〜講演会から〜

「話せる喜び−胆識思考で自己実現−」
「ことばを大切にする会」事務局長
北川内 正幸(きたこうち まさゆき) さん
1996年7月13日(土)コンパルホール 304号

  本日は胆識について話します。では胆識とは何でしょうか? 人間には意識と無意識があります。意識は知識から生まれ、知識は頭で考えます。良識は胸で考えます。胆識は腹で考えます。胆識で考えることを胆識思考といいます。  
 私の体験をお話しします。昭和60年12月20日に脳出血で倒れて、11日間意識不明でした。意識が戻ったのは除夜の鐘のなる12月31日でしたが、意識は戻っても言葉は話せない、立てない、歩けないの寝たきりの状態でした。左半身は麻痺しており、朝起きると左腕が無くなったような感じがしたり、車椅子に左腕を挾まれても気付かないほどでした。そういうような死の淵を体験しました。  
 脳出血で倒れる前にある見合の話をすすめていましたが、寝たきりになってしまったので、そのお手伝いをすることはできませんでしたが話は順調にすすんで見合も終わり、3月には結婚式をあげるところまでいきました。新婦側の父親が毎日私を見舞に来て、「早く元気になって仲人をしてほしい。」と頼んでおられました。自分はまだ寝たきりだし言葉もほとんど出ないので、仲人は無理だと考えておりましたが、できるように努力してみようと思ってました。言葉の中では「ほ」が最も出にくい言葉です。そこで練習として「はひふへほんじつは、みなさん・・・」と言うようにしましたが、そうするとうまくいくのです。これは知識で考えたことでした。「何とかおれを助けてくれ。言葉が出るようになって仲人を引受たい。」という願いがありましたが、「今の状況ではどうにもならんな。」と絶望していました。  
 その当時は二人部屋に入院していました。ある時妻が「お隣りに、外国人が入院してきましたよ。言葉が通 じないから皆困っているようですよ。」と教えてくれました。「どうもロシア人みたいですよ。」と聞いて、私の口から思わず、「タクチガバロチバロスキ?(あなたはロシアの人ですか?)」という言葉がでました。するとその外国人は「ダダ(はい、そうです)」と答えたのです。実は私は太平洋戦争後2年間旅順にいてロシア語を勉強したことがありました。それからは、その外国人といろんな話をしました。それによって無意識に言葉のリハビリをしていたのです。以前は絶望していましたが、何だしゃべれるじゃないかと思いました。また「ハリもいいからハリをしたらどうですか?」と勧められて中国人の女医さんからハリをしてもらいましたが、そこでは中国語で会話をしました。(私は尋常小学校の一年生から中国語を勉強したことがありました。)特に中国語で「一日一日よくなりますね。」と言われたことが大変うれしかったのです。  
 その後、無事に仲人を務めることができました。この時のことを妻が作文にしたので紹介します。後にそれはNHK賞をとりました。
 
 「スコールブージョットハラショ」昨年末脳内出血で生死をさまよっている主人に、慰めまた希望をもたせるかのように声をかけて下さった同室の青い目のロシア人が心をこめて私達夫婦に言って下さったことばです。戦後中国大連でロシア語を勉強したことのある主人に生まれて初めての入院生活の中でロシア人と同室になろうとは神様のおはからいとしか思いようのないことで、不思議なできごとでした。  
 「スコールブージョットハラショ」日本語になおせば「だんだんよくなる」という意味だそうです。そのことばに私は涙が出て止りませんでした。沖縄の海から大分まで盲腸で痛むおなかをかかえて我慢し、知らぬ 異国での手術。そして入院。自分のことで精一杯のはずのグズーシン・ニコライさんのこの一言が私達家族をどれほど力づけて下さったことでしょう。  
 ニコライの言って下さったように主人もだんだん回復し、退院の日が近づいているこの頃。あらためて「ニコライ ありがとう」と御礼を申さずにはおれない私です。

  自分の意志と関係なく、ロシア人の青年が隣のベッドに入院してきて、しらずしらずに言葉のリハビリをしていた。そして念願の仲人も引受ることができた。しかしこれは奇跡でも偶然でもありません。必然なのです。知識は自力であり、一人で考えるものです。ところが胆識は他力であり相手があるのです。胆識思考で自己実現とは困ったことがあれば腹に相談することです。自然の力を借りるのです。無意識に相談する。意識と無意識が相談しあって悩みがある人でもいろんなこと、人間関係でもすべてこれで解決できます。私は病気したからこそ人間にはこんな生き方や考え方があるのだなということがわかりました。こういう胆識思考がもっと早く20代から30代でできたらよかったなと思います。見えないものが見えてきたり、わからないものがわかってきたり、何をしたらいいか決めてくれるのが胆識なのです。皆さんもこれから胆識を使ってみてください。  
 アメリカの本で読んだことですが、AMERICAN というネオンサインがありましたが、ビルがたくさんあって ICAN しか見えない。 I CAN (私はできる)私の目標はこれなのです。胆識さんよ私は何かやりたい、わたしをできるようにしてほしい。啓発言葉とは相手がやる気をおこす言葉のことです。ある方の作文を紹介します。  

 この人なら間違いないと父にすすめられて見合の席で一度だけ顔を合わせた夫に嫁いできました。あれは確か嫁いだ翌年の秋でした。大家族の中で慣れない農作業など心の葛藤を実家で思いきりぶつけたことがありました。 泣きながら「あたしならこそ我慢してきたのに。」と思わず出た私の言葉を聞いていた父が急にきりっと見据えて私に言いました。 「今言った こそ という言葉を相手側に結び付けてはどうか? お舅さんならこそ、いろんなことを注意して下さる。夫ならこそ気を使ってくれる。そういうように思えばお舅さんのおかげで、あなたのおかげでという感謝の気持ちが自然にわいてくるのではなかろうか? 私ならこそという自己主張が先にたつと周囲の反発をかって努力してもいい結果 があらわれてこないと思う。」  父の言葉をききながら、たった二文字の言葉ですが使い方によって大きく意味が変わってきて相手を思いやる心、感謝の気持ちに変わってしまうことに気づきました。  

 言葉を大切にする会は啓発言葉を勉強する会でもあります。 朝寝坊して学校に遅れた子供にたいして、「何をぐずぐすしている。早く行かんか。ばかたれめ。」というか「明日は早く起きてがんばろうね。」というか。どちらがその人のやる気を起こすでしょうか?  ある高校生のいじめに関する作文を紹介します。  

  僕たちは「あいつ しかとうしようぜ。」とおもしろ半分にいって友達のH君をしかとうしよう(無視する)ということになりました。別 にH君が変なことをしたわけでもなく、ただほんのおもしろ半分からやったのです。 休み時間になるとやはりH君は話かけようとして寄ってきます。「おーい、あっち行こうぜ。」と言って僕たちはH君から離れていった。放課後H君は部活をするために教室を出ていった。すぐに僕たちも部活に行った。部活中はH君のことがすごく気になっていた。そして部活が終わって教室にいるとH君は入ってきた。今度は向こうが目を合わそうとしなかった。そしてH君は帰ろうとドアのところに行ったときにこっちを振り向いた。その時に目が合った。その目には涙がたまっている。僕はかわいそうなことを悪いことをしたと思ってしまった。そして「バイバイ」と僕は言ってしまった。しかしH君は何も言わずに行ってしまった。 次の日H君に「ごめん」と言って仲なおりをした。すぐに仲なおりができてよかった。できなかったら大変だと思う。「ごめん」の一言を言ってほんとによかった。  

 また十数時間の手術を受けた大病の経験のある方の作文を紹介します。  

  「大好きな大分の方言」  
  かわいい孫が東京の高校へ入学するために私も上京するはめになりました。男の子の孫は地理にも環境にも早く慣れ、大分の方言がまるだしの田舎坊の私が恥ずかしくてうとましく思えたのでした。3年間おるつもりが約8ケ月でおはらい箱です。 さっそくテレビを見たり童謡を読んだりして標準語の勉強をしましたが、なかなか思うようにはいきません。言葉がこんなにむつかしく奥が深いとはこの年になるまで気づきませんでした。大分県内で生まれ育った私です。70年近く言葉に対して不自由を感じたこともありませんでした。重荷に思ったこともありません。慣れ親しんだ大好きな大分の方言ですもの。ユーモアがあり、ぬ くもりがあり、情深さがあり、私の心の中の袋には方言がいっぱいつまっています。 命が花なら今が満開。これから先も心から出る思いやりのやさしさ、感謝の言葉をふんだんに使って残された人生大手を振って、親ですもの 家族をむぞかち いきちいきます。  

  このように方言もよいものです。きょうお会いした人に対して私はあなたのことを生涯忘れませんという意味で「おもやるよ」という言葉があります。ことばを大切にする会の副会長は「一寸ずり」という言葉を共通 語にしたいと言っています。「一寸ずり」という言葉はそれを聞いただけで状況がうかぶすばらしい言葉です。 「胆大心小」という言葉があります。胆は太く、心は細やかで物事につつしみがある。物事に動揺せず、謙虚である。という意味です。大病せずに大病したつもりでためしてみてください。