白洲正子さん
平成10年12月、88歳で旅立たれた<韋駄天お正>こと白洲正子女史。ほんものの
美というものがわかる「目利き」の女史の力強い文章に、芸能に携わるもとして唸ること
もしばしば。亡くなってさらに女史の世界に注目が集まっているのも頷けます。


旧白洲邸「武相荘」公式サイト

new「武相荘」に行って来ました。(筆者の訪問記です)

総特集白洲正子 文藝別冊 (河出書房新社)

 白洲女史とその道の匠、研究者、知識人の方々との対談で単行本未収録のものが纏められています。また白洲さんに関するエッセイ、頌詩、総論も一緒に収録されてますが、やっぱり何と言っても読み応えがあるのは八つの「対談集」でしょう。

  『芸術放談』 ・・・・・・・・・・・・・VS 河上徹太郎/細川護立
  『十一面観音を語る』 ・・・・・・・VS 上原昭一
  『骨董極道』 ・・・・・・・・・・・・・VS 秦秀雄
  『象徴としての髪』  ・・・・・・・・VS 山折哲雄
  『西行と芭蕉』  ・・・・・・・・・・・VS 目崎徳衛
  『能の物語「弱法師」』 ・・・・・・VS 河合隼雄
  『「能」一筋』 ・・・・・・・・・・・・・VS 友枝喜久夫
  『人の悲しみと言葉の命』 ・・・VS 車谷長吉


 こうやって対談を纏めて読んでみても、白洲さんは何も知らないうぶな「素人」的見地から見ること、あるいは知識も経験も忘れて「無心」<で見ることをとても大事にしていらっしゃるのがわかります。それも書物の中からではなくて実際に自分の足で歩き、手に取り、目で見て感じ取ること。それら全てができてこそ「心眼」でものを見ることができるのではないかと思うのですが…。 
 もうひとつ、この対談集の中で印象に残ったのは能楽師の友枝さんとの対談で、芸の道は努力して稽古して内面での闘いを経てこそ
<守って破って離れる>ことができ、そして「無心の境で遊べる」ような域に達することができる。それが最後に到達できる「軽み」なのだろうということ…まだまだ日々是努力ですね、何事も。

衣匠美 (世界文化社)

 日本には古くから各地方にその土地に根づいた織物があります。越後上布、八重山上布、芭蕉布、琉球絣、小千谷縮、久米島紬、郡上紬、丹波布・・・・・本書では白洲さんが愛された日本の衣の匠(たくみ)である織りびと、染めびとの方々にまつわるお話を、友禅などの絢爛豪華さとは対極にある生活に根ざした地味で美しい着物や帯の写真と一緒に紹介しています。文章は既に雑誌や他の本で発表されたものですが、久しぶりに読んだ白洲さんの文体は迷いがなく、やはりとても力強いものでスカッとしました。

 白洲さんは昭和31年から15年間、銀座で染色工芸の店「こうげい」を経営しながら自分が着たいと思う着物や帯を中心にお店に集めることにより、日本の伝統を守る匠たちを愛され、時に導かれることもあったようです。本書の中で私が一番心を惹かれたのは古澤万千子さんの<辻ヶ花風>の着物。もともと<辻ヶ花>は友禅という技法が生まれる前、糊のかわりに生地を糸でくくり、絞って文様の輪郭として染め、その上に椿や藤の花、トンボや蝶などの虫、はたまた市松や格子の幾何学模様を描いた着物で、陶器の「呼続(よびつぎ)」に通じるものがあります。古澤さんは若い時代に油絵を学び、ふとしたきっかけで染め物の道に入られた頃白洲さんと出会い、彼女の導きで旧家に残る古い裂地など日本の古典に触れながら独自の染め物の世界を確立された方。そんな彼女の創り出す<辻ヶ花風>の着物は一幅の絵を見る心地がします。それはきっと、彼女が玄人からみると常識を逸脱しそうな技法を駆使し、理屈っぽいことは考えない自由さと美しさ、白洲さんが書かれているところの<素人のうぶさ>を失わない人だからなのではないでしょうか。

 その他、根っからの染め物職人の手による力強い<有平縞(あるへいじま)>の着物や、藍染で大らかに、そして大胆に染め抜かれた暖簾などにも、作り手の心意気を感じります。それにしてもある織りびとの「織物は無地か縞にとどめをさす」という境地には・・・なるほどとは思うものの、私などとうていその域に達するにはまだまだ何十年もかかるのでしょうね。

器つれづれ (世界文化社)

 この本に載っている白洲さん愛用の器と道具150点の写真撮影が進んでいたある日、白洲女史はお亡くなりになったそうです。この本に掲載されている文章はいずれも以前にいろんな雑誌や本に載っていたものですが、下段に文中の言葉の解説があって器の用語を知らない人達にも分かりやすくしてあります。また、一度読んだことのある文章で、忘れかけた頃にもう一度読むことによってさらに印象が深くなって忘れられなくなる一文もあります。そんな文章をひとつ紹介しましょう。 −−現代は独創ばやりの世の中だが、現在を支えているのが過去ならば、先ず古く美しい形をつかまねば、新しいものが見える道理はない。・・・・伝統を背負って生きて行く勇気のないものに、なんで新しいものを生み出す力が与えられよう。−−

白洲正子総特集  (ユリイカ 青土社)

 平成10年12月に亡くなってまもなく出たユリイカ2月(平成11年)臨時増刊号です。縁の方々による寄稿と、生前、白洲女史と親交のあった古美術評論家・青柳恵介氏による白洲さんの6つの世界(お能、骨董/匠、古典を読む、道行の記、家族・友人・出会った人々、ジェンダーと死)の解説と代表的な文章からなります。きっと今では手に入らない本や雑誌からも選りすぐってあると思われるので、白洲正子ファンには貴重な1冊です。

なお、巻末には白洲正子略年譜、白洲正子著作目録もあります。

名人は危うきに遊ぶ  (新潮社)

 題名がイイですよね。その道の名人は気が入りすぎて我を忘れかける危険な「遊び」を情熱として持っており、またそれに対する羞恥心も持ってるということだと思います。その「遊び」がないところに真の美しさも生まれないとか。
214頁の本書にはいろんな雑誌に掲載された38の随筆(仏像、お能、西行、陶芸、友人・・)が収められています。ひとつひとつはさほど長くなく、文章も簡潔で力強い。白洲さんは作家・小林秀雄が稀代の数奇者・青山二郎の<青山学校>で鍛えられて、「物の形を文体の上にみごとに活かすことができた達人だった。」とおっしゃっていますが、私は彼女もそうなのだと思っています。

「何百年もの伝統の中で完成した能の型は普段の稽古を積み重ねて自分の物にしたとき、何も考えなくても形式美となって現れる。形を身につければ内容は自ずから外に現れるものである。」同じような事を先日某教育テレビの「美を語る」の特集番組で詩人の谷川俊太郎氏がフェルメールの絵について語っていらっしゃいました。フェルメールの絵の白く美しい輝きというものは絵の奥にある何かを現すというものではない。外に現れたものの美しさが全てなのだと。

自由とは、個性とは、美しさとは・・・白洲さんの冴えた審美眼に触れられる珠玉のエッセイ集ですね。

両性具有の美  (新潮社)

 両性具有とは男性と女性の両方を併せ持っているということです。本書はヴァージニア・ウルフの「オルランドー」という小説から出発してギリシャ神話、日本神話、万葉集、伊勢物語、平安時代の「稚児之草紙」、鎌倉時代の「天狗草紙」、室町時代の世阿弥の「風姿花伝」、はては映画「カストラート」に至るまで、ほとんどが男性の中にある幽玄さ艶めかしさ、男性同士の愛の世界が描かれています。最初からのめり込んで読むと女性の私には気持ち悪くなるのですが、一方で男性に生まれなかった悔しさも感じてしまいました。白洲さんは若い頃に能を舞っていらっしゃったものの「女には能は出来ない」といって道を絶たれたそうですが、きっと世阿弥の世界にのめり込めば込むほど同じ悔しさを感じられたのではないでしょうか。

白洲さんの文章には芸能に携わる者に道標になるような文章がたくさんあります。本書に出てくる、その中の一つを紹介しましょう。
「そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長のもとゐ、かれい(遐齢)延年の方なるべし。きはめきはめては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり」(風姿花伝第五)・・・一種の幸福論である。それは宗教とは隣り合わせのもので、自分が救われぬところに、見物にも真の悦びを味わせることはできぬ。そう信じていたから工夫をつくして技を磨いたので・・・ <龍女成仏>の章より

白洲正子の世界  (平凡社 B5変形144頁)

 私が白洲さんに初めて出会った本です。三宅一生のプリーツプリーズを颯爽と着こなしていらっしゃる表紙カバーが印象的です。あとでわかったのですが、若い頃の三宅一生さんを可愛がっていらっしゃったんですね。ミッソーニもとってもお似合いです。

表題の通り、ご自分の身の回りの愛すべき物と人・・・骨董、書、家、花、能、匠、友人・・・についてのご自身の審美眼というか趣味というか、平たく言えばやっぱり「世界」について以前に雑誌や本に掲載された文章を写真入りでピックアップした本です。文章だけでなく写真も多いので取っつきやすいです。導入編て感じですかね。

花日記  (世界文化社 A4変形144頁)

 ご自身の家の庭先に咲く四季折々の花々を、やはりご自身が所有される器に「いけた」様子を写真家・藤森武氏が見事に白洲さんの世界として撮影。白洲さんの随筆付き写真集とでもいいましょうか。なんと米寿記念企画の本なのだそうです。花も写真も美しいので、リビングの机の上に置いて気ままに開いて眺めたり、お友達への贈り物としても最適な本だと思います。

白洲さんはお茶同様、生け花も流派に属することがお嫌いで、自ら「無手勝流」と称して心から生け花を楽しんでいるご様子がこの本からうかがえます。誠に申し訳ありませんが、カバーに記載されているご本人の一文がみごとにこの本を紹介しているのでそのまま掲載させていただきます。

−花をいけるというのは、実にいい言葉だと思う。 花は野にあっても、生きているのに違いないが、人間が摘んで、器に入れ、部屋に飾った時、花はほんとうの生命を得る。自然の花は、いってみればモデルか素材にすぎず、いけてはじめて「花に成る」のである。(「花をいける」より)−