私の愛したドライバー(アイルトン・セナの思い出)
H13.4.25
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愚弟が言いました。・・・なんであんな同じ所をただ何回もまわっているだけのレースが面白いの?
 うーーーーむ、確かに一理ありますなあ。 でも、面白いのですよね、これが。。。。
 毎年 マシンのレギュレーションは変わるし、同じマシンでもドライバーによって違うし
 何十週もする間に ギアボックスが壊れたりして・・・それでもコントロールして完走したり
 抜きつ抜かれつのバトルがあったり 給油やタイヤ交換の時タイムロスしたり。。。ドラマがある。
 それにシーズンの終わりの頃になるとマシンも熟成されてくるのです。
 なんといってもドライバー同士の人間模様も またいろいろと興味深いのです。

 でも そんなF1が好きだったのは1994年5月1日まででした。
 あの日・・・・イタリアのイモラ・サーキット(サンマリノGP)で 
 伝説のドライバー<アイルトン・セナ>が壁に激突死をしてからは・・・・。

 自分があそこまでセナのことが好きだったとは思いませんでした。
 F1というカーレースが面白いから見ていたと思っていたのに。。。
 
 F1を見出したのはたぶん1988年頃だったでしょうか。。。。
 私の記憶にあるセナはマクラーレン・ホンダのマシンに乗る赤いレーシングスーツ姿の彼だけ。
 ’94年にウィリアムズに移籍してブルーのレーシング・スーツを着た彼を見たとき、
何か違うぞ・・・・・って感じだった。
思えばあの時から不吉な予感がしてたのか。。。

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 ’90年には友人夫婦にくっついて鈴鹿の日本GPを見に行きました。
 私が生でF1を見たのはこの1回だけです。席は抽選でしたが1コーナーの手前。
 メインスタンドではないものの、その隣で各マシンが高速でつっこんでくる所です。
 面白いのは予選2日目・・・各マシンが本戦で少しでも良いスターティング・グリッドを手に入れようと
1周のタイムを競いあうのです。

 パドックを出たマシンは最初の1周はタイヤを暖めるためにならして走り
 2周目に最速タイムをたたき出します。この時、各ドライバーの駆け引きがあって・・
 予選は1時間あるのですが、モニタを見ていた有望なドライバー達が 
あと5〜6分で終了という時になってパドックを出て競いあう、100分の1秒差の世界。。。

 セナはいつも この最後のほうで走ってはトップか2位につけていました。
 ’90年も確か予選は1位だったはず。このとき1コーナーへつっこむ彼のマシンは時速300q!!
 音楽を聞いて鳥肌がたったことはありますが、
目の前を車が走り抜けるのを見て鳥肌が立ったのはこの時が最初で最後でした。

さて、’90年の日本GP本戦。。。10月下旬ながら天気は快晴で昼間は汗ばむほど。
ウォーミングアップの1周が終わるとスターティング・グリッドに各マシンがついて・・・

・・・信号は赤から青に変わり、一斉にスタート!!・・・

それまで大人しく座っていた私の回りの人達が一気に立ち上がってしまったではありませんか。。
ええーーっ? 私はそんな人々の間から、セナと2位のプロストのマシンが走り抜けるの見れただけ・・
次の瞬間、観衆が一斉にどよめいたのです・・・
1コーナーを見やると・・・なんとセナとプロストの車が接触して砂煙を上げながらコースアウト!!
そんな光景が信じられなくて、皆口々に「再スタートだよ!」と騒げども、一向に赤旗は振られず・・・
目の前(と言っても100mはあったけど・・)を憧れのセナがメットをぬいで歩いているというのに
カメラにとらえるのも忘れて・・・・気がついた時にはあとの祭・・・

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F1は有名な専用コースもあれば市街地の公道を使ったコースもあります。
公道で有名なのがモナコ・グランプリ。
一流ホテルのベランダから観戦するVIPがいたかと思うと、海に浮かぶクルーザーから観戦する人あり
表彰式ではモナコ王室の方から直接表彰されたりと特別なレース。
それ以上にタイトなコースでほとんど抜くことができず、
また変化にとんでいるので数秒に1度のわりあいでギアチャンジをしなければならないなど
とても難しいコースです。
「モナコを征するものはF1を征する」・・・・・とまで言われるくらいです。
セナはこのモナコでなんと6度も優勝! まさにモナコの王者、F1の王者でした。

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上手いだけ、強いだけがセナをセナたらしめていたわけではありませんでした。
<孤高のドライバー>
その言葉がピッタリの人でした。
若くしてF1の世界に上がってきて、才能だけでなくコンセントレーションも卓越したものがありました。
いろんなコースを熟知し、走る前にはイメージトレーニングをしていた。
きっと彼なら目をつぶってでも走ることができたのではないかと思います。
コーナーを走る時は息をしていなかったとまで言われてます。
そんな強いコンセントレーションのとき、いわゆる行っちゃってる状態の時、きっと彼は神を見たのでしょう。
この「神が見える」発言も先輩達から疎まれる一因だったかもしれません。

セナはいろんなドライバーとぶつかりました。(←マシンじゃないですよ)
マンセルとの殴り合い、同僚プロストとの確執・・・等々
彼がレースに真剣であればあるほど 他を寄せ付けない何かがあったのかも。

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セナはよく泣きました。
セナの栄光はホンダ・エンジンの栄光でもありました。
セナが本田宗一郎氏と何か言葉を交わしながらも涙ぐんでいたことがありました。
そして彼の涙で一番忘れられないのが ’91年のブラジルGPでの優勝。
F1の王者もなかなか母国のレースで勝つことができなかったのです。
やっと優勝できたこのレース。ウィニング・ランの時、彼の無線が放送で流されたのですが
子供のような声で号泣し、泣きじゃくっていたセナでした。
途中からギア・ボックスが壊れて最後は6速だけでドライビングしていたとか
ウィニング・ランを1周回るだけの体力も残っておらず国旗を手に他の車に乗って戻ってきました。

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そして あの悪夢の1994年のサンマリノGP。
あのレースは予選から不吉な雲がたちこめていました。
1日目にバリチェロがクラッシュして大けが。
2日目には名前を忘れましたがやはりクラッシュしてF1で十数年ぶりの死者が。
まさか 同じことがセナの身に起こると誰が予想したでしょう。

イタリア現地 5月1日(日本は2日)、
私はGWに帰省するため弁当を作ろうと早起きし、
いつものように録画セットしてあったビデオを巻き戻そうとTVをつけたら・・・
涙ぐむ解説者の今宮氏とフジTVの三宅アナが、セナの事故死を伝えてました。
ビックリした私は寝ていたダンナを起こしに行きました・・・・「セナが死んじゃった・・・」

ウソでしょ・・・・でも、画面には壁に激突する直前までの映像と
事故後、コックピットでぐったりとしたセナ、そしてヘリで病院へ搬送される様子が映しだされていて。。。
その日、帰省する車の中で 私はずーーっとメソメソしてました。
「よかった・・・車の免許を持ってなくて・・・今日なんて絶対運転できないよ。」

6月に東京へ行く機会があったので青山の本田本社ビルへお花を持っていきました。
かつて、セナが駆ってチャンピオンに輝いたマシンが置かれてました。
セナ、感動をありがとう! 天国で安らかにね。
カードと一緒に 自作の詩も捧げてきました。

後に事故調査委員会によって事故原因が発表されました。
確か、セナ用に大きくしたステアリングの溶接が不充分だっためステアリングが破損し、事故に。
・・・だったと思います。

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’89年頃から’94年5月まで録画し続けてきたF1GPのビデオ。
今は段ボール箱の中で眠っています。
β版だし、もう見ることもないかもしれません。
でも毎回買っていた雑誌GPXと一緒に捨てることなんてできません。

もうすぐ5月1日
今年もまた彼のポートレートと一緒に鈴鹿で振ったブラジル国旗も
玄関のコーナーに飾っておきましょう。

永遠なれ! アイルトン・セナ

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