振武寮の虚構 06.6.8/07.1.17

 先日、特攻を研究テーマとされている日本史専攻の大学院生加藤拓さんから、「振武寮」に関する研究ノートを送っていただきました。

 振武寮は、第6航空軍司令部が不時着生還した特攻隊員を収容するために、接収した女学校内に設置したとされる宿舎です。
 振武寮に関しては公的記録が皆無であるため、数少ない市販出版物に頼るほかありません。加藤さんのノートは、振武寮に触れているいくつかの出版物の記述を、客観的に比較検証したものです。

 私自身は、振武寮については今まで特段の関心はなく、ほとんど知識もありませんでしたが、この機会に手元の資料に改めて目を通し、頭に閃いたことを書き出してみたいと思います(但し、加藤さんのノートの内容に対する論評ではありません)。


1.生還は想定外だったか

 『特攻の町・知覧―最前線基地を彩った日本人の生と死』では、倉沢元参謀の言から

当時の六航軍は特攻隊員が目的を果たさずに生きて帰ってくるなどとは考えていなかったため、次々と帰ってくる死んだはずの特攻隊員をいったいどのように処理したらいいのか分からなかったそうである
と書いていますが、これは違います。

 ぶっつけ本番の特攻であった捷号作戦(比島)とは違い、天号作戦(沖縄)では周到な準備がなされていたと思います。また沖縄までは非常に遠いため、天候に大きく左右されることも必然であり、出撃後の帰還や途中不時着は想定されていました。
 隊員は不時着時用の食糧も携行し、教育の中でも無理をせず帰ってくるように指導されていたはずです。もしそうでなかったのなら、彼らの多くは自爆して帰らなかったに違いありません。


2.滞在期間

 これは核心に迫る極めて重要な点なのですが、振武寮について記述した出版物らは、何故か何故か滞在期間には触れていません。彼らが、あたかも長期に渡る監禁生活を強いられたように思わせたいのでしょうか。

 「振武隊編成表」によると、上記出版物に登場する22振武隊の大貫少尉、39振武隊の牧少尉らが重爆で喜界島から福岡に帰還したのが5月28日で、この直後に彼らは振武寮に入ったと考えられますが、付属文書である「振武隊異動通報第2號」を見ると、6月13付で、大貫少尉ら振武寮に宿泊していた在福岡人員45名(全員が喜界島からの帰還者)が明野教導飛行師団をはじめ、いくつかの戦隊等に転属しております。

 また、65振武隊片山少尉は5月14日に知覧から飛行機受領のため福岡に戻り、当初はしばらく旅館に宿泊していたが、その後振武寮に移ったということです。移ったのが何日のことなのか定かではありませんが、片山少尉は、異動通報第6號によれば、6月1日付で明野教導飛行師団に転属しています。
 更に6月13日〜19日に福岡に着いた23名は、同22日〜25日に上記同様転属となっています。つまり、帰還隊員たちが振武寮に滞在した期間は、そのほとんどが約1週間〜2週間、最短は3日程度でしかないのです。


3.機密保持

 第6航空軍司令部は特攻隊員用の宿舎として、当初は借り上げた旅館を使っていたそうです。このようなことは珍しくはありませんが、帰還隊員の宿泊者が増えてくると町中の旅館では不都合が生じるのは当然です。

 今日ではピンと来ないかもしれませんが、最大の不都合は
機密保持であったと思われます。また軍隊としては当然のことですが、旅館では軍紀の維持もままならなかったと考えられます。

 振武寮での滞在中、外出や外部との通信が制限されたことが、後記『特攻日誌』の「監禁」という誇張した表現になっているのですが、隊員たちは帰還したといっても、未だ作戦自体は進行中であり、機密保持が優先されるのは当然であります。もしも帰還隊員全てが家族等と連絡をとれば、そこから作戦の帰趨等の機密が漏れる可能性は十分に考えられます。

 『特攻の町知覧』では、にもかかわらず女学生の慰問が行われたのを「謎」と書いていますが、これはおそらく、隊員たちに息抜きをさせるために司令部が依頼したもので、何も不思議ではありません。


4.志願か命令か

 特攻が志願であったか命令による強制であったのかは、戦後ずっと議論がありますが、これはどちらも正しいと思います。軍という組織の中では、真の意味の任意はあり得ないからです。

 特攻志願書の提出というのは、あくまでも儀礼的形式(
命を捨てる覚悟の武人に死を命ずるのは礼に反する→自発的志願を促す)でしかないことは、軍人ならば皆承知していたはずです。人選に際して最も考慮されたのは技倆や経歴であって、「熱望」も「希望せず」も、現実にはほとんど無関係であっただろうと想像します。

 このことが問題になったのは、敗戦の結果、特攻隊員たちが無駄死ではなかったのか?という疑念と非人道的作戦遂行に対する責任問題が生じた故で、大東亜戦時の将兵たちの実感としては、形式的志願でも命令でも結果が変わるわけではなく、おそらくどちらでもよいことではなかったでしょうか。
 選に漏れたことに憤り、戦隊長に直談判した結果、念願叶って特攻隊員となった者もおりますし、特攻隊でないにも拘わらず、進んで体当りを敢行した勇士も存在するのです。


5.参謀の言動

 第6航空軍上層部の言動は、特攻隊員に限らず反感を買っていたようです。244戦隊の小林戦隊長も知覧における5月31日の日誌で菅原司令官らについて

<(前略)
○○司令官ノ名高何ゾ値ス。零点ナリ。(中略)必成必勝ノ成算果シテ彼等、縄吊リ将校ニアリヤ。不惜身命惜身命ノ大悟、果シテ彼等ニアリヤ。彼等ハ皇国ヲ毒スルモノナリ(後略)>
とまで批判しています。

 彼らは、帰還隊員たちに対しても非情あるいは侮辱的な言動をなしていたと証言されています。しかし出版物に登場する僅かな証言者は、皆将校なのです。帰還者の半数は下士官でしたが、彼らがどう感じていたのかは書かれていません。

 天皇から任命を受けた皇軍将校に類する存在が今日では見あたらないので理解し難いかもしれませんが、そのプライドは今では想像もつかないほどです。
 振武寮では、全員が写経や軍人勅諭を書かされたといわれています。これなども、その目的はともかく、将校のプライドからは受け入れ難いことなのだろうと推察されます。
 つまり、同じ言葉、同じ処遇でも、将校と下士官とでは受け止め方に大差があるはずで、証言者が参謀らの言動から受けた屈辱感が、特攻隊員として普遍のものなのか、あるいは将校という立場故なのか、数少ない証言だけでは明確でありません。


6.私なりの結論

『特攻日誌』のあとがきでは編者が

彼らは福岡の軍司令部に申告に行き、代機を受領しようとした。菅原軍司令官は、「貴様達は何故死んでこなかったか、卑怯者!」と罵倒し、ご苦労であったとねぎらいの言葉もかけず、福岡女学院の寄宿舎だった振武寮に彼らを収容した。
 生き神さまと崇めた特攻隊員が帰還してはならなかったのである。それが世間に知れることを恐れて、全員を振武寮に監禁し、朝から軍人勅諭と戦陣訓を書かせて、精神改造を迫ったというのだ


 と記していますが、帰還隊員の存在が「世間に知れることを恐れ」「振武寮に監禁」「精神改造」…何れも首を傾げざるを得ません。

 この記述の中に、「代機を受領」とありますが、既に沖縄作戦は終わりに近付いており、飛行機の準備も隊の再編成も訓練も間に合わず、もし隊員たちが望んだとしても、
再出撃は当面あり得ない状況でした。だからこそ6航軍は多くの隊員を転属させ、指揮下から外しているのです(但し、6航軍指揮下のまま知覧等に戻された者もいたが、これはごく一部)。

 彼らが振武寮に滞在したのは前述のように極めて短期間です。また、その間に外出や通信が制限されることも、作戦中の軍隊ですから当然の処置と思われます。隊員たちは帰還したとはいっても、まだ任務を解かれたわけではないのですから、「監禁」「幽閉」などの表現は全く的はずれです。

 振武寮の話は、このあとがきのように、そこでの哀れな特攻隊員たちと「高圧的非情な参謀」との絵に描いたような対比の構図が、「皇軍の非人間性」を誇張し糾弾したい著者たちの思惑に合致した、魅力的なエピソードだったのだと思います。

 操縦は(勿論、軍人としても)経験が全てであり、実戦を経験し死線を越えた帰還隊員たちは、深刻なパイロット不足の中で、邪魔者どころか
むしろ戦力として有用な存在でしょう。一日も早く心身を回復させ、彼らを再度空中勤務に復帰させるのが、第6航空軍の本旨であったはずなのです。

 前述のように第6航空軍上層部の言動には確かに問題があり、評判が悪かったことは事実と思われますが、このことと振武寮の役割とは別の話です。

 以上から、振武寮は本来、帰還隊員の休養宿泊の場として用意されたもので、ここから各隊員たちは順当にそれぞれの転属先に旅立ち、あるいは原隊に帰って行っただけのことではなかったでしょうか。

 任務を最後まで遂行し得なかったことに対する軍人としての挫折感や忸怩たる思いに加え、生き神様とまで崇められた出撃前とその後の処遇の落差に、隊員たちの心理が順応し得なかったであろうことは想像に難くありませんが、ある映画や出版物が広めた振武寮のストーリーは明らかに針小棒大であり、
虚構に近いものだと、私は判断します。


追記1 振武寮は兵站宿舎 07.1.17

 売国放送局の昨年の番組では、「振武寮が存在したのは、僅か1ヶ月半…」と言っていたと思います。つまり、20年5月下旬に開設されたのであれば、ちょうどその頃本土に戻ってきた不時着生還者たちを、「世間の目に触れないよう監禁するために設けられたのだ」という主張にとっては都合がよいわけです。

 しかし、第29振武隊山田忠男伍長(4月6日出撃)の回想記によると、飛行機故障のため本隊から落伍して立川へ戻っていた山田伍長が、予備機2機とともに本隊を追及して知覧へ前進の途中、4月3日に福岡の司令部に申告のために立ち寄った際には、その日から5日まで、「
福岡県立高等女学校の寄宿舎の仮兵舎」に宿泊したとあります。

 当時、県立福岡高等女学校は第6航空軍司令部として使われており、振武寮があった私立福岡女学院はその傍でしたから、「県立高等女学校の寄宿舎」とは、実は福岡女学院の寄宿舎、つまり振武寮の誤認である可能性が高いと思われます。
 だとすれば、
振武寮は4月3日時点には既に存在しており、不時着帰還者収容のために急遽開設されたものではないということです。

 第6航空軍司令部は3月10日付で東京から福岡に移動しましたが、所謂振武寮はそれに伴い、「
兵站宿舎」として設置されたものだと考えられます。
 よって、本宿舎の設置は軍としての通常且つ基本的な処置でしかなく、この場所に於ける後の当事者間の葛藤とは、別の問題です。

兵站宿舎=当該基地に勤務する者が居住する兵営ではなく、外来者や一時立ち寄り者のための宿泊施設。


追記2 振武寮は記録から抹殺されたのか? 07.1.17

 『特攻の町知覧』では、振武寮について「日本の軍事記録から完全に抹殺されてしまった」とし、売国放送局の番組も似たようなことを言っていました。

 しかし、抹殺されたのは振武寮の記録ではなくて、敗戦時に現用であった皇軍文書のほぼ全てでしょう。この処分は徹底していて、私物である個人の日誌、写真等までもが焼却されています。
 「振武隊編成表」にしても、当時は複数部が作製されて各部署に配布されていたはずですが、その中で、敗戦時には既に鉾田教飛師に転属していた倉澤氏個人の手元にあった一部だけが、処分から漏れて辛うじて生き残ったのです。

 今日、現存している皇軍文書の多くは、大東亜戦争前半までのものだと思いますが、これらは敗戦時には既に現用ではなかったために、倉庫等に保管されていて敗戦直後の処分から漏れたのだと想像します。
 したがって、振武寮に関しても今日、
文書記録は残っていないのがむしろ当然であり、あたかも軍にとって振武寮が隠さねばならないような重要な事項であり、そのために本件記録だけが消されたかのように言うのは、全くの詭弁です。


戻る