俺は君のためにこそ死にに行く  08.1.1


 2007年前半に話題となった「俺は君のためにこそ死にに行く」という、何度聞いても馴染めないタイトルの映画は、石原慎太郎作と聞いただけで敬遠していたのですが、後学のために最近、レンタルで見てみました。

 結果は、とにかく長過ぎ。あまりに多くのエピソードを詰め込んだために、つぎはぎだらけ。戦後の部分と海軍大西中将とおぼしき人物のシーンは蛇足。深みがなく、見終わって何も心に残らなかったというのが、私の感想です。
 この作品は「史実」を売りにしています。それであれば、観客がドキュメント映画と錯覚するほど史実に忠実な内容にすべきであったと思いますが、たぶん期待する方が無理でしょう。

 以下に感じたこと、気付いた点を列挙しますが、その前に一つ重要なことを。タイトルの「君のため」は、作者がテレビインタビューで語ったところでは
「君とは、愛する者のことで、決して天皇陛下のことではない」そうです。

 これには唖然。宣伝に売国マスコミを利用せざるを得ないための方便とも思えますが、この言葉をもしも英霊たちが耳にしたら、どんなに嘆くことか。
 かつて鳥濱トメさんが作者にそのような説明をしたとしても、それは「国のため、天皇陛下のため」がタブー視されていた戦後の風潮の中で、特攻隊員たちを庇う愛情から発した嘘だと思うのですが。


1.知覧教育隊の教練風景。その後、おそらく教練を終えた十数人の一団が体操着のまま知覧の街を駆けぬけ、富屋食堂に飛び込んで昼食をとる
→→少年飛行兵であれ特操であれ、教育中の軍人が集団で営外の民間食堂で食事をとることはない(但し教練途中の休憩はあった)。誰でも外出可能な休日は月に一回程度。その際はもちろん軍服で、服装もチェックされてから営門を出る。

2.飛行団長東大佐と特攻隊長中西少尉との会話
「もはや特攻は戦果が問題ではない」(中略)
「ケンカにも負け方がある。七分三分の講和を五分五分まで持っていく。それは今の日本を護ることだ」
→→前線の指揮官である飛行団長の口から「講和」などという言葉が出てくるとは考えられない。増して、士気を鼓舞せねばならない立場なのに、出撃間近の隊員に対して敢えて士気を阻喪させるような話をするはずがない。

3.出撃前、飛行団長が「生きて戻るな!」と訓示する
→→この職務、階級に該当する第1攻撃集団長(飛行団長兼務)川原八郎大佐は特攻隊員を前に
無理に死ななくともよい。帰れるなら帰ってこい」と訓示した。第44振武隊武田遊亀軍曹(4月2日知覧出撃、生還)は、これを聞いて「慈父のように感じた」と回想している。
→→第3攻撃集団長今津正光大佐も、決して特攻至上主義者などではなかった(第65戦隊長吉田穆少佐の回想)。

4.鳥濱トメを拘束した憲兵隊に板東少尉が怒鳴り込み、乱闘となる。それを知った隊全員も押し掛ける
→→当時の知覧ではスパイが出撃を知らせているとの噂が強く、また深夜、秘匿地区で整備兵が襲われる事件も発生して、軍は極度に警戒していた。244戦隊も総出で山狩りを実施している。

 そのような状況下、検閲を逃れて書簡を発送する行為自体がそもそも軍紀違反であり、請け負った鳥濱トメ以上に依頼した特攻隊員も処罰の対象であるはず。
 だが、出撃を控えた特攻隊ということで大目に見られ、依頼者側は不問に付されたと考えられる。よって、特攻隊員が憲兵隊を批判できる立場ではない。また窪塚洋介扮する板東少尉のガラの悪さは、到底陸軍将校の振る舞いではない。

→→鳥濱トメは検閲逃れの郵便物を発送したかどで憲兵隊の調べを受けたのに、その翌日、それを知りながら陸士出の中西少尉はトメに遺品の発送を頼み、トメは承諾している。遺品の発送を危険を冒してまでトメに頼む必然性がなく、明らかに不自然。
梱包された品物と手紙は、出撃直前、別棟の三角兵舎の一室にある第6航空軍司令部の遺品係が預かり保管した。特攻隊が出撃して三日後に、整理の終わった遺品や遺書等は故郷へ送られる> 第6航空軍司令部飛行班 原文治軍曹の回想

5.特攻改修中らしき隼のプロペラの根本に整備兵が触ると、プロペラがフラフラと軽そうに動く
→→あり得ない。高い費用をかけたというレプリカも、下手な演出のために一瞬にして化けの皮が剥がれてしまった。

6.格納庫内、しかも飛行機の直近で溶接作業
→→一般に、格納庫内は火気厳禁ではないのか。

7.試運転中の隼の両主脚を整備兵がなにやら弄っている
→→危険な回転中のプロペラの傍で作業などしない。

8.着陸前の編隊間で無線のやり取りをしているらしい音声が流れる
→→操縦者が肝心の送話器(マイク)を付けていない。「隊長!」と呼びかけているが、決められたコールサインを使うはず。

9.エンジン故障で緊急着陸した操縦者が、エンジンを切らずに降りてしまう
→→何より先にエンジン停止。また運転中は操縦席を無人にしてはならない。

10.飛行服肩の日の丸
→→縫い付けのはずの日の丸が腕章で、しかも片方だけ。

11.満州で編成されたとの設定の隊員が、出撃時でもなお満州と同じ冬物の飛行帽を被っている
→→あり得ない。特攻隊員には、新品の装備一式が支給される。

12.繰り返し戻って来ていた田端少尉が、試験飛行のために離陸直後、急上昇して失速、墜落してしまう
→→故意の自爆と思わせたいのだろうが、そもそも離陸直後にあのような急上昇自体が不可能。

13.明朝5時出撃(3時には起床)と命じられている隊員が揃って、深夜まで富屋食堂で飲酒、ドンチャン騒ぎに興じている。同じく深夜、隊長が知人宅に暇乞い
→→あり得ない。
特攻隊の出撃は約12時間前に、第5攻撃集団から各特攻隊の隊長に伝達される。隊員は外出禁止となり、三角兵舎で身辺の整理にあたる> 第6航空軍司令部飛行班 原文治軍曹の回想

14.面会に来た父、妹、弟までが三角兵舎に一緒に泊まる
→→まずあり得ない。黒木少尉の父のエピソードがヒントと思われるが、黒木少尉の父の場合は偶然車中で知り合った陸軍報道部嘱託小柳次一が、出撃前夜、もう時間がないことから司令部に掛け合って兵舎に泊まる許可を得たのであって、全くの例外。

15.出撃前夜、眠らずにハーモニカを吹いている隊員がいる
→→隊長が注意すべき。出撃後どのような過酷な状況に置かれるかもしれないのだから、少しでも身体を休め体力を温存するのは義務。

16.攻撃時にも拘わらず飛行眼鏡を使用せず、送話器も付けていない
→→役者の顔を見せたいのだろうが、どちらも飛行中に外していること自体がおかしい。また、突入時には司令部から指定されたコールサインで報告(一方送信)する。

17.パイロットたちが何故か銃を担いでの行軍シーン
→→英霊は特攻隊員だけではないと言いたいのだろうか。もしそうであれば同感だが、必然性がなく、違和感がある。

18.同期の桜について
→→「同期の桜」は一般には海軍の歌と思われており、陸軍の特攻隊員が歌うことに疑念を感じた向きもいたようだが、この歌は昭和19年から20年にかけて全国的に流行しており、陸軍将兵にも歌われた。「同じ兵学校…」は「同じ知覧の」などと変えて歌ったと思われる。


その他

 この映画を見ていると、特攻隊は外出が自由で連日連夜、富屋食堂でオダをあげていたように思われてしまうが、これは違う。
 多くの隊が知覧到着から3日程度で、早ければ翌日に出撃した例も珍しくない。また隊員は何より肝心の飛行機整備、試験飛行、航法および気象の研究等、事前の準備・打ち合わせで決して暇ではなく、外出の機会などなかった者が多いと考えられる。
 また、知覧はあくまでも前線の出撃基地であって、ここへ来てまで遊ぼうなどとは誰も思っていない。特攻隊は、知覧前進以前の訓練基地や経由地で歓待され、既に十分に遊んできているのである。

 外出の余裕があった場合でも、個人個人ではなく隊長以下全員揃って出向くのが普通であり、その場合には下士官用の富屋食堂ではなく、将校用として指定された旅館、料亭を利用した。
 また、もちろん外出は自由ではない。特に下士官は隊長あるいは先任将校の許可が必要。但し、当時の陸軍飛行場は多くの施設を本来の兵営の外に分散させており、境界はあってないようなものだったので、軍紀の乱れもあって衛兵の目を逃れて抜け出ることは可能だった。が、もしも発覚すれば処罰の対象になったであろう。

 鳥濱トメの回想に登場する特攻隊員は、将校の場合には前年の知覧で操縦教育を受けたことのある一部の特操1期生
(光山、安部、柳生、南部、川崎少尉但し、南部、川崎は家族との縁で本人と面識なしおよび2期(勝又、渡辺、上原少尉、下士官の場合も主に昭和17〜19年にかけて知覧で教育を受けた者(少飛10、11、15期、下士学93期の何れも一部)や、乗るべき飛行機を失って比較的長期間知覧に滞在していた者などである。

 教育隊では、区隊一斉の休日は月に1回程度だったが、特に下士官の場合には部隊から富屋を利用するよう指定されていたため、多くの者が訪れており、鳥濱トメを母のように慕った者も少なくない。昭和20年、特攻要員となったその一部が暇乞いのために富屋食堂を再訪し、いくつかのエピソードが生まれたものと考えられる。

 鳥濱トメの回想に現役将校(陸士・航士・少候)が出てこないのは、彼らが前記に該当しないためで、また同様に知覧関係特攻隊員全体の中で富屋食堂と何らかの縁のあった者は、ごく一部でしかない。

出典 空のかなたに「特攻おばさんの回想」、常陸教導飛行師団特攻記録「天と海」、背振の雲、大空に生きる、知覧特攻基地にまつわる想い出、知覧特攻平和会館だより


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