四宮中尉と第19振武隊
06.11.8


第19振武隊 20年3月 調布西地区


 昭和20年3月、調布飛行場西地区における第19振武隊。殉職等で2名減って10名になっている。
 前左から向島軍曹、林少尉、四宮中尉、井上少尉、後左から阿部軍曹(生還)、島袋曹長、平野少尉、
角谷少尉、小林曹長、松原曹長。写真の全員が出撃し、9名が戦死を遂げた。


第19振武隊 20.3.19調布出撃


 20年3月19日、調布を出撃直前の19振武。この時の出撃は半数のみで、会敵し得ず浜松に帰還した。

 『世界の傑作機 65 』には、18、19振武が調布から250s爆弾2発を下げて知覧に向かった…などと
信じがたい記述があるが、17Fcs隊員が撮影した両隊の写真は知覧移動時ではなく、この3月19日出撃時
のものである。01.7.22


つばくろ隊時代の四宮中尉
振武隊壮行式
244戦隊つばくろ隊時代の四宮中尉。
19年12月5日、244戦隊本部前での壮行式。左手中央の6名が
振武隊へ転出する隊員。他は戦隊と飛行場大隊、高射砲隊幹部。

東部軍司令官からの表彰状
05.7.6
武功徽章送付ノ件通牒
05.7.6
12月3日、B29体当り当日の日誌直筆
05.7.6



日本郵船飛田給錬成場

 日本郵船飛田給(とびたきゅう)錬成場は本来、社員用の豪華保養所だが、調布飛行場に隣接していたことから事実上陸軍に接収された状態で操縦者用保養施設となっており、夏にはプールで水泳も行われた。そして、19年11月17日、調布を発った八紘第4隊(後の護国隊)を皮切りに、「郵船」は特別攻撃隊の宿舎兼リクリエーション施設となって、18、19両隊も20年2月初めから4月下旬まで、ここに居住していた。

 「郵船」にはピアノがあった。特に学徒出身将校の中には音楽好きも多く、ピアノ演奏が楽しみで「郵船」に通っていた244戦隊員もいたのである。19振武隊の平野俊雪少尉もピアノが上手で、彼もよく戦友たちに弾いて聞かせていたそうだ。

郵船をかすめて着陸する3式戦

 日本郵船飛田給錬成場の屋根をかすめて着陸する3式戦。進入コースからして、
当時、調布飛行場西地区にいた飛行第18戦隊の機体と推察される。昭和19年夏。


郵船送別の宴


20年3月、「郵船」で催された送別の宴。中央の四宮、小西両隊長以下、14〜15名の隊員が写っている。
いくつもの屋台が設けられて飲み放題、食べ放題の豪勢なものだったという。女性たちは戦隊と縁の
深かった新宿十二社の芸者衆である。



 第18振武隊と19振武隊は、共に昭和19年12月1日、第10飛行師団隷下の各戦隊から抽出した技倆優秀者を主体に編成が下命された。
 第19振武隊には244戦隊から四宮徹中尉、井上忠彦少尉、角谷隆正少尉、伊藤賀夫少尉、小林龍曹長、阿部正伍長、70戦隊からは塩沢優少尉(後に殉職)、平野俊雪少尉、林格(はやしいたる)少尉、島袋秀敏曹長、松原武曹長、向島幸一軍曹が選ばれ、12月5日、相模飛行場で編成を完結した。

 両隊は本来、19年12月にも敵機動部隊が関東に来襲するとの情報に基づき、編成が急がれたのだが、結果としては誤報であり、結局両隊の出番は約5ヶ月後の沖縄戦まで持ち越されることになった。

 20年4月29日23時12分、小西隊長以下第18振武隊の8機が、次いで同30分、四宮隊長以下第19振武隊5機が月明の知覧飛行場を出撃していった。更に5月4日早朝、林格少尉以下の6機が知覧を出撃した。両隊の特攻戦死者は計16名、殉職者1名、復員者7名であった。(06.11.8修正)


角谷隆正少尉が調布の同期生に宛てた書簡 05.7.5

昭和20年4月13日付

 兵庫県加古郡高砂郵便局気付 中部第18425部隊 四宮隊 角谷隆正
 ョ田 森 斎藤 佐々木 殿

其の後如何か。小生相変わらず
色々御迷惑ばかりかけた俺が居らなくなると皆ほっとするだろう

比方へ来るとろくな事が無い。やはり其方が良い。ョ田の家へはまだ行ってない。行く機会が有れば是非寄る
では皆頑張れ
他の者にもよろしく伝えて呉れ
                                  敬具
*********************
昭和20年5月5日付(住所無し) 

其の後如何か。小生等も元気なり。後僅かだ。家へ寄ろうと思ったが、大阪へ着いた翌日から岡山へ行き加古川へ行きまた此処だ

先日貴様等の活躍振りを新聞で見た。森や斎藤も張り切っているね
俺も最期の頑張りをみせるよ
体に充分気を付けて大いにやって呉れ
皆によろしく
                                  敬具

=この葉書は防府で書かれ、彼の出撃後、依頼を受けていた人物が知覧で投函したものと思われる。


1式戦の前で四宮中尉
四宮中尉と小西中尉
バックの250キロ爆弾を下げた1式戦が四宮中尉の
乗機と思われる。この写真の裏には、「20.4.27 防府
飛行場ニテ出発前日、写ス」とある。
まだ肩に日の丸の縫いつけがないことに注意。
右は同期の第18振武隊長小西利雄中尉。
小西中尉は本来美男子だが、操縦教育中の接触
事故で顔に傷を負ってしまった。
18振武と19振武は最期まで行動を共にした。


 四宮徹中尉は、大正11年5月熊本市に生まれ、済々黌中学に学んだ後、陸軍航空士官学校56期に進み、244戦隊に配属された。昭和19年11月7日、対空特攻隊長に任ぜられ、12月3日にはB29 1機を体当り撃墜、片翼となった愛機を操って奇跡的に生還し、陸軍武功徽章を授与された。しかし、実際に徽章が与えられたのは、彼の死後、母の元へであった。

 心優しく穏やかな人柄で、その風貌から周囲からは「西郷さん」と、あだ名で呼ばれ、親しまれていた。享年満23歳だった。
20年4月29日23時、知覧飛行場で出撃のため愛機に向かって歩きながら、月明かりを頼りに走り書きしたのが、この遺書である。

訂正 『陸軍飛行第244戦隊史』では、四宮中尉の母堂が知覧基地に駆けつけ、遺書を受け取ったかのような記述をしてしまったが、これは誤り。この遺書は、知覧整備隊の少尉が5月1日、熊本市の四宮家に直接届けたもの。



この遺書の直筆 05.7.6


母上様 兄上様
 
只今より出発致します
実に、喜び勇んでおります
ちょうど、小学校時代の遠足を思ひ出します
どんな獲物があるかと、胸をわくわくさせて待っております
決意とか、覚悟といふような、こだわりは少しもなく、
本当に、全員、純真無邪気です
小学校に通学する朝、「行って参ります」と云って出かけたことを思ひ出します
本当に嬉しさで一パイです

 デハ、「行ッテ参リマス」
 御機嫌よう
               徹

 天長の 月あび勇む 必勝行




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