読売新聞 昭和20年2月9日 金曜日 07.4.1
感状上聞 丹下充之少尉


 呉市清水通二の一出身。海軍工廠技師?一氏(51)、静子(42)さんの長男。広島県立広島工業から福井高工に進み卒業後学鷲を志望、第一期特操生として南方の決戦上に羽ばたいた若武者でB29邀撃戦の火蓋が切られるとゝもに某基地戦闘隊に転じ皇土の特攻隊震天制空隊の編成と同時に沈着な性格を買はれて栄誉ある学鷲最初の隊員に選ばれた。高工時代は野球の選手だった。


身機、闘魂の火の玉 醜翼砕く神業の早業 学鷲初の震天隊員丹下少尉 【某基地にて北條特派員発】

 学鷲震天隊員として帝都邀撃戦初の感状上聞に輝いた丹下少尉はピストの中でいつも科学雑誌に読みふけり戦闘に関するほかは無駄口一つきかぬ寡黙実行の若鷲だった。
 あの日、一月九日敵機B29が本土に向けて北進中との情報が戦闘指揮所から伝へられたとき、すでに少尉はけふの晴れの日を予期した如く武装もりりしく誰よりもさきにピストを飛び出した。縛帯の右肩をしっかり掴んで富士山上空あたりをじっと睨んで立ったあの姿がいまもなほ記者の目に灼きついている。

 「震天隊あをぞら」待望の出動命令とともにけふが最後の基地を飛びたった丹下機は十四時二十七分早くも田無上空で高度九千八百米をもって東進する敵策二編隊八機を発見、その三番機めがけ左正面から堂々たる体当りをかけた。

 しかし高度差に誤差があったか攻撃は不成功だった。心魂こめた第一撃に失敗するや丹下少尉はさながら愛機とともに一個の闘魂と化し神技も及ばぬ早業をもって旋回、ふたたび同編隊を猛追、今度は左外側機めがけ後側方から壮烈な体当りを敢行した。この一撃はみごとに決まり、敵B29は左側エンジンから猛火を吐きつゝぐんぐん高度を下げ間もなく房総沖に墜落した。丹下機もまた体当りと同時に空中分解し、少尉は遂に帝都の大空に学鷲最初の体当り勇士の名をとゞめ、皇土護持の華と散った。


先輩の遺列に酬いる途一つ 丹下少尉の日記

十月一日
 入隊以来一年、帝都防衛の光栄ある任に就くときこの記念すべき日を迎ふ。入隊以来悔いなき努力のあとを発見できないのは我ながら恥しい。自分はまだ死生観といふものを持たない。しかし任務の前には死は厭わない気持ちである。だが危険に直面するとやはりまだ死は怖い。そこに修養の足らさざるを感ず。

十月八日
 ○○時代の戦友横井宅を訪ふ。久方振りに家庭的雰囲気を味ふ。日本家庭の持つ美しさと力こそ日本軍人の偉大な根基である。

十一月二十九日
 大本営発表の大戦果のうちに学鷲七名の名前を発見した。学鷲はつひに立った。この大戦果(轟沈戦艦一、巡洋艦三、軽巡四、以下略)を見よ。先立った彼等の遺烈に酬いる途はたゞひとつ、帝都防衛の絶対使命を完遂するにあり。
 大元帥陛下の股肱としてたゞ全力を尽し帝都防衛に万るのみである。

十二月五日
 震天隊の一員として本日より飛行隊に同居す。一度敵機来襲せばこれを必ず撃墜して皇都を守護し奉る重責を担ふ。務めは重く身は軽く、万全を尽くして敵を必墜せん。生死論ずるに足らず。

十二月二十五日
 姉より便りあり。姪の克美の病気見舞として二百円を送りしに多額なりとて五十円をとり残り百五十円を母に送りたりと。送りたものは皆とってくれゝばよいに、母へはまた別に送ったものを。母としても直接貰った方が喜んだにちがひない。些事なり些事なり。一家の和合は聖戦完遂の最大要素なり。美しく和かにくらされよ。

一月一日
 元旦に当り家郷に配すところあらんとしたるも、その要なきを感ず。(ここで日記は終っている) 【宮本記者記】


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