1975年 製作:P.E.A.プロドゥツィオーニ・エウロペエ・アッソチャーテ
レ・プロデクシオン・アルティスト・アソシエ
原作:ドナティアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド「ソドムの120日」
原案・脚本・監督:ビエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:トニーノ・デッリ・コッリ
音楽監修:エンリオ・モリコーネ
出演:パオロ・ボナチェッリ ジョルジョ・カタルディ ウベルト・パオロ・クィンタヴァレ
アルド・ヴァッレッティ カテリーナ・ボラット エルサ・デ・ジョルジ エレーヌ・シュルジェール
   上映時間:116分


ス ト ー リ ー

 ナチ占領下の北イタリア。かの地の権力者である四人の有力者達は村々から連行 した少年・少女達を吟味して狂宴の館へと運び入れた。
 彼等の教育係である三人の夫人達が順に猥談を披露する。それをきっかけに四人 の人知を超えた背徳的な仕打ちが始まる。
 ヴァッカーリ夫人が幼少時代、神父によっていたずらされた話を語ると欲情した 四人は思うがままに奴隷の若者を連れ、別室で自らの快楽の捌け口にした。
 マッジ夫人がスカトロジーの話を語り出すと、泣き崩れている少女に有力者の一 人が自らの排便を無理矢理食べさせた。その日の食卓には娘達のおまるから掻き 集められた便が並べられた。
 カステッリ夫人が、拷問が趣味の男の話を切り出すと、館の決まりを破った「罪 人」全てを引っ張り出し、飽くことなき拷問地獄へ陥れるのだった‥‥。


レアルタとの最後の対峙

 自分は『豚小屋』評で第二エピソードはブルジョワの抱えるあまりの問題の下 らなさにパゾリーニは閉口しているのではないかと書いた。だからあえて豚との 獣姦シーンは描かなかった、あるいは描く必要など全くないと考えたのではない か、と捉えた。
 『ソドムの市』は『豚小屋』で、その問題の下らなさゆえ描かれなかったシー ンを、パゾリーニ的スペクタクルでもって大々的に拡大して挑んだ作品ではない か―と思うのである。
 何故パゾリーニはそのようなモチーフを選んで撮ったのであろうか。『ソドム の市』の前に創られた「生の三部作」では性の解放を描き、人間賛歌とでも言う べき生に対する愛着と喜びに満ちあふれていたというのに―。
 『アッカトーネ』評でも書いたが、パゾリーニが求めていたものは本来あるべ き人間の姿だったと自分は思っている。母親の宗教性の延長として、純粋に無垢 で自然なものを求めるよう心の深層に埋め込まれた彼があるがままの人間性を求 めた時、ラガッツィ・ディ・ヴィータと呼ばれたローマのスラム街の不良少年達 と出会い、彼等の魅力に魅かれた。
 パゾリーニは詩人としてマイナー言語にこだわっている。母親の故郷フリウリ の方言で書かれた詩集で詩人としてデビューし、イタリア語の諸方言でまとめら れた詩集の編者も務めている。パゾリーニの求めたマイナー言語は国家などの制 度に縛られないその土地特有の言語である。ましてラガッツィ・ディ・ヴィータ の不良少年達が使うスラングなどは日々変化し続ける生きた言語である。そんな 彼等の言語に詩人であったパゾリーニが虜になるのは当然である。
 そしてこれは逆算で考えるしかないけども、不良少年達の生活が正に『アッカ トーネ』のような世界ならば、そこで描かれていたフランコ・チッティを始めと する彼等の生、あるいは肉体そのものに魅かれるのもまた当然と言える。パゾリ ーニが詩や小説で満足せず映画という媒体に足を踏み入れた理由も、その肉体の 魅力のさらなる追求という点もあったであろう。
 さらに『奇跡の丘』評を書いている時に気付くべきだったが、パゾリーニの描 き出した役者達の肉体、その彼等の風貌もまたマイナーであるということ。素朴 で、田舎臭く、少し野暮ったいと書いたが、フランコ・チッティのどこかフラン ケンかゴリラかを連想される顔立ち。パゾリーニ映画の中で天使の役回りを持っ ているニネット・ダヴォリも無垢で天真爛漫さを感じさせるもののどこか垢抜け ない。『マンマ・ローマ』のエットレ・ガローフォロ、あのつぶれた鼻さえなけ ればとっても可愛いと思うのだが‥‥。皆、完全に崩れている訳ではないが、正 直整っているとは言い難く、映画スターという存在からは程遠い。
 正にマイナーである。『奇跡の丘』でニネット・ダヴォリが荒野の中で幼子と たわむれるシーンを聖書の中にある無垢なイメージとパゾリーニの中にある無垢 なイメージの共演と書いたが、メジャーとマイナーの共演と言い換えることも出 来るのではないだろうか。
 そんな風にパゾリーニはマイナーな中に人間の生の輝きを見出そうとしていた。 そしてあるべき人間の姿というものを考えた時、切り離せない問題であろう"性" という対象に対し、パゾリーニは「生の三部作」で、自ら描き続けてきたマイナ ーを通して見事に生の輝きを放った。(『デカメロン』においてはフィレンツェ の男女の語りという原作の設定を取払い、全編をナポリ方言で通している。その 言語の放つマイナーな味は私達日本人にはなかなか味わいきれないものであろう)  そこで描かれているのはイタリアが国家統一性を持つ以前の、産業以前の様々 な緒言語が話されていた輝しき農村の世界であり、『奇跡の丘』同様パゾリーニ が求めていたユートピア的世界であろう。
 だが「生の三部作」はそんなパゾリーニのユートピア的世界の表象であると共 に、イタリアの社会がもたらした様々な弊害に対する戦いの一環でもあった。そ れはパゾリーニが真のファシストと呼んだ消費社会という姿なき「権力」に対す る最後の砦でもあった。
 しかし彼は自分の真摯さ切実さが、権力によってうまく丸め込まれていると確 信し、「生の三部作」を撤回する。そして「《皆殺し》の後にテレビ放映される 私の『アッカトーネ』」というエッセイにおいて、絶望とも思える意を表わす。 彼はこの中で、ブルジョワ階級の少年達が起こした殺人事件と下層プロレタリア ートの少年達が起こした事件を挙げ、二つの事件は社会階層が異なるにもかかわ らず全く同じ犯罪であり、違うとすればブルジョワ少年達がプロレタリアート少 年達の規範・お手本になっていることだけである、と指摘している。
 つまりパゾリーニはもうアッカトーネ達は存在しないと確信するのだ。彼等に 代わって今いるのは、その替え玉で、この世で一番いまわしい連中であるとさえ 記す。それは彼がモチーフとしていたマイナーの消滅を意味する。
 パゾリーニがマイナーにこだわった理由として、マイナーを通してメジャーを 投影させるという意図があったはずである。谷昌親氏は『鏡像を毀すナルシス』 という著において、パゾリーニの文学論・映画論を説いたジル・ドゥルーズのガ タリとの共著『千のプラトー』に触れ、言語におけるパゾリーニの自由間接話法 の問題を取り上げている。
 それによれば「マイナー言語それ自体は存在しない」のであって、「スタンダ ードな言語のマイナー的な取り扱い、メジャー言語の生成=マイナー」であると いう。つまり「各人が方言、というかむしろ特有語としてのマイナー言語を見出 し、それを基に自身のメジャー言語をマイナーにしなければならない」のである。  これが映像に置き換えられればメジャーとマイナーは主観ショットと客観ショ ットということになるだろうか。だが「マイナー言語それ自体が存在しない」の であれば、主観と客観のどちらがメジャーでどちらがマイナーであったとしても、 主観ショット、客観ショットという捉え方自体がおかしくなる。単に性質の異な るショットとしてしか存在しないのである。
 「詩は(‥‥)ときとして根本的に異なるふたつの魂のあいだの衝突、伝染か ら生まれる」とパゾリーニは記しているらしいが、映像においてもまた同じこと が言えるのではないだろうか。それ故パゾリーニはモンタージュを映画の本質と して重要視していたとも言えるだろうし、シチュエーションにおいてもパゾリー ニの様々な映画で見られるふたつの異なるものの対比、『リコッタ』のモノクロ とカラーのシーンの対比(それは単にモノクロとカラーの違いというだけではな いはずである)、『奇跡の丘』のキャラクターの対比、『アポロンの地獄』の現 在と過去、時間の対比等々、異なるふたつの対象にこだわり続けたのではないだ ろうか。そしてそれは彼の世界の再構築であり、彼がこの現実世界へ、あるいは 生というものに捧げ続けた詩ではないのか‥‥。
 だがそんな風に彼が言語においても映像においても描き続けてきた世界は、消 費主義社会において急激に奪い取られていった。「レアルタ(事実、現実、実在) を通してレアルタに到達すること」を求めていたパゾリーニにとって、取るべき 手段は、もはや自らのユートピア世界を提示して当時の社会を挑発することでは なく(大体「三部作」のような映画を撮ろうと思っても、既にパゾリーニ自身が 肉体や生殖器に対して嫌悪を覚えるようになっていたので不可能だと記している。 それは「三部作」で描こうとした古代的で暗く生気あふれる激しさに満ちた生殖 器を備えた「無邪気な」肉体の存在が消滅してしまったと感じたからなのか、そ れともそのような肉体の存在があったとしても、根本的にパゾリーニ自身、肉体 や生殖器に嫌悪を覚えるようになっていたからなのかは定かでないが)、その受 け入れがたいレアルタと"適合"することであった。それが「いかなる現代人より も現代的に 兄たち、もはや存在しない兄たちを探しまくる」というパゾリーニ のいさぎよいとでも言うような問題への対峙だったのであろう。だがその時には 既に「兄たち」を探し出すことは不可能だということをパゾリーニは悟っていた のではないだろうか。
 その適合とは冒頭に述べたように『豚小屋』で意図的に描かれなかったと思わ れるシーン、つまり動物のように唯ひたすら欲望を追いかける人間の姿―いや、 人間であるが故にその欲望は動物以下であり、魑魅魍魎の姿―を描くことである。


 ネガが盗まれたということもあって、ラッシュ・フィルムから複製された画質 は非常に荒々しい。だがそれが浮世絵離れした『ソドムの市』の尋常でない世界 観を余計広げている。
 狂乱の宴は夫人達の甘い調べを持った語りから始まる。その夫人達の洗練され ないバタ臭い美しさ。そして夫人の語りに、大統領、最高判事、司教、公爵と称 した怪しげな男達のさらに発情を促す為のあざとい挑発。そして少しでも発情す れば、唐突に傍らの若者を掴みトイレに駆け込み、吐き捨てるかのように欲を満 たす。さらに夫人の話をエスカレートさせ、肥大した狂気の沙汰を若者達を使っ て実践する。それは映画が進行するに従って膨張していき、ついには糞尿地獄、 美尻コンテスト、拷問地獄等の映画史上、見るに耐えない大スペクタクル・シー ンの連続と化す。
 自分は最後の拷問地獄だけはどんなに目を背けるなと言われても、正視するこ とは出来ない。大統領達は屋敷の広場に設置された拷問場で若者達の皮を削ぎ、 目をえぐり取るなどの残虐行為を繰り広げるのだ。そしてそれを代わる代わる屋 敷の部屋から望遠鏡で覗く。傍らに警備の若者を寄せて。
 正に飽くことのない魑魅魍魎達の宴。だが何故か『ソドムの市』に他のどんな パゾリーニ映画よりも、パゾリーニの姿を感じのである。彼はあの怪しげな4人 の男達、特に風貌の点から言っても大統領の中に存在しているように見える。
 映画の中盤、使用人の黒人女と奴隷の若者との密会現場を大統領達が捉えたシ ーン。銃を向けた大統領達に奴隷の若者は拳を上げポーズを取り、己の肉体で抵 抗しようとする。一瞬大統領達はひるむが、すぐにありったけの弾を若者に撃ち 込む。その弾には、パゾリーニがこの世で一番いまわしい存在と感じるものへの 深い憎しみがこもっているようにも感じた。そんな点からも生のパゾリーニを感 じ取ってしまうのかもしれない。
 レアルタとの適合を果たしたパゾリーニ。しかしそれは彼にとってどんな状態 を示していたのだろうか。大統領達4人は権力の象徴であり、消費主義社会の象 徴でもある。パゾリーニは消費主義社会を真のファシストと呼んだ。かつてファ シズムは人々から個を奪い取り、一つの価値観で社会をまとめようとしていた。 消費主義社会は表面上ファシズムとは全く縁のない社会のように見えるが、若者 の心の奥に触れ、様々なモデルを与え、彼等独自の文化を奪い取った。その意味 ではファシズムと同じ性質のものであり、文化においてはファシズムが成しえな かった独裁性を作り上げることに成功している。
 パゾリーニにとってそのレアルタ―真のファシズムと適合するということは、 彼が最も憎むべき父親との同化を意味していないだろうか。ファシズムであった 父、レイピストとしてパゾリーニの脳裏に植え付けられていた父。パゾリーニは 処女作『カザルサ詩集』を父に贈った。だがそれは父と背後の権力に対する宣戦 布告の意ではなかったか。
 この映画には、もはや生に対する"絶望"しかないのだろうか。あれだけ人間の 生を熱く歌い上げてきたパゾリーニが、詩人としてそのことを放棄するようなマ ネをするだろうか。
 自分が初めて『ソドムの市』を体験した際、無理矢理ひねり出した第一印象は、 生の三部作で人々の性に取り組みその賛歌を歌い上げたパゾリーニが、今度は自 分の中に眠る性と対峙したのではないかというものだった。同性愛者でもあった パゾリーニゆえその抱える性という問題も一筋縄ではいかないはずである。
 しかし人は誰でも心の奥底にSM的要素を秘めているとよく言われる。だから パゾリーニがこの映画で取り込んだ問題は、人々の中においてもまた深層心理で 存在するものではなかろうか。だからこそ人々は『ソドムの市』を、しいてはパ ゾリーニを完全に無視することは出来ない。
 思えばパゾリーニは処女作『アッカトーネ』から人々の見たくないものを描い てきた。『アッカトーネ』は、ネオリアリズモの欠如した部分を描き出した。し かし時代は高度経済成長の始まりであり、『アッカトーネ』の世界は既に通りす ぎたもの、見たくないものとして捉えられた。だがそれがレアルタなのであり、 パゾリーニは人々が見たくないレアルタの中にこそ本当の人間の生の輝きがある とした。
 『アッカトーネ』は社会からつまはじきされた存在を描いたが、『ソドムの市』 はアッカトーネ達をつまはじきにした社会全体を描いている。その異常な狂気の 徹底さに目を背けずに見えてくるものはないだろうか。あの飽くことなく繰り返 される地獄絵をくぐり抜けた時、初めて見えてくるものはないだろうか。
 ‥‥自分は生の再生を試みているのではないかと思うのである。パゾリーニが 愛して止むことなかったあの世界、生の輝き‥‥。
 彼は二つの異なる魂から世界の再構築を謀る。一つの世界を通してまた違う別 の世界を浮かび上がらせる。『ソドムの市』の徹底した地獄絵は、人間本来の生 を再び強く光り輝かせる為のものだったのではないだろうか‥‥。
 だが‥‥彼の消費主義社会への憎しみは自分のそんな甘い思惟を遥かに超えた ものだ。
 劇中、大統領達は警備の若者に対しては奴隷の若者達とは違い、信頼を置いて いるフシがあった。パゾリーニは学生運動で学生と機動隊が衝突した際に、真の プロレタリアートは機動隊だと論陣を張ったことがあった。だからもしかしたら その機動隊の若者を警備の若者に重ねあわているのではないかと考えたりもした。
 しかしそうではないのである。どちらかと言えば警備の若者は学生達に重ね合 わさる。ブルジョワの子弟である学生、ファシストの手先である警備の若者。彼 等は大統領達に交わって、あの狂乱の宴を何の抵抗もなく楽しんでいるではない か。
 そして映画のラスト、彼等はパゾリーニ自身が極めつけのファシスト音楽だと 言っていたカール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』の甘い調べの中、ダンスを 踊る。壁には機械・速度・ダイナミズムの美を掲げ、過去の文化遺産や伝統をこ とごとく否定したという未来派の画がかかっている。
 彼等の会話は相手の彼女の名前を聞くという貧弱なものでしかない。彼等はパ ゾリーニが『海賊評論』で例に挙げている均質化されてしまった若者でしかない のだ。彼等の貧しい会話が交わされた途端、映画は唐突に終わる‥‥。

 アメリカで起こった同時多発テロはパゾリーニの焦がれていた世界の終末を象 徴しているかのようだ。時代はもうそんな所まできている。
 そんな中、自分達は今消費主義社会の中でパゾリーニの作品を見ようと思えば いくらでも見れる。パゾリーニの残した生の輝きをもう一度見据える時ではない のか。そしてパゾリーニの死は、『ソドムの市』でついに再生に至らなかった人 の生の輝きを自分達に託したのではないか。その生の輝きはおそらくパゾリーニ の掲げたユートピア世界ではないであろう。しかしもう一度パゾリーニの残した 生の輝きを見据えて自分達のレアルタに向かうべきではないか。
 目を背けることなく‥‥。



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