震天制空隊アルバム
04.3.31

大東亜戦争末期の圧倒的劣勢下における帝都防空戦は、軍事的効果という点ではほとんど無意味と言って過言ではありませんでした。しかしながら、命と引き換えに都民(国民)を守ろうとした若者たちの情熱と志 、そして勇気は、永く後世にまで語り伝えられるべきだと私は信じます。彼らのことを忘れないで下さい。絶対に

19年12月7日 はがくれ隊編成記念写真

昭和19年11月7日、はがくれ隊(後に震天制空隊と命名)編成。後方は、3式戦の予備として準備された非武装の
1式戦2型で、当初は両機種が併用されていた。ピントが外れているが、尾翼には244戦隊マークがある。
左から隊長四宮 徹中尉、板垣政雄伍長、吉田竹雄軍曹、阿部 正伍長。 04.3.31 一部改訂




244戦隊の体当り攻撃一覧
日付
官姓名
場所
所属
備考

19.12.3
四宮 徹中尉
調布上空
震天隊長
武功徽章乙
生還

板垣政雄伍長 1回目
印旛沼上空
震天隊

生還

中野松美伍長 1回目



生還
19.12.27
吉田竹雄曹長
東京湾上空
とっぷう隊
感状上聞
戦死
20.1.9
丹下充之少尉
小平上空
震天隊

戦死

高山正一少尉 1回目
立川上空
震天隊長
武功徽章乙
生還
20.1.27
高山正一少尉 2回目
銚子沖50q
震天隊長
感状上聞
戦死

安藤喜良伍長
帝都上空
本部小隊

戦死

服部克己少尉 (注1)

そよかぜ隊

戦死

小林照彦大尉
八王子上空
戦隊長
武功徽章乙
生還

田中四郎兵衛准尉
原町田上空
とっぷう隊

生還

板垣政雄軍曹 2回目
松戸上空
震天隊

生還

中野松美軍曹 2回目
調布上空


生還
20.2.10
梅原三郎伍長
筑波山上空
とっぷう隊

戦死
20.4.7
河野 敬少尉
調布上空
とっぷう隊
感状上聞
戦死

古波津里英少尉
調布上空
とっぷう隊
武功徽章乙
生還
20.4.15
市川忠一中尉
帝都上空夜間
みかづき隊
武功徽章甲
生還

藤沢浩三中尉


武功徽章乙
生還
注1=服部少尉の体当りは目撃証言を欠いたために軍から認定されず、通常の戦死とされた

注2=震天隊のメンバーは何度か入れ替えがあった

注3=震天制空隊は20年3月10日、244戦隊の30FC編入と共に編制を解かれ解散した



震天隊1月12日

20年1月12日、大日本婦人会の慰問の後で。左から佐藤准尉、高山少尉、中野伍長、板垣伍長。
佐藤准尉が持つのは9日に戦死した丹下少尉の遺影。日本人形は彼らのマスコットとなり、のちに
佐々木少尉らに連れられて知覧までお供をすることになる。後方は73号機と思われる。


震天隊出動

作戦室から流される「はがくれ隊あおぞら(出動せよ)」の放送を受け、機側待機所の
テントから愛機へと向かう高山隊長、佐藤准尉、板垣、中野両軍曹。


震天隊最終メンバー

20年2月、震天隊の最終メンバー。左から隊長佐々木少尉、中野軍曹、頼田少尉、板垣軍曹。
後方は、中野軍曹機16号らしい。


ブランデーで乾杯

戦利品のブランデーで乾杯。左から頼田少尉、佐々木少尉、古屋見士、斎藤少尉(後ろ)、
中野軍曹、太田見士、板垣軍曹、鈴木伍長。20年2月初旬(見習士官2名は整備隊員)


小林戦隊長と安藤

19年末の小林戦隊長と、この頃の僚機安藤喜良(きよし)伍長。後方は安藤伍長機
45号だが、安藤が20年1月27日、体当り時に乗っていたのは別の機体。


戦死前日の安藤伍長

20年1月26日、用務のため高練で浜松へ飛び、調布へ戻る機中の安藤伍長。
この翌日、長機に続いて体当り攻撃を敢行し、一抱えの肉塊と化した。


遠藤長三伍長


梅原三郎伍長
19年12月当時、震天隊員だった遠藤長三軍曹。
20年2月16日、敵艦載機に撃墜され、戦死。


梅原三郎伍長。京都府綾部市出身、享年満20歳。
下館市の死没地点に母が建てた慰霊碑がある。

そよかぜ隊服部少尉


服部少尉スコアマーク記入
そよかぜ隊ピスト前の服部克己少尉(幹候9期)。
彼は下宿先で、よくギターを弾いていたという。


スコアマークを書き入れる服部少尉。彼は体当り以前に、
3機撃破の戦果を記録していた。彼の乗機の部品が墜落
したB29に食い込んでいたと言われたが、目撃証言が得ら
れなかったため、結局体当りとは認められなかった。


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