけれども今はもう畳をはずして板張りになってます。というのは自分で寝起きできる患者さんでも弱ってくると布団ではとても大変なんです。結局患者さんにとってもスタッフにとってもベッドの方がいいということになるわけです。そしてそういう方たちが車椅子の出入りしたりすると畳は不便になってしまいます。ということで板張りにして今普通 のベッドが置いてあります。雰囲気としては和風の雰囲気ですから、この雰囲気を喜ばれる患者さんもいます。ここに引戸がありますけど、この中に酸素吸入と吸引装置があります。
これは我々がラウンジと呼んでいる広い空間です。患者さんのプライバシーを守りたくて個室を多く作ったんですけれども個室はプライバシーは守れますけどさみしい時があります。そういう時に患者さんがここに来ればここでは誰かいますので誰かに会えるというような一人ぼっちじゃない空間があるわけです。ここで食事もできます。ですから部屋で食事する人もいるし、ここで食事する人もいます。もちろん患者さんのご家族も自由に使うことができます。それから皆さんの左手の方にカウンターがありますけれども、ここは昼間は喫茶コーナーになります。すべてボランティアさんたちが運営してます。通 常ですと午後の2時から4時がティータイムになっています。そして水曜日と金曜日と土曜日の夜はここがバーになります。午後6時から9時ぐらいまでバーとしてお酒、アルコール類は自由に飲むことができます。アルコール類はどんなアルコールでもビールでも日本酒でも何でも確か一杯100円いただいてます。
このラウンジを使って毎月いろんな行事が開かれます。3日前の金曜日にはお月見の会が開かれたりしました。これはある年のクリスマスの時、ホスピス合唱団が歌を歌っているところです。
冬場は暖房があってここに薪火が燃やされます。夜のバーが開いている時だけで週3回です。ここに坐っているのはうちのホスピスのマスコット人形、熊五郎です。こちらに坐っているのは我々の神父さんです。水曜日のパーテンをしてます。カクテルを何度も作ってくれるんですけどまだあまり上手じゃないです。
これがお風呂ですね。桜湯って名前で二つあります。
これがちょっと奥の方のお風呂です。まだ自力で入ることができる人はこのお風呂に入ります。毎日入れます。それから御家族も使えます。御家族は24時間入っていいことになってます。昼間は患者さんにずっと付き添っていて、患者さんが寝てから入るような場合は夜中になることもあります。ですから夜中もこのお風呂に入っていいようになってます。坪庭も付いていて結構いいところです。
これがもう一つ手前にあったお風呂ですけれどもこれは寝たきりになってしまった人、例えば麻痺があって動けない人とか体が弱ってしまって自分ではとてもお風呂に入れない人とか意識がなくて入れない人たちが、ここで週2回はお風呂に入れます。人手はかかりますけれども入浴介助のボランティアさんというずっと昔からかなり訓練された人たちがいて、その人たちの手で入浴介助が行なわれます。看護婦も付きますけれど看護婦はふつう一名くらいですんでいます。
そしてこれはファミリー・キッチンと書いてあります。ホスピスの方からも病院と同じ食事が提供されます。そして患者さんがその食事に味が合わないようであれば栄養士さんが来て面 談をして食事の内容も変えていくこともよくありますけど、それでもどうしても味が合わないことがあります。そういう時にここのキッチンを家族の方が自由に使っていわゆる家庭の味というものを作ることもできます。動ける患者さんがここで自分で料理する場合もあります。食事に関していいますと、こういうところを使ってもいいですし、出前でも何でも自由にしています。
ラウンジのすぐ隣ですけれども一応カトリックの病院ということもありましてチャペルがあります。ここでは週に一回だけ金曜日の午後にミサが開かれます。先ほどバーテンだった神父様がミサをとりおこないますけれどもそれ以外の宗教的な行事はありません。つまりホスピスはカトリックが母体ですけれどもどんな宗教でももちろん自由なわけです。宗教の押しつけもしませんし、宗教に関してはまさに信仰の自由が守られるということです。ですから時には全然聞いたこともないような宗教の人もいるんですけれどももちろんそれも構わないわけです。ただ我々は「信じている宗教的儀式が部屋の中で行なわれても構わないけれども布教活動だけはしないで下さい」とそれだけお願いしています。それさえ守っていただければ自由だということです。ですからある人の部屋に行くと時々みんなで手をかざしたりしているような場面 もあります。けれどもそれも全く自由です。今までこのチャペルを使って患者さんの子供さんの結婚式が3回ほど行なわれました。患者さんが入院している間に御家族が「自分の結婚式の姿を見せていただきたい」という希望にそってやってますけれども、3回の結婚式の披露宴はラウンジで行なわれました。我々も参加することがあります。一度は婚約式が行なわれたんです。でその時は神父さんが間に合わなくて私がその役割を果 たしました。私はクリスチャンでもないし、特別な信仰を持っているわけではないんで、どうしようかと思ったんですけれど、その御本人たちが「このとおりに読んでくれればよいです」と紙を持ってきましたのでそのとおりに読んで無事に終わりました。お母さんが患者さんだったんですけれども側にいてとても喜んでくれたんですが、私としては二人がうまくいってくれているか心配です。
これはボランティアさんたちの活動する拠点、ボランティア・ルームですね。今100名ほどの人が登録されていて毎日7〜8名の方が来ておりまして、ホスピスの清掃とか庭の手入れとかそれから患者さんの散歩を一緒に行って下さるとかお風呂の介助とか時には食事の介助するとかしてもらってます。また患者さんたちはだるい方が多いのでいろいろなマッサージもして下さってます。話相手になることもあります。ホスピスボランティアは4月から始まるんですけれども非常に希望者が多くて大体今年は定員20名だったんですけれども60名ほど応募してきまして40名の方には結局お断りしました。一番最初の年は20名のところに200名ほど応募してきまして結局くじ引きかなにかで決めました。そういう人たちがすべてすぐにボランティアになれるかどうかというとそうではなくて、一回90分の講義を8回受けてもらいます。講習ですね。それを全部受けてもらって一番最後にコーディネーターが面 接をします。それで初めてホスピスボランティアとして登録されます。ボランティアしたい人が必ずしもふさわしいとは限らないんです。そういうことがありますのできちんとした講習と面 接をするという手順を踏まなければいけないと思っています。
ホスピスは二階建てなんですけれど二階に患者さんの御家族のための部屋、家族室があります。我々のホスピスでは患者さんの御家族が付き添うのは全く自由です。それから例えば家族の面 会でしたら24時間構わないことになっています。ずっと付き添っている家族の方が「昼間がんばって付いていて夜は疲れたからぐっすり眠りたい」というような場合にこういう部屋が用意してあるわけです。現在4部屋ありましてこの洋室タイプの2部屋とそれから和室が2つあって、和室では3から4人の方がゴロ寝できますので遠くから来た家族の方たちがそこで泊まり込みながら患者さんをみたり、お見舞いすることもあります。ここも一応有料になっていて、確か一泊3千円ほどいただいているようです。
これはご覧のようにカラオケです。ホスピスの一角にカラオケルームを作ってあります。完全な防音室でここで大きな声を出して歌って、またピアノも置いてありましてピアノを弾いても音が外に漏れません。ですからこれも患者さんと家族の方に自由に使ってもらってます。スタッフも使うことができます。カラオケの好きな人はここで十分楽しめますし初めてホスピスに来てカラオケをやったという患者さんもおりました。完全防音室ですから声は外に漏れないということは、カラオケをやってもらうことだけではありません。患者さんたちは当然自分の病気の状態が良くない人たちがいて、そのことについて嘆いたり悲しんだりすることがあるわけです。そういう人たちが大きな声で叫びたいとか泣きたいとかやはり個室ではなかなかできないことです。あるいは家族の方もそうかもしれません。そんな時にこの部屋に来て大きな声を出しても全然構わないわけですね。この部屋はカラオケだけではなくてそういうふうに患者さんや家族の方たちが自分の悲しみや怒りを思い切って表出する場所にもなることができます。
これは庭です。これもできたばかりの時でちょっときたないわけですが今はきれいに芝生が生えそろってますし、この周りはずっとボランティアさんたちの手入れされたきれいな花壇ができていれとてもいい庭になっています。ここは患者さんたちの部屋なんですけれども直接庭に出れます。このラウンジの出入り口からベッドごと出られますので天気のいい日は全然動けない人たちがここで日光浴なんかをすることができます。
ここに池もあります。よく周囲から小鳥が来てここで水を飲んだりしてますし、実のなる木が多いので実を食べに小鳥たちが来ますので部屋から野鳥の観察もできます。
このアヒルマークには「睡眠中につき入室御遠慮下さい」というように書いてあります。これをなぜ出したかといいますかとここにまさに我々のホスピスで考えていることが表れているからですね。このマークは取り外しのきくものですけれどもこのマークがでている部屋には我々は入らないんです。つまり患者さんの部屋に行くのは午前中が多いんですけれどももし午前中このマークが出ていれば我々はその部屋に入らないで午後とか夕方に患者さんの部屋に行きます。なぜかというと「患者さんたちが家にいたらどういう生活のリズムを持つか」ということを考えるからです。つまり夜中眠らなくったっていいわけです。昼間寝ても構わないわけです。病院には何時消灯、何時起床とかいうような患者さんの管理は特にありませんのでこのことによって患者さんたちの日常的なリズムがその人に合ったリズムが守れるようにしている一つの方法ということになります。
このスライドを見ていただきたいです。猫ですね。この方は患者さんじゃなくて患者さんの御主人なんですけれども奥さんが入院しておりまして御夫婦でこの猫を飼っていたんですね。ところがずっと御主人会社を休んで奥さんの側に付いていて時々この猫の世話に帰っていたんです。それでその話をスタッフが聞いたものですから、「この猫がいい猫だったら部屋で飼ってもいいんじゃないか」と連れてきてもらったんです。そこでうちのホスピスの婦長が「じゃ、私が面 接をしてみます」ということで会いましたらとてもかわいい、おとなしい猫だったことがわかりまして即座に「付き添い猫として許可します」ということで許可されました。その日から患者さんが亡くなるまで患者さんの部屋に約2ケ月間一緒におりました。つまりホスピスでは誰にも迷惑をかけないペットであればペットを飼っても構わないということです。ペットがいるというのは本当に気持ちが安らぎます。嫌いな人でなければですね。ペットというのは飼っている人にとってみると人生の同伴者ですし、なおかつ無条件に自分の側に寄り添ってきてくれる存在なわけです。この猫は患者さんの枕元とか足元によく寝そべっていて我々が入っていくと小さな声をあげて迎えてくれました。
これは2匹の犬ですね。後ろ向きの方は患者さんなんですけれどもこの患者さんも御夫婦でこの犬を2匹飼ってたんです。奥さんが時々犬の世話に帰っていたんですけれども、「ずっと患者さんの側に付いていたい」ということで、やはりこの場合も「じゃ、この犬たちがいい犬だったら」ということで婦長が面 接をしました。ごらんのようにとてもかわいい犬だったものですからやはり即座にOKということになりました。この2匹も付き添いの犬になって、約2週間一緒にいました。ほんとかわいいんで回診にいくとまず最初にこの2匹が我々を迎えてくれるんです。つい一緒に遊んでしまって、しばらくしてから患者さんの方に「ところで具合はどうですか?」と聞いたりすることもありました。患者さんは苦笑いをしながら見てましたけれどもそれでもとても雰囲気としてはなごみます。だから患者さんたちもとても生き生きとなさいます。  
  スライドは以上です。 結局我々が大切にしたいというのは最初もお話ししましたけれども特別 なことではなくて患者さんたちが考えている日常生活です。ペットを飼うこともそうだと思いますしそういうものが少しでも維持できるようにしたいんだということです。本来自分の病気の状態をよく知っている人はだいたい家にいたいとおっしゃいます。本当はいろんな在宅でのケアが十分できれば在宅が一番いいんでしょうけれども肉体的な苦痛が強かったり家での症状コントロールが難しかったりあるいは家に介護する力がない場合にはどうしてもホスピスという形になるのかもしれませんね。だからホスピスはベストの場所ではなく、家がいい人にとっては家がベストなんですけれども結果 としてホスピスを選ぶ場合もあるわけです。そういう意味ではできるだけ患者さんたちにホスピスで安らいだ空間を持ち、さきほどから繰り返している患者さんたちがとても大切にする日常生活ができるだけ最後まで継続できるようにしてゆくことが我々がホスピスで大切にしていることであります。  
 看護学校の学生さんたちが毎年実習にくるんですけれども約2週間の実習の後に最後感想文を書いてもらうんですけれどね。その時にある学生さんが書いた感想文がやはりホスピスでの看護婦さんのケアの実態を表していますのでお話しいたしますけれども、その学生さんの感想文は「ホスピスでのケアというのは特別 ・特殊なケアだと思ってきました。しかし2週間ホスピスでのケアをずっと見ていると、ここは看護婦さんたちの看護というものは私たちが看護学校で習ってきたことがそのまま行なわれています。つまり看護の基本がここでなされているということに気がつきました。」という感想文だったんですよね。まさにそのとおりだと思うわけです。決して特別 なことではない。逆に言いますと「じゃ看護学校で習っている基本が一般の病院ではできないような状態があるんじゃないか」ということなんですね。忙しかったり、時間の中でこなさなくちゃいけない仕事がたくさんあったりして、恐らくいろんな不満やストレスがたまっていってしまう。そして忙しい中でそういう最初に抱いていた志などがだんだん薄れてしますのかもしれません。ホスピスの看護は基本的な看護なんだと思います。今までずっとスライドをお見せしてきて皆さんの中には「とても立派だな」と思った方がおられると思います。実際私もそこで仕事していて、すごい立派だなと思っているんです。でもこのスライドを自慢するために出したわけではないんです。これは先ほど言ったようにお金が一杯集まってしまった。それから一般 の病棟にいたときにこういうふうな建物にしたいといういろんな希望を集めていったらああいうふうなものになったというだけであって、私が言いたいのはホスピス・ケアというのは建物には左右されないんだということなんです。建物ももちろん大切かもしれないけれどももっともっと大切なものは結局「どういうケアをしているか」ということになるんです。そのことをある患者さんのご主人が患者さんが亡くなった後に手紙を書いてきてくれましたので、その手紙を読みます。この患者さんは45日間入院していたんです。その時のことを振り返った手紙だったんですけれど。一部読んでみます。
 「しかし、今あの45日間を思い起こすと私たち夫婦の最後の旅を支えてくれたものは瀟洒な建物であったし、コテージ風の病室であったし、お風呂も含めた良質の設備であったわけですが、それにもまして最も強く私たちを支えたものはホスピス・スタッフの皆さんの力だったと思います。こんな言い方は不適当かもしれませんけれどもソフトとハードを比較した場合にソフトの力に心から感謝したいと思います。もちろんホスピスのあり方を考えた時には環境とスタッフの両面 の充実が必要となるでしょうし、その両面を充実させようとする方々には頭の下がる思いです。しかし今私が言えるのは桜町で体験したことは私たちを支えてくれたのは皆さん=人間だったということです。」
 そういう手紙だったんです。この手紙をもらった時とてもうれしかったのは建物を評価してくれたことよりかは、やはり人間対人間という関わりの部分が自分たちを支えてくれたんだということをよく感じていて下さったからだと思います。まさにここにホスピス・ケアの真髄があると思います。ホスピスの理念が実現できればそれはそのケアが病院で行なわれていても家で行なわれていてもあるいは老人ホームで行なわれていてもホスピス・ケアと言っていいと思うんですよね。しかし、いくら建物が立派で設備が整っていてもホスピスの理念が実現されなければホスピス・ケアとは言えないと思います。ホスピスという建物があったとしてもその中のケアが理念のないケアであったらやはりホスピス・ケアとは言えないですね。つまりホスピス・ケアというのはホスピスの理念の具体化なのですから、私が示したような建物がなければホスピス・ケアができないとは決して思わないで下さい。ただ一つのモデルとして出しただけです。そういうものの中で患者さんたちが主人公でいられるための配慮がなされたことは知っておいていただきたいと思います。以上今我々が取り組んでいますホスピスのこと、それから新しくできたホスピス病棟をご紹介してきました。これを通 してホスピス・ケアのあり方をご理解いただければ幸いです。以上でお話しを終わります。どうもありがとうございました。