私のなかのH7.1.17(阪神淡路大震災)
H13.1.17
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平成7年1月17日未明  阪神淡路地区を襲った大きな地震
あれからまる6年が経とうとしている。

私達の結婚生活は昭和59年 神戸でスタートした。
神戸の社宅での生活はわずか2年間足らずだったけれども 神戸は忘れられない土地であり、
現在も本籍は二人の生活がスタートした神戸市北区においてある。

私は名古屋の大学を卒業して東京の製薬会社で3年半働いた後、
大学時代からつきあっていた今のダンナとの結婚のために製薬会社を退社。
憧れの神戸で 憧れの専業主婦になってみたものの、
子供もできなくて なんとなく過ぎていく生活には半年で飽きてしまい、 
健康診断のデータをコンピュータへ入力するというパートを始めた。
場所は地下鉄の大倉山駅の近く 楠公さんと呼ばれて親しまれている湊川神社や
神戸地裁にも近かった。働いている間に友達も何人かできた。

結婚の翌年昭和60年はいまだに忘れられない年である。

8月12日、日航のジャンボ機が墜落して500名もの方々が亡くなった。
4棟ある社宅の住人全員が一度に亡くなったようなものだと想像するとゾッとした。
ちょうどその日は大学時代の友人達と信州に行っていて、行方不明になっている
日航機の乗客名簿がテレビの画面に映し出されるのをみんなで見ていた。
その日はまだ信州の佐久の山の中に墜ちたのではないかと言われていた。
尾巣鷹山に墜ちているのが見つかったのは翌朝である。

昭和60年には嬉しいニュースもあった・・・・

なんと阪神タイガースが バース、掛布、岡田の3大砲の活躍等で22年ぶりに優勝したのだ。
テレビの前でも、甲子園でも、何度も「六甲おろし」を歌った。
実家の父は大の阪神ファン・・・・・阪神グッズを三宮で買い込んでプレゼントした。
三宮も元町も優勝セールでわきかえっており、虎のマークとHTのイニシャルが
金太郎飴状態で入っている蒲鉾が 妙に印象に残っている。

そんな昭和60年があけた翌年秋にダンナの転勤で岐阜へ。。。。

平成7年1月・・・・

その頃、ダンナは東京へ単身赴任していた。
17日の前日、16日に私達M団は日本合唱指揮者協会の委嘱による
鈴木輝昭氏・作曲「詞華抄」の初演を、埼玉県・川口リリアホールで行った。
2曲目が手元に届いてから本番まで2週間しかなかったり、
コンサートミストレスのJ子が体調不良で本番に出れなかったり、不安を抱えながらも
なんとか難曲を歌いきった。作品自体にも助けられて聴衆の反応も良く
充実感に浸りながら最終の新幹線で岐阜に帰ってきた。
ダンナはそのまま東京に残ったので私は1人で猫のケン太の待つ自宅へ。
午前様状態で疲れた身体をベッドに横たえ、ケン太とぐっすりと寝入っていた。

翌17日 午前5時46分・・・・・

強く長い揺れを感じながらも、疲れからか、ボーッとしており、
ケン太ともども そう驚きはしなかった。どこかこの近くで地震があったのね・・・程度。
それでも一応起きて、テレビをつける・・・・
・・・が、6時過ぎになっても関西で強い地震があったと言うだけで
震度も被害状況も出てこない。
6時半を過ぎたころだったか、NHK大阪からの放送で
阪神高速の橋桁が落ちたという情報に驚き 京都のダンナの両親に電話。
電話口の舅は・・・揺れは大きかったけど大丈夫や・・・という事でひとまず安心。
とりあえず、東京の寮にいたダンナを電話で起こして、
なんだか大きな地震があったことを伝え、京都へ電話を入れるように連絡。

次は当時、某通信社の大阪支局に勤務していて
阪急の夙川駅と西宮北口駅の間に住んでいた実弟に電話・・・・・
ところがいっこうに繋がらない・・・・。

そのままとりあえず出勤したものの、心配で 会社のテレビはつけっぱなしに・・・
すると8時前だっただろうか、
NHKのニュースに映し出された神戸の北野町界隈の様子に私は度肝を抜かされた・・・
ビジネスホテルの1階部分が押しつぶされたようになって倒壊してるではないか。。。
地震の時のNHK神戸放送局の中の様子を撮った映像を見たときは
これは いったい 何なのよ?????
もう部屋の中はミキサーのように 右に左に激しくゆれ、人も物もその揺れのなすがまま・・・

こんな地震、見たことない!!!

・・・・次々にテレビに映し出される映像・・・
阪神高速は桁が折れ曲がってそのまま下を走る道路に崩れ落ちているし、
尼崎の駅では電車が脱線・・・阪急電車も途中で止まったままで、
その横の民家からは火の手があがっている・・・
10時を過ぎる頃には各局がヘリコプターからの映像をどんどん流し出していた。
最もヒドイのは 神戸の西、長田区のあたり・・・
あちらからも こちらからも 火の手が上がっていて・・・・
どうしてヘリコプターから水をまくとかできないの? 苛立つばかりである・・・。

三宮のオフィス街でも そのまま90度横に倒壊したビルが・・・
ええっ、これがあの三宮のオフィス街? ウソでしょ・・・
阪急三宮の駅も無惨・・・交差点を挟んで向こう側のビルの病院へ私は通ってたのよ・・
神社は屋根がそのまま乗った状態でグシャンと潰れているし・・・・・

上司の許可を得て、朝から弟と友人宅に何度も電話をするのだが
この回線はただいま込み合ってます・・・とか、話し中になってしまう・・・
それでも弟の所にはやっと繋がったのだが向こうは留守電・・・
・・・ということは一応、無事ではいるのね・・・と こちらもひとまず安心。
実家へ電話をしたら本人から連絡があって無事とのことだった。
食器棚が倒れて食器が壊れたり、サイドボードからテレビが落ちて傷ついたり
本棚が1本つぶれてしまったりしたけれど アパートも本人も無事。

被害が結構大きいという三宮−西宮間、JR芦屋駅の近くに住んでいる友人へ電話・・・
・・・・やっぱり、なかなか繋がらない・・・
やっと夕方になって繋がった留守電に、「家族全員無事で近くの学校に非難してます」
・・・という、ご主人の声を聞いたとき、思わず涙が出た。
・・・ああ、無事だった、良かった、良かった。。。

テレビは会社で一日中つけっぱなし・・・
もちろん、その日は家に帰っても ずっとテレビを見ていた。
そのころになって電話は 加入電話より公衆電話のほうが繋がりやすいことがわかり
翌日は 長田区に住んでいる もう1人の友人に公衆電話からかけたら、
・・・・・なんと1回で繋がった・・・・・様子を聞くと 
・・・長田でも山ひとつ隔てているから 大丈夫や・・・
でも 子供が4人いるから、買い出しが大変。垂水のあたりまで行くと言っていた・・・
それで、早速トイレットペーパーと紙おむつを買ってダンボール箱につめ 郵便局へ。
郵便局ではいつ届くかわからないけれど それでも良いかと問われ、了承・・・
すると2,3日後に「着いたよ」という礼の電話があった。
予想以上に早くて安心。

その週末・・・・・
阪急電車は東からだと西宮北口までしか動いてない。
私はそこから歩いてでも弟の所へ行って片づけの手伝いをするつもりだった。
実家はどうするのか・・・・電話で聞くと、来るなと弟が言ったらしい。
被災者の方々の食料や宿舎のことだけで精一杯なのに私達が行っても邪魔になるとのこと。
自分のことは職業柄、食べたりするのは困らないから大丈夫だとも・・・
その頃、まだボランティアという概念も定着しておらず、自分がどうしたら良いのかわからない。
こちらの申し出を けんもほろろに断る弟の言葉を鵜呑みにして何もしなかった。
昨年、弟は同じマスコミではあるが転職した。
その挨拶文を読んでやっとわかった。
やはり被災地では亡くなった方々をアチコチで見かけ、被害も相当ヒドイものだったらしい。
そんな状況で己の無力さも感じたようだ。
私達にそんなヒドイ状況を見せたくなかったのだと気づいた。

でも・・・・・被災された方々のことを思うと・・・

友人もその後しばらくは、少しでも揺れるとあの日の事を思い出して怖かったという。
目の前で愛する家族を失った人々のトラウマはどうすれば癒されるのか?
地震から3年後、六甲アイランドまでは行った。
まだ仮設住宅が並んでいた。
島のあちこちで液状化現象の爪痕が残っていた。
でもそこまでしか行けなかった。懐かしい三宮や元町へは行けなかった。

いつになったらこの重い腰を上げられるのか・・・・
私は今でもあの週末、歩いてでも行かなかったことを悔いている。

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