ある曹長 05.6.16


自傷

 244戦隊が知覧へ移動する少し前のこと、みかづき隊の準備線で機付のA兵長は、配備されたばかりの5式戦の試運転を実施していた。
 そこへ飛行服姿の下士官が現れ、プロペラに近付いてきた。その下士官は見たことのない顔で、自隊の操縦者でないことはすぐに分かった。
 A兵長は不審に思って行動を注視していたが、彼の姿が機体の死角に消えたため、危険を感じて発動機を止めた。するとその下士官は、並んで試運転をしていたB兵長の5式戦に接近し、回るプロペラに腕を差し出したのである。

 機体に軽い衝撃を感じたB兵長が直ちに発動機を止めて機外に出たところ、プロペラのそばに操縦者が倒れていた。彼の右腕は肘下から折れて、ブラブラしていたという。
 直ちに三谷整備隊長が駆けつけ、彼を始動車に乗せて運び去った。しばらくして小林戦隊長も現場を訪れ、B兵長に尋ねた。

「本人は、エンジンカバーがガタついていたので、ネジを締めようと思ったと言っているが、どう思うか」
「隊長殿、飛行機に手で締められるネジはありません
「そうか…やはり命が惜しくなったんだなー」

 当時、244戦隊では計7隊の特攻隊編成が進行中だったことから、彼が特攻隊員だという噂も流れたが、事実は小牧から5式戦を運んできた輸送飛行隊の一員で、階級は曹長であったという。
 後に、この話を伝え聞いたある特攻隊員は、
自分にもそんな勇気があれば…と、内心忸怩たる思いを抱いた」と語っている。

 操縦者はエリートなので、このような事例は他に聞かないが、一般の兵隊では、除隊狙いの自傷事件や脱走は決して珍しいことではなく、確実な手段として、翼内砲試射の際に砲口に触れて指を飛ばしてしまうのがよい、という噂もあった。


輸送飛行隊

 陸軍航空輸送部輸送飛行隊は、工場あるいは航空廠から部隊まで、補充機を空輸する専門の隊で、小牧の第5飛行隊が3式戦および5式戦を担当しており、隊員はベテランの予備下士出身者が多かった。
 通常、岐阜の川崎航空機で製造された3式戦および5式戦は、一旦小牧に空輸され、ここで最終点検と試験飛行の後、各地に空輸されていたが、急の場合などは戦隊から工場へ出向いて直接受領することもあった。

 以下に引用するのは、同隊の隊員山本正雄氏の手記である。山本氏は、19年10月に3式戦を調布へ、20年2月には独飛23中隊の3式戦を、同隊の安西為夫大尉とともに那覇へ空輸したことを記憶している。

5月17日(日曜) 晴 小牧調布

 飛行244戦隊の九州移動応援のため、重爆の安嶋准尉機で調布に飛ぶ。調布飛行場は、戦隊出発と日曜日が重なり大勢の人たちが見送りに集まっていた。格納庫前では慰問団の公演も催されており、我々も隊員と一緒に見物した。
 戦隊員が飛行服の両袖に日の丸マーク
を付けているのを初めて見たが、これは帝都上空の空中戦で、落下傘降下する際の日本軍の識別のためと聞いた。

 午後の出発風景は華やかなものであった。家族や女子挺身隊らが振る旗の波に見送られ、戦隊マークも鮮やかな機影が翼を打ち振りつつ西空に消えていった
(中略)

 我々は当日は戦隊兵舎に泊まり、翌日予備機を空輸し大刀洗に向かうことになった。戦隊を見送った午後に空襲警報が発令され、隼や零戦などの陸海軍の戦闘機群が上空を飛び交い、まだ大丈夫と心強い思いを持った。

=両袖の日の丸着用が20年2月からとする説は、陸軍に関しては誤り。内地戦隊、特攻隊では早い場合でも4月中旬頃、全面実施は6月末頃から。

18日 晴 調布加古川大刀洗

 試験飛行を2回ぐらい行い各機の整備は完了する。正午過ぎ、旗の波の見送りを受け調布を出発し九州に向かう。

 箱根から富士山にかけ積乱雲があり、雲上に出て富士山を右手に飛ぶ。静岡付近から雲が切れ始め晴天飛行となる。
 浜名湖付近から変針して小牧上空へ向かう。スマートな5式戦の銀翼が碧空に映え美しく輝く。小牧上空では8機がガッチリ編隊を組み軽いピッケで上空通過する。

 鈴鹿を越えた八日市付近で、突然キ−102のピッケ攻撃を受ける
。単機で編隊を離れ、これを急追し山中に追い込み、懲らしめの後で急上昇して編隊に戻ったが、これは凄い飛行機だと痛快になる。

=ピッケは急降下、即急上昇の意。八日市には2式複戦とキ−102を担当する第6輸送飛行隊が配置されていた。

 1時半に加古川に着陸し給油を行う。新鋭機の着陸に集まる人が多かったが、旧式機で九州に向かうという一少年特攻隊員が「出撃前に一度、実戦機の操縦桿を握りたい」と乞い、徳田機の操縦席で感激し涙して去ったとの話を後で聞き、感動する。

 瀬戸内海上、栄光の戦隊マーク機夕日に映え、日没前に大刀洗に到着し任務を終える。兵站
で戦隊の心ずくしの夕食や、大福餅などの接待を受ける。深夜、沖縄爆撃に向かうキ−67の出撃を見送る。

=兵站宿舎のこと。当該基地部隊の兵営(内務班)とは別に、一時立ち寄りの部隊などが臨時に宿泊する建物。

19日 大刀洗小牧

 安嶋機が迎えに来たり。小牧に帰還する。飛行場には飛燕に混じり、九州方面へ空輸する5式戦が到着していた。


その後

 手記にある通り、飛行隊は5月17日午後2時、真新しい5式戦27機で調布飛行場を出発、大阪(大正)、大刀洗、都城経由で知覧へと向かった(ただし、最終目的地は極秘事項で、出発時にはまだ明確ではない)。
 この前後の数日間、在調布の第159〜164振武隊は、「空襲を避ける」名目で館林飛行場へ一時移動しているが、これは戦隊本隊の移動をカモフラージュするための欺瞞行動だったと考えられる。

 244戦隊整備隊は、三谷庸雄隊長以下の先発隊が15日、二派に分かれて東京駅を発ち、後発隊は19日午後、同駅発の列車に乗り込んだ。
 列車が有楽町の高架に差しかかると、誰からともなく声が漏れた。
銀座もこれで見納めだなぁ…

 整備隊の移動は比較的順調に進み、福岡で知らされた真の目的地、知覧飛行場に後発隊が着いたのは、22日午前2時のことだった。
 実は、知覧の飛行場大隊長は、前年2ヶ月間にわたって調布の飛行場大隊で教育を受けており、古巣とも言える244戦隊を歓迎し、様々な便宜を図ってくれたという。

 勿論、B兵長もこの中の一員に加わっていたのだが、知覧に着いて間もなく、B兵長には当地の憲兵隊から呼び出しがあった。
あの事故の責任を問われるのか?
 B兵長は真っ暗やみで足元もおぼつかない山道を一人、こわごわ歩いて出頭した。

 大きな不安を抱きながら臨んだ尋問だったが、意外にも咎めは一切なく、まだ珍しい特別幹部候補生の制度や教育についてさんざん説明させられた末、
あんた、まだ若いのに兵長なんだね」と、逆に感心されて一件落着となった。

 実は、この事件は戦後のカストリ雑誌にも取り上げられたことがある。
 記事では、「曹長は軍法会議にかけられて有罪となり、陸軍刑務所に入れられたが、敗戦によって放免され、現在では妻子と平穏に暮らしている…」と、書かれていたそうである。


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