〜講演会から〜

「私の体験談−癌になって思うこと−」
清原 正美 さん
1996年4月13日(土)コンパルホール 305号

 私は神戸で仕事を退職して6年前に別 府に転居してきました。別府で温泉生活を楽しもうと考えていました。ところが4年前に大腸癌にかかりました。  
 先日の相撲取りの蔵間を扱ったテレビ番組の中で彼が「何でおれが白血病にかからなければならないのか?」と話してました。私の場合は病気の前兆があったのにほったらかしていたのが悪かったと、自分の不注意だと思っています。  
 4年前の平成4年に便の検査で潜血反応が陽性だと言われてました。当時熊本の友人から手紙が来て「私は5年前に大腸癌で手術を受けましたが、今直腸に再発して苦しんでいます。もう祈るだけです。」という内容でした。そういうこともあって1月の終わりにI医院で大腸の検査を受けました。その結果 、直腸が狭くなっていてもう内視鏡が奥に入らなくなっていたのです。紹介されたS病院で平成4年2月4日に開腹手術を受けました。手術後に院内感染にかかって隔離されましたら、妻が精神的にパニックになってしまいました。今の手術の傷は感染のために変形しており、その後に糸が何回もでてきました。  
 その当時は病名の告知はしてもらいませんでした。退院時にもらった錠剤は「免疫を高める薬」ということで説明を受けていましたが、恐らく抗癌剤だったのだと思います。今では薬を本で調べればそれが何であるかは簡単にわかります。告知されなくてもその気になって調べればわかるのです。  
 翌年神戸の老人ホームに入ろうかという希望をもったので、健康診断を現地で受けました。すると1ケ月たって「肺に影があるから精密検査を受けてください。」といってきたのです。そこでN病院で肺のX線写 真をとりました。私がみてもわかるように白い影があったのです。「たまがった。」という表現がぴったりのように驚きました。  
 S病院にいったら、「ここでは肺の手術はしてないからK病院を紹介します。」といわれてK病院の呼吸器外科の先生を受診しました。すぐに手術しないとやがて呼吸困難になるといわれて手術を受けることを決めました。両方の肺に病変があり、1ケ月の間をおいて左肺と右肺それぞれに手術を受けました。術後は何の問題もなく治って退院しました。私はK病院が好きでした。特に希望者が集まって食事を休憩室でとることができるのが楽しかったです。当時テレビで逸見政孝さんの番組を報道してました。彼の手術後の経過が順調であるという報道があると「黄金の腕にかかればうまくいくのか。」とうらやましく思っていました。「都会でないといけないのかなあ。金がないといけないのかなあ。どこの医者が良いのかわからない。」など思っていましたが、逸見さんが12月に亡くなられたことで、また考えを改めました。  
 当時「文芸春秋」に慶応大学の放射線科の近藤誠さんの文章が載っておりその中にこういうことが書いてありました。「逸見さんは、黄金の手にかからなかった方が良かった。手術しないならまだ生きていた。」私は本当のところはどちらがよかったかはわからないと思いますが、近藤さんがまた「本物の癌にかかったらじたばたするな。」と書いていました。私の場合は肺に転移したのですから「本物の癌なんだなあ。」と思いました。  
 翌年の平成6年の3月にS病院で大腸の検査を受けて、「肛門の奥の3cmのところの直腸にポリープがある。つらが良くない。」と言われました。そこで肛門から摘出してもらったところ悪性だったのです。その後放射線治療を受けましたが、肛門の皮膚がただれました。しかし、「そのポリープは転移ではない。」と言われて変に安心したことを覚えています。  その年の12月には腰の骨の3番目に影があるということで、K病院に通院しながら放射線治療をしてもらいました。  
 平成7年の2月には内視鏡で再び直腸内にポリープがあるということで、切ってもらいましたが、後で「癌の根が残っていて、それを取るには直腸の半分を切除する必要がある。しかし全部取りきれるかどうかは保証がない。」との説明を受けました。その手術のためには2ケ月の入院は必要だろうとも言われました。しかし、私はよくよく考えて手術をお断わりしました。それまでもらってのんでいた抗癌剤も、こうたびたび再発したのでは効果 がないと判断してやめてしまいました。抗癌剤をもらっていたころは2週間分の薬代が5千円だったのが、5百円になったのです。「本当にこれでいいのか?」と不安にもなりましたが。  
 平成7年の10月に直腸の内視鏡検査を受けて「前回の癌の根があったところの手術の傷は治っている。」との説明があり、「直腸の再手術をやめとって良かったな。」と思いました。  
 平成8年の2月にCT検査を受けたら、肺の転移が見つかりました。自分でみても「数が多いな。これはあかんぞ。」と思いました。「ほったらかそうか?」とも思いましたが、K病院の呼吸器外科の先生に相談しにいったところ、4つの理由で手術はできないと言われました。1、数が多いので取りきれない。 2、体力が続かないだろう。3、骨に転移の疑いがある。 4、直腸に癌の根が残っていた。 体力が続かないだろうというところでは、私がK病院に入院していたころに高齢の方が3人手術後に亡くなられたのを思いだして「手術はいやだ。手術しても無駄 だ。」と思いました。「あとどのくらい持ちますか?」と聞いたところ「1年は大丈夫でしょう。」と言われました。  
 以上の経過をふりかえってみるに「自分はやりそこなった。」という意識はありません。今後「うまく往けたらいいな。」と考えています。 今月末に入居する予定の神戸の有料老人ホームは人気が良いようです。ターミナルケアに理解があるそうですが、一定のレベルまで病気が進むと提携した病院に移って治療を受けられるということです。 私は今年の3月で69才になりました。母親は69才で大分で死にました。妻の父も69才で死んでいます。これを越えないといけないというのが今の私の目標です。 妻は神戸っ子ですが、別府にきて2年目にして私が癌にかかって嫌な思いをさせました。今は妻を神戸にもどしてあげたいとつくづく思います。最近特にうれしく思うのは、ここ数年の私の病気の経過をすなおに妻が受け入れてくれていることです。4年前に手術を受けたときには、妻は精神的にパニックになって、ある先生から「心療内科的な治療が必要ではないか。」と言われました。今はすっかり治って精神状態は安定しておりパニックになることはありません。私共夫婦には子供がいません。たった一人の家族である妻をどう助けていくかも今後の私の課題なのです。  
 私の別府の家の隣にはお寺があり、桜の木が多いのですが、その桜の花をみて妻がある俳句を実感をこめて思いだしてました。
 「散るさくら。残るさくらも、散るさくら。」  
  今私は、体重が82キロです。どこでバタバタと体の調子が悪くなるかは予想がつきません。わからないほうがいいのかと思っています。医療従事者の方は知っているのでしょうけど、お医者さんでもわからないことがあるから予想以上に長く生きるかもしれません。「じたばたしないで、迷わないで生きていきたいな。」と思っています。「万事休す。」だなとも思っています。もし、近藤さんの書かれた文章に出会わなかったら今ごろいろいろな病院の医療や民間医療に振り回されてじたばたしているだろうなと思っています。  
 別府での私の体験といえば、鶴見岳・由布岳・高崎山に一人で登山したことです。そしてこういう会で話ができたことでしょう。こういう話はどこででもはしゃべれません。また話しても意味がないと思います。「つまらん話を聞かせても申し訳ないかな。」とも思いましたが、せっかくの機会なのでこうして話させていただきました。