(第6回雑文祭参加作品)
私の視界は青い。
水流が直に鼓膜を撫でる、酸素のないこの水中は、
まるですとんと異空間に落とされた様に、淋しくて、温かい。
夏の夜明けに似ている、と私はいつも思うのだ。
クーラーの冷気に冷やされた部屋に、夜の生暖かい風が入り込む。
その外気の気配に私はよく起こされたものだ。気温が心地良い夏場などは特にだ。
朝でも夜でもない、その時間帯特有の流れ方をぼんやり遠い目で眺めていると
得体の知れない感傷が胸に満ちてきて、酷く孤独を感じさせる。
その反面、部屋を深く染めてゆく青色は、まるで自分の心象風景のようになめらかに映り、
真夜中にポツンと取り残されてしまった私を慰めたりもするのである。
沈黙がすぐそこで生まれているような、青い閉塞。
水中と夜明けは同じだ。そんな風に、人が「漂う」場所なのだ。
ボコッ!
口から飛び出すように上へと逃げてゆく泡を見た時、
私は自分が息苦しいということにやっと気がついて、慌てて水面に顔を出した。
ぜぃぜぃと音を立てながら呼吸を整え、大きく息を吸ったところで、やはりまた荘子のことが頭をよぎる。
練習後はいつもこうだ。約束事のように、私はハッと荘子を思い出す。
よく焼けた肌には不釣合いとも言える聡明な顔立ち。彼女とは一番気が合った。
その外見とは逆に、実はどこか抜けていて、全裸にキャップだけをつけてサウナに入ってきたり、
上下ちぐはぐなウェアー持ってきちゃった!と大騒ぎしたりする彼女は、大いに私達を笑わせたものだ。
活発という言葉が人の形をしたら、きっとこんな風なのだろうと思っていた。
みんな彼女が大好きだった。それは今もずっと、何も変わることがない。
たったひとつを除いては何も。
「リカ、私ね、何だかずっと悪い夢を見続けてる気分なんだ」
荘子は私にそう言った。
「でも命が助かったんだから」
私は荘子にそう言えなかった。
彼女がずっと目指してきたものの重さを、「命」と天秤にかけてしまうのは
あまりにも他人事感覚のずるい慰めになってしまう様に思えたからだ。
荘子にとって、水泳を失うということは、愛する者を失うに等しい痛みだと思った。
悪い夢。確かにそうだ。
私も内心そうだと思い込んでいた。
しかし、夢から目を覚ますたびに、水中から顔を上げるたびに、
使われなくなったロッカーを見るたびに、これは現実なのだと思い知らされるのだ。
荘子の絶望を思うと、本当に恐ろしくて仕方なかった。
あの青い夜明けに彼女の心が閉じ込められているような気分だった。
現実的でない現実とは、何てオカルトじみた恐怖なのだろう。
悪夢が現実を食い殺してしまうことは本当にないのだろうか、
荘子という存在がある日突然、幻のように消滅してしまうんじゃないだろうか、と
私は当時、本当にそう思っていたものだ。
荘子に会ったのは、去年の大晦日が最後だ。
自宅のベッドに座り、いつもと変わらない様子で彼女は言った。
「リカ、私ずっと思ってたんだ。たとえ前みたいに水泳が出来なくても
生きてればきっと他にもいい事あるんじゃないかって。本当に私そう思ってた。
でも駄目だ。騙し騙しの希望は決して私の生きがいの代わりにはならないの。
水泳と一緒。原因には結果があるだけ。ただ最低の結果だったわけだけどね。」
私はただ頷いていた。
何故だか全てが、たまらなく悲しかった。
「だから私、やめないよ、水泳。この体で出来るところまで頑張ってみるよ。
簡単なことじゃないだろうけど、多分それ以外に自分を納得させる手段なんてないから」
そしてまるで子供に言い聞かせるように、最後に荘子はこう言った。
「リカ、もうここには来ないで」
私はシャワーを浴びながら様々な場面を思い出していた。
それは以前のように私を怖がらせるような冷たい記憶ではなく、
春の雨のようにじわりと心に染み入るような、ぬくい湿気を含んだ思いだった。
「荘子も来月には大会に出場するそうだ」というコーチからの思いがけない報告は、
荘子同様、大会間近の私達を大いに活気づけ、そして力づけるものだったが
それは「良かった」などと喜ばれる単純な代物ではないことを、私は知っている。
青い夜明けは孤独だけの色ではない。
それを見る人間の内側を正直に映し出す、鏡の様なものなのだ。
深い深い絶望の青色にさえ、水中への憧憬を見た荘子は、
きっとそのことに誰よりも早く気付いていたに違いない。
洗剤の匂いがするバスタオルで私は自分の体を包み、背中まで強く抱きしめる。
自分は自分でしかない。私の人生の代わりなど、誰も出来はしないのだ。
ただの復活劇ではない。そしてただの小さな大会のひとつでもない。
これは足を失くしたスイマーが、三年目にして勝ち取った、
新たな人生へのスタートダイブなのである。
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※第6回雑文祭、お題----
・題名は「三年」で始まること(例: 三年目の浮気)
・「口から飛び出す」「内心そうだと思い込んでいた」「大会」を、この順序で雑文中に含めること。
・順序を守る。たとえば「内心そうだと思い込んでいた」よりも前に「大会」を使ってはならない。
・お題はそのまま使うこと。漢字をひらいたり、語尾を変えたりするのは不可。
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