リニアの日記 番外編

レイシャの追憶 第十一話 巣立ちの時・後編/I>


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 ヴァイスの前に現れた氷柱は、彼が魔術の名を呼んだ直後から、順次女将に向かって突き進んでいった。

 アイシクルランス。それは先代ヴァイスが氷の閃光と呼ばれるようになった要素の一つである。氷の魔術の使い手は、大陸でもごく限られており、それがヴァイスという人間に神格性を与え、同時に畏怖の対象とさせた能力だ。

 女将の表情が僅かに歪んだ。それも当然だろう。闘気能力者は基本的に遠距離戦を嫌う。魔術士に比べ、闘気能力者には遠距離に対する攻撃手段が少ないためだ。

 もちろん皆無というわけではなく、例えばレイシャなどは小刀を用いた投擲などを行うが、実はあれにはとある仕掛けがあり、特製の小刀がなければ扱うことはできない。当代ヴァイスがその仕掛けを知って感嘆の声をあげたことがあるのだが、その時は危うく小躍りをしそうなくらい優越感に浸ったのをレイシャは覚えている。

 それはともかく、女将にも遠距離に対応した技術がないのだと、レイシャはその反応から理解する。

 女将は飛来する氷柱を横に移動し回避する。が、それだけではヴァイスの攻撃は終わらなかった。氷柱はわずかに時間をあけて、次々と放たれていたからだ。そして、信じられないことに、氷柱は放たれるのと同じくらいの速度で生成されていた。

「な、何あれ」

 声を上げたのはレイシャだった。場の一同が再びレイシャに注目する。

「何って、あれがアイシクルランスじゃないの?」

 ジェシカが訝しげにそう尋ねる。この中でアイシクルランスという術を目の当たりにしたことがあるのは、おそらくレイシャだけなのだろう。しかし、当代ヴァイスが使用しているそれは、先代のものとは明らかに異質だった。

「先代は作り出した氷柱を一度に放っていたわ。氷柱は先代のほうが大きいみたいだけど……」

 瞬時に判断できたのはそれだけだったが、時間がたつにつれ少しずつ差異が分かっていく。そしてそれに伴い、レイシャは類似点があることにも気付いた。

 レイシャは初め、氷を断続的に生成しているのだと思っていたが、それは間違いだった。ヴァイスは一度に十個程度の氷柱を生成し、それを一定の間隔で放っていたのだ。そしてその間に次に放つ分の氷柱を生成している。

 一度に生成する氷柱は、先代のものに比べ小さく、数も少ない。それによって連続生成を可能としているのだろう。

 もっとも、連続生成を可能としているのは先代との能力の差もある。それは、生成した氷柱を一定時間、空中に保っていることでも知ることができた。重力に反して物体を空中に留めておくというのは、高い技術を要するためだ。

「発動している邪眼の能力は同じだけれど、そこから組み込んでる術式に大きな差があるってことッスかね」

 ハムスが小さく呟いた。バルクやジェフ、ジェシカらは意味が理解できなかったようで、怪訝そうにハムスを見るが、セイルやキースは納得するような素振りを見せた。経験や戦いのスタイルの差なのだろう。レイシャはというと、理解は出来なかったが、感覚的に納得はできたといったといったところだ。

 傍観者側がそんな話をしている内に、二人の戦いは次の展開に移っていた。

 女将は一定の間隔を保ちながら氷柱を避け続けていたため、氷柱は術者であるヴァイスを中心として、右回りに弧を描くような形で地面に突き刺さっていた。変化が生じたのは、氷柱が半円に差し掛かった辺りでのことだ。

 女将が弧の中心へ向けて、進行方向を変えたのである。

「仕掛けやがった」

 バルクが興奮気味に叫ぶ。この構図になることは分かっていたのだろう。遠距離に攻撃する手段がない女将にとって、ヴァイスの魔術が止む気配を見せない以上、接近を試みるしかないからだ。もちろんヴァイスが疲れるのを待つという選択肢もありはするが、疲労という意味では、闘気を常時開放している女将の方が深刻だ。十数年蓄積した力といえど、あまりにも消費が激しすぎる。

 問題は仕掛けるのがいつかということだった。もっと正確に表現するならば、いつ仕掛けられるようになるか、だ。

 女将が攻撃から回避に転じた理由は、遠距離に対する攻撃を持たないという理由だけではないはずだ。彼女の闘気を用いた突進力があれば、即座に間合いを詰めることは可能だったに違いない。しかし、それをしなかったのは、おそらく少し前までヴァイスの迎撃能力が未知数だったからだ。

 女将は高速の動きでヴァイスへと駆けていく。ヴァイスは向かってくる女将に氷柱を放ち続けるが、女将は左右に小刻みに跳躍し、それらを回避する。

 少し前までの彼女であれば、こうも巧みに氷柱を避けることはできなかっただろう。

 精気の流動に違和感を感じるということは、それが未知のものであるということだ。即ち相手の攻撃の予測がつかないということになる。

 確かに女将はヴァイスとの間合いを詰めることが出来る突進力を有するが、攻撃を読めなければそれは自身を傷つける凶器にもなり得る。高速の動きに攻撃をあわせられるだけで、相手のそれは相対的に女将の速さに加味されたものになるからだ。

 ヴァイスの攻撃を回避するために女将がしなければならなかったのは、精気の流動と相手の攻撃の関連性を見つけることだった。術式そのものを解読することができなくても、精気の流動と発動した術の結果をパターン化することはできる。

 ある程度パターンを理解してしまえば、情報を読みに転用することは容易であるし、相手が他にパターンを隠し持っていたとしても、未知の精気の流動を感じたと同時に退避行動をとればよいだけの話だ。それができるだけの能力が女将にはある。

 彼女はそれを実行に移したのだ。



 息の詰まるような一瞬だった。ヴァイスは迫りくる標的にあわせて、氷柱の射出先を変えるなどしたが、女将はそれを感覚で読み切って、彼を自身の間合いに捉える。

 ヴァイスの方も魔術の展開をやめ、手に持った杖で迎撃に入っていた。外気を集めて発動する魔術では、女将の攻撃を捌けないと判断したのだろう。だが、魔術の発動の後ではほとんど闘気を発することは出来ていない。精気と闘気は反発しあうという特性を持つためだ。

 女将は機を逃さず、渾身の一閃を放つ。それはヴァイスの胸部をかすめ、赤い鮮血を場に散らした。

 その場にいるほとんどの人間が、捉えたと思ったはずだ。しかし女将の攻撃は、ヴァイスの薄皮一枚程度しか裂くことは出来なかったらしく、出血量はそれほどでもない。

 もっとも本人にしてみればそれは想定通りだった。むしろかすったことの方が意外だったくらいで、もちろん牽制のつもりはなかったが、本気で斬りかかったとしても、ヴァイスの能力は上行くと思っていた。

 思っているよりも自身の能力が高まっている。女将はそう判断すると、切っ先を返し、次の攻撃に移った。

 だが、自身の予測がまさに当たっていたことを、彼女はすぐ後に知ることになる。

「なっ」

 ヴァイスと女将の視線が交差する。その瞬間、場の精気が慌ただしく流動した。

 女将の直感が危機を警告する。何が起こっているのか理解するよりも先に、彼女はそこから離れようと後方への跳躍を試みた。戦士の勘というやつだ。

 だが、それが叶うことはなかった。突然、体の至る個所に重みが生じ、下へ引っ張られるような圧迫感を覚える。足に闘気を込めて踏ん張り、かろうじて倒れることは阻止するが、女将の動きは完全に停止してしまった。

 思考が反射に追いついたと同時に、女将は愕然とする。眼下の地面が漆黒に染まっていたからだ。そしてその闇から伸びた、無数の黒い腕によって、女将の身体は掴まれていた。

 とにかく、状況を理解するよりも、この場から離れなくてはならない。女将はそう判断し、全身に闘気を込める。一気に力を解放し、これから逃れようとしたのだ。

 だが。

「無駄だ。俺の瞳は女将を捕えている」

 ヴァイスの言い放ったその言葉と共に、女将を束縛している力はさらに強まる。だが一方で、時間が経ったことにより女将の思考もまた、落ち着きをとり戻し始めていた。

 幻覚系の束縛術。ようやく追い付いてきた思考の中で、女将が導き出した答えはそれだった。束縛術というのは相手の動きを封じる種の魔術の総称なのだが、それには多彩な種類が存在する。幻覚系というのは、精気を媒体とし、相手の意識を操作する類のものだ。しかし、術を掛けられたのが何時かがわからない。

 疑わしいのは視線を交わした瞬間だが、それは補助的なものあっても、術を発動させる切っ掛けにはならないはずだ。もちろんヴァイスが闇の眷族であることを考えれば、女将の想像を超える能力はあるのかもしれないが、魔術である以上、精気を流動させ事象を変化させる必要がある。視線を合わせることで、相手の意識を術に掛けやすくはできるかもしれないが、術そのものの発動には至らないはずなのだ。

 女将の瞳に赤い斑点が映ったのは、そんな考えを巡らせているときだった。

 それは先ほどの攻撃によって飛び散った、ヴァイスの血だった。下へと力を受けているため、自然と女将の視線も下へ移っており、偶然にもそれが目に入った。

 ようやく女将は状況を理解する。

 血は精気を伝える媒介としてはとても有用なものだ。しかも冥貴族は血に関する儀式によって眷属を増やすと言われている。つまりはわざと傷を負い、精気を込めた血を地面に落とすことによって、魔術を発動させたのだ。

 そして、発動した術は幻覚系のものではなく、それ程大きな力は持っていない、即座に術式を編むことができる程度の束縛術。ただし、相手に即座に圧迫感を感じさせるような特色を持つものだったに違いない。

 その力を増幅させているのは女将自身の意識だ。視線を交わしたことによって、女将の意識は術を脅威だと認識させられた。

 もちろん普通に視線が合うだけではそんな状態にはならないのだろうが、場に充満した特異な精気や、それに対する女将の警戒心が束縛術の性能を高めた。それが幻覚系の魔術の恐ろしさだ。

 極めつけはヴァイスの放った一言だった。あれで女将は完全にヴァイスの魔術を認識してしまったのである。こうなると頭では解っていても、束縛術からは逃れられなくなる。

(負けた、のね)

 元より勝つことが出来るとは思っていなかった。確かに長年蓄積した闘気によって、一時的に圧倒的な闘気能力を駆使してはいる。だが、当代ヴァイスの能力はそれすら霞んでしまうほど異常だった。

 それでも一矢くらいは報いようと勝負を受けたのは、自身が死霊使いとの戦いに参加できなかったという悔いがあったためだ。ジェチナを守るための最後の切り札として蓄えてきた力が、その危機に対して意味のあったものなのか。女将はそれが知りたかった。

 しかし、彼女の淡い期待は、完膚なきまでに打ち砕かれた。今のヴァイスの力は、どちらが勝っているかは解らないが、死霊使いに近いものであるはずだ。女将の未練を理由に勝負を挑んできたのがその証明である。

 この結果は、女将が戦いに加わったとしても、決定的な戦力にはなり得なかったことを意味していた。

「引導を渡してやる」

 打ちひしがれる女将に背を向け、ヴァイスが静かに呟いた。初め、彼の言葉の意味が理解できなかったが、女将はすぐに場に生じている異変に気付いた。

 その原因となっているのは、彼の放った無数の氷柱だった。ヴァイスの仕掛けた攻撃は、まだ終わっていなかったのである。

 間合いを取るための牽制だと思っていた。しかし、アイシクルランスを放っていたのには、もっと違う意味があったのだ。地面を穿っていた氷柱から小刻みに振動している。

「アイシクルバイト」

 術の名を告げたのに技術的な意味はなかったはずだ。しかし彼の言葉は、まるで死の宣告のように、女将の心に恐怖を植え付けた。それは焦燥となり、闘気の展開も、魔術の構成も、容易にはできないものへと変えていく。

 扇状に展開した氷柱が一斉に迫ってくるのを、女将は感じていた。束縛術によって、それを目視することは出来なかったが、慣れてしまった、氷柱が起こす精気の流動に対しての感覚が、彼女にそれを教えてくれた。

(これは、死ぬ)

 逃げる術はなく、ヴァイスが術を中断する気配もない。このまま事象が進めば、女将は確実に氷柱に蜂の巣にされる。

 ヴァイスが言っていた未練というのは、自分が死を望んでいるという意味だったのだろうか。半ば死を正統化するように、そんなことを考える。

 そうではなかったはずだ。しかし一方で、ジェイクが死んだときに、自身の気力が一気に削がれてしまったのも事実だった。

 いつかは、きっと、あの頃のように戻れるのではないか。積極的にジェチナ抗争に介入できない弧扇亭の女将の立場に耐えてこれたのは、どこかでそんな淡い願望を抱いていたからだ。だが、かつて過ごした時間の要。そのジェイクが死んだ時、それは脆く崩れ去ってしまった。

 未練はその時に、本来のものから、死への渇望へと移り変わったのではないか。

 自問するが答えは見つからない。でも、彼はそれに結論を出してくれているのではないだろうか。死という手段を以て。

 女将はそれを受け入れようと、静かに目を閉じる。しかし、その瞳は瞼の向こう側に広がった光によって、再び開かれた。

「フォーススクリーン」

 それが何であるかを、女将は知っていた。兄の友人だった男が、得意としていた術の一つだ。そして――

「リーナ、斬るぞ」

 煌めく刃が女将を掴んでいた腕を切り裂いた。こちらは虎国から来た頭の固い男が使っていた技である。身体を押さえつけていた圧迫感が消え、女将は束縛から解放された。

 目を開けると、女将に降りかかるはずだった氷柱は、彼女らを中心に広がる、光の幕によって粉々に粉砕されていた。そしてそこには、予想通りの、見知った顔があった。

「セイル、キース」

 かつて、このジェチナで同じ時間を過ごした仲間。しかしジェシカの母の死を切っ掛けに、道を違えてしまった仲間だ。だが二人は今、あの頃のように、自分を守ってくれていた。

 束縛から解放され、女将はその場に座り込む。その間に、セイルが展開した魔術は、徐々に光を失っていった。そして、セイルは女将の方へ視線を移すと、ゆっくりと口を開いた。

「言い忘れていたことがある」

「え?」

 唐突な一言に、女将は間の抜けた声をあげた。セイルは少し気まずそうな表情をしながらも、腰を落とし、目の高さを女将に合わせる。頭に軽い衝撃を感じたのは、そんな中でのことだった。

「よく、今まで俺たちの帰る場所を守ってくれた。ただいま、だ」

 ようやく、頭を撫でられているのだと理解する。あの頃は、子ども扱いをされるのが嫌で、よく顔を膨らませていた。けれど、今は――

「はい」

 頬を熱いものを伝うのを感じながら、こみ上げる想いに逆らって、女将はようやく一言だけを吐き出した。

 その翌日、弧扇亭は静かに店を閉じた。


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