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1961年 製作:アルコ・フィルム | 原案・脚本・監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 撮影:トニーノ・デッリ・コッリ 音楽監修:カルロ・ルスティケッリ 音楽:ヨハン・セバスティアン・バッハ「マタイ受難曲」BWV244 ウィリアム・プリムローズ「聖ジェイムズ病院ブルース」 出演:フランコ・チッティ、フランカ・パスット、シルヴァーナ・コルシーニ 上映時間:116分 |
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パ ゾ リ ー ニ の 処 女 作 | |
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この作品を初めて見たのはビデオであり、その時は『乞食』という邦題が付 いていた。 この時見た印象はネオ・リアリズモの後を引きずっているという感じが一番 であった。アッカトーネの住むスラム街の雰囲気などがローマ最下層の人々の 生活を醸し出していた。 貧しさに苦しむ人間。それは経済的な、という意味だけでなく、心の貧しさ という点からも飢えている人々を描き出した作品と見るべきだろうか。 初見の時はその貧しさを見るのが辛かった。現在の満たされている生活にあ って、わざわざ貧乏な生活を見たいとは思わないのである。 今回、スクリーンで見直してみても同様で、あまり進んで見たいと思う作品 ではなかった。 それでもパゾリーニについて考えたい、その為にも初期の作品と向き合いた い、また今回のようにパゾリーニとその映画について正面切って向き合う機会 というのもなかなかないだろうと思い、貧しいものを見たくないという先入観 を捨て、何故そんな人々をパゾリーニが題材に選んだのか、パゾリーニがこだ わるものは何なのか、ということをとっかかりに出来るだけ客観的にこの映画 について考えざるをえない。 パゾリーニが一番こだわるもの、それは庶民の姿であり、最下層の人々の姿 である。彼はドキュメンタリー映画『パゾリーニ・ファイル』の中で処女作の 詩集を取り上げ「ブルジョワ階級を徹底的に弾劾したかった。しかし憎悪が激 しすぎて書けず、庶民を主人公にした」と述べている。ある意味それは当然の 帰結なのかもしれない。資本主義であったイタリアを支えているのはブルジョ ア階級であり、従ってブルジョアへの憎しみは同時に国家への憎しみへと繋が っていく。 この彼のブルジョアや国家に対する怒りや、憎悪の根源は父親から来ている と思われる。パゾリーニの父親はイタリアがファシズムに陥っていた頃の軍人 であった。パゾリーニはファシズムを受け入れなかったし、ファシズムである 父親も受け入れることは出来なかった。何より幼少から父親としっくりいかな かったパゾリーニにとって、母親に対する愛情が特別深かった分、彼女と折り 合いの悪かった父親の存在は余計受け入れ難いものだったのだろう。 そんな彼の思いは『アッカトーネ』や『マンマ・ローマ』で反映していると いう。共にフランコ・チッティが演ずる父親の姿は独裁的で支配的である。そ れは権力を誇示し、民衆を画一化しようとしていたファシストや、それを支え ていたブルジョアの姿とだぷらずにはいられなかったのだろう。 そんな人々が支配した国の、あるいは家族の姿はどうだったのか。 彼がカザルサの地で共産党に入党していた時、政敵、キリスト教民主党から 未成年を堕落させた罪、及び公共の場での猥褻行為で告発される。それからロ ーマへ移ったが、そこでの彼の生活は散々たるものであった。しかし彼はカザ ルサの少年達に代わるものと出会う。それは'ラガッツィ・ディ・ヴィータ'と 呼ばれたスラム街の不良少年達である。 だが彼等の生活は正に『アッカトーネ』で描かれている世界そのものであっ た。『アッカトーネ』の出演者は全員ラガッツィ・ディ・ヴィータであるが、 彼等は撮影が終わると生きる為に盗みを働いたのである。 結局、国家とブルジョアは飢えと貧困に苦しむ人々を作り出した。パゾリー ニはそんな日々の生活に苦しむ人々を愛し、国家やブルジョアを憎んだ。父親 ではなく、生活力が乏しく弱い母親を愛したパゾリーニにとってその求愛は当 然のことだったかもしれない。 そんな彼等の中にはどこか純朴さが漂っている。 『パゾリーニ・ファイル』の中でフランコ・チッティは語る。「正直な人ほ ど泥棒だ。泥棒は正直だ。われわれは果物を盗むが、銀行強盗はしない」 また母親の宗教性に対して、イギリスの批評家ジョン・ハリディとの対話の 中で「純粋に詩的で、自然である」と述べている。 彼は母親の宗教性の延長として、純粋に無垢で自然なものを求めていたので はなかろうか。肉体的にも、精神的にも裸の人間、あるいは人間性。しかるに 彼は規則や制度を嫌い、それまでタブーに近かった性の問題を『愛の集会』で 大胆に取り上げ、後期の作品において「生の三部作」を発表したその姿勢は、 あるがままの人間性の追求と思える。 従ってこの点からも規則や制度に縛られ、様々な虚栄に彩られた国家はパゾ リーニにとって一番の敵になり、最下層にいる裸の人間性むき出しの人々こそ パゾリーニの求めるものとなる。とすれば、パゾリーニが映画の処女作に最下 層のスラム街の人間を取り上げたのも当然の成り行きと言えるだろう。 そうして創られた『アッカトーネ』はフランコ・チッティの肉体が最大の魅 力である。何故なら彼が演じたアッカトーネはフランコ・チッティそのものと 言っても過言ないのだから。 アッカトーネは映画の中でかなりだらしない男として描かれるが、生真面目 に仕事に励む弟よりも生の息吹を強く感じる。それはアッカトーネがギリギリ の生活を強いられ、明日の生活もおぼつかないからであろう。 さらに彼の持つ幼児性。アッカトーネは弟に仕事を紹介してもらうが、すぐ に嫌になってしまうし、自分の子供が身に付けている金目の物も平気で盗んで しまう。 フランコ・チッティが語った正直な人というのはある意味、子供みたいな感 覚を持った人間のことも指すのであろう。またパゾリーニは彼等のそういった 面も愛したのであろう。 晩年、彼は『アッカトーネ』はもう創れないと語ったと言う。それは既に消 費社会による画一化が浸透してしまい、フランコ・チッティのような肉体が存 在しなくなったからである。パゾリーニが『アッカトーネ』で描き出したギリ ギリの生、その輝きは皮肉なことに、彼が憎悪する国家が作り出した貧困から 放たれていたのである。 『アッカトーネ』は正に資本主義による消費社会の幕開けに創られた作品で ある。消費社会による画一化が進むとパゾリーニはイタリアを飛び出して、発 展途上国へとめを向けるようになる。彼の求めるものはもう自国には存在しな くなったのであろう。 『アッカトーネ』は現在の自分達の生活から見ると、あまりにもかけ離れた 貧しさ故、今一つ現実味のない世界である。しかしパゾリーニの眼差しという 点から微かに接点が見えてくるように思える。 当時のブルジョアや国家への怒り、憎悪が詰まった作品とも言えるが、その根 底にはイデオロギーを超えた彼の純朴なものへの憧れ、あるいはあるがままの 裸の人間性の追求を感じ取れるのである。 | |
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