〜講演会から〜

「教育現場から考える生と死」
県教育センター研究部長
牧野 桂一 さん
1996年6月8日(土)コンパルホール アートルーム

 私は教育センターの公開研究会で「子供が死をどのようにとらえるか?」を調査し発表しました。終末期医療では死という問題がクローズアップされてますが、学校では死が問題にされていないのが実情です。私は東国東総合病院の田畑正久先生たちと「死と生を考える会」の集いをもっていますが、その集いの中で死にスポットを当てると生がダイナミックに見えてくるのです。  
 ある病院を視察にいきましたところ、そこの院長先生が話されたことですが、ある患者さんの葬儀に参列したところその患者さんの知人のお坊さんが来ていました。院長先生は「坊主は今ごろ来るのか? 遅い。間に合わない。」と思われたそうです。つまり「宗教者や教育に関わる者は死んだあとに参るものではない。患者さんが入院したらすぐに縁を結ぶ義務があるんだ。」と語っておられたそうです。  
 私は教育に関わる立場として昨年まで教育相談をしていました。子供の悩みの相談を月に一〜二回程度うけていましたが、子供が小児麻痺、白血病、筋ジストロフィーなどの病気の場合もあり、親としてどううけとめたらいいかという相談もありました。  
 ある筋ジストロフィーの子供を担当した学校の先生からの相談を紹介します。 筋ジストロフィーは重症になってくると呼吸困難になって個室に収容されます。そういう子供を授業する場合、今までしてきた授業や今の授業が非常に空しく思えるそうです。明日死ぬ かもしれない子供に対しての授業がこれでよいのかと疑問に思えるのです。教師は教育の場で指示、命令、禁止ばかりやってきた。例えば脅して「勉強しないといいところへいけないぞ。」と言って勉強させてました。しかし明日死ぬ かわからない子供に対して指示、命令、禁止は無効です。それでは「何を教えるか?」 子供が今日先生と学ぶことで限りない喜びとしてその日が費やされたらよい。一日一日の授業が子供にとって価値のあるものになるようなことを教えたい。今日を生きていくために必要なこと、この一瞬一瞬を生きていくために必要欠くべからざるものを子供が受けとめ学んでほしい。教師として子供が命と引替に学ぶ価値のあるものを教えたい。というようなことをお互いに話し合いました 。
 ある脳腫瘍の子供の話より。その小学生の子供は学校に行くことを一番の喜びとしていました。病気が進行してきたのですが病院へ入院することよりも学校へ行くことを希望したのです。その子の母親が同じクラスのみんなに病状を説明したところ同級生たちは深い理解を示したそうです。そこでその子は同級生たちの支えによって死の二日前まで学校へ行っていたそうです。同級生たちはその子の葬儀に参列しましたが、その中でその子の思いでが語られ、死ぬ 前に「○○○君や○○○さんと遊んで楽しかったよ。」というように口づさんだことが紹介されました。それを聞いて同級生の子供達は「ぼくの名前も呼ばれた。」こともあり、悲しみではなく、満ち足りた感情でもって生き生きと生を終えた友人を見送ったということです。亡くなった子も立派だったし、見送った子たちも立派だったのです。彼らは死をともに生きたのです。  
 最近は死が子供達から遠ざけられています。身近な人の死に出会う機会がないのです。おじいさんやおばあさんは病院で亡くなるので、家族という意識が薄れている場合もあります。家族の死を前にして「だっこしてもらった。お小遣いをもらった。」「帰ってきてほしい。けどもう目をあけない。」というようなことを実感する機会がないのです。肉親の死に立ち会ったある子供は死体に手をあてた時に「ズシンと冷たい。あの冷たさはもう忘れない。」と思ったそうです。死んだらだんだんと顔つきが変わってくることを実感した子もあります。リアルな死に直面 して死とはどういうものか?を考える場も必要なのです。  
 自殺について。自殺は日本で年間約二万人以上です。参考までに交通事故による死亡者数は約1万人だそうです。自殺未遂は約20万件にもなります。死というものはどういうものか未経験のままに自殺を実行する率が高いということでした。ペットが死んだ経験や身近な人の死を経験した人達のほうが自殺はいけないと思っている場合が多いようです。  
 死を学ぶ機会をもつことが重要です。友人が忌引で休んだときには、忌引があけて学校に出てきたときにみんなで慰めるべきです。死を学ぶ機会をできるだけ与えて子供達が死を実体験として学ぶことが大切です。家族を亡くした友人の悲しみをじかに聞いて分かち合い、誰が亡くなったか? どういうお弔いであったか? どういう気持ちか?などみんなで学習することが必要なのです。  
 小児科医にアンケートをとりました。小児のがんを宣告すべきかどうか? 70パーセントの先生は宣告すべきだと回答しました。治療に協力してもらうために本人に宣告することが必要だ。例えば治療のために無菌室にはいることが必要になるなど、病気や死を子供にかくしては治療ができないということです。死につながるがんの宣告のためには日常の中で子供達と死を話題にすることが必要だと思われます。  
 ある先生が弟さんをがんで亡くされた時に、全員臨終の場に立ち会わせたそうです。子供に死はこわいものだと実感させる。しかし子供の死のこわさから立ち直らせるのは大人の働きかけである。年齢に関係なく死と出会わせ、忌みこもってみなでなぐさめあう。初七日といって一週間喪に服しますが、耐えられなければお坊さんに来てもらって死とは何かということを話してもらう。一週間の間、一族の悲しみを皆で分かち合う。四十九日たつと社会に戻れる精神状態になるといいます。さらに喪があけると人が変わるといいます。死に立ち会うということはかけがえのない体験なのです。  
  アメリカではデス・エデュケーションがあって、小学校1年生から大学生まで死を学ぶ機会があります。日本では死をきたない、怖い、汚らわしい、縁起が悪いと忌み嫌う風潮がありますが、死を中核にすえることによって生が輝いて見えてくるのです。死との対局において生きるということの価値を明かにしていくと一日一日の生が輝いてくるのです。私はそういう意味で「生と死を考える会」の今後の活動に期待しています。
  では死と向かい合っている人とどう対したらよいのでしょうか?  病院を教室として学んだ十五才の少女の紹介をします。大分のある病院で亡くなりましたが、最後の日の日記に次のような詩を書いていました。

 星の世界には自由がない。  
 人間の世界には自由がある。  
 星の世界には喜びがない。  
 人間の世界には喜びがある。  
 星の世界には悲しみがない。  
 人間の世界には悲しみがある。  
 星の世界には死がない。  
 人間の世界には死がある。  
 今わたしは人間である喜びと悲しみを同時に味わって生きているのです。  
 
 
死と向かい合って悲しみは大きいかもしれないが、人間である喜びを見つけて感じえた。もし死と向かい合うことがなかったら、大きな喜びを見落としたまま生きたかもしれない。十五才の少女でも生きることの喜びを見つけうるのです。人生が長いとか短いとかいう量 の問題ではなくて、自分の生と死をいかに真剣にみつめたかということが大事です。死を見続けることによって子供も成長するのです。限りなく豊に子供の心は広がっていくのです。私はこれからも子供達に死の問題や生の問題を語り続けていこうと思っています。