1968年 製作:アエトス・フィルム
原案・脚本・監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:ジュゼッペ・ルッツォリーニ
音楽:エンニオ・モリコーネ
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト「レクイエム・ニ短調」K.626
デッド・カーセン「アルト・サックスの詩」
出演:テレンス・スタンプ シルヴァーナ・マンガノ ラウラ・ベッティ
 アンヌ・ヴィアゼムスキー ニネット・ダヴォリ
上映時間:98分


ス ト ー リ ー

 ある工場経営者の家に「明日着く」という電報が舞い込む。翌日一人の男が一家 の前に姿を現わす。家族は何の迷いもなくその男を受け入れ、その男との共同生 活が始まる。
 気が付くと家族の者全員が男に魅了されている。皆、男の側に近づこうとする。 そんな時、突然再び電報が着き、男は家族の前から立ち去る。
 残された家族は奇妙な行動を取り始める。娘のオデッタは全身硬直してしまい、 病院に担ぎ込まれる。長男のピエトロは抽象画に没頭。女中のエミーリアは実家 に戻り、ある場所で断食生活を始める。妻のルチアは男あさり。そして主のパオ ロは工場を従業員に与え、駅の中で全裸になり、荒野を咆哮するのだった。


得体の知れない曖昧さと破壊の衝動

 この映画を初めて見た当時というのは、丁度"家族"について様々な思いを巡ら せていた時だった。今手元にある訳ではないので、自分の記憶の中だけで語るの だが、その頃の『月刊シナリオ』誌において脚本家の荒井晴彦氏が、確か『ウホ ッホ探検隊』と『危険な情事』を比較して、家族は外から壊れるものではなく、 内から壊れていくものだと述べていたことがあったように思う。自分はその言葉 に共鳴し、家族が崩壊していく時は第三者が破壊していくのではなく、自分達自 らが破壊を招いていくのではないかと考えた。
 荒井氏はあまり買ってなかったようだけども、『家族ゲーム』がブレイクした のはこの少し前のことだ。この映画の家族は一般的には平々凡々とした家族のよ うで、その実互いの気持ちはバラバラ。張り合いのないやる気のなさが蔓延して いる。ラストには夕食での大乱闘騒ぎ。このシーンは一言では語りきれないと思 うが、人はあまり関心のない人間と長い時間一緒にいると不快になってくる。こ の乱闘騒ぎはそういったものが爆発したようで、大変痛快なシーンであった。そ の他にも映画全体に共感する所が多く、森田監督のセンスにも脱帽した。
 この映画の家族のように、家族が互いに共通項を持たなくなり、関心がなくな っていく所から徐々に家族の崩壊は始まっていくのではないか。決して外部の人 間が暴力などでもって無理矢理に家族を破滅に導くものではない、などとぼんや り考えていた時に『テオレマ』という映画と出会った。
 あるブルジョワの家に突然「明日、来訪する」という一通の電報が舞い込んで きて、翌日テレンス・スタンプ扮する男がやって来る。この男は名前もこの家の 家族とどういう関係があるのかも全く説明されない。謎の男なのに、家族はそれ が当然とばかりに自分達の家に招き入れる。そのあまりの自然さに自分はこの映 画にスッと入っていった。
 ニネット・ダヴァリ扮する郵便屋が再び電報を運び、彼がこの家から去ってい った時、家族は崩壊を始める。家族の誰もがあの謎の男なしではいられなくなっ たのである。家族は何かに目覚めたかの如く、バラバラの目的を追うようになる。 それは皆、あの男によって与えられた目的。
 男は家族崩壊の為の一つのキッカケであり、どんなものでもいいように思えた。 家族という集合体が結局見せかけだけのものということを証明する為の一つの道 具、あるいはシンボルのようなもの。従って名前も素性も明かす必要はない。し いて言えば小悪魔みたいなもの。
 家族の隙間をついて小悪魔が侵入し、見せかけの彼等の生活を根底からくつが えし、彼等に何かに目覚めた如くバラバラの目的を与え(しかしそれこそが逆に 見せかけだったり、単なる幻想だったりする)、散々彼等の心をかき回した後、 突然立ち去る。そして男が立ち去った後、家族が見つめ出したのは個の存在であ り、彼等はその追求を行ったが故に家族崩壊を招いた。
 この映画では小悪魔のちょっとしたいたずら心から起こったことかもしれない が、本来家族とは個の集合体であり、家族の一人一人が個に固執したり、あるい は個に帰った時、家族崩壊は起こる。つまり家族とはやはり内から壊れていくも のなのダ……と初見の時はそのような捉え方をして満足していた。しかし二度三 度観る機会に触れその思いは払拭されていく。
 男が立ち去った後、家族は個々の目的を与えられたのではなく、男そのものが 目的になるのダ。皆、男の影を追いかけている。彼等の思いの丈を見ると、男の 存在は家庭崩壊のキッカケとは単純に言えるシロモノではにないように思える。 家族崩壊は一つの結果であって、何か別なものが表されているようにしか見えな い。
 これは違う。単純に家族崩壊という枠の中に収まるものではない、と超焦った 時、パゾリーニがこの映画について語った言葉が目に入った。
 「神性をおびた訪問者とブルジョワ一家の人々の愛は静かだがとても美しい」
 してやられたり。パゾリーニはやはり詩人だったのダ。
 この映画の中で描かれているもの、男と家族の生活から始まり、娘の硬着も息 子の絵画への固執も、妻の男あさりも家政婦の空中浮遊も、そして荒野で咆哮す る夫の姿も、それらが自分に強く訴えかけてきたものは、家族崩壊の姿というだ けでなく、パゾリーニが美しいと感じた感性――。それらがモノクロからカラー に変わった瞬間、あたかも記号の如く映画全体に満ち溢れている――。
 そう感じた時、自分の浅はかな考察はすべて泡と消え、この映画の素晴らしさ に改めて触れたような気がした。そしてこの映画の中に随所に組み込まれている 記号を解くのではなく、感じていくべきだと痛感し、さらにこの映画の持つ得体 の知れない曖昧さ、そして静かな場面の続く展開とは裏腹に秘められた破壊の衝 動、それらが怒涛の如く自分に迫ってきたのだった。
 (ところで自分の家族崩壊に対する思いは『テオレマ』初見の後しばらくして、 押井守のOVA『御先祖様万万歳!』で大ブレイクした)



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