レイシャの追憶 第九話 巣立ちの時・前編/I>
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その話を聞いたとき、瞬時には内容を理解できなかったのをレイシャは覚えている。 すぐに沸き起こったのは激しい怒りだ。なぜ自分にはそれが知らされていなかったのか。まず最初に彼女の頭に浮かんだのは、信頼していたものに裏切られたようなそんな感覚だった。 だが、続けて今の自分にそれに対して何かを言う資格があるのか、という考えに思い至り、ひどく不安定な、自分でもどうしていいのか解らない戸惑いが後に残った。 「本人に確かめればいいだろう」 レイシャの気分を和らげたのは、黒い包帯で顔を覆った男のそんな言葉だった。 同時に子供をあやすように頭にぽんと手を乗せられたのは年上として気に食わなかったが、それが彼の優しさであることも理解していたので、それには何も言わなかった。 ヴァイス=セルクロード。それが彼の名だ。かつてはルーク=ライナスと名乗っていたのだが、先代のヴァイスの死により、彼がその代役としてヴァイスを名乗ることになったのである。それはヴァイスの名がジェチナの外にも知れ渡っているためであり、外界からの余計な介入を防ぐためでもある。 とにかく―― 「黙っていられるわけはないわよね。弧扇亭を勝手に閉めるなんて」 それは、ジェチナ魔物狩人組合が設立して、ひと月が経った頃の出来事だった。
「それで、理由は教えてもらえるのかしら?」 レイシャはできる限りの皮肉を込めて、女将マリアにそう尋ねた。テーブルを挟んで、レイシャの対面に座っている彼女は、ばつが悪そうに、少し困った顔でそれに答える。 「別に隠そうと思っていたわけじゃないんだよ」 詰め寄られているせいか、女将からは普段のふてぶてしい雰囲気は感じられない。むしろそれは弱気そのものだった。 「ただ、この一か月間。そっちも大変そうだったからね。落ち着くまでは余計な心配させないほうがいいと思ったんだ」 余計な心配。女将が出したその言葉に、レイシャの怒りは瞬時に沸点を超えた。そして感情に任せたまま怒りを吐き出そうと口を開く。 しかし―― 「その言い分は気に入らないな、女将」 レイシャよりも先に女将に異を唱えたのはヴァイスだった。思いもよらなかった出来事にレイシャは唖然と彼のほうを見る。普段の彼ならば、ここは取りあえず傍観者としての姿勢をとるはずだ。 そう思っているのはレイシャだけではないようで、その場にいた一同がヴァイスの行動に目を丸くしていた。 そんな周囲の驚きにまるで気づいていないようにヴァイスは話を続ける。 「女将がこの宿を営んできた時間に比べれば、俺たちが関わった時間なんてものは微々たるものなのかもしれんが、それでも共に濃い時間を過ごしたという自負はある。店を閉めるということが、余計な心配であるはずなどないだろう?」 それはレイシャが思っていたことと全く同じことだった。そして、あのまま感情だけを吐き出していたのでは、きっと伝えられなかったことだ。 (私の、代弁をしてくれた?) 不意にそんな考えが脳裏に浮かぶ。まさかとも思うが、彼らしくない彼の行動を見せられては、そう思わざるを得なかった。 確信に変わったのは、言い終わった後にヴァイスが視線をレイシャに移したからだ。これで良いのだろう? と言わんばかりに。 一方で女将は、そこで初めてレイシャが言いたかったことに気づいたように、はっとし、続けて苦笑いを浮かべた。 「そりゃあそうだよね。でもね、要はそういうことなんだよ。今の私は自分のことに手いっぱいで、そんなことすら気付けない。弧扇亭の女将は、それじゃ駄目なんだよ」 女将が言っていることの意味が、レイシャには解らなかった。そもそもなぜ、弧扇亭の女将がそんな使命を持っているのか。そして、女将はそれの何に反したというのか。 腑に落ちない顔をしているレイシャを見て、女将は苦笑を浮かべた。 「ちゃんと話さないといけないね」 そして一同を見まわしてから、女将は言葉を続けた。 「弧扇亭というのはね、数十年前、聖国で大きな反乱が起こった時に、時の法皇猊下を匿った宿なんだよ」 その反乱のことは聖国の歴史に詳しいわけではないレイシャも知っている。聖国の有史の中で、首都であるアネスティーンが陥落したというものだ。しかし反乱は一人の英雄の到来によって鎮圧され、その活躍は聖女グランマリーと並ぶ、輝神教徒に好まれる英雄譚となっている。 「私たちが初代と呼んでいるのは、その弧扇亭の娘でね。当時は猊下にとって妹のような存在であった方なのだけれど、猊下に助力する中で、彼女は一つの想いを託されたのよ 「想い?」 きっと、それが弧扇亭にとって重要な意味を持つものなのだろう。レイシャはじっとその続きを待った。 「心を共にする者たちが、最後に帰ってこれる場所を作ること。そして、その場所を守り続けていくこと。その意志は、マリア=エストラの名とともに後続に継がれた。もちろん、私にもね」 そう言った時の女将は、どことなく自嘲的だった。恐らく、それは自分がその意志を守れなかったということを意味しているのだろう。しかし、レイシャには女将がなぜその意志を守れなかったと感じているのか、それが解らなかった。 「女将は、あの事件の時に俺たちに加勢しようとしていたんだよ」 レイシャの疑問に答えたのは、ヴァイスだった。一同の視線が、再びヴァイスに集まる。それは女将も同じだったようで、彼女の驚きはとりわけ大きいものだった。 「女将の使命は、この宿を守ることだ。例え何が起きようとも、ここに戻ってくる人間がいるのならば、守り続けなければならない。だが、ジェイクとカイラス。二人の命を弄んだ死霊使いが許せなかったのだろうな。自分の死すら覚悟して、女将はこの宿を出た」 それはヴァイスの推測なのだろう。現に彼は、その視線で女将に同意を求めている。女将は少し回答を躊躇ったものの、すぐにはっきりとそれに答えた。 「あんたの言う通りだよ。覚悟はしていたはずなのにね、土壇場で歯止めがきかなかったのさ」 それが本当におかしいことなのだろうか。少なくともレイシャはそう思った。大切なものが踏みにじられても、それに怒りを示すことすらできない。それがおかしいというのならば、弧扇亭の女将の使命とやらが正しいことだとは到底思えなかった。 しかし、同時にレイシャには女将が十数年間ずっと守り続けた使命を否定するほどの資格を自分が持っていると思うこともできなかった。 「だが、来なかったってことは、思いとどまったんだろ?」 それはバルクが何気なく言った言葉だった。彼の方は弧扇亭の使命に拘っていることには、別段違和感を感じていないようだった。それはきっと彼自身、似たような境遇にあったためだろう。 「あれは引き留められたからさ。ディーアにね」 突然出てきた名前に、一同は再び驚愕する。この場にはいない、もう一人の弧扇亭の仲間。彼女があの事件に関わっていたとは思っていなかったのだ。 「だとしたら、それは女将さんが築いてきたこの宿の絆だと言えませんか?」 それはジェフの言葉だ。魔物狩人組合が設立してから一か月の間、弧扇亭に残ったのは彼だけだった。それでなくても、ここに勤め始めた頃から、ジェフには女将に対して敬意を抱いている節はあった。 もしかしたら、この中でレイシャにいちばん近い感情を抱いているのは彼かもしれない。 「どんな縁であれ、この宿に留まった人間が女将の意志を変えたのであれば、それは俺も女将さんのやってきたことの結果だと思うッスけどね」 ハムスもまた、ジェフの言葉に乗っかる。 徐々に丸め込まれようとしている様子に気づいた女将は、嬉しそうでありながらも、僅かに歪んだ表情を浮かべていた。 「けどね」 そして反論の言葉を返そうとするが―― 「だけど」 それはジェシカの言葉によって遮られた。最も女将との付き合いが長いながら、今まで口を挟もうとしていなかった彼女に、皆の視線が移る。 「私は、女将さんが辞めると言っている以上、それを支持したいと思うわ」 意外な一言だった。この中で最も女将に世話になっていたはずの彼女が、そんなことを言うなどとはレイシャは思っていなかった。 絶句するレイシャを余所に、ジェシカは続ける。 「結局のところ、私たちの誰もが、今、ここにはいないのよ。ヴァイス、レイシャ、バルク、ハムスの四人は魔物狩人組合に。私は兄さんがやってた病院に手がかかりっきりだし。ジェフだってそのうち外に出るんでしょう?」 初めこの話を聞いたときにレイシャが抱いたのと同じ葛藤だった。ただ、ジェシカがレイシャとは違ったのは、それに続くものだった。 「守らなければならないものがなくなった宿に、女将さんが縛られる必要はないのよ」 思いもよらない言葉だった。レイシャは女将がこの宿を本心では続けていきたいのだと思い込んでいたのだ。そして、それはそれで正しいのだろう。 しかし、それはそこに彼女とともに過ごすものがいればの話だ。誰もいなくなり、守るべきものも、守りたいものもなくなったそこに留まらなければならないという考え方をすれば、それは確かに地獄のようにも思えた。 「いや、私は別にそんなことを思っては……」 「弧扇亭の女将であることを優先して、諦めた物が無かったなんて言わせない」 その言葉には、僅かながら怒気が込められていた。これ以上、自分を犠牲にする必要はない。そんな想いが込められた怒気だ。 レイシャにはそれが何を意味しているのかは解らなかったが、それこそ自分と同じ年齢の時間だけ、ジェシカは女将と同じ時間を過ごしてきたのだ。彼女にしか解らない何かがあるのだろう。 「でも……」 全く予想しなかった方向に話が持って行かれていることに、頭が追い付いていないのだろう。女将はそれでも何かを言いだそうとする、が。 「諦めろ、女将」 それを遮ったのはヴァイスだった。 「弧扇亭に対する女将の想いが強いのは理解しよう。だが、現に女将は生きていて、ここに弧扇亭はあるんだ」 (確かに、そうだ) レイシャはヴァイスの言葉に同意する。どんな経過があろうと、少なくとも女将は自身の役目を全うしているのだ。その事実は変わらない。 当の女将も、ヴァイスの言葉に異論はあるようだが、彼の詭弁に対しての反論が見つけられないようだった。 女将の様子を確認して、ヴァイスは続ける。 「そこでだ。俺は、ここに提案しようと思う」 「提案?」 唐突な流れに、思わずレイシャは聞き返していた。ヴァイスは小さくうなずくと、一度皆の顔を見回してから言った。 「弧扇亭の役割の満了とそれに伴う女将の解任をだ。女将がその資格を失ったのではなく、ここで生活を共にした者たち全員が、巣立ちを迎えたことによる宿の閉店。それぞれが、それぞれの道を歩むための、な」 ヴァイスの提案は詭弁ではある。結局のところ、女将が弧扇亭を閉めようと思った原因については解決していないからだ。 それでも、自分たちの想いは伝えておかなければならない。そう考えての提案なのだろう。実際に、この場に集まった一同には、ここで過ごした時間は特別だったのだから。 女将はしばらく迷っていたようだったが、やはり皆の想いはうれしかったらしく、最終的にはヴァイスの提案を受けた。 「とりあえず、これでひと段落かしらね」 つぶやくようにそう言ったのはジェシカだった。女将の意志を尊重したいなどとは言っていたものの、本当はあのまま終わらせていいとも思っていなかったのだろう。 (これで良かったのよね) 未だに弧扇亭が閉められることに対しての抵抗はある。しかし、ヴァイスはこれは巣立ちだと言った。進まなければいけないのは、女将だけではないのだ。 そんなことを考えていると、ヴァイスが女将に何かを手渡しているのが見えた。それは、女将が愛用しているフライパンだ。愛用とはいっても、実際に料理に使われているのは見たことがなく、むしろ人を殴るために使っていたのを覚えている。 レイシャは不思議に思って、聞き耳をたてる。 「弧扇亭の女将をやめるというのならば、それは未練にしかならないだろう?」 何のことを言っているのかわからなかった。第一、フライパンと弧扇亭に何のつながりがあるのだろうか? レイシャがそんなことを思っている間にも、二人の会話は続く。 「いったい、あんたにはどこまで見えているんだい」 これは女将の言葉だ。測りかねない、といったような雰囲気で、彼女はヴァイスにそう言った。 「初めから凡人でないことには気づいていた。が、それに気づいたのは、今の状態になってからだ」 やはり意味は解らないが、二人の間では話が通じているらしい。堪らず、レイシャは二人に話しかけていた。 「何の話をしてるの? そのフライパンがどうかしたとか?」 言われて、二人は意外そうにフライパンに視線を移した。どうやら、話の内容にフライパンは関係がないらしく、女将は小さく笑った。 「そうだね。見てもらおうか。私の最後の晴れ舞台を、ね」 そう言って、女将はフライパンを素早く横に振った。 次の瞬間、それはもうフライパンではなかった。女将の手には、鞘に収まった一振りの剣が握られている。形状変化能力。魔導器の中でも、精霊によって構成される精霊器。その特性が思い出される。 「これはね。初代マリア=エストラから、私がジェチナの女将になるときにお借りしたものでね。その時に掛けていただいた、あるものを解く鍵でもあるのさ」 「鍵?」 何のだろうか? レイシャが不思議に思って、女将に視線を戻した。直後、彼女は信じられないものを見て固まった。 女将はその身に光を纏い、徐々に小さくなっていく。その光に皆も気付いたようで、一同は驚きの表情を女将に向けていた。 そして、しばらくの時間の後に、発行は収まり、そこには美しい一人の女性が立っていた。 「ま、さか」 見覚えがあった。それは父の部屋で見た写真に写っていた女性――若かりし頃の女将である。もちろん写真に写っていたころよりも年齢は重ねているようだが、それでも女将の年齢よりも随分と若く見え、何よりもその体型が昔のそれに戻っている。 今の女将ならば、どこかの貴族の婦人だと言われても、誰も疑わないだろう。 ただし、縮んでしまったせいでぶかぶかになっているその服を変えれば、の話ではあるが。 「庭で待っていてもらっていいかしらね。さすがにこの格好では十分に動けないから」 そう言って女将は驚き固まっている一同を余所に、女将は自分の部屋へと歩いて行った。そしてヴァイスも淡々と庭へ出ようと足を進める。 「ちょ、ちょっと」 状況についていけず、耐えかねてレイシャが抗議の声をあげる。 「何だ?」 平然と答えるヴァイス。彼の様子に何となく苛立つものを感じたが、聞くことはたくさんある。今一番聞かなければならないことをレイシャは尋ねた。 「貴方達、何しようとしているの?」 レイシャが絞り出したその言葉に、彼は珍しく不敵な笑みを浮かべ、答えた。 「手合せだよ」 その返答に、その場にいた全員が絶句する。それを横目で見て楽しみながら、ヴァイスは弧扇亭の庭へと出て行った。
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