送迎デッキ
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島根には空港が3つある。
隠岐空港、出雲空港、石見空港の3つ。
私が帰省のとき利用するのは宍道湖畔にある出雲空港である。
神話の国・出雲、石見を抱える島根県の東の空の玄関口。
観光、ビジネスによる東京、大阪からの利用客は多く
東京便はエアバス300が1日に数便往復しているが、
名古屋便は36人乗りSAAB機が1往復するのみである。

2001年
・・・・・
いつもの年なら1年に1度帰省するかしないかの私が、この年は6回も帰省した。
ゴールデンウィーク前に祖母が自宅のベッドから落ちて鎖骨を骨折し、入院。
8月には父が脚立から落ちて頭を強打し、入院。
一時期、同じ病院に家族が二人も入院していた。
祖母はその後一度も自宅に帰ることなく
父の退院を待っていたかのように病院のベッドの上で永眠した。
・・・享年95歳・・・
奇しくもその日は両親の46回目の結婚記念日だった。

実家と出雲空港とは距離にして40q以上はあるだろうか。
空港を利用するときはいつも父が自家用車で送迎してくれた。
しかし・・・この年は、そういうわけにはいかなかった。

2002年
・・・・・・・
祥月命日を明日に控えた8月24日、
新盆とあわせて祖母の一周忌法要が自宅で執り行われた。
法要のあと、家族、親戚一同で温泉宿に宿泊。
翌日、慌ただしく皆は家路についたが
私は今年初めての帰省だったので、もう一日残り、
両親と他愛もない話をしながら仏壇の飾り付けの片づけを手伝った。

私の両親は70歳を越えている。
いつまでもバリバリ働いていた時のような気分で頑張りすぎるのが悪いクセだ。
そんな二人が一周忌法要の諸々で疲れるだろうというのはわかっていた。
帰りは列車とバスを乗り継いで空港まで行くことにしていた。
しかし両親はどうしても空港まで送って行くと言う。

父は退院してからも血圧が高く、薬を服用している。
自家用車を運転できるようになったのも今年に入ってからだ。
車種もローレルから扱いやすいサニーに変わった。
空港に出迎えてくれたとき、父の顔色がロウのようで驚いた。
運転しながら疲れるのか、私と母の会話を聞いてるだけで口を挟まない。
「もうあまり頑張れないからよろしく頼む」と一言。
・・・とても弱気な父だった。

そんな父に片道40q以上も運転させるのは、たとえ娘といえども申しわけない。
また血圧が上がって体調を崩さないとも限らないし・・・。
と同時にこうも思った・・・
私はこれから先、どれくらい帰省できるかわからないではないか、
もしかしたら両親と一緒に過ごせる時間は残り少ないのかもしれない。
・・・そう思うと、送るという両親の申し出を断れなかった。

空港のレストランで軽い食事をとり、土産物を買って待合い室へ・・
別れるとき、「じゃあね」と言って差し出した私の手を
「ありがとう」と言いながら父が強く握り返したので、ハッとした。
去年、病院での付き添いが明けた朝、
そのまま会社に向かうために別れを告げた私の手を
ベッドの中から強く握り返した父のことを思い出した。

コミュータ航空の場合、待合室から機内へは徒歩、
それも滑走路わきに係留されている飛行機に向かって外を歩くのだ。
歩きながら送迎デッキを見上げると・・・予想通り、そこには両親の姿があった。
お互の姿を確認しあい、軽く手をふる。
・・・・・・・
私の席は窓際だった。送迎デッキが見える側である。
小窓からのぞくと、滑走路へアプローチを開始した飛行機に向かって手をふる母が見えた。
突然、三十数年前の幼い頃が甦り、胸が熱くなった。
当時、列車で出雲まで通勤していた両親を
毎朝、幼い弟と一緒に、裏の空き地で手をふって見送った。
いつも列車のデッキに出て、手摺りにつかまりながら手をふってこたえてくれた母。
・・・・・・・・・・
そういえば去年は、こうやって手をふってもらっただろうか
今度帰省した時も、こうやって手をふって貰えるのだろうか
・・・・・・
私も小窓からそっと手をふった。

36人乗りのSAAB機はエンジンを全開にして滑走路を走り出した。
小窓から見える母は、なおも手を高く掲げ、ふり切れんばかりにふっている。
飛行機はあっと言う間に宍道湖上空へ飛び上がった。
・・・・・・・・・・
窓から見える宍道湖はかすみ、
手に持った文庫本の文字もかすんで読めなくなった。

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