昭和20年3月、調布飛行場西地区における第19振武隊。殉職等で2名減って10名になっている。 前左から向島軍曹、林少尉、四宮中尉、井上少尉、後左から阿部軍曹(生還)、島袋曹長、平野少尉、 角谷少尉、小林曹長、松原曹長。写真の全員が出撃し、9名が戦死を遂げた。 |
20年3月19日、調布を出撃直前の19振武。この時の出撃は半数のみで、会敵し得ず浜松に帰還した。 信じがたい記述があるが、17Fcs隊員が撮影した両隊の写真は知覧移動時ではなく、この3月19日出撃時 のものである。01.7.22 |
↑244戦隊つばくろ隊時代の四宮中尉。 | ↑19年12月5日、244戦隊本部前での壮行式。左手中央の6名が 振武隊へ転出する隊員。他は戦隊と飛行場大隊、高射砲隊幹部。 |
■ 東部軍司令官からの表彰状 | 05.7.6 |
■ 武功徽章送付ノ件通牒 | 05.7.6 |
■ 12月3日、B29体当り当日の日誌直筆 | 05.7.6 |
日本郵船飛田給錬成場の屋根をかすめて着陸する3式戦。進入コースからして、 当時、調布飛行場西地区にいた飛行第18戦隊の機体と推察される。昭和19年夏。 |
20年3月、「郵船」で催された送別の宴。中央の四宮、小西両隊長以下、14〜15名の隊員が写っている。 いくつもの屋台が設けられて飲み放題、食べ放題の豪勢なものだったという。女性たちは戦隊と縁の 深かった新宿十二社の芸者衆である。 |
↑バックの250キロ爆弾を下げた1式戦が四宮中尉の 乗機と思われる。この写真の裏には、「20.4.27 防府 飛行場ニテ出発前日、写ス」とある。 まだ肩に日の丸の縫いつけがないことに注意。 | ↑右は同期の第18振武隊長小西利雄中尉。 小西中尉は本来美男子だが、操縦教育中の接触 事故で顔に傷を負ってしまった。 18振武と19振武は最期まで行動を共にした。 |
四宮徹中尉は、大正11年5月熊本市に生まれ、済々黌中学に学んだ後、陸軍航空士官学校56期に進み、244戦隊に配属された。昭和19年11月7日、対空特攻隊長に任ぜられ、12月3日にはB29 1機を体当り撃墜、片翼となった愛機を操って奇跡的に生還し、陸軍武功徽章を授与された。しかし、実際に徽章が与えられたのは、彼の死後、母の元へであった。 心優しく穏やかな人柄で、その風貌から周囲からは「西郷さん」と、あだ名で呼ばれ、親しまれていた。享年満23歳だった。 20年4月29日23時、知覧飛行場で出撃のため愛機に向かって歩きながら、月明かりを頼りに走り書きしたのが、この遺書である。 訂正 『陸軍飛行第244戦隊史』では、四宮中尉の母堂が知覧基地に駆けつけ、遺書を受け取ったかのような記述をしてしまったが、これは誤り。この遺書は、知覧整備隊の少尉が5月1日、熊本市の四宮家に直接届けたもの。 | |
■ この遺書の直筆 05.7.6 |
母上様 兄上様 只今より出発致します 実に、喜び勇んでおります ちょうど、小学校時代の遠足を思ひ出します どんな獲物があるかと、胸をわくわくさせて待っております 決意とか、覚悟といふような、こだわりは少しもなく、 本当に、全員、純真無邪気です 小学校に通学する朝、「行って参ります」と云って出かけたことを思ひ出します 本当に嬉しさで一パイです デハ、「行ッテ参リマス」 御機嫌よう 徹 天長の 月あび勇む 必勝行 | |