酸素マスクを装着して出撃

酸素マスクを装着して出撃準備完了。244戦隊の勇士



陸軍飛行第244戦隊概史
07.6.9 改訂

編成当初
 昭和16年7月20日、陸軍航空士官学校の教官、助教を中核として編成が下命された飛行第144戦隊(当初通称号 風第9301部隊、のち東部第108部隊)は、7月下旬、竣工間もない東京調布飛行場で編成を完結し、帝都防空を任務として同じく調布で新編された第17飛行団(通称東部第100部隊 )の指揮下に入った。初代戦隊長は泊 重愛(とまり しげちか)少佐、戦力は97戦2個中隊(定数19機)を保有していた。
 144戦隊は禁闕守護
(きんけつしゅご=宮城警護)を最重要任務としていたため、隊員たちは自らを「近衛飛行隊」と呼んで士気は頓に上がった。

 17年4月18日、敵B25爆撃機による帝都初空襲に対しては哨戒並びに邀撃を実施したが、効果はなく、爾後戦力向上を計って2式単戦
(鍾馗)および2式複戦(屠龍)各1個小隊を追加保有した。更に同10月、第3中隊「みかづき」を新設し、3個中隊編制をとった。なお17年4月15日、近畿および北九州の防空専任部隊新編に併せて、戦隊名は飛行第244戦隊と改称された。
第17飛行団司令部(本部)の通称号は「東部第115部隊」。


先任飛行隊長 村岡英夫大尉

 先任飛行隊長村岡英夫大尉。空中指揮を執らなかった藤田戦隊長に代わり、244戦隊を実質
的に率いるとともに、当初、不具合の多かった3式戦の改良にも尽力した。
 彼の猛訓練は語り草になっているが、卓抜な指揮官であり、多くの操縦者を育てた。彼が後の
「小林戦闘機隊」の土台を造ったと言える。
 村岡大尉は、自ら育てた244戦隊を率いて帝都防空への参戦を熱望していたが、実現を目前に
して飛20戦隊長に補せられ、その夢は叶わなかった。



3式戦の配備…運用の不如意
 18年7月、戦隊は使用機を新鋭3式戦に改変したが、3式戦のエンジン「ハ40」の信頼性は極めて低く、不具合が多発して当初、運用は困難を極めた。当初オーバーホール時間であった80時間ちょうどでクランクシャフトが折れ、整備隊幹部を驚かせたこともあった。また、墜落事故も激増し、神官を呼んでお祓いをしたほどだった。

 19年2月、戦隊に飛行隊編制が実施された。中隊を廃止して飛行隊と整備隊が編成され、従来戦隊長指揮下にあった飛行場大隊は分離して飛行団長直轄となった。また、整備は従来の戦闘整備だけでなく、陣容を強化して整備作業全般を担当することとなった。なおこの時期、244戦隊は編成担任として飛行第18戦隊および独立飛行第23中隊を新編し、両隊には多くの人員が転出している。

 同年夏、3式戦の運用も軌道に乗り、可動率も向上、また操縦者の層も厚く、戦隊は40機の出動戦力を維持しつつ、至上命題とされた夜間戦闘能力の向上を目指して連夜の夜間演習に励んだが、この頃が戦力の最盛期であった。

 244戦隊には、特操1期、幹候9期、少飛12期および13期、予備下士9期生ら未熟操縦者が、同年春ごろから大量に配属されてきた。このため従来の編制では不都合が生じたのに伴い、10月1日、第4飛行隊「そよかぜ」が新設され、戦隊は4個飛行隊の編制となった。


タ弾について
 「ヒトラーの贈り物」と称せられたタ弾(ただん)は、244戦隊でも一部の3式戦に装備して訓練を繰り返しており、教導航空軍主催のタ弾攻撃競技会(この際、ある隊員が海軍厚木飛行場にタ弾を投下してしまうという珍事もあった)でも優勝するほどの実力だった。
 しかしながら、19年11月1日および5日のB29来襲(高々度偵察)に際し、タ弾装備機は8000メートルまでしか上がれず、敵機の飛行高度にすら達することができなかったために有効性が疑問視され、以降、タ弾による邀撃は実施されずに終わった。


19年末、調布を出撃せんとする小林戦隊長

 19年末、調布を出撃せんとする小林戦隊長。彼は軽爆の中隊長から戦闘へ転科した操縦者
(明野甲学19年6月終了)で、戦闘機の経験は極めて僅かしかなかった。しかし経験不足をもの
ともせず、率先して空中指揮を執り、戦隊の士気を大きく高めた。



小林部隊…邀撃戦華やかなりし頃
 19年11月末、老練な実力者であった戦隊長藤田隆少佐が転出し、代わって軽爆出身、若干24歳の小林照彦大尉が新戦隊長として赴任した。更に戦隊幹部の顔ぶれも一新されて戦隊のムードは溌剌としたものとなったが、同時期に多くのベテラン、中堅操縦者たちも戦隊を去り、戦力の弱体化は否めなかった。
 操縦者の減員に伴い、小林戦隊長は第1飛行隊「つばくろ」を廃止、「そよかぜ」を新第1飛行隊に、第2飛行隊「とっぷう」を改編して飛行隊を3個隊に縮小した(第3飛行隊「みかづき」は従前通り)。

 11月初頭から始まったB29による帝都空襲に際し、244戦隊は毎度邀撃を実施したが、3式戦の高空能力不足のため効果は薄く、師団長命により対空特攻隊(後に震天隊と命名)を編成した。12月3日の空襲では、対空特攻隊の3機体当りを含む6機撃墜の戦果を報じ、「小林部隊」の名を天下に知らしめた。

 12月19日、師団長命による推進邀撃のため、戦隊主力は浜松へ移動した。以後、翌年2月下旬まで、戦隊は浜松と調布の間を機動しつつ連日のように邀撃を実施し、2月19日までに撃墜破計100機という戦果を記録した。この中には、小林戦隊長をはじめとする計14回の体当り攻撃(うち戦死6名)による戦果が含まれている。

 なお、体当り攻撃は敵の帝都来襲時のみで、通常攻撃による大きな戦果は名古屋来襲時という特徴がある。これは帝都来襲の場合、市街地侵入前(投弾前)の短時間に必墜せねばならなかったのに対し、名古屋の場合には、浜松基地の位置関係等から投弾後、編隊型を乱して脱去する敵機を時間をかけて追撃したため、戦隊にとって比較的有利な態勢から攻撃できたことに起因している。


小原中尉と「そよかぜ隊」の面々

 調布飛行場で小原中尉(左端)の戦技指導に耳を傾ける「そよかぜ隊」の面々。
奥から生野隊長、前田少尉、木内少尉、松枝伍長、井出少尉。



小型機来襲…邀撃の困難化
 20年2月16日、敵艦載機が大挙来襲して終日、波状的に関東各地を攻撃した。244戦隊は全力30機が早朝から夕刻まで6次 (従来、40機出撃、5次と書かれてきたのは誤り) にわたって出撃を繰り返したが、初の対戦闘機戦闘に苦戦して未帰還計8機、戦死者4名の損失を被った。更なる損害を恐れた防衛総司令部は、244戦隊を第10飛行師団指揮下から第6航空軍指揮下に編入して一時的に防空任務を解除した。

 3月10日、戦隊は機動部隊攻撃を任とする第30戦闘飛行集団指揮下に入った。そして3月19日午後、戦隊は同集団の総力を挙げた機動部隊攻撃作戦に参加、第18および19振武隊直掩の任務をおびて全力で調布を出撃したが、会敵には至らず、夕刻浜松に帰投した。

 4月に入ると、244戦隊は再び防空任務に復帰して計6度(うち夜間2度)の邀撃を実施している。しかし、B29がP51を随伴するようになったために損害が増え、戦爆連合に対する邀撃は困難の度を増した。


特攻作戦参加〜終戦
 4月下旬、戦隊は使用機を5式戦に改変した。5月17日、天号航空作戦(沖縄防衛戦)参加の命を受け、ほぼ全力で調布を出発し、大阪、大刀洗、都城を経て20日、知覧に到着した。そして25日から6月11日までの間、数度にわたり特攻諸隊を徳之島付近まで掩護する任務に就いた。

 知覧に於ける戦闘では、特に6月3日の対コルセア戦で7機を撃墜して5式戦の優秀性を立証するが如き活躍を示し、面目を施したものの、僅か2度の交戦で5名もの優秀操縦者を失ったことは、戦隊にとって痛手となった。また、2日にはコルセアの銃撃により、整備兵2名の戦死者も出している。

 7月10日、制号作戦(対爆機動防空作戦)が発令された。これにより戦隊は小牧への転進を命ぜられ、15日までに小牧に着いたが、更に八日市への転進が指示され18日、八日市に終結完了した。
 八日市には13日、「そよかぜ」が第一陣として先着していたが、16日、邀撃に出動してP51と交戦、2機を失った。
 更なる損害を防ぐため、戦隊には第11飛行師団長から邀撃禁止が命ぜられたが、25日朝、小林戦隊長はこれを無視して戦隊主力10数機がF6F群と交戦、10機を撃墜し、我が方の損害2機を記録した。
 これは近来希に見る快挙であったが、明白な命令違反であり、大本営は軍法会議による処罰を検討していたと言われる。しかし本件が上聞に達し、陛下のご嘉賞を受けたことから情勢が逆転、責任は不問に付された。

 8月、戦隊は再度の南九州前進に備え、戦力回復に努めていたが、8月14日、爆撃機のみ来襲の情報により、2個飛行隊10数機が出撃して哨戒中、生駒山上空においてP47の奇襲を受け、1機を失った。これが前年11月以来、約30度におよんだ戦闘の最後となった。翌15日、大東亜戦争は終結したが、この時点での出動可能戦力は、26機程度
であった。

 8月24日前後、操縦者の大半が復員帰郷し、同30日、復員式を挙行して244戦隊はその歴史を閉じた。戦隊の戦没者数は戦死(特攻を含む)51名、殉職19名(判明分のみ)計70名であった。また、最終的戦果は次のように推定される。

 撃墜 B29=73機 F6F=20機 F4U=7機 SB2C=1機 計101機

出典=『陸軍飛行第244戦隊史』櫻井 隆著 そうぶん社刊

この数字は、制号作戦発令時(7月10日)の出動可能戦力として記録されている31機から、その後の操縦者損耗および補充数を加減したもの。また、保有機数は、各飛行隊(整備小隊)とも定数(12機)を充足しておらず、機体不足解消のため、整備隊幹部が川崎航空機に出向き、完成と同時に5式戦を「ぶんどって来た」ほどだった。
 各飛行隊保有機数を10機、戦隊本部を3機と仮定した場合の総数33機に、推定可動率80パーセントを掛けると、やはり26機となって、上記とほぼ一致する。

終戦後の八日市飛行場における244戦隊の5式戦

 終戦直後の八日市飛行場で撮影された244戦隊の5式戦。この後、プロペラと磁石発電機(マグネト)を
外され、占領を待った。5式戦は八日市だけでなく、調布、大刀洗、隈之庄にも少数を分散待機させていた。
 八日市では終戦後、244戦隊が2機の5式戦を機密保持目的で焼却処分しているが、本機は排気タービン
式過給器装備の5式戦2型であった可能性が強い。




 八日市飛行場で最期を迎えた陸鷲たち。キー102乙が数機認められるが、これは陸軍航空輸送部第6飛行隊が、
八日市から実施部隊へ空輸すべく用意していたものと推察される。
協力 武田克敏氏、武田延亮氏



白井長雄大尉

浅野二郎曹長

小原伝大尉
白井長雄大尉

浅野二郎曹長

小原 伝大尉

244戦隊のエース

B29
小型機
合計
出身期
備考
白井長雄大尉
11
F6F 2
13
陸士55

市川忠一大尉

F6F 1
10
少飛3
武功徽章甲
浅野二郎曹長

F4U 3
10
下士86
武功徽章乙
小原 伝大尉
おばら つとう

F6F 2

航士56

生野文介大尉
しょうの ふみすけ

P51 2

航士55

小林照彦少佐

F6F 2

陸士53
武功徽章乙
佐藤権之進准尉



下士81
小型機については不明
※表中の数字は撃墜のみで全て推定。単独、協同両方を含む。


20年1月浜松にて みかづき隊第2小隊

 昭和20年1月20日、浜松飛行場における、みかづき隊第2小隊。後方は市川少尉
乗機の3式戦1型丙
。左から木原伍長、市川少尉、鈴木伍長、釘田伍長。鈴木、釘田
両者は、20年2月16日の敵艦載機邀撃戦において戦死。



白井大尉と市川大尉 07.6.9 改訂

 正統派戦闘操縦者とも言うべき白井大尉と市川少尉(当時)率いるみかづき隊は、「単機戦闘(旋回戦闘)こそ基本」との考えから、小林戦隊長が体当り至上主義に傾いていた時期にも、これとは一線を画し、単機戦闘演習を欠かさず実施していた。これには、戦隊長も苦言を呈したほどだった。
市川大尉は20年4月15日の夜間邀撃戦において「体当りを決行」と感状に記載されたが、これは当人には不本意だったようで、部下には「俺がそんなことをする訳がない」と、体当りを否定していたという。

 白井大尉は部下である市川氏を師と仰ぎ、彼を誘っては連日の如く単機戦闘に励んでいた。調布飛行場の直上で展開される両雄の壮絶な巴戦は、地上で見守る隊員たちにも手に汗握らせたそうだ。もはや、この情景を目の当たりにすることは叶わぬ夢だが、想像するだけでも私は胸の高鳴りを覚える。
 20年4月から終戦にかけての対戦闘機戦では、それまでの対B29戦とは比較にならぬほど操縦者の生命が危険に晒された。にも拘わらず、その間、みかづき隊が1名の戦死者も出さなかったことは、彼らが常に基本を忘れず単機戦闘に励んだ成果であろう。

 戦隊史を上梓して半年後、夢の中に白井氏が現れた。晩年の姿だったらしく、顔はふっくら丸みを帯びていたが、特徴ある大きな目は白井氏そのものだった。彼は、「俺はそんなに落としていないよ」と言いながら微笑んでいた。
 実際、個人戦果
の特定は困難な作業で、上記の一覧でも「推定」と断っているように、現実に何機であるのかは、藪の中と言ってもよい。何も語らずに世を去ってしまった白井氏の場合も、私が当時の新聞記事を検証、総合して算出した数字なのだが、若干多めに算定してしまった可能性は捨てきれない。
 しかし、総合的に見て、白井、市川、浅野の3者が244戦隊を代表する実力と実績の持ち主であることは、疑いようのない事実である。

 戦時にはあれほどの活躍を見せた白井氏だったが、彼は戦後、戦友との付き合いを一切持たず、誰もその消息を知らなかった。生前の小林氏も「白井はどこでどうしているか…」と、案じていたと聞く。おそらく、愛する多くの同僚、部下を失い、何か彼の胸中に期するものがあったに違いない。
 航空戦史のなかで半世紀もの間、白井氏の功績が一切無視されてきたことに対する義憤は、私の244戦隊史執筆の動機の一つでもあったが、辛うじて果たせた名誉回復を、夢の中の白井氏も喜んでくれているように思えてならなかった。

 一方の市川氏は、戦後、調布町小島分の小林氏宅を狛江村から度々訪れ、そこに近くの三谷元整備隊長も加わって、3人で酒盛りをしていた。かつての現役将校たちは、不遇を託って悶々とした日々を送っていたから、小林家での酒盛りは、せめてもの気晴らしであったのだろう。
 彼らの願いはただ一つ、「空への復帰」だった。航空再開叶った昭和27年以降、自衛隊に入隊して念願を果たした元隊員は少なくなく、製紙会社員から航空自衛隊3等空佐となった小林氏も、かつての部下たちに対して自衛隊への誘いの手紙を度々出している。

 昭和27年7月、航空機使用事業第1号の「青木航空株式会社(後の日本遊覧航空→全日空と合併)」が産声を上げた。その発起人の中に市川忠一氏の名があった。
 使用機は、新品セスナ170Bが5機とビーチC18Sが1機。少飛の先輩で、かつて飛行第47戦隊で2単や4式の整備に辣腕を振るった刈谷正意氏は、羽田飛行場に市川氏を訪ね、ビーチの飛行訓練に同乗させてもらった思い出を持っている。
 市川氏の命を奪ったのは、そのビーチクラフトだった。彼の操縦するJA5002は昭和29年9月25日、林業調査のため羽田から札幌へ向かったが、台風接近による悪天候のために羽田へ引き返す途中、福島県会津山中で行方不明となり、数日後、残骸となって発見されたのである。その3年後には小林照彦氏もまた、T33標的曳航機離陸直後の事故によってこの世を去った。将来を嘱望されていた彼らの、余りにも早すぎた死であった。

『世界の傑作機 bP7 飛燕』は小林氏の撃墜戦果を12機とし、ご丁寧にも「公認」などと注釈を付けているが、皇軍には個人戦果を公認する制度など存在しない。また「12機」は、『日本陸軍戦闘機隊』からの受け売りだが、実はこれも根拠を欠く数字であり、小林氏は死後、当人の関知しないところでトップエースに祭り上げられていたのである。


調布関係特別攻撃隊(既出撃)一覧 櫻井 隆編

八紘第4隊(護国隊) 隊長 遠藤 栄中尉以下 1式戦12機
  編成担任 第10飛行師団 編成完結19年11月6日 調布出発19年11月17日

司偵振武隊 隊長 竹中隆雄中尉以下 100偵9機(14名)
  編成担任 第6航空軍 編成完結20年3月10日 調布出発20年3月26日

第44振武隊 隊長 甲斐玉樹少尉以下 1式戦12機
  編成担任 常陸教導飛行師団 編成完結20年2月9日 調布出発20年3月20日

第18振武隊 隊長 小西利雄中尉以下 1式戦12機
  編成担任 第10飛行師団 編成完結19年12月5日 調布出発20年4月下旬

第19振武隊 隊長 四宮 徹中尉以下 1式戦12機
  編成担任 第10飛行師団 編成完結19年12月5日 調布出発20年4月下旬

第55振武隊 隊長 黒木国雄少尉以下 3式戦12機
  編成担任 明野教導飛行師団 編成完結20年4月12日 調布出発20年5月3日(主力)

第56振武隊 隊長 池田元威少尉以下 3式戦12機
  編成担任 常陸教導飛行師団 編成完結20年4月14日 調布出発20年5月3日(主力)

第159振武隊 隊長 高島俊三少尉以下 3式戦6機
  編成担任 飛行第244戦隊 編成完結20年4月26日 調布出発20年5月28日

第160振武隊 隊長 豊島光顯少尉以下 3式戦6機
  編成担任 飛行第244戦隊 編成完結20年4月26日 調布出発20年5月31日


大東亜戦争終結時調布地区配置部隊一覧 櫻井 隆編

1.飛行部隊
飛行第244戦隊(東部108/帥34213) 留守隊長大貫明伸大尉/特攻諸隊を支援
飛行第52戦隊(帥18425) 高野明少佐/4式戦30機/20年7月、調布に配置
飛行第6戦隊(隼魁9102) 広田一雄中佐/99襲18機/20年8月20日、朝鮮大邱より調布に移動
第1総軍司令部飛行班  20年4月、防衛総司令部飛行班を改編
第1航空軍司令部飛行班
第10飛行師団司令部飛行班


2.特別攻撃隊
第161振武隊 渋田一信中尉 3式戦6機(下記3隊同)
第162振武隊 二宮嘉計中尉
第163振武隊 天野完郎中尉
第164振武隊 柴山信一少佐
第232振武隊 小倉友助中尉 キー115 6機(訓練は軍偵1、高練2で実施)
第269振武隊 工藤敏雄大尉 100偵6機/調布西地区
第271振武隊 萩原清臣中尉  同


3.その他部隊
第20戦闘飛行集団司令部(帥34220) 東京天文台/決号作戦に備え、一部が先遣されていたと思量される
第244飛行場大隊(東部120/天翔19195) 原田竹太郎少佐
第131独立整備隊(帥19003) 宮島研一大尉/調布飛行場北地区(3式戦整備)
第1対空無線隊(燕19187) 佐藤比良夫少佐/東日本各地飛行場に分散配置
第2対空無線隊(燕19188) 小林孫孝大尉
第63対空無線隊(燕19950) 田島滋人中尉/主力調布、一部を新潟に配置
陸軍航空本部調布出張所
立川陸軍航空廠調布出張所/調布飛行場北地区(3式戦整備)
陸軍航空適性検査部 小野木豊俊軍医大佐/19年4月20日、京王閣に配置


4.神代地区
第130野戦飛行場設定隊(燕15394) 津田初雄大尉
第13航空通信連隊(燕19185) 竹内和信大佐
高射砲第112連隊(東部1903/晴1903) 大島知義中佐
東京第2陸軍病院調布分院 旧井伊家別邸(現晃華学園)

注 兵団文字符「帥=すい」(と誤記している資料が大半なので注意)は航空総軍隷下、「燕」は第1航空軍隷下、「天翔」は第10飛行師団隷下、「晴」は高射第1師団隷下部隊を示す。


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