読売新聞 昭和20年7月20日 木曜日
新鋭機と竹の杖 天翔ける「村夫子」 初名乗り武功章 基地も沸く小林戦闘隊 01.9.3
【前線某基地にて宮本報道班員】


 飛行服に竹の杖はどうみても似つかわしくなかった。この基地の附近の林には根のところに節の目のこんだ竹がたくさんあって、ちょっと手を加へると気のきいたステッキになる。
 基地の荒鷲の間にこのステッキを流行らしたのは、いま新鋭機を駆って敵の操縦者を畏怖させている小林新鋭戦闘隊である。連日沖縄の基地から九州方面に来襲する敵小型機群も小林戦闘隊の新鋭機には非常な警戒を払っているが、その注目の新鋭機と竹の杖の対象が何とはなしに微笑しく、小林部隊の撃墜数がふえてゆくにつれて、ほかの隊の竹の杖愛用者も一日一日とふえていった。

 小林部隊で一ばんさきに竹の杖をつくったのは浅野二郎曹長であった。前線の期待に邀へられて新鋭戦闘機隊がこの基地に姿を現したすぐ翌日、記者は浅野曹長が竹の杖をひいて三角兵舎から愛機の掩体へ通ずる畑道を歩いているのをみかけた。それが飛行服と竹の杖の最初に眼にとまった印象だった。
 天翔ける人が地上で杖をつくのが、そのときはひとりをかしかったが、やがて曹長の頼からあごにかけて真黒い戦陣ひげがびっしり密生しはじめたころ、浅野曹長だけはただひとり例外的に竹の杖がよく似合ふと記者も認めざるを得なくなった。

 整備兵のたまりにぶらりと出てきて、すゝめられるまゝにあまり上手でない碁をうつ曹長の膝の間に、いつも根もとの節のあたりをきれいに細工した竹の杖がみられた。誘導路の一ばん奥の掩体で二、三人の機付兵が愛機の整備に余念のない夕ぐれのひとゝき、その傍にうす暗くなるまでじっとたちつくしている浅野曹長の手もとにも同じ竹の杖が日本刀のやうに握りしめられていた。

 その浅野曹長が、小林部隊のこの戦線の初陣で敵のF4U
(ヴオートシコルスキー)をひとりで二機、玉懸(たまかけ)軍曹との協力で一機、計三機を討ちとったときは基地の人たちがみなびっくりした。この日の小林部隊の戦果は九機撃墜であったが、その三分の一を浅野曹長が手がけたのである。
 小林部隊にはわが航空部隊でも一流の戦闘機操縦者が数人いたので、この新鋭機の南西航空戦の最初の殊勲が浅野曹長の手に帰さうとは誰も想像しなかった。ことに浅野曹長の技倆を知らず、ただ杖をついて歩く一風かはった、みるからに村夫子
(そんぷうし)然たるその外見にしか接したことのない基地の人たちが眼をまるくして驚いた。

 その日○○上空を哨戒しながら高度四千五百まで上ったとき、竹田隊に属する浅野分隊は高度五千で南進する敵小型機群を発見、これを前側方から攻撃したが第一撃は効果がなかった。竹田大尉自身の分隊は射弾を回避しつゝ姿勢を直さうとする敵の後方に食ひ下がり、反転した浅野分隊が直ちにそのあとにつゞいた。竹田分隊が第二撃をかけて側方に離脱した一瞬、浅野曹長の僚機玉懸軍曹が手近に現れた敵の四番機に後方から一連射を浴びせると敵機の座席附近から白煙が上ってこれが一番槍となった。しかし高度を下げてたちまち○○島附近に墜落してゆくこの敵機には眼もくれず、浅野曹長は一番槍の玉懸軍曹と協力し、反転してくる敵の頭を抑へる前方攻撃をかけ、これを○○に據
(よ)る地上部隊の眼前に叩き落とした。

 四番機、三番機を瞬時に屠られてしっかりかたまっていた敵の体型が崩れだした。同時に浅野曹長も僚機玉懸軍曹と分離して高度をとり、眼の下を必死に南へ遁走する敵二番機に対して有利な後上方攻撃を食わせ○○岳山麓に撃墜、自分も下ったところに敵の僚機が右側方から攻撃してくるのを大胆巧妙な上昇反転ではずし、間髪を容れず、逆に後側方から急降下で矢のやうに舞ひ下り撃ちまくるとみる間に、その向ふを白煙をあげて○○岳の中腹に墜ちてゆく敵機が飛行場附近の洞穴の入口にいる記者の眼にも、はっきりとびこんできた。

 基地附近の上空で戦はれたこの邀撃戦が基地の将兵にあたへた感銘は、新鋭機の初名乗りだったので非常に大きかった。ことに、この浅野曹長最後の急降下攻撃にはみな手に汗を握り、附近の山の間まで下り、上方を警戒しつゝつぎの姿勢にうつる機会をねらって超低空ですっとぶ浅野機に、そのときはまだ誰ともわからず万歳と拍手の声援を送った。しかしそれが竹の杖の浅野曹長だとわかったとしても、記者も本当にはできなかったかもしれない。

 この日の遊撃戦で敵の長機を葬って自分も自爆した竹田分隊の山下軍曹をはじめ、味方にも三機の自爆機を出したが、戦争は敵を斃すことによってのみ必勝の確信と士気の猛火をかきたてることができる。武功章の輝いたことも、いはなくてはならないことだが、それよりもこの日を境として整備兵から分廠の一工員に至るまでいちだんと烈しい戦意を沸騰させ、基地の実動機は○○機から○○機にはね上ったことは特記しなくてはなるまい。

 そしてあくる日の敵機は眼にみえて臆病となり、わが地上砲火の対空射撃に力がこもって、ねらひもたしかにそれまでよりはぐんと正確になったことも附記せねばならない。一言でいへば、基地全体に清新発刺たる生気が漲ったのである。新鋭機の格闘性能、上昇性能、速度などが搭乗員の勇気、技倆とともにたしかにF4Uよりはるかにすぐれていることが誰の眼にも実物でわかったからである。

 同じ基地に待機中の振武特攻隊員も、その夜は三々五々戦闘隊の三角兵舎にきて自分のことのやうに新鋭機のすばらしさと、新来部隊の腕のみごとなことを話しあひ「自分らも一度あの新鋭機に乗って敵戦闘機と戦闘をやり、それから沖縄の敵艦船に突っ込みたい」などと口々にいったものだ。

 小林部隊長がその日の戦闘詳報に
「わが新鋭機が制高すればF4Uに対し絶対必勝なり。不利な体勢においても十分有利な戦闘を実施し得る確信を得たり」
と書いているころ、あちらでもこちらでも附近の竹薮に急にごそごそもぐりこむものが多くなって、それから数日たつと振武隊の三角兵舎へいっても整備隊の兵舎へいっても、高射砲隊へいっても自動車班へいっても必ず数本の竹の杖が入口のあたりにころがっているといふことになったのである。

 しかし当の浅野曹長はそれから三週間後、特攻機の発進掩護に舞上がったとき、離陸直後をF6F
(グラマン)八機に襲ひかゝられて一機は落したが、その上方にいた敵四機がどっと急降下してくるのを真正面から邀へてつひに壮烈な戦死をとげた。

 煙を吐く愛機の姿勢をたて直し、離脱する敵機を烈しく海上に急追していった浅野機が、なほも二撃、三撃を敵に指向しつゝ火達磨となって垂直に機首を海面に向けたとき、ゆっくり風防のかげに真白いマフラーをほどいてあとからゆく生田中尉機にしきりにふってみせるのを生田中尉ははっきり認めた。
 生田中尉からその話をきゝながら、この日も出撃の申告を終るとすぐ竹の杖をひっぱってのっそりと出ていった浅野曹長の最後の姿を記者はまざまざと思ひだした。

 沖縄の地上戦は終息しようともわが新鋭戦闘機隊は予備機の補充と後続隊員の補充を得て沖縄の敵基地航空に対し果敢な戦闘をけふもつゞけているのである。


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