〜講演会から〜

「生きることの意味と目的」
東国東地域広域国保総合病院院長、国東ビハーラの会世話人代表
田畑 正久 さん
1996年5月11日(土)コンパルホール アートルーム

 私の目指す医療は、患者さんの病気が良くなるとともに、患者さんが「生きていてよかった」と思えるような医療を目指すことです。 最近の医療の状況をお示しします。  
  平成7年度 日本の死亡者数 91万人  
  どこで死を迎えたか?  昭和25年 病院で11.1% 平成7年 病院で約80%
  死因 1. がん 25万人  2. 脳卒中 15万人   3. 心臓病 14万人   4. 肺炎
  このように病院で死を迎える人が多いのに医師も看護婦も死の前後のことについて教育を受ける場がないのが現状です。
  (老衰・癌の末期では急性期の治療はいらない)  
  例 和田 勉 さん の著書「老人医療の現場」より86才の父親がいて老衰で寝たきりでしたが、家族で順番に交代で介護をしていました。しかし死亡診断書を書いてもらうためには前もって病院で診てもらっていたほうがよいだろうと判断してある病院に連れていきました。
 医師「あなたのお父さんは腎不全だから血液の透析をしたほうがよいです。そうするとあと1週間か1か月は長生きできるかもしれません。」
 和田「父はもう十分生きたから何もしないで下さい。そのまま自然に往かして下さい。」
 医師「あなたのように治療を断るのは人間として冷たいですね。」
  このように人間は簡単に死ねなくなっています。一分一秒でも長生きすることが善であるとされています。それをしない人間は冷たい人間だと考えられるのです。意識がなくても、寝たきりでも急性期(人工呼吸、透析など)の医療をするのが現状です。
(癌も老化現象の一つであるかもしれない)
  脳卒中や心臓病の病因は動脈硬化ですが、動脈硬化は老化現象の一つでもあります。 平均寿命はずいぶん延びて男性76才、女性83才です。しかし医学でも老化現象は防げません。いくら医学が進歩しても平均寿命はあと5年延びるのがせいぜいでしょう。医学は不老長寿をめざしていますが、実際は天井にぶつかっているのです。 医学が扱うものは病気・老化・死です。宗教の課題は生・老・病・死です。それらをどう解釈していくかで、医学と宗教では解釈に違いがあります。 仏教は「いつ死んでもよい生き方を毎日できる。」そういう精神をつちかいます。それは早く死ぬ ということではありません。いつまで長生きしてもよいのです。
(死がどうしてこわいのか?)
  「どういう人が死を悠々と受けとめられるか?」ということについてあるお坊さんが12項目紹介しています。その中で特に2つの項目を取り上げてみました。
  死を受容できる人とは?  1.今の充実のできる人   2.感謝のできる人
  なぜ死がこわいのでしょうか?  
  1.経験がない    2.未知の世界である  3.病気の時に痛みがあるのではないか?  
  病気の時の痛みに関してはモルヒネで痛みの80〜90%はとれます。 20年前はモルヒネは中毒をつくるのでできるだけ使うなと言われていました。しかし今、日本は世界の各国に比べてモルヒネの使用量 が少ないので文化レベルが低いと言われています。痛みをもつ人に対する配慮がなされていないとみなされるのです。 「今の充実」ということが大事な問題を含んでいます。
  死ねない理由は何でしょうか?  今日よりも明日こそいいことがあると思うから。  あしたこそ、あしたこそという未練があるから。
  (生き方が大きな問題である)
  例1. 胃癌で手術した患者さんから言われたこと  「おかげで体はよくなったけど、することがなくて退屈してます。」 病気が良くなっても退屈して長生きする方たちがおられます。
  例2. 毎日新聞の記事  ある記者が英国である家庭に招待され、ごちそうがでました。
  記者「せっかくのごちそうですが私は血圧とコレステロールが高くて医者から美食をやめなさいと言われています。」
  主人「私も同じように言われています。『ワインはどうでしょうか?』と医者に尋ねてみました。すると医者は『体に悪いからやめときなさい。』と言いました。『ではタバコはどうでしょうか?』と聞きました。医者は『タバコも体に悪いからやめときなさい。』と言いました。そこで『やめたら長生きできますか?』と聞いたところ医者は『確実に言えることはあなたは人生を長く感じるでしょう。』と言いました。」
  即ち、何も楽しみがないので人生を長く感じるということなのです。 最近では「生きることの質」が問われるようになってきました。今までは生きる長さが大きな問題でした。しかしこれからは「長生きしてよかった。」という生きることの質を問題としなければならないのではないでしょうか。 今は健康で長生きが人生の目的になっています。本来、私の仕事、私の使命、私の役割、私の目標があってその実現するためには健康であって長生きすることが必要であったわけです。つまり長生きは目標を達成するための手段・方法であったのですが、いつのまにか長生きが目標になってしまったのです。 生きる上でのあなたの目標、あなたの役割、あなたの使命、あなたの仕事が毎日できてきたという今の充実があることが重要なのです。仏教では「今」を大事にします。 人は世の中で幸せを得るために生きています。  
  マイナスの価値   プラスの価値    
   病気        健康    
   老い        若い    
    貧         富   
   不美人        美人
  人はプラスの価値を多く集めて、マイナスの価値を減らせば幸せにつながるだろうと考えて一生懸命生きています。しかし多くは行き着くところは病気であり、それから死にいたります。健康が絶対だと思っている人にとっては病気で死ぬ ことは不幸の完成になるのです。仏教では、病気・健康、老い・若い、貧・富、不美人・美人などというのは比較の問題だととらえます。しかし我々はそれらを絶対だと思って生きています。 生きる価値とは? 生きる意味とは? 何でしょうか?
(癌の告知について)
  日本では癌だと本当の病名を言うのは28%だそうです。本当のことが言えないのは医師の心の準備ができていないことも大きな原因です。本当のことを言っていかにつきあっていくかという心の準備ができていないため、安易にごまかしたり、うそを言ってしまうことの方が多いのです。 それに患者本人が死んでも家族とうまくやっとけば医療紛争がおこらないためです。そこで家族にばかりよく説明して家族とうまい関係を作ってきました。では本当のことを言わないとどういうコースをたどるのでしょうか?  
  例 胃癌の患者に胃潰瘍と言って、本当の病名を言ってない場合 再発して食べれない、腹が張る、足がむくむ といった症状がでます。そのうちに医学の知識でもお手上げにります。患者さんを訪問しても部屋を足早に出ていったり、ごまかしたりします。本人の気持ちは次ぎのように変わります。 「看護婦も相手にしてくれない」「医師も相手にしてくれない」「家族も相手にしてくれない」「何か隠しているんじゃないだろうか?」「他の病院に行ったらよかったかな?」
  一般に患者さんは病気がよくなることに専念します。病気がよくなったらあれをしよう、これをしようと思っていますが、そういうしたいことを我慢して、治療に専念します。ところがいつまでたっても病気はよくならずに不信感をいだいて死んでしまう。したいことを我慢して不幸に死んでしまうのです。 これがいままで多くの癌の患者さんがたどったコースなのです。
  栄光病院のホスピスの先生たちは次のように話しておられます。「人間は最後まで成長する存在ですね。」 癌と言って落ち込む人もいますが、受けとめてあと半年の命を仕事に向ける人、家庭のトラブルを解決する人、仕残したことをしてしまう取り組みができる人もいます。そういう人達は成長する存在なのです。そういう人達にとっては生命の質が高まるのです。 しかし今までは癌という本当のことを言わないために、そういう成長の可能性をもった患者さんたちの成長するチャンスを奪っていたのではないでしょうか? 「本当のことを言うと希望がなくなるじゃないか?」という意見もあります。
 人は価値感において、相対的なものを絶対的と思うから一喜一憂するのです。「何で苦しまなければならないか?」「何で病気にならなければならないか?」 そこには大きな視点が抜けているのです。「人間として生まれて生きている。あたりまえのことじゃないか?」と思ってしまう。 !                  相対的な諸々の場面で一喜一憂します                      
 右往左往します                      
 流転します                     
 幸せになろう、幸せになろうと思いながら生き抜いて病気になります                   仏=完成した人間 つまり人間は未完成の仏です                            今人間として生まれているというのは、
 仏となる存在としてこの世に生を受けた、                    
 完成した人間になるためにこの世に生をうけたということなのです
 人生のプラス価値やマイナス価値の諸相を一つの縁としてあなたは試練として与えられています。そしてあなたは一歩一歩成熟し、成長して仏となる歩みの中にあるのです。人として使命を果 たさせていただいて成長して仏となる歩みがあるのです。 運が良かったとか悪かったとかは相対的な世界です。 知慧(ちえ)の目からみた人間の存在があることが大事なのです。
 星野富弘さんの詩  
  いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった  
  いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった  
  人はいのちが大切だ、健康が大事だ、若さが大事だ、富が大事だと生きています。 星野さんは頚椎損傷で健康も富も若さもすべて失って苦しかったに違いありません。 しかし知慧と慈悲の視点、大きな視点で見て、「我々は いろいろな人生の諸相の中で経験しながら成熟し、成長する歩みの中にあるのだ」とうなずけた日には生きているのがうれしかったと表現せざるを得なくなるのです。
  マルチン・ハーバというイスラエルの神学者の本「我と汝」から  
  我々は2つの世界を生きています。   
  私 − あなた → 2人称  親子みたいに近い存在   
  私 − それ  → 3人称  私が幸せになる手段・道具
  あなたは「あなた」と呼ばれたことをとおして、「大きな視点を持ちなさいよ」という呼びかけを聞くことによって2人称の世界に入れるのです。「大きな視点にめざめなさいよ。裕福であるとか美人であるとかは大きな問題ではないのですよ。」ということに気づかされるのです。 「あなたは仏になるという使命をもってここにいます。老体をさらしているかもしれないけど、あなたの存在自体に仕事があり、使命があり、役割があり、目標があるのですよ。あなたは完成した人間になる存在としてこの世にいるのですよ。」 そういうことに気づいていこうじゃありませんか。命よりも大切なものがあるということに気づいていこうじゃありませんか。というのがこの「生と死を考える会」のめざすものなのだと思います。
  癌の末期の患者さんがキュープラ・ロスという女医さんに言いました。 「わたしはいい生活をしてきたけど、本当に生きたことがありません。」 つまり知慧というものに心が耕されてなかったのです。 心を耕すということが 今の充実につながり、そして感謝の心が出てくるのです。
  知慧の視点を与えられるとはどういうことか?
  例1 我々は文部省的採点方法で生きています。 「100点をめざしなさい、がんばりなさい、100点をとらなきゃだめよ。」 そこで70点の人は100点になれない劣等感をもちます。しかし70点の人が一生懸命に生きて70点で終わったとしても、そこに満点の視点が与えられるのです。
  例2 三浦梅園の詩   
  人生うらむなかれ、人知るなきを       
  幽谷深山 華自から 紅なり
 谷深いところの桜の花で精一杯咲いたらそれでよいのです。
  私は私でよかった。40点でも人生を精一杯生きれば満点ですよ。そういう視点に気づこうではありませんか。よりいきいきと生きることをめざそうではありませんか。 我々は狭い了見で一喜一憂します。あしたこそあしたこそで死にきれないのです。 1億円あっても2億円あってもたりない。いつも足りない足りないと思います。 しかし、「いい生活ではなかったけど精一杯生きさせていただきました。ありがとうございました。」という感謝の気持ちを持つことができるのです。社会的・経済的には恵まれなくても、知慧の視点を得たことでいい生活ができるのです。 医療と仏教が手を携えて、皆さんが命よりも大切なものに気づく。そうすると満点の人生が増えてきて地域の豊かさにつながり、豊かな社会が生まれるのです。 「いきいき生きるとはどういうことか?」を学んでいくことが死の受容につながると思います。今を充実して、感謝できること。そのことにおいて仏教もキリスト教も同じ願いがあります。またそれは、「生と死を考える会」を始めたデーケン先生の願いでもあります。