■ 大越伸幸少尉の特攻 08.3.25
※本稿は、244戦隊整備隊第2小隊長であった故鶴身祐昌氏(航士57期、2001年没)の著書「みんな死んでゆく」から抜粋、要約したものです。
飛行第72戦隊付であった航空士官学校第57期(広島幼年学校出身)の大越伸幸少尉は、公には「昭和19年12月24日、ルソン島リンガエン湾付近にて戦死」と記録されている。
しかし、これには大いに疑念がある。何故なら、私(鶴身)は昭和20年5月27日の夕刻、知覧の三角兵舎で彼と確かに会っているからである。
その日、午後7時頃、飛行場から三角兵舎に戻った私を、二人の同期生が待ち受けていた。大越少尉と第45振武隊の中田茂少尉であった。二人は航士時代の思い出話に花を咲かせた後、
「この戦争は物量の差で勝ち目はない。しかし、明日は特攻する。さようなら、元気でゆきます。後はよろしく頼みます」
と言い残し、宿舎へと戻って行った。
翌28日早朝、山腹から飛行場へ移動する5式戦の誘導に追われていた私は、飛行場近くの誘導路で、日の丸の鉢巻を締めた中田少尉と再会した。ふだんと変わらず落ち着いた様子の彼は、
「もう一度会いたくなったので、ここなら会えるだろうと待っていた」と話した。
私は「ご成功を祈ります。元気で行って下さい」と話し掛け、堅く手を握り合って彼と別れた。だが、その時に大越少尉の姿はなかった。中田少尉からは「大越はピストにいるが用事で来られない」と聞いたように思われるのだが…記憶は遠く定かではない。
中田少尉らの第45振武隊の「突入成功」は傍受されており、知覧基地の無線室へ出向いていた同僚芥川比呂志少尉が、その情報を我々にもたらした。我々は万歳を叫んだ。
私は、当然大越少尉も中田少尉とともに突入したものとばかり思っていたのだが、戦後の特攻戦没者名簿の中にも、第45振武隊の名簿にも、大越少尉の名は見当たらない。
実は、中田少尉は出撃前日に複戦でどこかに飛び、なかなか戻ってこないので同期の鈴木少尉が心配していた…という話がある。通常、出撃前日は整備に専念して飛行はしないものだが、試験飛行の名目で離陸し、どこかの飛行場にいた大越少尉を連れてきたのではないか。
比島で死んだはずの大越少尉が知覧に現れたのは不思議だが、当時、比島方面から内地に帰還してきた操縦者は多く、我が戦隊にも数名いた。また、死んだと思われていた者が実は生存していた例も珍しくはない。
想像だが、既に死んだことにされ(複戦は二人乗りなので、あるいは同乗者は戦死したのかもしれない)、死に場所を求めていた大越少尉が特攻機への同乗を願い出、事情を察した隊長藤井一中尉が、本来は許されないことではあるが、武士の情けとしてこれを黙認したのではなかろうか。
聞くところによると、突入時に傍受された中田少尉機の無線通報には、無線室では何のことか理解できない内容が含まれていたという。これは、中田少尉が大越少尉のことを報告しようとしたのかもしれない。
これらのことから私は、大越少尉が中田少尉機に同乗して突入したことを、今も確信しているのである。