2001年 バンダイ・ビジョアル、メディア・ファクトリー、電通、日本ヘラルド映画
監督:押井守
脚本:伊藤和典
音楽:川井憲次
撮影監督:グシェゴシ・ケンジェルスキ
美術:バルバラ・ノバク
ビジョアルエフェクト・スーパーバイザー:古賀信明
デジタル・アートディレクター:林 弘幸
出演:マウゴジャータ・フォレムニック、ヴァディスワフ・コヴァルスキ、
イエジ・グデイコ、ダリュシュ・ビスクブスキ



 ■ストーリー

 「アヴァロン」と呼ばれる非合法の仮想戦闘ゲームの中で繰り広げられる、多く の殺戮と自らの死によって、若者達が現実に生きる為の刺激を得ていた時代―。 孤高の女戦士アッシュはアヴァロンの中でもずば抜けたソロプレイヤーであり、 ゲームに参加する誰もが彼女に一目を置いていた。
 ある日、ゲームの中でアッシュと同じ戦法を取り、彼女を挑発する男が現れる。 アッシュは男を検索するが、彼のデータはどこにも見当たらない。
 アッシュの日常は自分のアパートとゲーム場を行き来するだけの単調なもので、 唯一の心の憩いはアパートの中で飼っている犬だけであった。
 そんなアッシュの許にかつて共に"ウィザード"というパーティーのメンバーだっ たスタンナが現れる。彼はロストして廃人同様になったウィザードのチーム・リ ーダー、マーフィーのことを知らせる。マーフィーはアヴァロンの中の幻のフィ ールド、スベシャルAを目指してロストしてしまったのだ。
 変わり果てたマーフィーの姿を見たアッシュはスペシャルAについての情報を検 索する。だが"九姉妹"というキーワード以外は、これと言った情報は得られずに 終わる。
 そんな折、突然飼い犬の姿が消えてしまう。そして再び現れたスタンナはスペシ ャルAの情報を運んでくる。それによるとレベルの高い司祭の資格を持った者を 含めたパーティーがスペシャルAへの条件らしい。
 アッシュは自分を挑発していた男を思い出す。彼もまたレベルの高い司祭であっ た……。



―アニメや実写の枠を越えた無限大の可能性―

 ○映像表現の差異

 『ケルベロス』のクライマックスである銃撃戦の1シーン。ケルベロス狩りの 男達が放った銃弾をプロテクト・ギアはモロに受ける。膝を屈め、腕の装甲部を 突き出しその猛攻にじっと耐えるプロテクト・ギア。やがて敵の弾が切れ、攻撃 が止む。だがプロテクト・ギアは微動だにしない。
 その"間"―。
 これはもう抜群の間の取り方である。しびれるほどのキレと贅沢さ―。
 しかし―決まっていない。間の取り方は決まっているのに、キメになりきれ ていない。『紅い眼鏡』から始まる押井守の実写にはいつもそんなアンバランス 感が付きまとっていた。
 確かに『機動警察パトレイバー THE MOVIE』で、松井刑事が荒廃感漂う街を 訪ねまわるシーンを見て、いつの間にかこの映画がアニメということを忘れ、実 写の映画という錯覚に陥ってしまう。その心地よさ故、押井守の実写を見てみた いという欲求にはかられる。だが実際に撮られた押井守の実写からは、アニメの 時のような心地よさは得られない。そのことを『ケルベロス』はいやというほど 教えてくれる。
 『パトレイバー−』を彷彿させる台湾の街並や田舎を捉えるショット、犬の主 観のようなショット、その他アングルの捉え方や、一つ一つの細かいショットに 至るまで、正直好きなショットばかりなのだが、だからこそ何故決まらないんだ、 アニメとどこが違うんだという思いは強かった。
 アニメと実写の決定的な違いと言えば、アニメはどんなに実物にに似せたとし ても、画にされた段階で、現実をデフォルメしているということであろう。実写 とて実物をカメラに捉えた段階で、現実をある種歪めた虚像空間と化す訳だが、 それを一般に意識する人はほとんどいない。人を写せば人、建物を写せば建物と、 唯それを認識するだけで、特別なものでなければあまり感情は持たれない。
 一方アニメは、不思議なもので現実のものをリアルに描けば描くほど、懐かし さが生まれてくるらしい。宮崎駿が雑誌のインタビューでこう語っている。
 「『耳をすませば』のときに、僕らが見慣れている新建材の家を愛情こめてき ちんと描いたら、みんな懐かしくなるってわかったんです。特別なんでもない風 景が懐かしくなる」
 これは『パトレイバー−』でも同じようなことが言えたのかもしれない。現実 世界のリアルなデォルメ化が生み出す感触なのだろうか。とにかくアニメと実写 ではそんな何気ない所で既に印象が違うのである。
 実写の場合にはデフォルメというよりも、加工された効果が必要であろう。冒 頭に上げた『ケルベロス』のシーンにはこの効果が不足している。微動だにしな いプロテクト・ギアに硝煙が流れていく、その量が絶対的に少ない。プロテクト ・ギアが見えなくなるほど立ち込め、その流れ方さえも演出しなければ、キメた 間に見合う画になりえなかったのではないだろうか。結局、画の迫力不足であり、 実写の映画として加工されたものの不足である。
 だがそれは日本映画の弱体化が問題だったと断言出来る。すぐれたイメージを 映像化出来ない日本映画の製作体制が問題だったのである。
 だから、押井守の実写は『ケルベロス』で終わると思っていた。実写では『ケ ルベロス』以上の可能性は見えなかったのである。ところが押井守は懲りずにア ニメ・スタジオを舞台とした『トーキング・ヘッド』を撮る。詳細は解らないが、 『ケルベロス』とは比較にならないような規模の小さい映画である。しかし押井 守が実写を撮るならば、この規模で撮るのが正解だと感じた。『トーキング・ヘ ッド』はそれまでの実写作品の中では、一番垢抜けして、実写としての演出も無 理を感じない作品であった。
 『攻殻機動隊』の後、『G.R.M.』 という企画が発表される。これはアニメ ーションの方法論で実写映画を撮るという企画であったが、つい最近まで自分は この企画を、限りなく実写に近いCGアニメだと思っていた。日本のアニメやゲ ームなどによるCGの技術は世界市場において計り知れない可能性を秘めている。 だからわざわざ実写に頼らず、CGによって擬似実写世界を創ってしまえばいい。 押井守がそれまでの実写で描き切れなかった世界が、このプロジェクトなら開け るのではないかと勝手に思っていた。
 しかし特別マニアではなかった自分の許には、その後の『G.R.M.』の情報は 全く入ってこないまま、突然公開間際の『アヴァロン』の存在を知った。(その 直前には『人狼』の存在があった訳だが)
 今回、押井守は撮影の場をポーランドに持っていった。役者もまたすべてポー ランド人である。彼は以前から日本ではSFは無理だと語ってきた。それは日本 映画界の製作体制のこともあったろうし、それ以前の問題として日本人の風貌が ハードSFの世界に馴染まないということもあったのだろう。
 風貌が問題なのであれば、西洋人の風貌は、我々日本人から見れば、アニメと 同じように一種デフォルメされたものである。デフォルメされたものならば、ア ニメ同様、異世界の空間に入りやすい。
 自分の感覚で言えば、日本人によるハードSFは無理だとは思わないが、根っ からのSFマニアに取っては、風貌以前に日本人の感覚による実写のSFに、ど こか焦点のズレのようなものを感じるのかもしれない。
 そんなSFワールドへのこだわりと、さらにそれまでの作品の蓄積として、デ ジタルという武器を押井守は持ってきた。そうしてスクリーンの前に登場した『 アヴァロン』は、それまでの実写三作とは比較にならないほどの豊穣なイメージ の映像が展開されていくのである。


 ○地獄の釜の中身

 冒頭、野原に実物の戦車の編隊が現れ走行してくる。『紅い眼鏡』を彷彿させ る、限りなくモノクロに近い色調。押井守のタツノコ時代の師匠格である鳥海永 行の『エリア88』の冒頭シーンを実写で再現したかのように、カメラは一台の 走行する戦車を俯瞰から舐めるように撮り上げる。この感動と言ったらたまらな い。押井守の手がけた作品(映画に限らずマンガの原作等も)には戦車が非常に 印象的に登場する。それまでは絵の中でしか描かれていなかった戦車がついに本 物の戦車として登場したのだ。マニアには堪えられないシーンである。
 その戦車の編隊が爆破され、爆炎が上がる―とストップモーション。カメラは そのストップモーションになった爆炎を回り込む。すると爆炎は二次元化してい て、平面になっている。この間―。これこそ『ケルベロス』で描き切れなかった 押井演出、キメの間である。
 そして主人公アッシュの登場。このアッシュのキャラクターは 『攻殻機動隊』 の草薙素子をイメージしてキャスティングされたそうだが、正に草薙素子が二次 元世界から飛び出したかのようなイメージピッタリの女優である。マネキンのよ うな見開いた瞳、見事なまでの無表情さ。だがその無表情さの奥に秘めた様々な 葛藤。
 彼女の登場と共にシーンは市街戦へと突入し、『攻殻機動隊』のクライマック スを実写で再現したかのように、彼女は戦車の上に乗り移る。このシーン全体に デジタル加工が加えられているのは勿論だろうが、走るアッシュのショットや、 その他様々な彼女の動きにもブレのある加工が施されている。しかしハッキリ言 えば、もし加工が施されていなかったら、いかに西洋人によるキャストであろう と『ケルベロス』の二の舞であったであろう。
 押井守の画のつくりを見て思うことは、誤魔化しの効かない画が多いというこ とである。それ故たまに飛び出すギャグは逆に効果絶大になるし、『攻殻機動隊』 では、絵でありながら草薙素子の肉体というものを感じずにはいられなかった。 だから実写になれば当然前述の如く、効果の充分でない画は目も当てられないぐ らいはずすし、根本的に地に演技力のある役者を使っている訳ではないので、役 者そのものが映画の魅力を落としてしまう。
 アッシュを演じたマウゴジャータ・フォレムニックのキャラクターは確かに押 井ワールドにふさわしい女優だと思うが、やはり動き出すとその魅力に影をさす。 これがゲーム、アヴァロンで名を成している孤高の女戦士の動きであろうか?  その走りを見ただけでもあまり戦場にふさわしい戦士の走りとは思えない。比較 が妥当ではないかもしれないが、異世界の女戦士ということであれば、『ゼイラ ム』の森山祐子のがんばりはすごかった。どこかぎこちなさを感じながらも、彼 女のアクションへの熱が伝わってきた。だが押井守はそういったものを一切否定 しているはずである。役者の熱とか精神論とかいったものに、彼の視点からでは 展望が開けないからであろう。しかしそれだと自分の画に役者をはめ込んでいる だけしかない。押井守の実写が弾き切れないのはそういった彼の視点へのこだわ りもある。
 押井守の画が肉体の魅力を存分に引き出すつくりなら、実写においてはその画 のつくりにふさわしい肉体が用意されなければならない。いかにその世界にふさ わしい舞台が整っていようと、そこで演じる役者が不充分ならば、世界は完成さ れない。
 何故『ケルベロス』は日本ではなく、台湾で撮られたか? 話がそういう舞台 を必要としたということもあるのだろうが、日本では実銃の使用が許されないか らである。つまり日本ではマズル・スマッシュが撮れない。これでは本物の銃の 迫力は出せない。それと同じ理由で肉体もまた映画にふさわしい、本物の、とい うべきか、そのような肉体が必要なはずである。
 この映画はその肉体の不充分さをデジタル加工によって、うまく誤魔化してい る。しかしこれは単純に誤魔化しとは言いたくない。肉体の不充分さをフォロー する為のデジタル加工ではなく、元々の押井守の演出技法なのだと。結果として 肉体の不充分さが残ってしまっただけなのだと。
 実際このシーンは肉体の魅力云々という以上に押井守が模索し続けていた実写 と二次元世界との融合に圧倒される。実写を撮り続ける監督からはこのような画 のつくりは到底無理であろう。安易な妥協による演出ではなく、頑なまでに描き 続けてきた彼の実写演出の進化である。
 そして戦闘の後、廃虚の残骸に佇むビショップに流れる爆炎。あぁこの煙が 『ケルベロス』の時にあったなら―。
 そんな風に『アヴァロン』はそれまでの実写で未消化であった押井ワールドを あらゆる点で昇華させてくれる。
 アッシュの乗る路面電車、そしてその路面電車の走る風景は、高度経済成長期 の日本の姿のようである。『人狼』は思い切って昭和30年代に舞台を設定してし まった分、正直、プロテクト・ギアとの違和感があった(昭和30年代にあんなハ イテク強化服は無理だろうという観点から)。しかし『アヴァロン』のように舞 台を架空の街と設定してしまえば、舞台のあらゆるしがらみは消えてしまう。残 るのは各人が感じる思いのみである。そしてこの画こそが、『機動警察パトレイ バー THE MOVIE』以来、彼に求めていた街並の郷愁風景であり、心地よさであ る。
 押井守の作品に必ずと言っていいほど現れる食事のシーンは、今回は特に汚ら しく、生々しい。これもまた実写とアニメの感触の違いだろうか。おそらくあの シーンをアニメで撮っていたら、あれほどまで汚らしくは見えず、どこかご愛嬌 程度にしかとられないに違いない。
(だからこそアニメ・ファンは押井守の食事のシーンを面白いように受け入れた のではなかろうか? しかし初めから実写であったらどうだったであろうか? あんな生々しく汚らしい画をアニメ・ファンは受け付けたであろうか? 彼等に それほどの度胸があるだろうか?)
(余談だが、アッシュとスタンナが食事しながら会話をするシーンの舞台が『紅 い眼鏡』のような闇の立ち食いソバ屋だったらと思った。本物の蕎麦粉で作った ので無論金は張り、傍らで天本英世が七味を入れながらソバをすするというシチ ュエーションだったら面白かった‥‥かな? しかしポーランドに立ち食いソバ みたいな所はないであろう)
 この他にも、アッシュの淡々とした日常、スペシャルAの検索、無気味な塔の 描写、その中で群がる鳥等々、正に押井守がそれまでアニメで描いてきた世界が 次々と現れ、そして見事なまでに昇華している。
 クライマックスであるスペシャルAを目指す戦闘では、冒頭シーン同様、デジ タル加工と非凡な演出力で乗り切る。
 そこで現れるゴーストと呼ばれる少女‥‥。思えば押井守の作品には少女の姿 が気がつくと現れている。それは出世作である『ビューティフル・ドリーマー』 から始まっている。
 アッシュはゴーストを撃ち破り、ついにスペシャルAへの門が開かれる。見慣 れた自分の部屋から、ゲーム場を抜け、扉を開けると画面は加工のないカラーへ 変わり、現在、我々が生活している空間と同等のポーランドの街並が現れる。そ れが"リアル"と呼ばれるゲームのフィールドである。
 それまでデジタル加工されていた画面を見続けていた者にとって少々肩透かし の映像である。"リアル"とはそれまでの若者を現実から逃避させる為の刺激に満 ちあふれたフィールドではない、と言えるのかもしれないが、だが欲を言えば、 ここでも加工された映像が欲しかった。それは正に観客がそのスクリーンの中に 入ってしまったかのような錯覚を与えるバーチャルな効果。観客にとっても"リア ル"な空間。
 しかし現実に言えば、このシーンに相応しい効果の技術は現在の所、到底無理 な話である。音の効果はそれ相応のものは出来ようが、映像となると、せいぜい 3D画面くらいしかない。あるいは劇場版『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの中の一 本や、ダグラス・トランブルの『ブレイン・ストーム』のようにスクリーンのサ イズを変えると云った方法もあるが、その程度の効果では"リアル"のフィールド は安っぽく見えてしまったに違いない。
 ラスト、アッシュは"リアル"のクリア条件であるゲームの未帰還者を倒し、そ の彼女をゴーストである少女が再び待ち受ける。
 少女は微かにこちらを見上げながら無気味な微笑を浮かべる‥‥。
 この先、少女は押井守をどんな世界へ導き出そうとしているのだろうか? 地 獄の釜の蓋を開けてしまった押井守にはもう後戻りする術はない。そしてそれを うかつに覗いてしまった我々もまた後戻りすることは出来ないのである。アニメ や実写、CGなどという枠にとらわれない、今、最もエキサイティングで無限大 の可能性を秘めた映画を体験してしまったのだから。




押井守の実写作品
 
 1987 「紅い眼鏡」 出演:千葉繁、兵藤まこ、鷲尾真知子、玄田哲章
 1991 「ケルベロス 地獄の番犬」  出演:藤木義勝、スー・イー・チン、松山鷹志、千葉繁
 1992 「トーキング・ヘッド」  出演:千葉繁、石井とも子、立木文彦、藤木義勝



紅い眼鏡


ケルベロス



押井守 トップにもどる
風の三番地 トップにもどる