■ 上原少尉 06.1.12
何年か前、長野放送というテレビ局から、上原少尉の番組のために資料提供の要請があり、一旦断りましたが、しつこく言ってくるので写真を1枚貸したことがあります。
しかしそれっきり。完成したでもなんでもない。この番組は東京では見られないのに。
それが、昨年読んだ「あゝ祖国よ恋人よ―きけわだつみのこえ 上原良司」という本の、韓国のテレビが取材、放映して「いまや世界の上原良司になりつつある」などと、はしゃいだ「あとがき」の中に、その番組が賞を受けたと書いてありました。
この本は、いわゆる学徒出陣した上原良司氏の現役入隊から熊谷飛行学校館林教育隊時代までの日誌に、60頁におよぶ編者の「解説」を併せたものです。
私は、日誌自体は記録として価値あるものだと思いますが、編者による60頁は、全く蛇足だと感じました。
「俺が戦争で死ぬのは愛する人たちのため。戦死しても天国に行くから、靖国神社には行かないよ」
彼は最後の帰郷を果たした際に、そのように言ったと伝えられているそうです。
編者も出版社も、この言葉がよほど嬉しいらしく、強調しています。でも彼のご母堂は、戦死した3人の子息に会うために度々靖国神社へ参っておられたそうですから、彼のこの言葉に、それほど深い背景があるとは思えないのですが。
編者が「極限の生活」と書く、館林時代(約4ヶ月間)の彼と教官・助教との葛藤を「軍の非人間性」などと大袈裟に強調していますが、どうもおかしい。
日誌の検閲で教官が「学生根性を去れ」と注意を与えていますが、全く当然のことを言っているだけです。これはどこの教育隊でも同じでしょう。
日誌に教官が書き込んでいる通り、幹部候補生は少尉任官後、いいえ場合によっては見習士官時代でも、指揮官あるいは教官として部下を指揮し、必死の任務を命ずることもでき得る責任の重い、強い立場です。
また、将校は天皇から任じられる身分(奏任官)になりますから、思想、倫理、軍紀の点で、兵卒よりもむしろ厳しく教育されるのは当然だろうと思うのですが、編者は彼を、ただ自由を奪われた被害者としか見ていません。
更に言えば、操縦教育自体が、教える側も教えられる側も死と隣り合わせの危険な作業です。厳しい教育は、操縦を志した者、全員に当てはまる体験でもあるはずです。館林でも同期生の1名が殉職しています(但し、これは他の教育隊と比較すると希有に少ない数だという)。
編者は、彼が「22歳の若者とも思えない大胆にして沈着な態度で、正々堂々と自己の信念を表明した…」と賞賛しています。
しかし、彼がそのような言動を為せたのも、彼が将校という立場であったからこそ…とは、編者は考えないようです。仮に一兵卒が同じことをしても許されたとは、とても思えません。上官は監督責任、同僚も連帯責任を問われるかもしれません。事実、彼の自己主張や上官批判が出てくるのは、初年兵の時期ではなく見習士官(将校待遇)になってからのことです。
私は、彼の同僚たちが彼の言動をどう見ていたのか、同調した者がいたのかを知りたいと思いましたが、編者はその点は無視し、彼の僅かな文章だけを絶対視、神聖視して、顕微鏡で眺めるが如く分析しています。初版は20年も前ですから、そのころならば、彼と同じ「極限の生活」を経験した、館林時代の戦友400名の中の多くからも証言を得られたはずなのですが。
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現役将校を養成する陸軍士官学校の場合、いかにも軍国少年が集まったかのように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。
予科士官学校は中学4年程度の学力で受験できたため、「腕試し」で挑戦して受かってしまった者や、一人でも多くを陸士へ送りたい学校側が、成績はよいが経済的に大学進学が困難な生徒を受験させた例も少なくありません。
入校当初は、天皇制を批判する生徒さえいたそうです。しかし、それを排除するのではなく、教官が真心と情を持って時間をかけて生徒を感化し、卒業までには一人前の軍人に育てたのです。
上原少尉の場合には、操縦と同時並行の速成教育ではありますが、それでも無事に少尉に任官しているわけですから、彼の言動は陸軍にとっては許容範囲だったことになります。
また、彼は自ら志願して合格した幹部候補生(特操)の課程を修了、少尉任官を果たし、そして命令を忠実に承行して戦死しました。その軌跡と結果を見れば、彼が立派な陸軍将校であったことは明白な事実です。
上原少尉と56振武隊の同僚である小沢(こざわ)幸夫少尉は、飛行機受領のために一旦調布に戻った際、同期生が渋谷の神泉で開いた送別の宴で6航軍参謀の言動を批判し、
「俺はあんな奴らのためには絶対に死にたくない」
と、語っていました。でも彼もまた、命令を承行して特攻戦死を遂げました。
特操に限らず特攻隊員の中で、疑念を抱かず全てを納得して死んでいった者など、果たしていたのでしょうか。けれど、苦悩しながらも、軍人としての責務は皆、忠実に果たした。そこが立派なんです。
上原少尉も、決して戦争を否定していたわけでも、軍を否定していたわけでも、国家を否定していたわけでもありません。ただ、客観的に、この戦争に勝ち目はないと考え、それを表明していただけです。
にも拘わらず、編者は「思想形成」「思想変革」「思想闘争」などの耳慣れない言葉を羅列して、上原少尉を「思想家」に祭り上げようとしています。
軍人としての彼を評価せずに、いかにも彼が反戦あるいは反天皇制国家の闘士でもあるかのようにアピールすることは、上原少尉に対して実に非礼だと私は思います。
更に、編者は「農民兵士」(これも学徒兵も、おかしな言葉です)の残した紋切り型の遺書と上原少尉の遺書を比較して、その違いを「先進的」と賞賛しています。
しかし、上流の裕福な家庭に育って大学にまで進んだエリートと、高等教育は受けていないであろう、ごく普通の庶民の文章が、元々同じであるはずがないです。また前述のように、彼が言いたいことを言えたのも、厳格な階級社会である軍の中で、将校という立場であったことと決して無縁ではありません。
比較するのなら、編者が「高い教養を身につけた…」と書く、「学徒兵」のそれと比較すべきでしょう。