5式戦と小長野曹長 03.5.23

 昭和20年4月23日、新型戦闘機が小牧から調布へ、陸軍航空輸送部第5飛行隊員の手で空輸されてきた。5式戦闘機である。
 新造機補給の場合、以前は、調布から戦隊員が出向いて空輸していたのだが、19年秋頃からは、内地でもこの方式でデリバリーされるようになっていた。

 初めて見る5式戦は、戦隊員たちの目に「何と不格好な飛行機だ」と写ったらしい。スマートな3式戦を見慣れていたから、この印象は無理もないところだろう。
 5式戦の運用期間は実質3ヶ月でしかなかったので、隊員たちから得られる技術的事項に関する証言は、極めて僅かでしかない。したがって、本機の技術的評価などを論ぜられるだけの情報はなく、ここで書くことはできないが、ある操縦者の実感的証言を一つ紹介しておく。

 「5式戦は軽いから旋回はよかった。3式のときは、巴戦に入りそうになったら、とにかく頭を下げて逃げるしか手がなかったから。でも3式は、いい飛行機だったよ。俺は3式戦が好きだな」

 整備隊は3式戦で苦労していた後だけに、「5式戦は楽だった」という話ばかりで、やはり書くべきことが見つからないのだが、唯一、胴体砲「ホ5」とプロペラの連動装置には不具合が多く、射弾がペラに当たってしまう事故は珍しくなかった。現に、生野大尉機が試験飛行中に試射をしたところペラを破損して墜落、生野大尉が洋上に落下傘降下する出来事もあった(人員は漁船が救助して無事)。


山間の村

 244戦隊が知覧に前進して間もない5月末、みかづき隊 市川小隊に予備機の空輸が命ぜられた。大刀洗北飛行場には、戦隊とは別に井淵光明少尉率いる輸送飛行隊が、調布から1日遅れで空輸した8機の5式戦が待機していたのである。
 このときの編組は、市川中尉(3期)、2番機木原伍長(13期)、3番機小長野曹長(6期)の少年飛行兵トリオだった。小長野曹長は、戦隊が調布を出発した際には本隊に加わらず残留して、浜松に不時着した板垣軍曹の救援をしているが、2〜3日遅れで本隊の後を追い、既に合流していたのだった。

 実は、5月17日、244戦隊が調布を発ったときの機数を、小林戦隊長日記の記述から、戦隊史では計35機としてしまったのだが、これは5月19日、大刀洗北での数であり、調布出発は
27機、うち落伍が少なくとも1機で、在大刀洗の戦力は26機程度(他に予備機8)が正しいと考えられる。

 さて、市川小隊が熊本県を過ぎ、鹿児島県の山間部に差し掛かったときのこと、しんがりにいた小長野機が突如先頭に出て、もう真っ逆様に近い急降下をはじめた。市川、木原両機も、何ごとか…と後を追った。すると小長野機は、谷あいの、ある村を超低空で飛び回った。

 3機は、山の斜面に建つ家々よりも低く飛び、開け放しの室内が奥までよく見えた。訳が分からないまま追躡
(ついじょう)していた木原伍長も、この低さにはさすがに恐怖を覚えた。そして最後に小長野機は、村の小学校の上で何度も旋回をしてから知覧へと機首を向けた。
 知覧に着いてから問いただしたところ、その村は小長野曹長の生まれ故郷で、小学校には許嫁が勤めてい.ることが分かった。

 一方、当時村人たちは、総出で農作業に励んでいた。そこへ突如、見慣れぬ戦闘機が超低空で飛んできたものだから、「空襲だ!」と、全員が地面に伏せた。が、ややあって、誰かが翼の日の丸を認めた。

 「
日本の飛行機だ!

 その刹那一転、皆が手を振り、またある者は家から日の丸の旗を持ち出して打ち振り、そこへまた3機の5式戦が頭上をかすめる…村中が、まさにお祭り騒ぎと化したという。


小長野曹長

 小長野昭教(こながのあきのり)曹長は襲撃機から戦闘に転科した操縦者で、かつては在比島の飛行第30戦隊に勤務していた。比島陥落時には、戦隊主力とは別働で第4航空軍司令官富永中将の乗った軍偵を1式戦1個小隊(4機)で護衛しつつ台湾に移った。

 高木俊朗著『陸軍特別攻撃隊』には
(1月17日朝、ツゲガラオから着いた)富永軍司令官は台北の飛行場におりると、空中の寒さのために、顔色を白くしてガタガタふるえていた。内藤准尉が燃料を集めて、火をたいて軍司令官を温めた。そこへ掩護機の操縦者が申告にきた。富永軍司令官は操縦者に対し、掩護の労をねぎらい、握手をした。特攻隊員にしたのと同じような握手であった。その時、富永軍司令官は涙を流していた。操縦者の一人、小長野昭教曹長は軍司令官が見るも哀れな姿だったので「これが、かつての勇将か」と敗軍の将のみじめさを、はっきりと見せつけられる思いで、目をそむけた…とある。

 小長野曹長は20年4月、吉原曹長、北川軍曹らとともに内地に帰還して244戦隊に配属されたが、彼らの技倆は実に高く、戦隊の戦力レベルを向上させた。単機戦闘では、244戦隊の指揮官クラスが完膚無きまでにやり込められてしまうこともあった。

 小長野氏は、戦後航空自衛隊ジェットパイロットとして大空に復帰。T−33に搭乗中の非常脱出で52時間の海上漂流の後、奇跡的に生還した体験も持つ。このエピソードは後に、「暁の翼」として映画化もされた。
 身体頑健、強運の持ち主だったのだが、自衛隊退官後、民間航空会社の操縦教官として勤務中、急な病に倒れ、この世を去った。まだ50歳だった。

 本稿は、主に小長野トミ子氏と木原喜之助氏の回想、ならびに山本正雄氏の手記を参考に記述しました。


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