6月22日 万世飛行場上空 08.7.10


最後の休暇

 沖縄特攻作戦が終りに近づいた6月の中旬、244戦隊は戦力回復に入り、操縦者には漸次休暇も出された。
 平沼康彦少尉と浅野二郎曹長は、ともに「とっぷう」で二人だけの妻帯者だったため、選ばれて一緒に伊作温泉の陸軍保健所に行った。

 二人で温泉町を散歩していると、通りすがりの民家の庭に枇杷の実がたわわに実っているのが見えた。
「あれ、食いたいねー」
 そこへ、その家の老婆が出てきたので、
「おばあさん、あのビワ食べていいですか」
と尋ねたが、向こうは薩摩弁で何を言っているのか分からない。近所から小学生の女の子を連れてきて彼女に通訳して貰い、やっと枇杷の実を手に入れることができた。

 因みに、知覧周辺の住民には、6月3日の戦闘で浅野曹長らが敵機を撃墜する場面が目撃されていたこともあって、戦隊の評判は大変によく、隊員たちが町を歩いていると、「都の部隊は礼儀正しかね。兵隊さん、お茶食べていきませんか」と声をかけられ、差し入れを貰うこともあった。

 二人は分けて貰った枇杷を枝ごと旅館に持って帰り、温泉につかりながら食べた。食べながら二人は、「死ぬ前にもう一度だけ女房に会いたいね」と語りあった。「あのうまさは今でも覚えている」と平沼少尉は語っている。

 それから一週間後の6月22日朝、竹田五郎大尉率いる「とっぷう隊」の5式戦8機が、万世飛行場直掩の任務を帯びて知覧飛行場を離陸した。その直後、とっぷう隊はグラマンF6F、8機編隊に上方から襲いかかられた。この時は敵機の攻撃を回避したが、「とっぷう」は上昇しつつ万世飛行場上空へ向かった。

 高度2000から3000の断雲を抜け、更に上昇中、生田伸中尉率いる第2小隊の第2分隊、つまり殿を飛んでいた浅野二郎曹長と五百森秀一軍曹の2機が、突然グラマン4機の奇襲を受け、2機は火に包まれた。その刹那、白い落下傘の華が一つ開くのが視認されたという。

 生田中尉は、「火達磨となって海へ落ちてゆく飛行機の操縦席から、浅野曹長が白いマフラーをほどいて懸命に振る姿を認めた」と報道班員に語っている。

 この場所は、入来浜西方3キロほどの海上(万世飛行場西北方)、沖の久多島との中間の地点であった。
 戦隊では、とっぷう隊が帰投後、捜索を検討した。しかし、空襲警報が発令されていたために実施が遅れ、夕刻になって捜索隊を派遣したが、何も発見できなかった。


特攻隊は都城から

 しかし、ここで大いに疑問に感じることがある。当日の特攻出撃は知覧でも万世でもなく、都城東から実施されているのだ。0607、第27振武隊第179振武隊の4式戦、計11機である。
 特攻掩護は本来、在都城の第100飛行団が実施すべきものだが、何故、知覧の244戦隊に出動が下命されたのか。他にこのような例はなく、本件は戦隊員の中にも疑念を残した。

 当時第100飛行団は、春以来の特攻作戦従事により著しく消耗し、沖縄作戦の終幕を迎えて漸次成増へ後退しつつあった。が、この時期にはそれを補完すべく、第30戦闘飛行集団麾下の精鋭、飛行第47戦隊が都城西へ進出していたのである。

 この点の解明には、47戦隊の当時の状況が鍵を握っていると考えられるが、47戦隊史について詳細に調査研究されている山下徹氏にお尋ねしたところ、次の事実が確認できた。

 6月21日、47戦隊の4式戦16機は、夕刻、都城東飛行場から出撃した第26振武隊の4式戦4機 (出撃は7機だったが、うち3機は事故不時着)の掩護任務に就き、徳之島西方約65キロの地点で特攻機と別れた。
 ところが、帰途に就いた47戦隊は、奄美大島西方約20キロの地点で突然上空からグラマンの奇襲を受け、中原逸郎大尉(航士56期)、河井吉夫少尉(特操1期)、山崎昌三軍曹(少飛12期)の3機が瞬く間に撃墜されてしまった。これは、各機が携行していた握り飯を食べようと手を伸ばした頃であったという。各機は、後上方から降ってくる射弾を必死に回避しながらバラバラに逃げ、這々の体で都城に辿り着いた。


第26振武隊

 ここで、第26振武隊について触れておくと、池本美行著『陸軍特攻作戦に関する一考察…陸軍航空特別攻撃隊第26振武隊を例に』によれば、同隊の戦果は次のようであった。

時刻
                  状況
1842
水上機母艦カーティスに命中、同艦炎上大破、62名死傷
1842
水上機母艦ケネス・ワインディング小破
1843
護衛駆逐艦ハロラン小破
1845
中型揚陸艦59号小破、および同艦が曳航中の駆逐艦バリ沈没 (過去の特攻攻撃により大破していた)

 つまり、たった4機で5隻もの敵艦に損傷を与えているのである。
 米側記録によると、各特攻機は、右翼に500キロ爆弾、左翼に200リットル増槽を懸吊していた。500キロ爆弾の使用は、希有な例であった。

 カーティスに突入した4式戦は方向舵に21と記入され、操縦者は星一つの階級章(少尉)と胸ポケットに戦友の写真を身につけ、がっしりした体格であったという。
 この操縦者は、辞世に「亡き友の写真だきて我は征く」と残した特操1期永嶋福次郎少尉ではないかと思われる。


47戦隊帰投

 振武隊異動通報によれば、第26振武隊の都城東出撃完了は1630である。したがって、掩護を終えた47戦隊が都城西に帰投した時刻は、2000を過ぎていたものと推察される。

 一方、翌22日、第27および第179振武隊の出撃時刻は0607である。通常、戦隊は特攻出撃の30分ほど前に離陸し、飛行場上空の哨戒および直掩を実施して安全を確保するのであるから、戦隊の準備完了は0530頃、更に逆算すれば、分散秘匿されている戦闘機の飛行場への移動集結は0400頃から、そして点検整備および試運転は、当然それ以前に完了している必要がある。

 21日、喪失した戦力は3機のみであったとしても、帰着した機体にも被弾している可能性が高く、したがって帰投後の整備には、夜間でもあり通常よりも相当多くの時間と労力を要すると考えるのが妥当である。
 おそらく、翌早朝までに47戦隊の戦力を揃えるには時間が絶対的に不足しており、22日の特攻掩護実施は不可能と判断されたのではないか。そのために第6航空軍は、深夜になって急遽、在知覧244戦隊の出動を命じたのであろう。


戦隊長夫人来訪

 しかし、まだ疑問は残る。何故、1個飛行隊のみの出撃であったのか? 戦闘は数の勝負であるから、哨戒等の場合を除いて、本来なら可能な限りの全力を揃えて出撃すべきなのである。
 本件を除く244戦隊の知覧における特攻掩護は、計7度と推定されるが、これらの出撃では、実は一度も交戦に至っていない。これはおそらく偶然ではなく、30機の全力出動であったために、敵も容易に接近できなかったのだと思われる。

 戦力回復とは事実上の休養状態だが、小林戦隊長以下の本部小隊操縦者も6月15日から、浅野曹長らとともに伊作温泉で静養(通常は2泊3日程度)に入っていた。また15日昼頃には、小林夫人が突然知覧を訪れ、それ以降しばらくの間、戦隊長も昼は基地で勤務し、夜は夫人が泊まる街の宿で過ごす生活を送ることになった。したがって21日夜も、戦隊長は基地には不在だった可能性が高い。

 本来なら、部隊は状況を戦隊長に報告し、戦隊長も直ちに基地に戻って指揮を執ったことであろう。だが、深夜でもあり、おそらく夫妻への遠慮から戦隊長には連絡がなされず、戦隊長は帰隊しなかったのではないか。

 戦隊長不在の場合でも、先任飛行隊長は全力出撃を命ずることは可能だったと考えられるが、実施されなかった。実は当日、本部小隊をはじめ他の飛行隊の操縦者たちも、とっぷう隊が帰還するまで、出撃の事実すら知らされていなかった。
 みかづき隊の木原喜之助伍長も、
「浅野と五百森がやられたことは後から聞いた。この日、我が隊は出ていないし情報も全く聞かなかった。だいいち、都城の特攻出撃に何でうちの戦隊が出なきゃならないんだ?」と訝っている。

 これは、当初から「とっぷう隊」単独の作戦計画であったことを裏付けるものと考えられるが、ここにも、夫人の来訪と戦隊長の夜間不在が、何らかの影響を及ぼしているように思えてならない。
 当日、244戦隊がもしも全力出動していたならば、結果は違うものになっていた可能性が高いのである。

 なお、とっぷう隊が都城ではなく万世へ向かったのを「万世を発進予定の特攻機を掩護するため」とする説があるが、前述のように当日、万世発進の特攻隊はなく、在万世の飛行第55戦隊も出動していない。とっぷう隊が都城とは反対方向の万世へ向かったのは、敵の注目を都城から逸らす陽動であったと思われる。


衝撃

 編成時さえも知る、戦隊最古参の操縦者であった浅野曹長に対する皆の信望は絶大なものがあった。竹田大尉、平沼少尉ともに、後年「浅野の死はショックだった。忘れられない」と語っている。つばくろ隊時代からの部下であり、最後の休暇も共にした本部小隊の中野軍曹は、浅野の死を知らされるや、激昂して竹田大尉のもとへ押しかけ、激しく喰ってかかった。それほど衝撃は大きかったのである。

 実は、夫人の知覧来訪は小林戦隊長自身は関知しないところで計画されたものだった。連絡のために調布へ戻った戦隊本部の次席副官佐藤少尉らが、妊娠中でもあって躊躇する夫人を「戦隊長殿の命令です。どうしても行っていただきたいのです」と虚言を弄してまで説得し、遙々知覧まで同行させたのだという。
 事務系軍人の「ゴマすり」とも言うべき軽率な行為が、巡り巡って2名の優秀な操縦者を殺してしまう重大な結果を呼んだとは言えないだろうか。

 本稿は、「陸軍飛行第244戦隊史」の記述を改めて検証し直し、加筆したものです。


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