〜講演会から〜

「罪の意識と和解」−死を前にして−
カトリック大分教区 司教
平山 高明 さん
1996年3月9日(土)コンパルホール 305号

 人はいつ死ぬ かわからない存在です。死ほど不確実なものはありません。だからいつ神様の前に出てもいいように準備しなければなりません。いつでも安心して死ねるようにしておくのです。万事においてあなたの終わりの日のことを考え、「ああすればよかった。こうすればよかった。」と思うであろうことを今のうちにしておくのです。 カトリックの信者さんであっても死は恐ろしいものです。
 ある癌の末期のおじいさんを訪問しました。この方に「死が間近に迫っていることをどう切り出したらいいかな?」と思ってドアをあけて部屋に入りましたら、そのおじいさんは「最後の準備をさせて下さい。」と自分から言われました。自分で自分の最後を覚悟しておられたのです。 しかし、これから死を迎えることを最後まで拒否される方もおられますし、家族もそれを本人に告げることをためらう場合もあります。宗教では生と死を切り離すことができません。キリスト教では一回きりの人生です。魂が肉体から離れることが死ですが、死で人生が終わるわけではありません。死によって肉体は滅びるけど、神様のもとへ帰っていくのです。  
  死の恐怖は4〜5才で芽生えてきます。金魚や小鳥の墓をこしらえたりします。そして「死んだらどうなるの?」と疑問をもちます。その時、親が「死んだら灰になるんだ。消えてなくなるんだ。」と答えると子供に大きな恐怖心を残します。 そういう時は「みんな死んだら神様のふところに帰っていくんだよ。心の中に神様はいらっしゃるんだよ。あなたがいいことをした時に、神様は喜んで下さるんだよ。だから毎日神様の喜ばれることをするんだよ。人が見ていようといまいと、神様は見ておられるのですからね。」と答えます。
  やがて学校生活をおくるようになり、「神様とは何だろう? 人生の意味は何だろう? 人生の目的は何だろう?」と考えるようになります。金や地位 や権力は手段としては必要です。しかしそれらは死を前にしたときに、どれだけの価値があるでしょうか? 金は心に安らぎをあたえますか? いやかえって金を集めるためにどれだけの人を傷つけたかも知れません。復活祭では灰のイニシエーションがあって、「汝は塵であるから、塵に帰ることを覚えなさい。」とさとします。一般 に死をタブーとして考えていますが、死を抜きにして真剣に生きることはありえないのではないでしょうか。
  いよいよ死を前にする時は、自分をふりかえる時です。病気はそういう意味で恵の時なのです。自分の人生をふり返り、準備する大切な時期なのです。年をとることも恵だと思います。70才をこえると「もう長くないかもしれない。」「いつ倒れるかもしれない。」と思います。だからいつ神様の前にでてもいいように心の準備をしましょう。 懺悔というのは、心の中のわだかまりや人に言えないようなつらいことを吹き出させるところなのです。圧がたまってきたときにガス抜きをするようなものです。若い時の良心の呵責は気晴らしをすることでごまかしていけますが、年をとるとごまかすことができなくなります。
  社会的には成功したあるお爺さんの話があります。「自分の一生は犬のような生涯でした。あっちこっちでおしっこしてよごしてまわった。しかし、まだ一つ希望があります。最後には許していただけるんではないかと。キリストと共に十字架につけられた盗賊が最後に許されたように。」
  あるお婆さんの話。私がお婆さんに「洗礼を受けたら神の子となって新しい命をいただくのですよ。過去の色々の罪は許されるのですよ。しかし神があなたを許すからあなたは隣人を許さなければなりません。」といったらお婆さんの顔が変わりました。教会に来なくなってしまったのです。しかし、再び教会を訪れるようになってこう話してくれました。「私には嫁がいますが、あの嫁だけは絶対に許せない。」とつまり自分は嫁を許せない。だから神様から許してもらえない。だから天国へ行けない。と悩んでいたのでした。お婆さんは「許すことはできないが、許そうと努力しますから洗礼を受けさせてもらえないでしょうか?」と願いました。人を許すということは大変むつかしいことでもあるのです。
  臨終に際して不思議な体験をしました。ある方が死を迎える場面で、血圧が下がって心電図が止った時に、その手を握りながら、「今神様の前に出るんですよ。いろいろのことの許しを乞いなさい。祈りができなくても私が祈っているからそれに心を合わせなさい。」と呼びかけましたら、手に反応があったのです。また別 の植物人間になった方を訪問した際に「あなたはもういつでも神様の前にでていいんですよ。苦しみを神様の前にゆだねなさい。人の愛にそむいたこと、人を傷つけたことがあったら許しを乞いなさい。」と祈ったら、その目から涙がこぼれたのです。死ぬ ことは新たな命の門をくぐることなのです。永遠の命である神様との新しい生活が始まるのです。神様が「あー、よく帰ってきたな。」と迎えてくださるのです。「あー、こういうことをして悪かったな。」と許しを乞えば、心が浄化されていくとともに平和になっていくのです。
  ある神父さんが肺癌で最後を迎えられる時に、皆集まって「神様、しもべを安らかにいかせてください。」と祈りましたら、その神父さんは「みんな世話になった。私が最後に皆に祝福の祈りをするからな。」と祈ってくださいました。死ぬ ときになって人の価値がでてくると思います。老人の生きがいについてのことですが、ある方が「私は奉仕できることで生きがいを感じますので、何か奉仕させて下さい。」と言われました。そこで庭の手入れをしていただきました。また「でも私が寝たきりになったら何か仕事がありますか?」と聞かれたのでこう言いました。「目に見えない仕事ができるのですよ。体は動かなくても手を合わせることができたら、祈ることができます。他人の幸福を願うことができます。例えば入院しているとすれば看護してくれる看護婦さんに喜びを与えることができます。『私は何もしてあげられないけどありがとう。』と言うことができるのです。」  
  あるらい病の患者さんが話してくれました。「最近やっと自分が幸せだと思えるようになりました。私は世間で働いていたころは欲のかたまりでした。しかし、らい病だとわかってここに送り込まれてから世間が自分を捨てました。友人や親戚 が自分を捨て、やがて親も来なくなりました。欲のかたまりだった自分ですが、捨てようと思っていた欲が逆に向こうのほうから自分を捨ててくれました。今得ようと思うのは神様の愛だけです。滅びのないものを求めたいのです。世間ではあれに迷い、これに迷いしていました。今は一つのものだけを求めようとしています。」この話を聞くと人を外からみただけでは本当に幸せかどうかわからないようです。らい病のような病気をもってさぞ不幸に思っておられるだろうと予想していたのですが、実は心の中は幸せなのでした。  
  家庭の中で夕べの祈りという反省の場を持つことは必要です。青年の人格形成に必要なものは理想像と反省といいます。反省は大事なことです。たとえどんな悪い人であっても死に際して許しを乞うことがあります。そういう場合には「彼もざんげしたんだなあ。悪いと思ったんだなあ。」と周囲の人が認め、その人に対するわだかまりを忘れていくのです。「自分も亡くなった人のために許しを願おう。」という気持ちになるのです。  
  自分のたった一人の孫息子をある青年Aに殺されたお爺さんが、その青年を許した話があります。友人同士がけんかになりAがもう一人の青年を殺してしまい、刑に服しました。Aが刑期を終えて帰ってくることになりました。殺された青年の祖父は自分の手で相手の青年を殺したいと思うほど憎んでいました。その地区の神父さんが「お爺さん、あの青年の罪を許してあげなさい。」ということで何度も何時間も話をしました。いよいよAが帰ってきました。皆のいる部屋のドアが空いて入ってきました。お爺さんが近づいていきました。皆は今から復讐劇が始まるのではないかとかたずをのんで見守っていました。お爺さんが言いました。「神様がお前を許せとおっしゃるから、私はお前を許そう。」その時青年はその言葉に感激して声をあげて泣きました。その後青年は神父さんの所へ行き、「あなたの宗教は本物のようだ。お願いがあります。私は洗礼を受けたいのです。そして洗礼の親代わりをあのお爺さんにお願いします。」と言ったという内容です。お爺さんは実の孫息子を亡くしたのですが、精神的には新しい孫を得たのでした。
  私の生きがいは、死にゆく人に対して「わだかまりを捨てて、御手に任せます。」という心をつくりだすことです。たとえその人の生涯がどういう生涯であっても、死を前にしてその人の心の中に少しでもやすらぎをつくることです。死によって滅びることがない人間愛があるということをわかってもらうこと、また希望をもってもらうことなのです。