宝塚国際室内合唱コンクールの思い出(その2)
H13.2.11
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さて次は、混声の話と外国の合唱団の話をしましょう・・・・

第4回の時の話はさておいて(笑)・・・第6回・・今から12年も前になるのね・・・
あの頃、宝塚国際室内合唱コンクールでの国内の入賞団体の常連さんは
女声はコール・マルベリー(小田原少年少女のOG)、混声は京都アカデミー合唱団でした。
アカデミーさんはルネサンス時代のシャンソンが得意で、その軽妙で洒落たフランス語の発音といい、
各人が顔を見ながらアンサンブルする様といい、 私達の憧れでした。
その頃の私達はというと、ルネサンスからバロックへ音楽を導いたと言われる
イタリアの大作曲家モンテヴェルディに深く傾倒していました。
中でもマドリガル集・第W巻は大のお気に入りでした。・・・なのでコンクールに選んだ曲は次の3曲
「Sfogaba con le stelle」(星に対して彼はうち明けた)
「Non piu guerra! pietate!」(もう戦いはやめて、慈悲を)
「Io mi son giovinetta」(私は若い娘)

この時のメンバーは12名、出演順は混声の最後から2番目。
なんと私達のスグ後はあの京都アカデミー合唱団ではないですか!
のちに コンクールに出場する場合、なるべく出演前には他団体の演奏を聞かないで
自分たちの演奏に集中するようにしてましたが その頃はまだもの珍しくて、
ついつい海外の合唱団、この年はスウェーデン
PRO MUSICA CHAMBER CHOIR の演奏を聴いてしまったのです。
そのヴィブラートのない澄んだソプラノ、日本人には絶対出せないような低い響きのベース
すでに楽器(声)が違うのを目の当たり(耳の当たり?)にして
見事にカルチャー・ショックを受けてしまいました。
そろそろ出番のため楽屋へ向かわねばなりません。ロビーに出てきた私達は
「恥ずかしいよ〜! ねえ もう帰ろうよ〜〜!」と口々にわめいていました。

でもでも、もうここまで来てしまったからには どうしようもありません。
どこをどう絞っても 今の自分たちが持っているものしか出すことはできないのです。
・・・・その開き直りが功を奏したのか、無我夢中で演奏し終わると、割れるような拍手が・・・
その時 私達は憧れのコンソート・オブ・ミュージックを真似て指揮者なしで演奏しました。
今でこそ日本でも指揮者なしで演奏するグループは増えましたが、
当時はまだ指揮者なしでアンサンブルする団体は希有に等しかったと思います。
アルトのC−たんとテナーのMちゃんが見つめ合ったり(瞬間的にね)、
疾風怒濤のごとく「Io mi son giovinetta」を歌いきった勢いに圧倒されたのか
結果は なんと混声の金賞! 総合でもアカデミーさんを抜いて
スウェーデンの合唱団についで2位という とんでもないことになってしまいました。
でもね、その時の演奏って今から聞くと音程がどんどんうわずっていくし、
聞いてられないくらい恥ずかしい演奏なのよね。
それとも録音できない何かがあの演奏にはあったのでしょうか?

第7回以降は、もう自分たちがコンクールに出場することよりも
海外の実力のある合唱団の演奏を聴けるのが嬉しくてたまりませんでした。、
聴く度にカルチャー・ショックを受け、世界とのレベルの差を実感させられる。
それがまた自分たちの向上心の励みとなる・・・そういう感覚ってわかって貰えるでしょうか?

特に印象に残っているのは第7回と10回のヤウナ・ムジカ(リトアニア)
第8回のエストニア・フィルハーモニック室内合唱団(エストニア)
第9回のフィグラル合唱団(ドイツ)アルメニア放送合唱団(アルメニア)
第11回のバンクーバー室内合唱団(カナダ)
第12回のエレルヘイン(エストニア)

ヤウナ・ムジカは第10回記念コンクールでグランプリもとりましたが、
私は第7回の演奏の方が楽しかったし、衝撃的でした。
リトアニアの音大生の合唱団で 団員が作った曲にリコーダーや足踏みが入っていて
みんな楽しそうに歌っていたのです。文句なくブラボーでした。
エストニア・フィルハーモニックはコンクール本番は聞けなかったけど
レセプションで歌ってくれた トルミスの民謡(?)が印象に残ってます。まさに楽器が違った。
フィグラルはなんというか懐が深い大人の音楽? アルメニアはPPPの響きが美しかった。
バンクーバーはコンクールで演奏したシェーファーの曲は聴いていて息が詰まり、苦しかったけど
レセプションで歌ってくれたポピュラー・ソングのアンサンブルが絶妙だった。
エレルヘインは10代から20代初めの少女達で とても訓練されており 声が素晴らしかった。

実はそんな彼らにも 演奏の裏に隠れた素顔が・・・

エレルヘインは日本各地で演奏旅行をやっている途中だったためか
見かけは大人っぽい彼女達でも ホームシックにかかっている子が何人かいました。
楽屋でメソメソしてたから、たまたま彼女達が手に持っていた千代紙の姉様人形について
片言の英語で説明してあげたら ニッコリ笑ってくれました。

弟10回グランプリ大会でリゲティ「Drei Phantasien」(ウルトラ難曲、激ムズ?)を
演奏し終わったヤウナ・ムジカが楽屋に帰ってきたとき 女性の表情と口調の険しかったこと・・・
喋っている言葉はわからないけど、きっと本番で誰かが間違えたのね・・・
まるでどこかの団体を見ているようでした・・・ふふふ

アルメニア放送合唱団はコンクール翌日の入賞団体演奏会のリハを見ることができました。
すると前列にいた女声が後ろのテナーを振り向いて何やら厳しいお言葉を・・
聴いていた私達はみんな下を向いてひっしで笑いをこらえてました・・・くっくっく。
この光景も見たことあるのよね。。。

最後に・・・
このコンクールは当初は宝塚市の、今は(財)宝塚市文化振興財団の主催で開催されています。
あの阪神・淡路大震災の年も、大会が途切れないように
大事な市の予算を割いてくださったことは想像に難くありません。
大地震でも建物は大丈夫だったようですが 自慢のパイプオルガンは半壊。
私達は新聞でホールが臨時の救護所になっていたのも知っていました。
だから、あの年にコンクールが開催されたなんて・・・・・嬉しい反面、心も痛みました。

その年は何故か混声も女声も金賞で総合の2位と3位にもなりました。
なんと賞金も例年通りあったのです。でもとても受け取るわけには・・・
海外からの団体の手前 授賞式でお返しするわけにはいきません。
あとで そっと主催者の方に寄付という形でお返ししました。

国内で唯一の国際室内合唱コンクール。
M団はこのコンクールがきっかけでイタリアのファーノの音楽祭にも出演。
国内の合唱団が外に目をむけ 更なる飛躍のきっかけになる場としても
ますますこのコンクールが発展していくことを願ってやみません。

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