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「デカメロン」 Il Decameron 1971年 監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ 製作:フランコ・ロッセリーニ 原作:ジョバンニ・ボッカチオ 撮影:トニーノ・デッリ・コッリ 音楽協力:エンニオ・モリコーネ 出演:フランコ・チッティ ニネット・ダヴォリ シルヴァーナ・マンガノ 上映時間:110分 |
「カンタベリー物語」 I racconti di Canterbury 1972年 監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ 製作:アルベルト・グリマルディ 原作:ジョフリー・チョーサー 撮影:トニーノ・デッリ・コッリ 選曲協力:エンニオ・モリコーネ 出演:ヒュー・グリフィス ラウラ・ベッティ ジョセフィン・チャップリン 上映時間:110分 |
「アラビアンナイト」 Il fiore delle mille e una notte 1974年 監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ 製作:アルベルト・グリマルディ 原作:「千夜一物語」に基づく 撮影:ジョゼッペ・ルッツォリーニ 音楽:エンニオ・モリコーネ 出演:フランコ・メルリ イネス・ペッレグリーニ ニネット・ダヴォリ 上映時間:129分 |
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〇パゾリーニの性の意識 自分が『ソドムの市』評を書いていた時、恐らくは性に対する問題を無意識に避け ていたと思う。 何故避けていたのかと言えば、そういった方面で捉えていけば、SM嗜好のこだわ りやバブル時流行ったヘンタイムービー−つまり一種見世物的な側面でしか『ソドム の市』が見られないという実感がどこかにあったからであろう。 だけれども見世物としての側面もまたこの映画の魅力である。その魅力は酔うほど に、物質文化、消費文化に染まり切っていたバブル期の日本の姿と重なり合う。そん な一面こそパゾリーニの意図する所であったかもしれないし、それ以上にパゾリーニ のイタリアブルジョア階級に対する徹底した怒りであり、憎しみであったのかもしれ ない。 それでもなおかつ、この世界の見世物的魅力にやはり魅かれてしまうのだ。『ソド ムの市』のスペクタクルなSMワールドはこの先、おそらくもう二度とお目にかかれ ない規模であろうし、数あるヘンタイムービーの中でも群を抜いてトップクラスに入 るであろうことは間違いあるまい。 『ソドムの市』がそういったキワモノ的魅力にも溢れているのはやはりパゾリーニ の特異な性に対する意識を抜きにしては語れまい。だからどうしても、性の問題を曲 がりなりにも考える必要はあるのであろう。 だけれども性の問題というのは個人の意識差が絶対的にあって、そうたやすく語れ るものではあるまい。個人の性癖を他者が理解するのは非常に難しいし、自分の感覚 からすれば、どうあっても無理な事柄だとは思う。 無謀にもパゾリーニは『愛の集会』でそういった性の問題と真正面から向き合った。 しかし結果的には性に対する問題と接する困難さが大きく浮き彫りにされた形になっ たのではないだろう?いやそれ以前に何でこんなにしてまで性の問題を考えたいのか? という作者に対する率直な疑問の方がより大きくクローズアップされてくる。 『愛の集会』の前半部ではやけに性的倒錯とか性的異常といった言葉をインタビュ ーする一般人に投げかける。思っていたような返事が返ってこないと勝手なことに、 人々は性に対する一般概念を知らないようだなどと言う。 普通の人は性の一般概念なんて考えないし、まして性的倒錯とか、性的異常なんて それほど深く考えないのではないのか?思わず性的異常っていうのは、アンタのこと じゃないか、パゾリーニ!と突っ込みさえ入れたくなってしまう。 性を理論や理屈で捉えようとするのは、やはり特異な性を持ち合わせている人に現 れる傾向ではないのだろうか?極論していけばパゾリーニは自分の性癖を正当化する 為に『愛の集会』を創ったんじゃないかとそこまで思う。 だけれどもそういった行為は、自分の居場所を探す、あるいはアイデンディティー を求めるパゾリーニの一つの姿であるのかもしれない。 パゾリーニの魂はどの作品でもさまよい続ける。他の作品評でも触れたが、恐らく 幼年期の父親との決定的な魂の決別からそれは始まっているのであろう。そしてその 決別が始まった時に、異常性愛者としての目覚めが始まったと言われる。 母は父に犯されたという自意識から、父に憎悪をそして母には特別な強い愛情を抱 くようになったパゾリーニ。それが何故同性愛という性癖へと発展していったのか。 パゾリーニは母の宗教性に強く影響を受けた。彼女の宗教性は純粋に詩的で自然で あるとパゾリーニは述べているが、母のそういった視点の中で自分を生かし、あるべ き姿を常に意識していたに違いない。 そうしたパゾリーニの抱く母の宗教性と現実の世界が交錯したと思えるのは、パゾ リーニの死後、発刊された『愛しいひと』『不純行為』の二つの小説の舞台となった ヴェルスータの地であり、そこで出会った教え子である青年たちであろう。 その青年たちの姿はおそらくパゾリーニが母の宗教性からイメージした世界に限り なく近いものだったのではないか。素朴な田園風景、素朴な人々、その中でも特に素 朴な青年‥‥。その素朴さの中に純粋で無垢な聖なる輝きを見出していたのではなか ろうか。それはパゾリーニが求めたと言うよりも、母への忠誠心の延長から愛しい存 在へと発展していったのではないだろうか。 さらに弟のグイドの死がそんなパゾリーニの感情をより深いものへと高めていった のではないか。自分と同じ母の胎内より生まれし存在、ある意味自分の分身であり、 母の宗教性同様、母が愛しく感じていたもの。 母が反ファシズムということもあってか、パゾリーニ兄弟達もまた反ファシズムで あった。グイドは反ファシズムとしてパルチザンに参加したが、パゾリーニにはそれ が出来なかった。パゾリーニはグイドの中に、母が望む望まないはともかく、彼女の 意向に完全に沿うことの出来なかった自分と比較して嫉妬心のようなものを覚えてい たのかもしれない。 その弟が迎えた死−。 パゾリーニはヴェルスータの青年達の中にグイドの存在をも見ていたのかもしれな い。彼等を愛するということは、亡くなったグイドをも自分の中に包み込むことでは なかったろうか?それはパゾリーニより行動的なグイドが生前中では果たせなかった パゾリーニの兄としての想いであろうし、母の宗教性のことも含め、母が愛しいと感 じるものを自分の中に受容すること‥‥。だからヴェルスータでの日々は正しく目眩 にも似た理想と現実の交錯感だったに違いない。 そしてその交錯感の中には、あまりにも濃厚な肉感が漂う。 アウレリオ・グリマルディが撮った『パゾリーニ・スキャンダル』には海岸で青年 たちの肉体を艶かしく味わうパゾリーニの描写がある。その描写はあまりにも直接的 で正直引いてしまいたいほどだったが、だけれどもあんな視点がパゾリーニに全くな かったとは言い難い。その視点は『ソドムの市』のSMワールドにより近く、父が信 仰していたファシズムの征服感という体質を否応なく感じさせてくれる。そこには純 粋で無垢な母の宗教感といった姿は見られない。逆にレイピストとしての父の存在が 大きく姿を現すのである。 そういった矛盾を無限大に含む青年たちとの行為は、あまりにも得難い恍惚感と、 深い絶望感の混じり合った熱き生の営みであったに違いない。しかしその瞬間にこそ 彼は社会との接点を最も感じ、自分の本来あるべき場を見い出していたのではないか。 大いなる矛盾の中で、正しく点と言えるギリギリの接し方を求めること。それがパ ゾリーニの創造の本質ではなかろうか。だからこそいくらパゾリーニが撤回宣言をし たと言っても『ソドムの市』と対をなす形で生の三部作は輝きを放つのである。 〇現代の中の“生の三部作” パゾリーニは様々なインタビューで、自分は明るい性格なのだということを結構強 調している。そんな彼の明るさやひょうきんな面というのは、彼の映画のあちこちで も見られる。 その決定的なものを狙ったのは何と言っても初期の『大きな鳥と小さな鳥』ではな いだろうかとも思えるが、オープニングのテロップで自ら告白しているように(それ も彼特有のジョークなのだろうが)、明らかに失敗したとしか自分には思えない。映 画作家としての円熟の度合いに欠けるというのか、イタリア社会のことを少しでも調 べればまだ味わえる部分というのもあるのかもしれないが、他の代表作などから比べ ると、圧倒的に迫ってくる世界観というものが希薄に感じるのである。 逆にそういった圧倒的世界観を持って『大きな鳥−』同様、あるいはそれ以上に彼 の陽気さを意識して創られたのが、生の三部作と言えるだろう。 パゾリーニは『愛の集会』で無謀にも性の問題に取り組み、性の解放を訴えた。そ れは人の持つ本来の姿へのこだわりであり、『テオレマ』のラスト、男の咆哮で一つ の形を描き出した。言ってみれば本能の目覚めであり、野性への回帰である。 だけれども生の三部作で描かれた人の本質は少し違った形で表される。人の可笑し さ、哀れさ、そういった感情の喜怒哀楽がそれまでの作品以上に豊かに表現されてい る。それはパゾリーニの創作の原点とも言うべきヴェルスータの地から始まる、パゾ リーニが安心して純粋に愛せるあらゆるものの解放だったのではないだろうかと思う のである。 とは言え、この三部作、現在の自分の感覚で見ると、物足りないというのか、掴み 所がないと言うのか、パゾリーニの全作品の中でもかなりウエイトの大きな位置を占 めているというのは理解出来ても、今一つ感覚的に入ってこないというのが正直な感 想である。 一つにはこの生の三部作に限らず、どんなオムニバス映画でも物足りなさを感じて しまう個人的な感覚からきているのだが、そうでなくてもこの三部作、個々の作品の 印象が薄く、どれも似通った印象しか残らないというのも理由の一つである。 例えば『デカメロン』で本来フィレンツェの方言であるべき言葉を、全てナポリの 方言に変えて作品の個性を創り上げている訳だが、我々日本人にはそんな言葉のニィ アンスなどはよっぽど注意して鑑賞しなければ味わえない訳で、どうしても一緒くた に捉えてしまう。 そしてもう一つにはやはりパゾリーニのこだわった陽気さ、笑いの質の問題であろ う。 イタリアの喜劇映画というのは、自分には全く不毛な分野であって語るべき術を持 ち合わせないのだけれども、では一般的なイタリア映画の中での笑いはどうかという と、正直コテコテである。くどくってバタ臭くって、慣れるまで非常に時間がかかる。 衝撃的だったのが『ロゴパグ』のロッセリーニが監督した話である。コテコテの連 続もいい所で、さらにセットの置物などに書き割りを切って使っているなどというの も、これも笑いの一つかと見間違うようなおかしさであった(未見だが、ロベルト・ ベニーニの『ピノッキオ』などはこうしたイタリアの伝統的コテコテの中で創り出さ れたものじゃないのだろうか)。 生の三部作がDVDで発売された時、キネマ旬報の作品評にはTVのお笑い番組の ようだと書かれていたが、正しくそんな感じなのだ。だからかなり割り切って観ない と正直鑑賞に耐えられないという部分もある。 唯、今回DVDで鑑賞した時ふと、コレって現代人の性の在り方と実は非常に似通 っているのではないかとは思った。 巷にはあらゆる性のトラブルが蔓延している。テレビではそういったトラブルが日 常茶飯時に持ち上がる。性のトラブルは、生の三部作でも描かれているが、性そのも のだけでなく、時には金銭が絡み、それを巡っての詐欺、窃盗、殺人などの犯罪をも 引き起こす場合もある。それらのトラブルは本人達にとっては深刻な問題ではあるが、 傍から見れば、非常に滑稽に見れる場合も多い。性、あるいは生を巡ってのドタバタ 騒ぎは過去、現在に限らず人の根元的な問題であろう。 だからこの生の三部作は『アポロンの地獄』のように現代へとジャンピング出来る 普遍的な作品ではないのかと想像を巡らせたりもするのだ。だけれどももしパゾリー ニが生きていたら、この現代の性の状況をどう捉えるだろうか?一見、乱れに乱れて いるように見える現代の性。その中にパゾリーニが目指した性の解放は見えてくるの だろうか?再び生の三部作は撤回され『ソドムの市』になってしまうのだろうか?い やそれ以前に現代の性には沈黙し、再び人の本質を求めて新たな世界へと旅立つのだ ろうか? そうではなく、現在あるこの三部作自体が映画を観る人の中にジャンピングし、そ の人の中で同期されるべきなのだ。そして生を巡ってドタバタしながら、背後でこの 映画に自ら出演したパゾリーニのまなざしを感じるべきではないのだろうか?庶民の 中に共に営み、陽気に振舞うパゾリーニの中にあるまなざしを‥‥と思うのだ。 パゾリーニが三作続けて、似たようなスタイルをとり続けたということは、やはり パゾリーニ自身のこういった世界への愛しさであり親しみであり、性−そして生に対 する深い慈しみであろう。『ソドムの市』の裏側にはいつでもパゾリーニの生の謳歌 とでも言うべきまなざしが込められているのである。 |
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