資料集


航空手簿



 陸士56期 水越 勇少尉(終戦時大尉)の航空手簿。熊谷飛行学校と加古川の
第101教育飛行連隊時代のもの。 加古川での戦技教育を終了後、244戦隊に
原隊復帰し、3式戦を履修した。


基本操縦 熊谷飛行学校 95式1型(一部高練) 18年4月〜10月
課目


慣熟

14
操舵感得

15
水平直線飛行

18
上昇降下

43
水平旋回

47
上昇降下旋回

19
離着陸
15
0
着陸復行 不時着

21
空中操作
4
0
特殊飛行
6
18
編隊飛行
9
37
計器飛行
10
6
基本航法
5
35
野外航法
1
48
目標牽引同乗
1
12
合計
56
33
上記の内単独飛行
22
20

戦闘戦技 第101教育飛行連隊 97式戦闘機 18年10月〜19年2月
課目


離着陸
1
13
空中操作
3
24
特殊飛行
8
0
高空飛行
1
40
編隊飛行
5
33
射撃予行
16
13
射撃
14
30
追躡運動

26
急降下攻撃
1
25
分隊戦闘
12
35
小隊運動

15
小隊対地攻撃
1
33
小隊戦闘
4
45
薄暮飛行

29
中隊戦闘

46
中隊運動

47
合計
73
34
総合計
130
07
注=分隊は2機、小隊は4機、中隊は12機編隊を示す



 第101教育飛行連隊時代の水越少尉(後右から2人目)。彼は19年11月末、甲種学生
として明野へ転出。20年2月、飛22戦隊付となり、終戦まで4式戦を駆って活躍した。


小林戦隊長日記



 小林戦隊長の個人的日記。この日記にも自らを励ますが如き言葉が並んでおり、
経験浅い若き指揮官の思い詰めた心境が窺える。


新藤仁平軍曹 書簡
(昭和20年4月中旬、鈴木正一伍長父君宛)




 新藤仁平軍曹は、自らの事故により地上の母子の命を奪ってしまったことを最期まで
悩み続け、20年8月8日、八日市飛行場上空において板垣軍曹との単機戦闘演習中、
墜落炎上して22歳の生涯を閉じた。
 この手紙を書いた当時は、鈴木伍長の後任として戦隊長僚機を務めていた。

拝復 お手紙有り難く拝見致しました
神鷲の英魂、無事帰宅せられました由、何よりと存じます
英魂も故郷の山河をどんなになつかしくながめられた事でしょうか? 只一度、元気な姿で父母様に面接させ、故郷の山河を見せたかったと思ひ、それのみが残念でなりません
父上様便りの中で、恵まれぬ武運が情けないと申されて居りますが、決して自分達はそんな事は思って居りません
鈴木の散華こそ戦闘操縦者として最も望む所ではないでしょうか。B29撃墜破八機、そして敵戦闘機が我の数十倍の中に突込んで行き、一機撃墜後自らも散華致した彼こそ、特別攻撃隊に勝ると劣るものではないと石岡も新藤も絶対信じて居ります
これは自分達二人だけではありません。隊の空中勤務者は全員思って居る事だと思ひます
故に、鈴木をよくやったと褒めてやって下さい。お願い致します

世間一般は、二階級進級或いは感状上聞の方々を一番えらいと思って居ります様ですが、自分達空中勤務者はそうではないと思ひます
感状上聞二階級進級も確かに武勲ある方々だと思ひます。而し鈴木の様な散華こそ之に劣らず皇國を勝利に導くものであると信じます
敵機邀撃のため出動、敵とまみえず涙を呑んで愛機と運命を共にした操縦者はどれだけあるか知れません。それを思って下さい…

尚、石岡軍曹は去月二十七日、南の某部隊に転出致しました。さきに鈴木を失ひ、今亦石岡と別れなければならぬ小兵の気持、御察し下さい。
日記に小兵の事が書いてあります由、最後まで心配をかけし事を非常に申し訳なく思って居ります。
きたない話ですが、入院中は小兵のふんどし迄洗ってくれました。退院後は必ず入浴は一緒で、何時も背中を流してもらいました。今思ひ出せば涙の種となるばかりです
もう本当に心を割って話が出来る相手がなくなりました。御察し下さい

戦局愈々苛烈、昨夜もB29は帝都を空襲致しました。任務の為、地上で切歯するのみにて涙を呑みました。而し必ずやる秋
(とき)があります。その秋こそ鈴木と共に敵艦と運命を共にする必算です。形見の「マフラー」と共に醜敵必滅の猛訓練です。
今、父上様の便りを鈴木の遺影に捧げました。何だか笑って居る様な気が致します。
御地は未だ寒気は覚えます由、充分身体に留意せられまして増産に敢闘せられます様、御祈り致して居ります


横手興太郎少尉 最後の書簡


 
横手興太郎少尉は、大正13年、大阪市生まれ(本籍鹿児島)。広島陸軍幼年学校から航空士官学校第57期へ進み、乙種学生終了後、昭和19年11月、同期生5名と共に244戦隊に配属された。
 航法学生として宇都宮教導飛行師団へ派遣された経歴があるため、戦隊本部に所属して、20年春頃から特別攻撃隊を前線へ引率誘導する任務に就いていた。
 20年5月28日、5式戦に搭乗して第159振武隊を知覧へ誘導中、発動機不具合のため富士飛行場に不時着し、再度離陸した直後に墜落、戦死した。享年満21歳。
 彼は明るくひょうきんな人柄で、ピストの人気者だった。営内では、戦利品の米軍ジャンパーを愛用していたという。



この新妻に宛てた書簡は、20年5月3日、第55および56振武隊を引率して調布を発つ際のものと思われる


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