松岡さんと岡部さん
22.8.15

 


 米国による占領から解放されたためか、私の小学生時代である昭和30年代は、おそらく戦後で最も愛国心が高まった時代で、祝日にはどの家も玄関に日の丸を掲げていました。

 愛読していた少年雑誌には、各誌毎号、必ず「戦記読み物」が掲載されていました。当時はまだ戦史叢書も刊行されていないので、ライターは戦時の新聞記事を参考にしていたのではないかと想像します。

 

 具体的な内容は覚えていませんが、「震天制空隊」「小林戦隊長」などの言葉が登場していたのは記憶にあります。つまり、多くの子供たちが、娯楽のための雑誌記事で戦史の知識を得ていたと言えると思います。

 

 また、戦争映画も全盛で、よく見ました。一番印象に残っているのは、空母「飛龍」の戦歴を描いた「太平洋の嵐」でしょうか。これは、円谷監督の特撮を含めて、よくできた作品だったと思います。

 

 また、今では想像もできないでしょうが、民放テレビではスタジオ戦友会とでも呼べるような番組もありました。それも視聴率のとれるよい時間帯に。これには244戦隊の巻もあったそうで、後述する松岡さんも駆り出されて出演したと言っていました。

 

 昭和40年は、終戦から20年記念ということで新宿京王百貨店で戦争展が開催され、中学生の私も見に行きました。店のエントランスには、修復されたばかりの飛燕2型が飾られ、それをバックに小林千恵子さんが出演された番組も放送されました。これも夜8時台のよい時間でした。中野、加藤(板垣)両氏も出られていたそうです。

 

 私は、自分の生まれ故郷に飛燕で有名な部隊の基地があったと知り、いつかその実像を知りたいと念じていて、著名な研究家あるいはライターが244戦隊を書いているはず…と確信し、出版されたら一番に読みたい…と思っていました。

 

 ところが、昭和の終わり頃になっても一向に出版の話は聞こえてきません。もし誰も書いていないのなら、自分の数十年来の疑問も永遠に解けないことになり、焦りの気持ちが出てきました。これは自分が書かねばならないのかな…とは思ったのですが、何しろノウハウも経験もないので悩みました。

 

 そこで、手元の出版物を全て読み直し、何かしらの手がかりを探してみたのです。その中に、加藤(板垣)政雄さんの出身地と思しき地名を見つけ、ダメもとで手紙を出してみたのです。

 するとすぐに返信があり、戦友が3人、調布市内におり、整備隊長三谷さん、戦隊の「生き字引」と言われていた松岡さん、本部副官で戦隊会幹事の川田さんで、しかも三谷さんと松岡さんは私と同じ町内だというのです。子供時代から会いたいと思っていた人たちが、こんな身近にいたとは…本当に驚きました。 

 

 その他、既に亡くなっていましたが、航士57期みかづき隊の田村一彦さん、震天制空隊の佐藤権之進さんも市内に居住されていたと知りました。特に佐藤さんは、近くの商店で働いていて、我が家にも商品の配達に来られていたそうです。

 

 未だ出版は具体化していない頃、何故か「三谷さんには本は見せられないな」と漠然と感じていたのですが、実際その通りになってしまいました。

 三谷さんは府中市内で入院されていましたが、病床で櫻井君の仕事は進んでいるか」と気にかけられていたと仄聞しました。

 三谷さんのお通夜で、戦隊会の人たちを斎場まで送迎しましたが、それがきっかけとなって、翌年から会に呼ばれるようになったのです。

 

  実に沢山の方にお世話になって、また出版を喜んでいただいたのですが、親しく付き合って貰ったという点では、以下のお二人が一番でした。

 


松岡さん

 松岡弥次郎さんは、私が知り合った頃は既に廃業されていたのですが、調布市下石原の甲州街道沿いで理髪店を営んでいた人でした。

 大正10年、山形県の生まれ。入営前は川崎の床屋で奉公していたが、親方からの暴力は酷くて、軍隊の方がよほど楽だった…とよく言われていました。

 

 航空兵として第12航空教育隊で教育を受けてから第244飛行場大隊警備中隊(渡瀬貞教中尉、第22飛中転属、ニューギニア派遣)に配属。航空教育隊では任地希望を南方にしていたので期待していたが、着いたのは京王線上石原駅で、がっかりしたそうです。

 

 警備中隊なので、営門の歩哨や飛行場内の動哨(パトロール)、人見ヶ原や多摩川原での行軍をよくやらされた。裏門(現JAXA飛行場分室付近)の歩哨のときは一人なので、近所の農家のおばさんから野菜の差し入れを貰うこともあった。

 裏門は近藤勇の墓がある龍源寺にも近いので、訪ねると和尚さんがパンフレットをくれて、近藤勇について色々と解説してくれた。

 

 昭和19年、下士官候補者に選ばれて鈴鹿の第1航空軍教育隊で教育を受け、伍長に任官して、今度は244戦隊本部庶務係となって、面会者の受付と案内や郵便の検閲をした。仮泊所の管理も担当した。

 

 昭和20年8月1日、軍曹に進級して八日市の本隊へ合流を命ぜられたが、列車が警報のたびに止まるため、八日市まで1週間もかかった。

 戦隊本部の玄関で新藤仁平軍曹とばったり会った。「俺もやっと軍曹になったよ」と話しかけたが、心ここにあらずという感じであまり反応がなかった。彼が事故で死んだと聞いたのは、翌朝のことだった。

 

 戦後、埼玉県小川町へ墓参に行った。彼のお兄さんからは、自殺だったらしいと聞かされた。それから、千葉の安藤喜良伍長の墓参りもした。確かお姉さんがいたな。

 

 そして敗戦。彦根の街へ出たら、街の女郎屋はみんな兵隊で満員状態だった。

 8月30日、除隊となり、戦隊長に挨拶してから復員列車に乗り込んだ。途中の駅では、「お前らのせいで日本は負けたんだ!」と罵声を浴びたこともあった。

 

 故郷に帰ったが、仕事がなく、まもなく調布に舞い戻ってしまった。ちょうど飛行場の西に米軍水耕農場の建設工事が始まり、多磨墓地前駅近くの床屋に居候しながら、工事人夫をした。

 

 そのころ、元244戦隊員がもう一人、農場工事現場で働いていました。第162振武隊長だった二宮嘉計さん(陸士57期)です。彼は法政大学の夜間部に通っていましたが、学校の斡旋で工事人夫のアルバイトに応じていました。

 

 終戦から数年後、戦後最初の慰霊祭が靖国神社で開かれたが、遺族代表として挨拶に立った鈴木正一伍長のお父さんが感極まって絶句してしまったのを覚えている。

 

 実は戦後初めての戦隊会は、終戦翌年の21年に調布町小島分の戦隊長宅で開催されたのですが、「旧軍人が集まって何か企んでいるらしい」という密告があって刑事が張り込む事態になり、その後しばらく開けなかったのでした。

 

 特操1期の平沼康彦さん(戦後、埼玉トヨペット(株)を創業)が「戦後の調布は嫌だ」と言われていたのは、この密告事件のせいかもしれません。平沼さんは初回から参加されていたそうなので。

 

 松岡さんに戻りますが、松岡さんは散歩のたびに拙宅に寄ってお茶を飲んで行かれました。たぶん、多いときは週に3回以上は会っていたと思います。戦後亡くなった戦友の家にアルバムを借りに行ってくれたり、佐藤准尉宅に墜落した新藤伍長機事故の証人を探してくれたり、床屋人脈を使って本を何冊もさばいてくれたり、本当にお世話になりました。

 

 松岡さんは靖国神社にも、よく行かれていました。もしかすると戦友に会えるかも…という淡い期待からだったようです。同じ思いで靖国に来ていた人に、ばったり会ったこともありました。それが少飛10期生で、半年ほど244戦隊とっぷう隊で戦技教育を受けた中垣秋男さん(その後、飛5戦隊、53戦隊)でした。

 私は、松岡さんからその話を聞いて戦隊史を進呈しましたが、中垣さんはそのお礼と、ワープロで打った手作りの回顧禄を送ってくれました。

  


 岡部さん

 松岡軍曹殿に連れてこられた…という雰囲気で最初にお会いしたのが、岡部恒男さんでした。岡部さんは都内で町工場を経営されていましたが、記憶確かな聡明な人でした。

 

 大正13年の生まれ。柏の第4航空教育隊で機関工手の教育を受け、戦隊本部小隊や震天制空隊の戦闘整備を担当。新垣少尉、高島少尉、豊島少尉、横手少尉、頼田少尉らの最後の出発を見送りました。

 

 4教から戦隊に転属のとき、引率者から「くれぐれも問題を起こしてくれるなよ」と言われた。考課表に、よほど悪いことが書いてあったんだな。

 

 244戦隊に配属になったとき、教育班で教えてくれたのが三谷中尉(当時)で、その後隊長になってからも、私ら兵卒にも優しくしてくれた。所属は、整備隊本部小隊第2分隊。第1分隊と第2分隊は、交互に本部小隊(戦隊長編隊)と震天制空隊を担当した。

 

 3式は調子がいいと、本当の金属音というのか、いい音を出して飛んだなー。冬場には、ラジエターの冷えすぎを防ぐ保温カバーを付けた。そんなときは、「いまミンクのコートを着せてあげるからね」と飛行機に話しかけながら作業をしたもの。カバーはミンクのコート並みの保温性があると聞かされていたから。

 

 大格の中には特殊工具などを貸し出す機材庫があった。そこにいた大矢一等兵は柔らかい人で、入っていくと「いらっしゃい」と迎えられて、出るときには「早く返してよォ」と送り出された。

 

 岡部さんには、兵の居住区である内務班での話や月に一回くらい回ってくる当番兵勤務の話もよく聞きました。

 

 内務班で隣に寝ていたのが出川一等兵で、2式戦も整備したことがあると言っていた。内務班で板垣軍曹に貰ったハーモニカを吹いていたら、班長がものすごい剣幕で「ふざけたヤツはどいつだ!」と怒鳴りこんできた。「一曲吹いてみろ」というので「たれか故郷を思わざる」を吹いたら、鬼みたいだった顔が見る見る優しくなって、勘弁してくれたこともあった。

 

 当番兵の時に飛田給の日本郵船へ連絡を命ぜられた。ニッカボッカ姿でグランドの芝刈りをしていたおじさん(実は中野五郎場長)が、プールの畔で一服していたので

おじさん火、貸して」「いいよ、あんた百八部隊の人かい?

といったやり取りをした。

 

 それから数日後、再度郵船に行ったら、そのおじさんが赤(佐官階級章)のついた軍服姿で特操連中に説教していた。いつもは威勢のいい特操連中が、シュンとして。あの時は、前のことを思い出してヒヤッとしたよ(上官侮辱になる可能性があるので)。

 

 戦隊が知覧へ移った後の調布飛行場は、荒涼とした抜け殻のような感じだった。自分が整備した飛行機を見送るときは、帰ってきてくれ!と祈るような気持だった。特攻隊の高島少尉が出発するとき、赤ん坊を抱いた女性が見送りに来ていてハラハラと涙を流した。あの時は、飛行機をぶっ壊してでも出発を止めたいと思ったよ。

 

 留守戦隊長だった大貫大尉はおもしろい人だった。ウイスキーを隠し持っていて、当番につくと、お相伴に預かることもあった。

 

 昭和20年8月、木村勇次軍曹に引率されて特攻機整備のために館林飛行場へ出張したところで終戦。17日、第232振武隊の高練が埼玉県行田付近に墜落したため、この機体を回収して調布へ輸送した。

 調布へ戻ってから、朝鮮から移動してきた飛行第6戦隊の隊員と風呂で一緒になったが、聞こえてくる彼らの会話から、朝鮮ではインフレが始まっているんだな、と感じた。

 

 昭和50年頃、館林に墜落したままになっていた新垣機が発掘されるとの新聞を見て、現場に駆け付けたのが戦隊会との繋がりのきっかけで、以後毎年呼ばれるようになった。

 

 仮泊所に泊まっていたとき、兵隊は私だけだから一番下だったけれど、酒飲んでいればみんな同じ、階級なんて関係なかった(兵営ではない仮泊所の食堂には樽酒が置いてあって好きなだけ飲めた)。

 

 

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